第117話:『しのぶと旅芸人、だし巻き玉子の夜』
梅雨の合間の、しっとりした夜。
カウンターに、一人の男がふらりと座った。
年の頃は五十手前。
色あせたギターケースに、古びたスーツケース。
帽子を取って、静かに言った。
「ぬる燗と、だし巻き玉子。……できますかい?」
マサが目で「やれ」と言うので、しのぶが手を動かす。
卵を割り、だしを混ぜる。
小鍋で丁寧に巻いていく。
男はそれを見ながら、にこりと笑った。
「……いい手をしてる。旅の途中で、久しぶりに“家庭の火”を見たよ」
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風のような芸人
彼は、各地を回る“語り芸”の旅芸人だった。
「昭和の終わりまでは、けっこうあったんですよ、こういう旅。
温泉街で語りをしたり、昔話を演じたり。
でも、今じゃどこも“Wi-Fiありますか?”の時代でね……」
「それでも旅はやめられないの?」
しのぶが聞くと、彼は笑った。
「やめられない。
誰かの心に、小さな火を灯すまでは」
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だし巻き玉子は、ふるさとの味
「……私の母がね、得意だったの。だし巻き玉子」
しのぶがぽつりと言う。
「出汁をきかせて、ふわっと巻いて、切ると中がちょっとだけ半熟。
でも、父はしっかり焼いてある方が好きで、
母は毎回、“今日はどっち?”って聞くのよ。
……なんでもない、でも思い出す味」
「それは、いい話だ」
旅芸人は、玉子をひと口食べて、目を閉じた。
「……うまい。
優しさの中に、芯がある。
あなたの手は、迷ってない。料理に迷いがない」
しのぶが少し照れると、マサがぼそっと呟いた。
「だし巻きひとつで、人生まで見るなよ」
「いや、見えるんです、料理ってのは。
生き方が出る。優しさも、迷いも、強がりも」
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店を出るとき、旅芸人はギターケースから紙の束を取り出した。
一枚だけ、しのぶに渡す。
それは、手描きの小さな“旅の絵本”だった。
「あなたの料理を、いつか語りにしたい」と、彼は言った。
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《本日のレシピ》しのぶ流 だし巻き玉子(2人分)
材料
卵…3個
だし(昆布+かつお)…50ml
醤油…小さじ1/2
みりん…小さじ1
塩…ひとつまみ
油…適量(焼く用)
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作り方
1. 卵をボウルに割り入れ、よく溶く
2. だし、醤油、みりん、塩を加え、泡立てないように混ぜる
3. 卵焼き器を熱し、油をひいて、数回に分けて巻いていく
4. 焼き上がったら巻きすで整え、粗熱を取って切る
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しのぶの一言アドバイス
> 「焦らないこと。
玉子は、人と一緒。慌てると崩れる。
火を入れるのは“寄り添う”ように」




