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ピラミッドの謎

作者: 相川 れおん

専門家や教授など権威のある人物や機関に、お墨付きを貰わないと世にある物は評価を得ない。しかし、人間に認識できない程小さいもの、遠くの世界、音などをどう捉えるのか。我々が知覚できる世界はごく限られている。知覚できない世界のことは、教科書には載らない。証明できないからだ。しかし、物理的に釣り合う為には、別の方向に力が働かないと矛盾が生じる世界が存在する。我々が存在している世界だ。

 壁に掛かった丸い時計を見上げて時間を確認した。昭和のオフィスには定番で掛かっていた何の変哲もない壁掛け時計だ。二十一時を少し回ったところだった。来週月曜日に顧客に対するプレゼンが控えており、その資料の最終確認を行っていたところだ。二時間前に入れたコーヒーはすでに冷たくなっていた。大きく息を付き窓の外を眺めた。向かいのビルの電気もほとんど消えている。冷めたコーヒーを一気に飲み干し、パソコンの印刷ボタンをクリックした。キャノンの複合プリンターが誰もいない部屋の中でカタカタと動き始めた。終了と小さく声に出して呟き、大きく背伸びをした。プリンターから終了を告げる静寂がオフィスを包んだ。資料を再度確認し鞄にしまった。周りを見渡したがやはり自分しかいない。大して取られるものもない事務所だが、戸締りだけはしっかり確認して部屋を出た。エレベーターの扉の前で下りボタンを三回押し、スマホのアプリを開いた。フォローしているサッカー関連のサイトを表示する。エレベーター到着の合図がなり、スマホの画面を見ながら乗り込み、無意識にいつも通り一階のボタンを押す。横に誰がのっていても気が付かないぐらい周りには意識が向いていない。幸い今は一人だけだった。小学校からサッカーにのめり込み、高校では全国制覇も経験した。大学でもサッカーを続けたが、プロからのお声は掛からなかった。叔父のタカさんが「将来どう生きていくにしろ、取り敢えず(士・師)というものにならないとダメなんだ。これは国が認めるプロの証になるからな。弁護士・医師を筆頭に、調理師・美容師・社会福祉士など様々あるけど、響きがいいのは、一級建築士かな。かなり難しいらしいけど」なんてまだ中学生の僕たちに演説していたのを覚えており、妙に一級建築士というフレーズが忘れられなかった。大学で一念発起して、建築士の資格を取得できたのは幸いだった。今の会社にお世話になるのも自然な流れであった気がしている。東山昂希(ひがしやまこうき)は会社のビルを出て、駅に向かった。会社から少し離れた郊外に一軒家を購入した。会社における自分の成績の為でもあり、住宅関連に勤めている人にはあるあるの出費だが後悔はしていない。最寄り駅を降りて、自宅までの道のりをいつも通りスマホを見ながら歩いていた。駅前は賑やかであるが数分歩くと住宅街に差し掛かり、最寄りのコンビニを最後に商業施設はなくなる。ここからは街路灯と家々の照明がこぼれてくる明かりのみで暗さが際立ってくる。いつもこのコンビニからSNSでの投稿を開始する。この年になっても怖がり気質の為、誰かと繋がっていたいと身体が要求するのだ。今日も他愛のない内容をSNSに投降してフォロワーの反応を見てみる。数人からの返信が心地よい。いつも通りの反応だ。新月の為か、夜道がいつも以上に暗いのが気になった。

                 

東山拓希ひがしやまひろきは、最後の大学生活を学生マンションで過ごしていた。三階建ての比較的新しい物件は兄が探してくれたものだった。今日も大学の友達が部屋に遊びに来ている。近くのコンビニで買った弁当を食べながら、拓希は話しかけた。

「授業のレポートどうする?」

友達の清水は、口いっぱいにハンバーグを頬張っているので、すぐにしゃべることが出来ない。手でちょっと待ってと合図を送り、溢れんばかりの口の中で必死に咀嚼して、胃に食べ物を流し込んだ。ペットボトルのお茶を一口飲んで拓希に視線を移した。

「お前授業中ほとんど寝ていただろう。」

「そうなんよ。だからどんな授業内容なのかさっぱりわからん。レポートなんか書けるわけがないよ。だから清水を呼んだんじゃないか。」

「ああ、やっぱり。振り子の話なのだけど、説明する前にSNSで取り敢えず見てくれる方が分かりやすいから、ペンデュラムウェーブの動画を見てみてよ。」

拓希はスマホを取り出して入力を始めた

「ペン なに?」

「ペンデュラム」

「ぺ・ン・デュ・ラム」

「ウェーブ」

「ウェーブ・動画」

「ああ、出た。出た。これは面白いな。一個一個の玉はただ左右に振れているだけなのに、何個も集まるといろいろな模様に見えるな。」

拓希は画面を凝視した。

「だいたい一分で元の形に戻るよ。それの繰り返しよ。あと三重振り子も検索してよ」

拓希は清水の言われるまま、スマホを操作し、三重振り子の動画を視聴した。

「カオスって何?」

「さあ?」

清水がスマホを取ってカオスを検索した。

「万物発生以前の秩序なき状態だって。後、同時にすべての物を生み出すことが出来る根源って、書いてある。反対語がコスモス。」

「なんのこっちゃ?」

二人は顔を見合わせて苦笑いをした。

「どうレポート書けばいいのだか?このレポート何時までだっけ?」

「来週の授業で回収するって言っていたな」

「まだ時間あるよな。」

清水の携帯からアラームが鳴り始めた。

「オッと!もうこんな時間か。これから俺バイトだから。」

清水はアラームを消し、スマホを持って、立ち上がった。

玄関で靴を履き、扉に手をかけ、顔だけ拓希に向けて

「拓希また明日な」

「おお。またな」

簡単な挨拶をして扉を後にした。

拓希は洗濯物を外に干していることを思い出した。カーテンと掃き出し窓を開け、小さいベランダに出た。親元を離れて初めて家事を始めたのが三年前、もうすっかり洗濯ぐらいは出来るようになった。といっても、最近の家電は優れており、洗剤をいれてボタン一つ押せば、全部やってくれるので、基本干すだけだ。細かい表示を気にするなんてことは全くしない。服が縮んだことも何度かあるが、しょうがないと思うか、買い替えのチャンスと思うかで、過ぎ去ったことをくよくよしない性格だ。拓希はベランダに干してある服をハンガーごとクローゼットにしまった。これも男の一人暮らしでは良くあることだ。逆に言えばクローゼットにそのまま入れること前提で、ハンガー干ししていると言っても過言ではない。洗濯もので畳むのは、ボクサーパンツと靴下・タオルぐらいだ。ものの5分で終わる作業だ。洗濯ものを取り入れて、少しの間、拓希は外の闇を眺めていた。兄の昂希が、スマホを弄りながら歩いているのを見かけた。兄も弟のマンションを通りかかるときは、部屋の明かりがついているかを確認する。今日は比較的遅い時間だったので、まさか二人が顔を合わすとは思っていなかった。お互い視線を合わせたが、手を上げるぐらいで会話をすることはなかった。拓希は兄の家が近くにあることは知っており、兄も一緒に住むようにすすめてきたが、妻帯しているため、同居は断ったのだ。拓希は兄が目の前を通り過ぎていくのを見守っていた。昂希はSNSの投降を続けながら自宅方向に歩いていた。街路樹で兄の姿が消えては、現われるを繰り返していたが、ある木に入ると兄が出てこなかった。正確には木の横を歩いているので、木の反対側から出てくるはずの兄が、忽然と姿を消したのだ。拓希は目を疑った。周りを見渡し、現場を凝視した。兄の悪戯にも思えない。拓希はスマホを取り出し、ダイレクトメールで兄に送信した。昂希と違って拓希は、電話を自分から掛ける習慣がなかった。令和の若者は、自分から電話を掛けたことが無い人も多く、不思議な話ではない。


 月が無いからといってここまで帰り道が暗かったかなと昂希は違和感を持った。弟の拓希に手を上げて合図した時も、なぜかぼんやりとしている視界が気になっていたが、残業疲れかと気にも留めていなかった。そこから数メートル歩いてきた。なぜか先ほどまで走っていた車が一台も来なくなった。幹線道路ではなく生活道路の為。住民以外が使用することが少ない道でも全く車が走らないことはなかった。空を見上げると黒に赤みがかっていることに気づいた。映画やドラマで歪んだ世界を表現する時に使われる手法が、現実に起っている。今来た道を振り返ったが、人一人歩いていないことに気づいた。スマホの画面を見てみた。拓希から打ち込みがあることに気づいた。

「どこに行ったの?」

不思議なダイレクトメールが届いていたので、昂希はすぐに

「まっすぐ、家に向かって帰っているとこよ。」

と返信した。

「ならいいけど」

拓希からすぐに返信があった。

昂希はSNSの投降の続きを始めた。

「どんどん暗くなってきた。今日は雨の予想ではなかったのに。」

「あめha フラ なmイ・よ」

返信が変な文字になっている。角を二回曲がった辺りから、スマホの調子が悪くなってきた。フリック入力で文字を入れるのだが、いろいろな文字に枠が行ったり来たりして、自分が入力したい文字になかなか落ち着かない。

「kaん燥 注イ hOうはtu れい tyう」

入ってくる文字もおかしくなってきている。

「乾燥注意報発令中」と読めるが、もう内容を読み取ることが困難になってきた。昂希は妻に電話しようか迷ったが、SNSを中断するともう繋がらないかもしれないと考え、できる限り投降を続けることを優先した。

「なんだか、世界が違う」

なんとか入力し送信する。拓希から

「今どこ?」

と読めるメッセージが届く。昂希はままならないフリック入力を懸命に操作しながらも、歩みを止めなかった。すると突然

「こっちへ来てはだめだ」

前方からきつい声で怒鳴ってきた。昂希は軽いパニックになり、前方に進むことを諦め、別の道に進むことを選択した。公園横を歩いていると、黒い影が走っていく。人のような形をしていたが、実体を把握できない。周りを見渡すと漆黒の闇が広がっているように見える。先の見えない黒に覆われている感じだ。スマホがいよいよ機能しなくなってきた。

