第127話:『天婦羅。――油の記憶』
夜も更け、雨音だけが静かに聞こえる頃。
ひとりの中年の男が、暖簾をくぐってやってきた。
どこか疲れた顔で、ぽつりとつぶやく。
> 「天丼が……どうしても食べられなくなってね」
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男の話
「昔、出張先で評判の天丼屋に入ったんですよ。
行列もすごくて、期待して頼んだんです。
だけど、一口目で……うっ、と」
しのぶが聞きながら、手を止める。
> 「油が、生臭くて。
魚を揚げた後の匂いが、そのまま衣に染みてて……
美味しいとかじゃなく、“臭い”が先に来てしまって」
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マサの一言
マサは煙草に火をつけて、淡々と言った。
> 「もしかして……
その油、魚揚げたまま変えてなかったんじゃねぇか?」
男が、はっとする。
> 「ああ……それだ。
変えたてでもなかったし、ちょっと濁ってたような」
マサは、天ぷら鍋を見ながら、少しだけ笑った。
> 「天婦羅ってのはな。
揚げるもんより、油が主役だ。
いいネタでも、油が死んでりゃ全部“ゴミ”になる」
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しのぶがつくる、やさしい「天ぷら定食」
えび(背開きでふっくら)
かぼちゃ(甘さが引き立つよう薄めに)
しそ(香りのアクセント)
なす(皮目に軽く切れ目を入れてサクッと)
いんげん、さつまいも
→ 180℃の新しいごま油に、ほんの少しだけサラダ油をブレンド
→ 揚げたてをすぐ、紙に乗せて余分な油を切る
しのぶが、塩をひとつまみ添えて出す。
「まずは、塩で。
それから、おろし天つゆでもどうぞ」
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男が食べながら、ぽつり
「……うまい。
あの時の“悪い記憶”が、今、ひとつずつ消えていく」
マサが火を弱めながら呟く。
> 「料理ってのは、記憶を消すんじゃねぇ。
上書きするんだよ。ちゃんと、温かくな」
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天婦羅のコツ(マサの厨房メモ)
油は一番いい状態を保つ(濾す・温度管理・交換)
ネタは水分をしっかり切る
衣は冷水+小麦粉だけ、混ぜすぎない
揚げ音と香りで“頃合い”を見極める
揚げすぎ厳禁、「サクッ」で止める勇気
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最後にしのぶが微笑む
> 「天ぷらって……一番わがままな料理かもしれない。
でも、一番素直なんです。
油と心が“くたびれてる”時には、絶対に応えてくれない」
男は、最後のししとうを口に運びながら静かにうなずいた。
「……また、来ます。今度は、天丼を」




