第19話「いなり寿司」 ~黒糖の甘さ、ふわり心にしみて~
深夜一時をまわっても、ぽつぽつと店の扉が開く。
ここは「深夜食堂しのぶ」。
メニューはあるけれど、誰もそれを気にしない。
お客は決まってこう言う――
「ねぇ、おかみさん。ちょっとワガママ、聞いてくれる?」
そんな夜。客が引いた静かな厨房で、マサがぽつりと呟いた。
「いなり寿司……たまに食べたくなりますよね」
忍は少し驚いたように目を見開き、でもすぐに笑う。
「ふふっ。急にどうしたの、マサさん?」
「いえ、仕込みの揚げを見てたら、なんだか無性に…」
マサは頭をかきながら、照れ臭そうに続けた。
「まかない、いなり寿司でいいですか? お揚げの味付け、普通に仕上げます? それとも…黒糖で炊いてみます?」
「黒糖、気になるわ。ううん……両方食べたい!」
「……はい!」
マサは珍しく笑みを見せて、手際よく調理を始めた。
鍋に昆布出汁と醤油、みりんと砂糖。そこに揚げを入れて、じっくり煮含める。
一方では、黒糖と酒を使った特製の煮汁。
甘く、ほろ苦く――どこか懐かしい匂いが厨房に立ち込めた。
「酢飯も、ちょっと工夫しときますね」
「うん、楽しみだわ」
その酢飯には、刻んだ柴漬けと、胡麻が混ぜられていた。
「普通」の甘じょっぱい揚げには、さっぱり酢飯を。
「黒糖」には、ほんのり柚子を効かせて、香りを引き立てる。
「……お待たせしました」
目の前に置かれたのは、小さないなり寿司が六つ。
どれも形が少しずつ違う。だが、それがいい。まるで、誰かの手作りのように。
忍は箸で一つ手に取り、そっと口に運ぶ。
「……んっ、ふふ。ほら、こういうのがいいのよ」
しみじみと頷いて、黒糖いなりも一口。
「こっちは、夜の味ね。やさしくて……でも、どこか切ない」
マサは無言でうなずきながら、賄いを一緒に食べた。
ただ、深夜の静けさの中で。
「ねぇマサさん、たまには……こういう、何でもないものが一番ね」
「そうですね……心に、沁みます」
――そして今夜もまた、扉の向こうから誰かの足音が聞こえる。
「……すみません、いなり寿司って、できますか?」
忍はにっこりと微笑む。
「ええ、ちょうど今、仕上がったばかりよ」
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いなり寿司レシピ:2種の味わい
■基本の味付けお揚げ:
油揚げ:6枚(半分にカット)
出汁:200ml、醤油:大さじ2、みりん:大さじ2、砂糖:大さじ1
揚げを下茹でした後、煮汁で弱火で15分煮る。
■黒糖煮揚げ:
黒糖:大さじ2、酒:大さじ1、醤油:大さじ1、出汁:150ml
同様に煮て、甘くほろ苦い大人の味。
■酢飯の工夫:
ごはん2合に、酢・砂糖・塩で合わせ酢を作る(酢大3、砂糖大2、塩小1)
刻み柴漬け+白ごま or 柚子皮+大葉など、2種に分けてアレンジ。