「家の近所と思われるが」

と拓希にダイレクトメールを入力する。自分の家の近所に似ているようで、全く違う建物が並んでいる所もあり、ここがどこだか分からない。

辺りを見渡すと道の先にある左側がやや明るい。それ以外は黒で被われてきて、方向感覚もなくなってきた。もう目指す先は光の指す方向しかなかった。

「光」

とだけ入力して、光が差す方向に走った。

「いくな・引き返せ」

と読める文章が拓希から送信されている。どんどん黒の部分が多くなり、自分に迫ってきている。行き場がなくなってきた。スマホも圏外の表示をしている。令和になって初めて見た。昂希は闇に押される形で光の方向に近づいた。光は扉のすきまから漏れているようだ。昂希はもうここしかないと腹を決め、扉を力いっぱい開いた。


 拓希は学生マンションを飛び出し、兄貴の家の方角に向かって走った。スマホの文字が異常で、要領を得ない文章になってきたからだ。最初は入力ミスの範囲で気にしていなかったが、「なんだか、世かいga千賀ウ」から、明らかにおかしい文章になっている。兄貴に何かあったのではないかと居ても立っても居られなくなり、出てきたのだ。最初は兄貴が消えたと思われる木を調べてみたが、これといっておかしなところはなかった。兄貴の家に向かって周辺を気にしながら歩いた。めったにしない電話を兄貴の携帯にかけたが、留守電に切り替わった。兄貴の家に到着しチャイムを鳴らした。兄貴の奥さんがインターホンに出て、すぐに玄関を開けてくれた。拓希は奥さんの紗希さんに今までの出来事を説明した。紗希さんは驚いた表情をしたが、

「どこかに寄っているのかも知れないからね。警察に連絡して、おおごとにするには少し待ってみましょう」

拓希にやさしく伝えた。拓希は、内心は相当あせっているだろうに、そんなそぶりを微塵も見せない度胸に敬服した。紗希さんに、兄貴が戻ったら連絡してくれるように伝え、もう一度マンションまで探してみると言って、兄貴の家を後にした。

拓希は敢えて違う道を通り、マンションを目指したが、道中で兄貴の姿を確認することはできなかった。部屋に帰っても落ち着かない。風呂に入る気になれず、すぐ動ける服のまま床に就いた。目を閉じ今日の出来事を頭の中で整理した。取り越し苦労ならいいのだがと考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

 拓希は紗希さんからの電話で目が覚めた。あれから二時間経っている。電話を取ると電話口で紗希さんが

「お風呂から上がって、リビングに入ろうと思ったら、玄関で主人が寝ていました。揺り起こして、今お風呂に行かせました。なんか不思議な体験をしたとか言っていますが、まあ、取り敢えず無事に帰ってきたので、ご心配には及びません。御迷惑をお掛けしましたが大丈夫です」

とにこやかな口調で話し、おやすみなさいと言って電話を切った。

拓希もよかったと心の中でつぶやき、風呂に入ろうと起き上がった。


真田怜那さなだれなは、長野県の松本市で四か月になる娘の芽衣めいをあやしていた。

中学生の頃、将来何になる?の質問で、なんとなく「看護師」と答えてから、高校二年の時の進路相談ではっきり看護師を目指すようになった。地元岡山の看護学校に進んで勉強し、卒業後は岡山市内の病院に勤務することが決まった。

 三兄弟の真ん中で、男二人に挟まれて育った怜那は、人には見せないが負けず嫌いだ。マイペースにコツコツ頑張ることが得意で努力家なので、試験は無難に切り抜けた。中間子あるあるで、人付き合いが上手く、場の空気を読むことも得意だ。そんな怜那を真田悠馬さなだゆうまは密かに見ていた。面倒見の良さと時折見せる寂しそうな表情がたまらなく好きになった。二人は出会うべくして出会ったカップルといってもいいぐらい自然な形で結婚した。今は夫の勤務先である長野で生活をしている。不慣れな土地ではあるが、そこまで気にならない。

 怜那は芽衣を抱きかかえ、左の胸を出すと芽衣は力いっぱい吸い付いた。お乳の出が悪く飲むのに苦労しているように見える。数分間芽衣が飲むに任せていた。お腹がいっぱいになったのか、芽衣は口を離した。怜那ははだけていた胸をしまい、芽衣をうつぶせにならないように注意しながら、ベッドに寝かせた。芽衣は静かに目を閉じ、そのまま夢の世界にくりだして行った。怜那は洗面所に向かい、歯ブラシを取り出した。いつもの歯磨き粉を取り出し、歯ブラシの先端に少しだけつけ、歯を磨き始めた。歯磨きの間が一番何もできない時間だ。歯を磨きながら部屋中を徘徊する人がいるが、かなり危険だと教えられた。鏡を見ながら歯を一本一本磨くのが理想なのだが、歯を磨きながら思考するのが癖になっている。今日な何故か洗面台の蛇口が気になった。歯のすきま同様、蛇口の隙間に水垢が浮いている。歯を磨きながら別の手で蛇口の隙間をぬぐった。あまり綺麗にならない。怜那は先に自分の歯磨きを先に終わらせる為に、蛇口を押し上げ口を濯いだ。蛇口を右に傾け、ぬるま湯が出るまで少し水を流す。お湯になると顔を濡らして、洗顔クリームを泡立たせ、顔に泡をのせていく。Tゾーン以外はほとんど擦りもしない。最後にまたぬるま湯で泡を落として、新しいタオルを顔に押し当てるだけで終了。タオルで顔をこするなんてことは絶対にしない。化粧水を取り出し顔になじませ、乳液、下地クリームと日焼け止めを塗って自分のケアを済ませた。洗面台の下に使い古した歯ブラシを取ってある。こんな時に使うためだ。怜那は使い古しの歯ブラシを取り出し、蛇口の隙間を磨き始めた。雑巾で落ちなかった水垢はみるみる綺麗になった。蛇口の裏も一緒に掃除していると、蛇口が押し上げられ、水で袖口がビショビショになってしまった。「あれ。そういえばお祖母ばあちゃん家の蛇口は下にすると水が出たような気がする」と頭の中で記憶を巡らせた。洗面台を綺麗にして、横にある洗濯機のふたを開け、洗濯物を籠に移し始めた。その時おしりのポケットに入れていた携帯が鳴り始めた。スマホをポケット取り出し、着信が誰なのかを確認した。母の優子からの電話だった。液晶画面の通話ボタンをスライドさせた。

「もしもし」

「怜那。芽衣はどう。元気?」

開口一番孫の様子を伺うあたり、いつもの母だなと感じて、怜那はつい笑顔になった。

「うん。さっきお乳を飲ませて、今、ベッドで寝ているよ」

「夜泣きはどう?」

「今朝もしっかり泣いて私は寝不足よ」

「怜那はほとんど夜泣きしなかったから楽だったわ」

「そうなの?私ほとんど夜泣きしなかったんだ。」

「そうよ」

「夜泣きは辛いけど、顔を見ていると可愛くて、特に頬っぺたの所は、プニプニしていて気持ちいいのよ」

「怜那も小さい頃は、四角い顔していたものね。」

「失礼な。そんなことないよ」

「はっはっはっはっは。ごめん。ごめん」

「ところでお母さん。お祖母ちゃん家の蛇口は、蛇口を下にしたら水が出たよね」

「そうよ。なんで?」

「家の蛇口は逆で上にすると水が出るんだけど、メーカーによって違うのかな?」

「違うよ。1995年の阪神淡路大震災の前後で規格が変わったのよ。」

「なんで?」

「当時は蛇口を下げると水が出るタイプばかりだったのだけど、震災時に上から物が沢山落ちてきて、何万世帯という家庭の蛇口から水が出っぱなしになったの。都会は住宅のスペースに限りがあるから、家のあいてる場所、特に頭の上の空間に棚を作って収納していたのが仇になった形よ。ただ水がでるだけなら問題ないかも知れないけど、阪神大震災の時は震災直後に火災が発生したの。消防が駆け付けようにも道が瓦礫で埋まっていて進めないし、バケツリレーで何とか水を掛けようとしても水道管に水が無くて消化できずに、結局地震と火災で街が壊滅してしまったのよ。怜那がまだ生まれる前の話だから分からないかもしれないけど、それを教訓に震災後は、蛇口を上にすると水がでるように規格を変えたのよ。」

「そうだったんだ。少しは教訓を生かしているのね。」

「そうよ。政治家以外はね」

「また出た。お得意の政治批判。まあいいわ。ところで何の用だったの?」

「あ、そうそう。今度、陽子と泊まりに行くから、悠馬さんに伝えといてね。」

「わかったわ。日にちをまたラインしてね。」

「はいはい。じゃあね」

電話を切って、怜那は洗濯機の中を確認した。すべて籠に洗濯物が入っているのを確認して、ベランダに向かった。ベッドで寝ている芽衣を一瞥して、口角が上がった。


 昂希は目覚めると、昨日の不思議な体験を思い出していた。光の扉を開けたまでは覚えているが、どうやって自宅に帰ってきたのか全く覚えがない。妻に揺り起こされるまでの記憶が無いのだ。今日は幸い日曜日で休みにしていたので、ゆっくり起きることが出来る。天井を眺めながら空白の記憶を必死に探していたがどうにも分からなかった。昂希は起き上がって、リビングに向かった。妻の紗希が朝ごはんを作って待っていてくれた。昂希が食卓に着くと、紗希がコーヒーを入れて向かいに座った。一緒に手を合わせて

「いただきます」

と二人とも声に出して言う。小さい時からのしつけが今にも生きている。とてもいい習慣だと自分でも思っている。昨日の不思議な体験をどう切り出すべきか迷っていると紗希から話始めた。

「昨日、拓希ひろき君がうちまで来たよ。」

「エッ!そうなの」

「お互い合図したのよね。その後、歩いていくのを見送っていたら、突然姿が見えなくなったそうよ。気のせいかなと思って、取り敢えずダイレクトメールだけ送ったって言っていたけど、何か入ってきた?」

