第44話『いかめし』
その日、外はしとしとと小雨が降っていた。
暖簾をくぐると、香ばしい出汁の香りと、ほんのりと甘い煮物の匂いが鼻をくすぐる。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、おかみさんの忍が優しく微笑んだ。
「マサさん、いかめしお願い」
と、注文したのは年配の女性客だった。艶のある白髪に上品な身なり。目元に笑い皺があり、手には小さなカバン。
「懐かしいのよ、あの味がね」
マサさんは黙ってうなずくと、厨房の奥へ消える。
少しして、鍋の中から出されたのは――ふっくらとした大きなイカ。中には、もち米と刻まれた貝柱。甘辛いタレが照りを帯びて、湯気の中で輝いていた。
「はい、お待ちどうさん」
箸でそっと切った断面から、湯気とともに磯の香りと出汁の甘みが立ち昇る。
「……ああ、これよ。昔、北の港町で食べたの。あの人と、旅の途中で」
女性はゆっくり噛み締めるように口へ運び、目を閉じた。
「……あの人が、もう一度食べたいって言ってた。だから、代わりに私が」
おかみさんは黙って頷き、湯呑みに熱いお茶を注ぐ。
「味、変わってない気がする」
「変えたくないんです。思い出ごと、召し上がってもらえるように」
マサさんが珍しく一言、ぽつりと呟いた。
雨音はまだ続いている。
だが、店の中だけは、まるで時間が止まっているようだった。
---
今夜のレシピ:マサさんのいかめし
材料(2〜3人前)
スルメイカ(大きめ)…2杯
もち米…1カップ(洗って30分水に浸す)
貝柱(乾燥でも可)…適量
醤油…大さじ3
みりん…大さじ3
酒…大さじ3
砂糖…大さじ1.5
生姜(薄切り)…少々
水…200ml
作り方
1. イカは足と内臓を丁寧に取り除き、胴体は破かないように掃除する。
2. もち米と細かく刻んだ貝柱を混ぜて、イカの胴体に詰める(7割ほどまで)。詰めすぎると破裂します。
3. 楊枝で口を留め、鍋に調味料と水、しょうがを入れて煮立てた中にそっと入れる。
4. 落とし蓋をして、弱火で30〜40分コトコト煮る。
5. 時折スプーンで煮汁を上からかけて照りをつける。
6. 煮えたら火を止め、しばらく置いて味を染み込ませて完成。
マサさんの一言アドバイス
> 「煮すぎない。放っておく時間こそ、味を染み込ませる“隠し仕事”だよ」




