第116話:『父との別れと、最後の弁当』
その日、店にはぽつりぽつりと冷たい雨が降っていた。
閉店間際、いつもは賑やかに話す常連客の一人が、静かにカウンターに座る。
「……マサさん、弁当って、作ったことある?」
彼はそう言って、焼酎のお湯割りを頼んだ。
マサは少しだけ考えたあと、うなずく。
「一度だけ。
父さんが入院してるとき、病室に持って行った」
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あの日の、最後の弁当
「親父は……昔ながらの人間だった。
職人気質で、無口で、俺のやることに口出しはしねぇけど――
褒めたこともなかったな」
ある日、病院から「食欲が落ちてきた」と連絡があった。
それを聞いたマサは、黙って台所に立った。
「作ったのは、ありきたりな弁当だよ。
焼き鮭、卵焼き、煮物、漬け物、白飯」
「でも……全部、親父が“嫌いじゃない”って言ってたもんばかり詰めた」
しのぶが、黙って手を止めて話を聞いていた。
「持って行った時、親父はもうあまり喋れなかった。
でも箸を持って、少しだけ食べて、目を細めたんだよ」
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病室にはテレビの音だけが流れていて、
その静けさの中で、マサの父はポツリと呟いた。
「……うまいな」
たったそれだけの言葉。
それでもマサは、それが初めての“褒め言葉”だとすぐに分かった。
「それが……最後の会話だった。
翌朝、病院から連絡が来た。
弁当箱は、きれいに空だった」
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しのぶが、じっとマサの顔を見る。
何も言わず、ただ一杯の味噌汁を彼の前に置いた。
「マサさん……それ、どんな味だったの?」
「……しょっぱくて、甘くて、ちょっと冷めてた。
でもな、あれは、俺が父親に作った最初で最後の“言葉”だったんだと思う」
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《本日のレシピ》父のための最後の弁当(1人分)
焼き鮭
鮭の切り身に軽く塩をふり、グリルでじっくり焼く
表面はパリッと、中はふっくら
卵焼き
卵2個、砂糖小さじ1、醤油少々、だし少々で甘めに
丁寧に巻いて、形よく切る
煮物
人参・里芋・しいたけ・こんにゃくを
だし、醤油、みりん、砂糖でコトコト煮る
柔らかく、味を染み込ませて
ご飯
温かい白ご飯に、ほんの少しのごま塩
梅干しは、真ん中じゃなくて、端っこに
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しのぶの一言アドバイス
> 「伝えられなかった言葉は、料理が代わりに届けてくれる。
温かくても、冷めていても――心は、ちゃんと詰まってるから」