「ああ、どこに行ったの?と入ってきたけど、そのことだったのかな。自分としてはいつもの帰り道を同じように歩いていただけなのだけどな。」

昂希はこの時に自分に何かが起こったのだろうと推測した。

「まあ、無事に帰ってきたら電話してって言っていたから、電話だけはしといたよ。」

「ああ、ありがとう。」

昂希は味噌汁に手を伸ばし、少し啜って、朝食を食べ始めた。朝はしっかり食べる習慣だ。一日二食が我が家の流儀になってきている。叔父のタカさんが、18歳までに作られた身体で、その後死ぬまで生活することになるのだから、できる限り強い体を作り上げろ。十代はしっかり三食食べて栄養をできる限り摂取し、血肉に変えろ。その後は、活発に活動する人(プロ選手など)を除いて、十代のような活動はしなくなるので、一日二食で十分栄養は補給できる。三食食べると不必要な所にいっぱい肉がつくようになるぞって言っていたのを、年を重ねるごとに実感するようになった。

 食事を終えると昂希は自室に戻り、タカさんに昨日の現象を相談してみようかと考え始めた。叔父は、学歴は無いものの何かと雑学が豊富で、間違えている情報も多いが何かの参考にはなるかなと期待し電話をしてみることにした。

 駅前の時計が9時50分を指していた。叔父のタカさんとの待ち合わせの時間までまだ10分近くあった。

電車がホームに到着する音楽が流れている。少し待つとタカさんが駅の階段を下りてくるのが分かった。二人は合流して駅前のコーヒーショップに入った。昂希とタカさんは何品か注文して会計を済ませ、窓際の席に着いた。タカさんが席に着くなり軽い口調で質問してきた。

「どうした?何かあったか?」

久しぶりで緊張していた昂希だったが、いつもと何も変わらない様子で話すタカさんに、いつもの調子を取り戻して、昨日の出来事を説明した。腕を組んで聞いていたタカさんが突然

「時空の狭間に入ったのかも知れないな?」

「エッツ!時空の狭間って?」

「もともと我々は三次元空間と時間軸を足して四次元で生活しているのは知っているよね。」

「はい。前と後しかない次元が一次元、左右が加わり二次元、上下が加わり三次元でしたよね」

「そうそう。線・平面・立体で三次元。そこに時間軸が加わって四次元になのだが、昨日の出来事は時間軸を超越した次元。つまり五次元や六次元に迷い込んだのかも知れないね。」

昂希はタカさんの話を聞き、昨日の出来事を思い返してみた。ゆっくりとタカさんはコーヒーを啜って僕が考えている間待ってくれた。タカさんと目を合わすと続きを喋り始めた。

「五次元は自分の意志でなかなか行ける場所ではないが、その次元の体験者がいないわけでもないのだ。」

「そうなのですか?僕と同じような人かな?」

「そうだね。意図せず迷い込んだ人も多いと思うよ。昂希は五次元ってどんな世界だと思う?」

「うーん。時間が無い世界かな。」

「正解。時間の概念がない世界とされている。さらに、電磁力も距離の概念もない。物を多角的に瞬時に捉えることが出来し、三次元の物質は体を含めたすべての事象をすり抜けて見ることができるという世界だ。例えば、富士山を見てみようと思ったとする。この世界では現地に行ったり、飛行機で見たりドローンを飛ばしたりして山の一面だけを見ることが限界だ。富士山の写真をいろいろな角度から撮影したものをパソコンで見るという手もあるが、あくまで過去のものだ。このパソコンで写真をみるような感覚で、実物をあらゆる角度から見ることが出来る世界が五次元で、この場合は生中継だ。人も雲も動物も動いている世界を自分の思った角度から見られる。ただしこの時の見るは、脳に直接映像を焼き付ける感覚で視覚を必要としない。また、四次元世界では遠く離れた場所に行くには、それ相応の時間がかかるが、五次元では時間の概念が無い為、遠く離れた場所でも時差なくたどり着く。映画のカットが切り替わるぐらいの速度って言えばイメージできるかな。実際に自分の体がその場所に行くというよりは、見たい場所の映像が脳に流れ込む感覚だろう。すべて生中継の映像がね。さらに、三次元空間にある身体を含めたあらゆる物が透けて見え、触れることは出来ないが、脳にだけは働きかけることはできる。五次元はこんな世界かな。」

 昂希は大きく息を付き、飲みかけの飲み物を飲み干した。確かに昨日の世界は、最後にスマホは機能しなくなったなと思い返してみた。タカさんもコーヒーを飲み干したようだ。

「もう一杯何か飲むか?」

「はい」

二人は席を立ち、再度注文する為にカウンターに並んだ。思考を整理するには良い時間だと昂希は思った。ホットコーヒーを注文して、同じ席に着いた。昂希は注文を待つ間に聞こうと思っていた質問を口にした。

「電気的な力が無いと人は動くことができないですよね。筋肉で人は動くと言っても、脳からの電気刺激がないと動かない。医学的に筋肉に直接刺激を与えるとピクッと反応はするけれども、それでは動いたことにはならないですよね。植物状態の人間でも、視床下部と脳幹の生命維持に必要な機能は生きていて、脳からの電気信号が届いているから、生命が維持できているのですよね。逆に、脳死は脳幹自体も機能不全に陥っているため、信号を送ることが出来ないので、蘇る可能性はなく、必ず死に至ると聞いたことがあるのですよ」

「良く知っているね。」

「はい。脳波がすべての源で、電気信号が始まりになる場合、五次元の電磁力がなく、触れられないなら、脳にどうやって働きかけるのですか?」

「まず、多元空間であっても、電波が届く距離であれば、いくらか機能するだろう。また電源を持っている場合も、突然機能が失われることはないだろう。人であっても機械であっても、発生源が自分なら電気的なものが動かなくなることはないだろう。昂希も違う次元らしき場所で、突然動けなくなることはなかったのだろう。」

「たしかに」

「ただ電気的なものが無いと、江戸時代のように対面でしか物事が伝わらないのが問題だよね。」

「そうですよ。僕が言いたかったのはそこなんです。」

「でも大丈夫だよ。人間の五感と呼ばれる、視覚・味覚・触覚・聴覚・嗅覚は使用しない。五次元世界ではそもそも五感を使う場面が存在しないので、電気的信号も必要としない。捉え方が違う世界と思った方がいいのかもね。私は別次元で必要な力は、人間に備わっているシックスセンスと呼ばれる能力と考えているんだ。もともと人間には科学で証明できない第六感と呼ばれる感覚が備わっていて、感情に強く左右される部分と考えているのだ。」

「はい。」

昂希はあいまいに返事をした。どういう事かと自分の頭の中で咀嚼した。

「見るではなくて観る。聞くではなくて聴く。匂いではなく臭い。触れるではなく纏う。という感覚的なことかな。」

昂希はスマホを操作し、「観る」や「聴く」の漢字を検索してみた。

「辞書ではそんな説明されていませんけど」

「そうだろうね。私が感覚的に説明しているだけだから、専門家の見解に当てはめてはいないよ。話を戻すと、この第六感というのは実は身近にみんな感じている感覚なんだ。例えば、この人と結婚するかも?と思った人と、何年後かに本当に結婚した話にあるように、日本では赤い糸と呼ばれるような直感力や、格闘技を極めた人が、敵と相対した時に、相手の強さがある程度わかる感覚。また、人が怒っているということを、相手が言葉を荒らげなくても、空気感で察知できる力。どことは分からないが、なぜかどこかで人に見られていると感じる能力。このような能力はみな少なからず体験しているはずであるが、なぜと科学的に聞かれても答えられないし、辞書にのせることもできない。そう思った、そう感じたと答えるのが関の山だ。つまり、思うという感情に左右されている証拠ではないかとかんがえているのだ。」

「ウーム」

昂希は確かにそうだと思うが、狐につままれたような感覚もやはりどこかにある。僕の反応を見ながら、タカさんはさらに続けた。

「不思議な体験をする事例で多いのが双子だ。兄が欲しいと思うものを弟も欲しがる。別々に育てられた双子の子供が、偶然出会うと全く同じ服装をしていたりする。また、兄が足を挫いた時に、別の場所にいる弟も同じように足を挫いている事例もある。四次元空間では不思議な出来事であるが、別次元の理論では、時間・場所に関わらず瞬時に同じことが起こることはごく一般的なのだ。」

「あまり双子のケースは関係ないような気がしますけど。」

「まあ、関係ないだろうね」

「関係ないんかーい。」昂希は心の中でつっこんだ。タカさんは苦笑いをして話を続けた。

「別の次元というものはそもそもどこにあるのか。ある物理学者はシャワーカーテンの表と裏ぐらいの距離にあると表現しているのだ。布切れ一枚めくれば異次元ということかな。」

「ちょっとピンとこないな。」

昂希は素直な感想を口にした。タカさんは少し考えて

「手品好きか?」

「はい。見るのは好きですけど、タネを知ったらなーんだっていつも思っていますよ。」

「だろうね。マジックは高等技術で人を驚かせる娯楽だからね。その手品でよく物体消失のマジックをやっているよね。東京タワーを一瞬で消すような手品だけど、タネは紙や布一枚だけ。今ではもう少し進化しているかもしれないけれど、あの手品のイメージかな。手品にはタネがあるから、実際の東京タワーは消えていない。手品の現場にいる人にのみ、消えたように見える仕掛けをしているだけなのだけど、現場では本当に消えて見えなくなるから不思議なものだ。これと同じで、透明の一枚の布が空間にあり、その表と裏で別の次元になっていると思ってくれたら分かりやすいかな。」

「そういえば何かの番組で、中学生カップルが夏祭りの日に突然消えたっていう話を放送していたけど、僕と同じ現象かな」

「そうだろうね。実は私も同じテレビを見ていたからどんな内容だったかわかるよ。二人が発見された時には、数日が過ぎていた。本人たちは一日動き回っていただけなのにと言っている所を見ると、時間軸のおかしい世界に迷い込んだことに間違いはないだろう。」

