第60話『かまどご飯と、あの頃の手』
静かな深夜。
カラン、と暖簾が揺れ、「深夜食堂しのぶ」の扉が開いた。
入ってきたのは、年の頃なら六十手前の、落ち着いた雰囲気の女性客だった。
「……まだ、やってるかしら」
「もちろんですよ」
おかみさん、忍が笑顔で迎え、マサさんが無言で頷いて一礼する。
「今夜は、かまどで炊いたご飯が食べたくて……。難しいかしら?」
忍は少し驚いたように目を見開くと、ふっと優しく笑った。
「偶然ね。今夜、特別に釜炊きしてるの。おこげもいい感じに香ばしくできてるわ」
女性客の目が少し潤んだ。
「……かまどの匂い、母の手の匂いと同じ……」
湯気の立つご飯が、陶器の茶碗に盛られる。
表面には黄金色のおこげが広がっていた。
添えられたのは、手作りの梅干しと出汁のきいた味噌汁。
「いただきます……」
口に含んだ瞬間、女性の手が止まる。
米がふっくらとして甘く、香ばしい香りが鼻を抜けた。
「……あの頃の味がする」
ぽつりとそう呟き、彼女は少し笑った。
「母は、口うるさかったけど……ご飯だけは、絶対に手を抜かなかったの」
マサさんが静かに、湯飲みに温かいほうじ茶を注ぐ。
忍はそっと、その手を差し出した。
「人って、思い出と一緒に食べてるのよね」
女性客はしばらく何も言わず、かまどご飯を味わっていた。
その瞳には、懐かしい台所と、笑っていた母の姿が映っていた。
──そして、深夜の静寂に、小さな茶碗の音が響いた。
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《今夜のレシピ:かまどご飯》
【材料】
米 2合
水 適量(基本は米の1.1〜1.2倍)
昆布(5cmほど)1枚
【手順】
1. 米は30分以上浸水してから、ざるに上げて水を切る。
2. 土鍋または厚手の鍋に米と水、昆布を入れて中火にかける。
3. 沸騰したら昆布を取り出し、弱火で10分ほど炊く。
4. 火を止めて10分蒸らす。おこげをつけたい時は、最後に10秒ほど強火に。
【ポイント】
蒸らしを丁寧にすると、ふっくら仕上がります。
香ばしいおこげは、鍋の底の水分量と火加減が鍵です。