「具体的にはどういうこと?」

「多次元世界に迷い込んだ二人は、四次元世界と全く違う時間軸となる。多次元にいる時に二人を確認することはできない。しかし二人が行動している時、数秒や数分の間、四次元世界に戻ることがあり、その瞬間だけ二人を捉えることが出来る。電話を掛けたり、コンビニの防犯カメラに映ったりした時がそうだろう。しかし、二人の流れている時間が違うので、どのタイミングで四次元に戻っているのか本人にも把握できない。コマ送りで説明すると、夏祭り会場の境内で透明の布をくぐった時が、8月4日19時だったと仮定する。違和感を覚えて境内から皆の所に30歩移動したとすると、まだ8月4日19時2分ぐらいだろう。別次元の空間にいるので、連れの大人に触れることも話すこともできない。パニックになって、二人がうろうろしている間に、突然誰もいなくなる。二人が30歩から50歩移動している間に、二人の時間は、8月4日23時の境内に飛び越える。四次元空間では、22時に祭りは終わっているので23時に人はいない。多次元空間にいる二人は、状況を把握する為、また移動する。50歩から100歩のうちに今度は8月5日6時に時間だけ飛びこえる。ということを繰り返していたのだろう。この時間軸は先に進むこともあれば、過去に戻ることもあり、コントロールはできない。」

「なぜコンビニの防犯カメラには映って、店員さんは全く把握できなかったのかな。」

「防犯カメラはずっと同じ位置から同じように撮影しているので、人が認識できないカメラのフラッシュのように一瞬の時間こちらの世界に来ていたとしても、カメラなら捉えることは可能だ。しかし店員さんには分からないだろう。コンビニは特に入口の入店音で店員はお客様が来店されたことを知り、仕事のスイッチが入るものだ。音が鳴らない場合や同じタイミングで何人か来店されて、すべてのお客様を把握していないは、見えてそこにお客様が居ても、認識できていない場合がある。人の意識なんて曖昧なものだ。入店音も無く、姿も見えないのであればなおさら把握することは難しい。カメラなら途切れることなく同じところを撮影しているので、二人の姿を捉えることができたのではないだろうか。」

「そう考えると、電話の謎もわかる気がしてきた。次元の狭間に迷い込んだ人が、どうにか自分の状況を伝えたくて、電話が出来たとしても、電話を掛けている自分の時間軸が安定していないので、かけている日時が、実は3日後の3時に10秒間、次の10秒は10日後の8時、次の10秒は30日後の1時に飛んでいる場合、掛かってきた方は10秒間だけ電話がコールし、切れるということを繰り返されるので、悪戯電話と勘違いしてしまうという認識かな。」

「そうだね。私が考えている世界の認識と一致してきたな。もう一つの例を挙げると、心霊現象で子供の幽霊が見えるということがあるけど、もしかしたら次元の狭間に落ちてしまい助けを求めているだけなのかも知れないよね。子供は自分を元の世界に連れ戻してもらおうとしているだけなのだけど、見えたり見えなかったりすると、四次元空間にいる人間には霊現象と間違えても仕方ないよね。」

「そもそも異次元の入り口ってどこにあるのかな?」

「それを我々が認識できない所が厄介なのだよね。なぜ突然、その入り口が開くのかが分からないからね。また、その次元が五次元なのかそれ以上の高次元なのかもわからない。昂希が体験した次元がもし六次元以上の高次元だった場合は、生身の状態でうろついていたら肉体がついて行けずに引き裂かれていたかも知れないよ。こっちへ来るなと言っていた先は、非常に危ない範囲だったのかもしれない。」

昂希はハッとして、口を開けたまま考えを巡らせた。まさかと思うが否定もできない。

「でもさっき、別次元を体験した人がいると言っていましたよね。」

「そうだね。意図的に別次元に行けると言っている人もいるね。」

「その人たちは大丈夫だったのですよね。」

「うん。でも肉体は残したまま、別次元を体験しているからな。」

「エッツ!どういうこと?」

「それはまた後で説明するよ。私はだれでも意図的に、別次元の手前までは行っていると考えているのだ。」

「エッツ!いつ?」

「私は寝ている状態が、この次元と別次元の狭間にいる状態だと思っているのだ。寝ている間は、時間の感覚が無いよね。目覚めて時計を確認して、初めて今の時間を知る。重傷の時は、目覚めて六時間寝たのかと時計を確認しても、実は二日後だったなんてこともある。時間軸が飛んでいるのだ。」

「でも・・・。それとこれとは違うような」

「自分が寝ようと思って布団に入った時があるよね。そんなに眠くない時にはなかなか寝付けない。目を閉じて静かにしていると、だんだん睡魔がやってくるよね。泉で例えると、まず泉のほとりに佇んでいる時が、これから寝ようと布団に入った状態。そこから歩をすすめだんだん水が首まで使って来て波間をただよっている時が、まどろんでいる状態。寝落ちの直前だね。そして、水の中に完全に入った時が入眠した状態。入眠してから三時間かけて、深い水の奥まで潜っていくのが、熟睡の状態。昂希は睡眠時の脳波の推移グラフを見たことがあるかな」

「はい。よくテレビで見かけます。」

「なら、ノンレム睡眠とレム睡眠も聞いたことがあるよね。」

「はい。」

「ノンレム睡眠のときに大脳の回復と疲労回復を行っているらしいと専門家は言っていたが、真実かどうかは分からない。話を戻すと、入眠して三時間ぐらいで普通は、また元の水面に向かって浮上し、また少し潜って、浮上する。を繰り返し行う。そして、体が回復したと感じれば、体を覚醒に向かわせ、目覚めさせる。これが睡眠なのだが、極稀ごくまれに浮上しないで、深く、深く潜ってしまう人がいる。子供に多く、入眠後三時間ぐらいで症状が起り、深く眠り過ぎて覚醒できなくなる可能性があるので、重度のひとは深く眠りすぎない薬を処方される場合もあるぐらいだ。この深い眠りの時に、起き上がって動き回る症状が夢遊病だ。この状態は、精神と肉体が分離して別々になっていると、私は推測している。だから、起きた時に自分が動き回っていたことを本人は自覚できない。実は、小学校の頃に、私も経験したのだ。当時は笑い話になって、恥ずかしかったけどね。」

昂希は突然立ち上がって、トイレに行くことをタカさんに伝えた。タカさんも首を一度傾げ、無言で見送った。しばしの休憩だ。コーヒーを口に運び、店内を見渡した。我々以外にも比較的長めに、店内で過ごす人がいるのだと観察した。昂希が席に着き、タカさんは続きを話し始めた。

「小学校五年生の海の学習で、一日目の夜のことだった。初日は会場入りするだけなので、あまり疲れることも無く、逆に興奮してなかなか寝付けなかった。しかし、前日のミーティングで明日はカッター漕ぎで、良く寝てないと危険だと先生に言われていた。私にはあまり体力に自信があるわけではなかったので、早く寝ようと必死だった。その夜中に事件は起こった。四つ並んでいる二段ベッドの上の一番端に眠っていた私は、突然起き上がり、反対の端まで友達が寝ている二段ベッドの上を歩いて行って、ジュース・ジュースと寝言を二回言ったらしい。そこからまた友達のベッドの上を歩いて、自分のベッドまで戻り寝たというのを朝に友達から聞いた。私自身は全く身に覚えもなく、何のことだかと聞いていた。この話を担任の先生が聞きつけ、もし落ちたら危ないということで、二日目には下のベッドの人と寝る場所を交代させられたのだ。二日目はカッター漕ぎで疲れ果てて、夜のミーティングの前に寝てしまって、気が付いたら翌朝になっていたよ。」

タカさんは笑いながら、小さい時には良く眠れるよなと感慨深げにつぶやいた。昂希も自然と笑顔になった。

「この精神と肉体が分離している状態になると、五次元空間に入って行くことが可能なのではないかと思っている。先ほどの泉のイメージで、入眠時に深く潜り過ぎると危ないと医者に言われるが、深く潜った先には何があるのだろうか。私が行くことはできないのだが、さらに潜って行くと、着た時とは別の出口があり、そこに別の次元が存在するのではないかと考えている。」

「別の次元にたどり着ける?どんな状態?」

「幽体離脱の状態で、アストラル体」

「アストラル体?」

「自分が寝ている姿を天井から見たことがあるという人が偶にいるだろう。あの状態が別次元にたどり着いていることではないかと推測している。幽体離脱をしている人を見ることができないのは、違う次元だからか、精神状態のみで肉体がないからなのかは分からない。しかし、何人もこのような体験をしていることは事実だよね。」

「聞いたことはありますよ」

「意図的に別の次元を使っている人は呪術師だろう。目を閉じ特別な香を焚いて、次元を超えやすい状態を作り、別次元にアクセスする。長きにわたりその世界を追及している人が、インドネシアの部族にいるとも言われている。一度幽体離脱を経験すると、自分の意志で出来るようになることもあるようだ。また、瞑想をしていた僧侶は気が付けば天井から瞑想している自分を見ていたという事例も報告されている。」

「そうなのですね。僕にも出来るようになるのですかね。でも戻れなくなったら嫌だな」

「コツみたいなのが分かればできるようになるかも知れないけど、昂希は自分で行ったわけではなく、たまたま透明の布を潜っただけだから難しいかもね。昂希はデジャブみたいなことはある?」

「デジャブとは何ですか?」

「デジャブとは日本語で既視感と言って、過去に経験したことのないはすの事柄に対して、すでに見たり体験したりしたことがあるような感覚になることなのだけど、予知夢と同じようなことかな。」

「いや、そんな経験は今のところ無いですね。」

「そうか。これも私の中では違う次元で情報を入手したものだと考えている。ただ、一瞬の出来事のみ記憶があるのは、時間軸の関係ではないだろうか。脳が作った仮想映像だという人もいるが、行ったことも無い所の映像を正確に脳が作れるとはとても思えないので、やはり次元を超えて体験していると思わざるを得ない。私自身実は、よく予知夢を見る。気になっている事柄や自分の人生の分岐点は、強い思念が働き、頭の中がそれでいっぱいの状態で睡眠すると、先に結果を見ることが偶にあるのだ。ただその結果を変えることはできないけどね。確定された未来、そこに至るまでの過程を経た結果なので、起こり得る未来を変えようが無いのも分からないではないかな。子供の時に受験でそういう経験をしたことがある人もいるだろうね。」

「アッ!怜那がそんなこと言っていたような気がする」

「そうか。やはり体験している人はいるよね。」

タカさんはスマホで時間を確認した。

「昂希は昼ご飯どうする?」

「今日は妻が作って待っていてくれているので大丈夫です」

「そうか。ならそろそろ帰るか。」

タカさんは立ち上がって、昂気を促した。昂希もテーブルに置いていたスマホを掴むとタカさんの後に続いて店を出た。二人は駅に向かって歩き出し、タカさんが昂希にボソッと呟いた。

「不思議な空間で、昂希が明けた光の扉は、昂希が戻りたいと強く願った場所だったのだろうな。つまり自分の家の扉だったのではないかな。強く思うことがあの世界では重要な気がするな。」

昂希は黙ってその独り言のようなつぶやきを聞いていた。駅の改札が近づき、お互い別れの挨拶をして帰路についた。

 

 大将の声が響いた。

拓希ひろき、早く目の前のカウンター片付けろ。」

「はい。」

大きな声で拓希は応え、目の前のラーメン鉢とコップを洗い場に入れて、カウンターを布巾で拭き上げた。すぐに次のお客様が目の前に座った。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

お決まりのフレーズを言って、お冷を出した。

「塩バターラーメンとおにぎり二個」

すぐに注文が返ってきた。常連さんだと分かる。拓希はいつも通り横にいる大将に向かって、声を張り注文を繰り返した。

「塩バター一丁。おにぎり一丁」

「はいよ」

隣から威勢のいい返事が返ってきた。この無駄とも思える威勢がこの店のモットーだ。駅の地下の一角にこのラーメン屋はテナントとして入っている。家賃の為か、もともとスペースがないのか、カウンターで仕切られたこのお店は、縦長で一列が従業員、一列がお客様というような二列の通路があるだけで席も12席しかない。従業員は四人体制で自分の前の三席が担当となる。アルバイトの拓希は、洗い場と調理補助の場所で固定されているので、常に一番奥の三席が担当だ。社員は休み時には担当が変わり、1番手前の入り口側がレジとおにぎり・サラダ担当。おにぎりとサラダはあらかじめ朝の仕込みで製造済みだ。2番目が餃子担当でラーメン補助もする。3番目が麺を茹で、ラーメンをメインで製造する。そして最後4番目が、出来上がったラーメンにねぎとチャーシューのりを載せることと洗い場担当となる。注文が入れば威勢よく復唱すると、担当の人が動いて料理を回してきてくれる。一度その場に立つと休憩でもない限りほとんどその場を皆動けない。狭い店舗だが客が引っ切り無しにやってくるからだ。目の前のお客様がいなくなるとすぐにカウンターを綺麗にしないと次がまっているのだ。10時に開店すると、すぐにお客様で店内はいっぱいになる。外にお客様が並ぶということはないが、お客様が途切れることも無い。昼時を過ぎても同じペースでお客様は来店するので、時間に追われ、バイトの時間が長く感じたことは一度もない。

拓希は出来上がったラーメンとおにぎりを目の前のお客様に出し、隣に座った男性に声をかけた。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

「何があるの?」

背広をきたサラリーマン風の男性が声を掛けてきた。一応お客様のテーブルにお品書きを置いているが、殆ど書かれていない。

「ウチは味噌・塩・醤油・塩バターの四種類のラーメンと餃子・おにぎり・サラダです。」

実はこれだけしかメニューがないので、お品書きがシンプルなのは、書くものがないからなのだ。

「唐揚げはないの?」

「ウチではやっていません」

大将は当店という言葉をあまり使わない。堅苦しい言葉は、電話の時ぐらいでしか聞いたことが無い。店での会話の時は、ウチという言葉を使うので、自然と周りの従業員もウチという言葉を使うようになった。

「しかたないな。味噌ラーメンとおにぎり二個」

「味噌一丁・おにぎり一丁」

いつも通り威勢よく復唱した。

「はいよ」

大将の野太い声が返ってきた。

小さい間取りの店で、駅の地下という大きくできない立地の為、作業スペースも限られている。その為ターゲットを家族連れではなく、一人ないし二人連れのサラリーマンに絞った戦略だ。椅子も長居しづらい丸椅子で、背もたれも無く、決して座り心地がいいものではない。また回転率を上げる為、メニューも絞って、提供までの時間を極力短くしている。

 ある一人の女性客が店に来店した。キョロキョロと落ち着かない雰囲気で店内を見渡し、拓希の担当の椅子に腰かけた。拓希はいつも通りお決まりのフレーズと共にお冷を提供した。女性は席に着くや否や、質問してきた。

「何分でラーメンできますか?」

拓希が答えに窮していると横にいた大将が

「三分で出来ますよ。」

と助け船を出してくれた。女性は何度も時計を確認し、それならと塩ラーメンを注文した。

拓希はいつも通り注文を繰り返した。大将はいつも通り返事をして、ラーメンの茹で具合を確認した。一分が経過したぐらいで、突然女性は立ち上がり

「やっぱり時間がないからいいわ」

と大将に言って、そそくさと店を出ていこうとした。大将は出ていこうとする女性を睨みながら、

「もうあなたに、ウチのラーメンは提供しません」

ときっぱりと女性に言い放った。女性は大将の話を聞いたか聞かないかで、姿が見えなくなった。きっちり三分後ラーメンは出来上がり、すべて廃棄した。

 この店で使用している麺の茹で時間は、「ハリガネ」15秒、「バリカタ」20秒、「カタ(硬め)」45秒、「普通」70秒、「ヤワ(柔らかめ)」100秒以内で、2分も麺は茹でない。特殊な形で、「ナマ(生)」1秒、「湯気通し」3秒、「粉落とし」7秒、「バリヤワ」150秒があるが、スープと麺との相性と親方のこだわりで採用していない。湯切り・盛り付け・提供まで三分は充分可能なのだ。

この店がメニューを絞っている二つ目の理由は、ラーメン以外がメインにならないことだ。来店すれば必ずラーメンを注文する。100%ラーメンを注文するということは、来店して席に座った時点で麺を投入しても問題がない。お客様が注文する前に麺をいれるので、注文した時にはすでに数秒が経過している。時短が可能なのだ。メニューが多いラーメン店や中華料理店では、チャーハン・餃子・ビールとラーメンを頼まない選択肢も出てくる。中華料理屋ならなおさら、エビチリ・ホイコーロー・チンジャオロースな料理が多彩な為、お客様の注文を待たないと料理は開始できない。この待ち時間が、一人来店するごとに起ると、一日の中で迎えられるお客様の数が少なくなるのは目に見えている。

 翌日も学校が休みだったために、拓希は昼からバイトに入ることにした。朝10時開店の店であるが、アルバイトは長く働けないので、ラストまでいる為には昼からしか働くことができない。社員は開店前から店で仕込みをしているので、誰かが休みの時はなかなかハードな仕事内容だろう。昼過ぎに拓希が店に行くと、店内は満員で、休みの日でもお客さんが途切れることがない。拓希は急いで用意し、自分の固定の作業場へ入った。作業場に着くと拓希は、対面のお客様の食事スピードを見ながら、山になっている洗い場の器を丁寧に洗い始めた。

 この店がメニューを絞っている三つ目の理由は、すべてが少量で済むということだ。従業員も少なくて済むうえ、収納スペースも小さくてよい。多種多様な料理を作る場合、何人か料理人が必要になる上、調味料や器なども増えていき、作業場も広く取らざるを得ない。仕入れも売れるかどうかわからない食材を入手しておかなければならない為、コスト高になるのだ。また、従業員の教育も沢山のメニューが無いため、覚えることも少なくて済むのだ。小さい所では小さいなりの商売の仕方が良く考えられている。そしてラーメンは抜群に美味いのは言うまででもない。

 拓希が洗い場を綺麗にし、対面の席が空いたので、担当エリアを綺麗にすると、昨日の女性客が休みなのか、ゆったりと店内に入ってきた。拓希はそのお客様にお冷を出そうと準備したが、大将が女性客を見るや否や、お客さんが席に座る前に

「あなたにはラーメンをつくりませんので、お引き取り下さい。」

と昨日の言ったことを実行したのだ。前回来店時の発言は、その時だけの一時的な感情かと考えていた拓希は、大将が有言実行の男なのだと大将を見直した。なかなか再度来店してくれたお客様を帰らす店は少ない。過去のことに目をつぶる人がほとんどだ。それを何の躊躇もなくやってのける大将はすごいと拓希は改めて感心した。その後も店内ではゆっくりする暇もなく、22時になり閉店をむかえた。店内を一通り拭き上げ、寸胴を綺麗に洗ったらお終いだ。シャッターを閉め、四人が一緒になったところで、大将が「おつかれさん」

と言ってきたので、拓希も

「お疲れさまでした。失礼致します」

と三人に丁寧に挨拶をしてホームに向かった。


 怜那は夫が務める長野にある大学病院に来ていた。芽衣の乳幼児健診の為だ。駅からすぐ近くの病院であるが、駅を利用して病院に来る人は少ない。田舎では車での移動が基本だ。昭和の時代は車の保有率が低く、免許保有率も低かったので、駅に近いことがとても重要であった。しかし、令和になり田舎の車保有は、一人一台が普通になっており、逆に駅前の渋滞する商業エリアは敬遠されがちだ。

 乳幼児には予防接種を沢山受ける。その種類がとにかく多くて大変だ。ヒブ、小児用肺炎球菌、B型肺炎、ロタウイルス、四種混合、BCGは、国が接種することを推奨している注射で、何回かに分けて接種する為、16回も注射を受けることになる。また推奨期間内に注射をしようとすると頻繁に病院に通うことになるのだ。今日は問診の後に注射の予定だった。看護師さんから名前を呼ばれ、診察室に入室した。身体の発育状態、栄養状態、運動機能、精神発達、言語の障害や、疾病の有無を確かめられ、健康に育っていることを確認してもらった。ここからが正念場だ。最近の注射はそんなに痛くなくなっているが、やはり尖ったものが刺さる恐怖は否めない。怜那と看護師で暴れないように娘の体を固定して、主治医に注射を打ってもらう。泣き叫ぶのはしょうがない。動き回らなければ大事には至らないことは全員把握している。少し強めに体を押さえ、なんとか注射を成功させた。診察室を出て、待合の席に座り、名前を呼ばれるのを待っていた。しばらく芽衣を抱きかかえあやしていると、自然と泣き止みスヤスヤ寝息を立て始めたので、怜那はスマホを取り出して、SNSを確認した。母親からラインが入っていた。先日の電話で、泊まりに来る日時を送るとのことだったので、そのことだろうとラインを開いた。6月24日から6月27までよろしくと記入されていた。岡山から長野までは、新幹線で名古屋まで行き、そこで乗り換え、特急で松本駅を目指す道順となる。怜那はラインが大雑把すぎて良く分からないので、母親にラインをかえした。松本に到着する時間は何時なの?ラインを送って既読がつくまで待機する。

 今どきはインターネットを使えば、何時に到着予定なのかすぐに検索することが可能だ。昭和の時代は時刻表を見て、電車の乗り換えも自分で考察し、安く早く遅延なく目的地にたどり着ける順路を探したものだ。偶に、土日と平日のダイヤが変わっている所があり、上手く電車の時間がつながらなくなることもあったが、そこまで目くじらを立てることも無かった。比較的早くラインが返信されてきた。15時30分と時間だけの送信だった。ちょうどその時名前が呼ばれ、必要な手続きを済ませて、芽衣を抱きかかえ病院を後にした。


 昂希は土曜日に完成させたプレゼン資料を持って、お客様との商談に向かっていた。家のリフォームの依頼だった。お客様からは、先日一人で住んでいた母親が亡くなり、母親が暮らしていた家を賃貸住宅にしたい。ただ、古すぎるので人様に貸すには、少し外観や内装を今のトレンドに合わせる必要があるという依頼だった。営業の田辺と昂希は、事前に家を訪れ、間取りと各部屋の写真、お客様の意向を聞いて、一度会社に持ち帰っていた。今日はお客様の意向に沿う形のプレゼンが出来れば、契約にこぎつけることが可能だ。現在の建築基準に沿う形に内容を変更し、できる限り金額を抑える細かい計算をしたので、内容に納得してもらえると自信を持っていた。

 営業の田辺が車を運転し、目的地に向かった。昂希は助手席で必要な資料を忘れていないか鞄の中を再度確認した。車を近くのパーキングに停め、築54年の一戸建てに到着した。二人は玄関前で、ネクタイとズボンのチャックを確認し、背広の襟を正した。営業の田辺が玄関に近づき、今は珍しい親指の大きさの白いボタンを押した。昔の玄関のチャイムだ。カメラ機能も無ければ、音もシンプルなビーという音だけだった。中から、五十歳前後の女性が出てきて、扉を開けてくれた。二人は同時にお辞儀をして中に入った。三和土たたきで靴を脱ぎ、靴を下座にそろえて置き、上がり框でスリッパをはいて、女性の後に続いて廊下を歩いた。今の玄関はタイル張りが一般的だが、ここはまだ昔ながらの作りである。さすがに54年の歳月を感じさせる建物で、所々のゆがみは否応ない。襖を開けられ、入室を促された。畳が敷かれた部屋が二間続いている。田辺と昂希はスリッパを脱ぎ、廊下に綺麗にそろえて置いた。畳のへりを気にしながら二人は座敷の部屋に入室した。畳は昔から身分の高い人が、座るときや寝るとき使用したもので、高温多湿の日本では建築素材として優秀な家材だ。畳の厚みや縁の模様が身分によって制限されていた時代があり、武士の時代になると、奉行をつくって管理を行うぐらい畳は重要な生産品であった。貴重な畳の為、縁に家紋を刻み誰のものであるかをはっきりさせることもあった。その為、畳の縁は家人の顔のように扱われ、縁を踏む行為は顔を潰すことにつながるようになったのだ。また、畳は縁から崩れていくので、畳縁たたみべりで保護しているのだが、縁を踏むことで畳みの寿命が短くなる。だからなるべく縁を踏まない方がよいのだ。座敷に入室すると五十代後半の男性が座って待っていた。二人は並んで挨拶をした。

「まあ、すわりなさい。」

先日話をした男性が着席するよう促したので、二人は席についた。女性がコーヒーを淹れるわねと言って退出したので、営業の田辺がすかさず、「お構いなく」と声を掛けて、そのまましゃべり始めた。さすがに営業だけあって喋りは上手い。場の雰囲気を和らげるトークを、昂希は感心しながら聞いていた。話が具体的になってきたので、昂希は用意していた図面を鞄から取り出し、間取りとコストの説明を丁寧に行った。しかし、男性がなかなか渋い顔を崩さない。昂希は、様子を察知して、二つ目の図面を鞄から取り出し、Bプランの説明を始めた。男性はこちらの提案も、腕を組んで聞いていた。昂希は説明を終えて男性の顔を伺った。営業の田辺がすかさず男性にいかがですかと伺っている。男性は

「うーん」

と言ったまま考え込んでいた。昂希は満を持して

「それでは、こちらはどうですか?」

Cプランの図面を鞄から取り出し、机に広げて見せた。すかさず男性が

「君たちは何パターンの見積もりを作ってきたのかね」

驚きながら聞いてきた。昂希は

「図面はこれで最後ですが、この通りでなくても、ここのトイレをこっちにするとどうなるなど具体的な変更点を言ってもらえれば、大体の予算をすぐに試算できますよ。」

というと、男性は感心したよう頷き、取り敢えずCプランの説明を聞こうかと言ってきた。昂希はCプランの説明を丁寧に行った。そこから三人でより良いものを作り上げる為に、間取りと金額の検討を行った。気が付けば数時間が立っていた。三人で一つの物を作り上げるチームのような関係が生まれた。最後の詰めに入り、どうしてもコスト面で折り合いがつかない所があったが、営業の田辺が機転を利かせ家賃に上乗せする方向で調整するという荒業で、契約にこぎつけた。

 ここで男性から思いがけない提案があった。

「実は古いアパートもリフォームしたいと考えていたのだが、適当な業者を見つけられなくてね。君たちなら安心して任せられそうだから、そっちの方もやってくれないかな?」

こういう時の営業は流石だ。田辺はすぐに立ち上がり

「当社に任せてもらえれば必ずご期待に添えますので、よろしくお願い致します」

と頭を下げた。昂希も慌てて立ち上がり頭を下げた。善は急げと田辺は詳細を男性から聞き始めた。住所を確認し、具体的な予算などを確認した。詳細は建物を見てからでないと詰められないので、アパートの下見をさせていただき、状態を確認した上で、具体的なプレゼンをすることで合意した。そして、この家のリフォームを開始する日時などを最終確認して、男性宅を辞去した。二人は車を止めてあるパーキングに向かいながら、目と目を合わせ、無言で小さくガッツポーズをした。昂希は工事の手配を進めるべく工事関係者に電話し、田辺は上司に今回の結果を報告して、書類関係を進めるべく動き始めた。二人が会社に帰ってきたのは19時を回っていた。二人が席に戻ると部長が歩み寄ってきた。

「二人ともちょっとこい」

突然の呼び出しに二人は何か不味い事でもあったかなと顔を見合わせた。二人は無言で立ち上がり、部長の後について歩いた。二人は一階上のフロワーに連れていかれた。部長が部屋をノックすると、中から返事があった。部長が扉を開き、二人を中に入れると、部長は一緒に入室しなかった。二人は恐る恐る失礼しますと言って中に入り、一礼した。社長がソファーから立ち上がり、二人に近づいてきた。

「先方から会社に連絡があったぞ。」

二人はどんなクレームが入ったのかと頭の中がフル回転を始めた。すると社長が

「今日君たちが話をしたお客様は、この界隈では有名な方で、今後何かあれば当社を贔屓に使ってくれるそうだ。契約の話もうまくいったようだし、よくやった。特別に二人には特典を与えるので、後は部長と話をしてくれ。御苦労様。」

社長直々の労いに二人の口角が上がった。自然と二人は頭を下げ大きな声で

「ありがとうございます。」

と言葉が出てきた。社長は握手を求め、二人ともがっちりと握手をした。社長が手で退出を促したので、二人は失礼しますと言って社長室を後にした。廊下を歩きながら、二人はまたお互いの顔を見て、小さくガッツポーズをした。

 家に帰った昂希は妻の紗希に今日の出来事を報告した。

「部長から何か言ってきたの?」

と早速特典という名のご褒美に興味津々だ。

「部長はボーナスの件は私には分からないが、休みぐらいなら取らせてやることは可能だと言ってくれたよ。」

「どれぐらい取れそうなの?」

「一週間ぐらいは大丈夫じゃないの?」

「それなら海外旅行もできそうね。」

「どこか行きたいところがあるの?」

「私、パリに行ってみたいとずっと思っていたの。」

「パリか。いいなあ。ルーブル美術館に一度は行ってみたいと思っていたからな。明日部長と休みについて相談してみるよ」

「お願いね。どうせなら拓希君も一緒に連れて行ってあげたら。最近ちょっと心配かけたことだし、卒業するとなかなか海外に行く機会もなくなるしね」

「いいねえ。拓希にも連絡しとくよ。パスポート取ってこいとね」

「よろしくね」

紗希は立ち上がり、夕食を片付け始めた。


20●●年6月16日。

拓希は明日からの海外旅行に向けて、荷物を確認していた。パスポートだけはしっかり用意をしたが、他は兄貴任せだ。旅行費用は兄貴が出してくれるということだったので、お土産代程度に現金を持っていくことにした。明日は朝6時に部屋に寄ってくれるということだったので、今日は早く寝ることにした。

6月17日。

朝5時の目覚ましが鳴り響いた。どちらかと言えば夜型だった拓希は、なかなか前日も寝付けず寝不足だった。取り敢えずベッドから出ることだけ頑張ろうと、転がり落ちるように布団からなんとか脱出した。布団が無くなると自然と体が動き始める。膀胱が最初に手を挙げた。出たい。出たいと信号を送るので、拓希は起き上がり、トイレへ歩いて行った。用を足しながら、頭がはっきりしてくるのを感じた。次はお口が手を挙げた。起きたての口の中は雑菌が繁殖しており、肛門と同じ細菌数だという研究結果もあるぐらいだ。悪臭が鼻から脳に伝達してきた。拓希はそのまま洗面台に向かい、歯磨きを始めた。歯磨きをすると歯茎をマッサージするので、血の巡りがよくなってくる。完全に頭が起きるのを自覚した。すると次に胃が声を上げる。「グー」と言う叫び声が鳴り響いた。拓希は前日買っておいた、ランチパックとコーヒー缶とヨーグルトをもって、リビング兼寝室兼書斎に入った。つまりは一部屋だ。スマホの充電を確かめながら、軽い朝食をとった。SNSやテレビをつけるとついつい見入ってしまうので、敢えて今日はつけていない。食事を終えゴミを捨てると、最後にお腹から声が上がった。「ぐるぐるグル」お通じのサインだ。再びトイレに入って、しばしこもる。今日も快調だ。トイレを出て服を着替えると、6時近くになってきた。兄貴からのラインで簡単なスケジュールを聞いている。今日はほとんど一日飛行機の中で、フライト時間は約12時間30分らしい。カーテンを開けてみるとすでに外は明るくなっていた。数日家を空けるので、カーテンは閉めていくことにした。天気は良さそうで傘の心配はなさそうだったが、折り畳みぐらいは入れていくことにした。部屋を出る前に口を軽く濯いで部屋を出る準備を済ませた時に、ノックする音が聞こえた。拓希はすぐに扉を開け、荷物を持って外に出た。兄夫婦が外で待っていた。おはようとお互いに声を掛け、空港に向かって三人は出発した。

 レディース&ジェントルメンという呼びかけを廃止したのは、ドイツの航空会社からだ。カナダの航空会社は、レディース&ジェントルメン以外の言葉を挨拶に導入した。今では、各社が乗客の皆様という言葉に変更している。日本語ではもともと差別用語となる言葉を用いていない為、機内放送を変更する必要はない。英語でアナウンスする場合は、先ほどの言葉を使用しないようにしたようだ。

 舗装された道の上をゆっくり走りスタート位置まで移動する。これはタクシーと呼ばれ、誘導路をタクシーウエイと言うのだ。この操縦が最初に神経を使う。事故の原因の一つが、このルートの侵入違反である。無事滑走路に到着すると離陸だ。エンジン音と急加速で緊張がピークに達する。お客様の比でない緊張がコックピットを覆う。轟音が鳴り響き、機首が持ち上がる。離陸は成功だ。次はシッド(標準計器出発方式)本線に入るまでの航路と高度が設定されているルートで、この空の道を通ってクライム(上昇)する。シッドの終わりをPIGOKといい、管制の指示で、PIGOKから航空路に入り、指定の高度までさらに上昇して目的地に向かうのだ。

 天候もよくトラブルの起きそうな雰囲気は一向に感じられない。ベルトサインも消えて、機内で動けるようになった。背もたれを倒すタイミングが分からないが、直角の姿勢を何時間も継続はできない。日本の新幹線のように、後ろの人に同意を求めるものなのかもわからないし、後ろは外国人でどういってよいか分からない。背もたれを戻すサインがあるのなら、「背もたれを倒してもいいですよ」のサインも欲しいと思った。拓希は、日本人あるあるで背もたれをゆっくり気づかない内に少しずつ倒していき、いくらか寛げる角度になった。窓の外を見ると青い空と青い海の青の世界が広がっていた。鳥の大群がエンジンに飛び込んでくるような高度ではない。テレビで見るような事故はほぼ起こることはない。旅客機の事故は、他の飛行機や車・鉄道の事故より確率は低い。安心して乗っても大丈夫だ。日本の場合はさらに安全な乗り物が存在する。それが新幹線だ。1964年の開業以来、鉄道事故はゼロだ。人的事故は残念ながら何件か報告されている。車内での殺傷事件や自殺、扉に挟んだままの走行などだ。

 さすがに長時間の飛行で三人とも疲労の色を隠せない。機内で寝ていても逆に疲労が蓄積しているのではないかと勘繰ってしまう。12時間以上、機内にいると身体のあちこちで悲鳴を上げてくる。筋肉が強張ってくる。シートベルト着用のランプが灯った。シャルル・ド・ゴール空港が近づいてきた。

外を見るとあいにくの雨で少し気分は落ち込んだ。着陸は離陸の逆で、航空路からスターを通りアプローチに入って滑走路に着陸する。滑走路へ侵入が始まった。最初の地面へのタッチで強めの衝撃を感じた。拓希はボソッと呟いた。

「下手くそなパイロットだな」

「雨の日だから最初に体に衝撃がくる降り方をしたのだよ。」

「何の為に?」

「一度強めに地面にタッチするとスピードが落ちるのだ。後、ハイドロプレーニング現象防止の為だよ」

「何それ?」

「高速道路で良く起こる現象で、雨の日に高速で車を運転すると、タイヤの溝の水が排出し切れなくなり、地面との摩擦が少なくなって、ブレーキが利かなくなる現象のことよ」

「でもこれ飛行機よ。」

「地上に降りたら、車と同じで地面の摩擦もブレーキになる。タイヤに水の膜が張っていたら、予定の距離で飛行機が止まれなくなる可能性があるから、わざとドスンと衝撃を与えたのだろう。」

「天候が悪い時と、滑走路が短い時は敢えてやるそうだよ」

「へえ。そうなんだ」

拓希は窓から飛行機の機体を眺めていた。飛行機が逆噴射を始めたらしい音が響いてきた。紗希は何気に昂気に聞いてみた。

「逆噴射っていうけど、あそこについている巨大なタービンみたいなものを反対に回すのかな?」

「突然反対に回すなんてことはまず無理よ。逆噴射もちゃんと前から風を取り入れて、飛行時と同じようにタービン(エンジン)は回っている。普通の飛行の時は前から取り入れた風をそのまま後ろに流しているが、逆噴射の時は、タービンの真ん中部分が伸びて、前後に分かれる。タービンの羽の真ん中部分に風の抜け道を作り、後ろに風が行かないように、タービンの後ろの部分に蓋する。後ろに行こうとする風を遮り、真ん中の抜け道から、風を前に出すようにして、ブレーキにしているのだ。」

「そうなんだ。ゴーという音は風を遮っている音なんだ。」

「因みに、ロケットと飛行機はエンジンの作り方が違うよ。」

「どういう風に?」

「飛行機は前の空気を吸い込んで後ろに流すので、前の空間にある空気を利用するが、ロケットは宇宙空間でも、推進力が出るように作っているので、機体より前の空間を利用することはない。飛行機のように機体より前の空間の物を引き寄せると、エンジンに何か飛び込んでくることがあり、宇宙空間でそれがおこると非常に危険だからだ。」

「飛行機がよく鳥を吸い込んで、エンジンが焼けている映像が流れるけどそれよね。」

「そういうこと。」

無事着陸し、飛行機が所定の到着ゲートに収まり、飛行機の左側のドアが解放された。三人はゆっくりと立ち上がって手荷物を確認した。周りを見ながら、前の人に続いて歩き始めた。飛行機のドアを潜ってフランスに降り立った。左側のドアを開けるようになったのは、昔船を港に着ける場合、左側を岸に着けることが多かった名残と言われている。

 無事入国を済ませ、空港内を見渡した。さすがフランスと言わないばかりの、お洒落で近未来的な雰囲気を持たせた空港だ。動く歩道がエスカレーターのように上下斜めに配置してあり、視覚でも楽しめる芸術性が高い内装になっている。フランスが初めての三人は、あたりをキョロキョロしながら、取り敢えず予約しているホテルを目指すことにした。予約しているホテル・ド・ルーブルはルーブル美術館の向かいに位置し、1855年ナポレオンの命によりたてられた、五つ星ホテルだ。一人一泊4万円は決して安くはないが、初めての国で状況が分からないのにホテル代をケチって、治安が悪い地域やトイレに扉が無いようなホテルも払下げだと思って、ここだけは奮発した。右も左も分からない三人であったが、何とかホテルまで到着すると、チェックインできる時間になっていた。夕食の予約とチェックインをして、部屋に入った。夕食までまだ少し時間があるので、三人でホテル周辺を散策することにした。

 ホテル一階のロビーでスマホの地図アプリを開き、三人はコンコルド広場に行ってみようということになった。ホテルを出て、フランスの空気を吸いながら、セーヌ川沿いをブラブラ歩いた。景色が良い所で自撮りを三人で行いながら、パリの雰囲気を楽しんだ。川沿いを歩いていると、老紳士が一人で近づいてきた。

「日本の方 です か?」

片言の日本語で話しかけ、身振り手振りで古い本を指さしながら、

「十ユーロ・じゅうユーロ」

と同じ言葉を繰り返した。紗希は不審者を見るような目で男性を見ていたが、昂希は旅のエピソード作りにもってこいだと思い、裸で持っていたお金をポケットから取り出すと、男性にお金を渡した。男性はメルシーと言って、本を手渡し、歩いて行った。表紙にはルーブル美術館の写真が載っているが、中と外のギャップがこの本にはある。外は最近の写真だが、中はかなり年代物を感じさせる紙が使われているようだ。本を開くと、良く分からない文字が並んでいる。フランス語ともアラビア語とも違う、現代の文字に思えないものが並んでいた。そもそも文字なのかも分からない。当然読むことができない。挿絵や地図がのっているがどこの地域の物だか理解できない。表紙以外ルーブルとは全く関係がなさそうな本だった。ただ、光る石が描かれて、横に地図がのっているページには、唯一読めそうなアルファベットの文字が三つだけ記載されている。やはりだまされたのかという言葉を昂希は吞み込んだ。これも旅で土産話の一つになると肯定的に捉えた。

ホテルの宿泊代は高いが、徒歩圏内に観光スポットがいろいろあるのは好都合だった。不慣れな土地で言葉も覚束ない三人にとっては猶更だ。時間を気にしながら移動する必要がなく、日があるうちはのんびり観光ができる。旅の思い出の写真も何枚か撮り、夕食の予約の時間が近づいてきたので、ホテルに帰ってディナー用の服に着替えた。本日はディナーで終了の予定だ。ただすでに起きてから19時間以上は経過している。飛行機では寝ることが出来なかったからだ。アルコールを摂取するとコース料理を最後まで間食する前に睡魔に負けそうな気がしてならない。本場のワインを楽しみにしていた紗希も眠そうにしていることが分かる。しかし、三人ともワインを注文し、本場を味わうことを選択した。ディナーなんてことをあまり経験したことのない三人は、周りをキョロキョロしながら、平静を装った。フランス料理はフォークとナイフをお皿から遠い順に使うことと、食事中にフォークとナイフを置く場合は皿にㇵの字に置き、食べ終わると二本並べて右端に揃えるぐらいしか知らない。ナプキンの使い方や皿の向こうに置いてある小さなスプーンの出番が分からない。ぎこちない三人を客観的に見た昂希は、無言で食事をするのも違和感があると感じたので、二人に質問してみた。

「肉の焼き方って何通りあるか知っている?」

「知らない」

「私も」

会話が不自然だ。二人も必死に普通に過ごしている感を出そうとしていることは伺えた。皆アルコールのスピードだけは普段より早い。ワインをビールのように飲み干し、味も風味も意識できない。緊張の方が先に立っている感じが否めない。拓希が前菜を素早く食べ終え聞いてきた。

「それで兄貴、何通りなの?」

昂希は自分がした質問が何だったのか一瞬分からなくなりそうになった。それだけフォークとナイフの使い方にも神経質になっているのだろう。

「ああ、ええと、焼き方は10通りあるよ。”ロー”は火を通さないナマの状態。」

「お祖母ちゃんは絶対に食べないやつだね。」

「そうだね。昭和30年前後に生まれた女性は特に生肉が危険と刷り込まれているから、焦げるぐらい焼かないと気持ち悪いと言って食べないよね。」

うちのお祖母ちゃんも、ローストビーフは敬遠していたな。」

「日本では食中毒問題が発生して、馬刺しやユッケなどのナマで提供する肉は、肉の表面を60℃以上2分間加熱して、焼き目のついた部位を切り取り、肉の内側のナマ部分を提供する形に変わったけどね。」

「そうなの。じゃあ、もう生じゃなくない。」

「内側には火が通っていないからな。なんとも言えないな。」

「兄貴ローの次は?」

「次が”ブルー”表面の肉の色が白く変わるだけ焼いた状態で中はナマ。ブルーは日本ではもう提供できないかも?調べていないからわからないけどね。後は”ブルーレア”・”レア”・”ミディアムレア”・”ミディアム”・”ミディアムウェル”・”ウェル”・”ウェルダン”・”ベリーウェルダン”と10通りかな」

少しお酒も進み、雰囲気にも慣れてきて、饒舌になってきた。ただ、睡眠不足とアルコールは、睡魔の近寄り方も尋常ではない。他の二人も喋っていないと寝てしまいそうになるのか、コース料理が済むまで三人ともハイテンションで会話を続けた。周りから見たらやたら元気な日本人に見えるだろう。三人は最後のデザートを食べ終え、余韻を楽しむことも無く、部屋に戻った。部屋に入り、ベッドに倒れこむと、風呂に入ることも無く、そのまま眠りについた。


6月18日

昂希は寝がえりの感じがいつもと違うなと体が感じて、意識が急激に覚醒に向かった。目を覚ましてここはどこだろうと、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。久しぶりに深い眠りに誘われた。何とか気力でコース料理は食べたが、部屋までの記憶がかなり曖昧だった。横のベッドを見ると、妻の紗希はシャワールームに入っているようだった。そういえば、自分もお風呂に入っていないことを思い出した。起き上がり、時計を見た。8時を指していた。ベッドから降り、着替えを用意しようとスーツケースに近づくと、すでに紗希がすべてを用意して置いてくれていた。昂希は椅子に座り、今日の予定を確認した。紗希がシャワールームから出てきた。昂ちゃんも入ってきたらと言う声に導かれ、お風呂に入ることにした。シャワー室を出た、昂希に紗希が声を掛けてきた。

「朝ごはん食べにいこうよ。」

昂希はタオルで頭を拭きながら、

「拓希に連絡してみてよ」

紗希に言った。紗希はホテルの電話を取って、拓希の部屋番号を押した。数回コールしても拓希は電話に出なかった。紗希は受話器を置くと、携帯に手を伸ばした。拓希の携帯に電話をした。こちらも留守電に繋がった。

拓希ひろき君電話にでないよ」

昂希がドライヤーで頭を乾かした後、顔にスキンケアの化粧水をつけていた。昂希は一通り入浴後の作業を終わらせた。

「拓希の部屋をノックしてみるよ。」

と言って部屋を出ていった。となりの拓希の部屋の前に来て、ノックをしてみる。応答がない。耳を澄ませるとシャワーの音がしている。昂希は部屋に戻って待ってみることにした。自分の部屋をノックし、紗希に扉を開けてもらう。

「拓希シャワーしているようだよ。ちょっと待ってみよう」

紗希に言って、今日の観光に持っていく貴重品・ペットボトルの飲み物とちょっとした食べ物をリュックに入れた。紗希も同じようにリュックに必要なものを詰めていた。化粧品と衣類以外は、ほぼすべてこの袋に入っている。部屋の内線がなり始めた。昂希は電話に近寄り、受話器を上げた。どう応答するべきか迷っていると、

「兄貴、電話した?」

日本語が受話器から聞こえてきた。昂希は聞き覚えのある声を聴き、口角が上がった。

「拓希、朝ごはん食べに行くけど出られる?」

「今風呂あがったばかりだから30分待って」

「分かった。じゃあ、9時に。」

 三人はホテルのレストランで朝食を済ませ、そのままルーブル美術館に向かうことにした。ホテルからは歩いていける距離だ。昨日歩いた道なので、もうそこまで目新しさも無くなっている。しばらく歩くと、透明なピラミッド型をした有名な入口が顔を表した。三人は誰が言うことも無く、その前で集まって自撮り棒を伸ばした。今どき自撮りも慣れたものである。数枚の写真を撮り、事前に用意してもらっていたチケットを取り出した。美術館の入口は駅の改札のようなつくりで、チケットを通すとゲートを通れる作りだ。入口はここだけでなく、地下鉄の駅から直接入場できるような作りにもなっているらしい。中に入るとさすがに世界を代表する美術館だ。人の多さも、敷地の広さも尋常ではない。ただ、コロナ後は入場制限を行っており、入館者数を入口の改札で把握して、密にならないように管理している。これでも美術館内の人は少なくなっているのだ。美術品も”モナ・リザ”や”サモトラケのニケ”など教科書に載っているものが、間近に展示されている。三人は見とれてしまい、なかなか先に進んで行かない。このペースで見学すると、ほとんどお目当ての物を見ることなく時間切れになりそうだった。昂希は少し二人をかしながら進んだ。日本でいう所の1階、ここでいう所の0階に、古代の物を集めた展示コーナーがあり、ここはそんなに時間を掛けずに通過できるだろうと思っていた。しかし、昂希は何故か光って見える石があることに気づいて、その場に立ち止まった。昨日貰った本に載っていたものに似ている。昂希はリュックから昨日買った怪しい本を取り出して、ページをめくり始めた。拓希が聞いてきた。

「兄貴何してんの?」

「あの石、少し光って見えないか?」

「エッツ!どの石が?」

拓希には石が光っては見えていないようだった。紗希に聞いてみても、光って見える石はないよとのことだった。昂希は指さして、二人に分かるように、光って見える石がどこにあるか細かく説明したが、両方とも首をかしげるばかりだった。昂希が紗希の手を引っ張り、この指の先の石だよと説明すると、紗希にも見えるようになった。紗希はあれと思った。さっきは全然見えなかったのに、昂希と手を繋いだら見えるようになったのだ。紗希は拓希の手を取って、本に触れさせた。拓希はお姉ちゃん何と言ってきたが、拓希にも光る石が見えるようになった。どうも本に触れていると見えるようだ。昂希は石に何か書いてあるように見えた。二人に石に書いてある文字が分かるか聞いてみた。紗希が最初に答えた

「ア ト ラ ス」

続いて拓希が文字を口にした

「スピ リット」

最後に昂希が

「最後はイルミネーションかな」

すると突然まばゆい光が部屋を包んだ。昔のカメラのフラッシュぐらい強烈な光に、皆が目を背ける。石と三人はその瞬間、青白い光に包まれ、光の輪の内部が入口のように開いたと思うと三人は滑るように中に吸い込まれた。直後に一度館内の電気が消えた。パソコンの再起動のように再度電気が灯り始めると、三人が吸い込まれたように見えた人が何人かいたが、停電の影響と見間違えの可能性も否定できず、大きな混乱になることも無かった。

 

 久しぶりに姉妹水入らずで、一夜を過ごした朝だった。太陽の光が顔を照らしてきた。暑さの為、窓を開けて寝ていると、風の影響でカーテンが開いていたのだ。優子はその光で目が覚めた。横を見ると泊まりに来ていた妹の陽子が、すでに目覚めていた。ただ姉妹共に目覚めてからすぐに布団から出ることはしない。陽子は横になったまま携帯をいじっている。優子も転がりながら陽子に喋った。

「陽子起きているのなら、朝ごはん作ってよ」

「なんでもいいの?」

「パンとヨーグルトはあるから、お汁とサラダよろしく。」

 陽子は起き上がり、眼鏡を探した。コンタクトか眼鏡をしないと視力が悪く、日常生活はかなり困難だ。パジャマを着替えて、台所に向かった。よく姉の家にはお邪魔しているので、大概のものがどこにあるのか把握している。野菜室を開けて、キャベツとトマトを取り出した。冷蔵室を開けて卵とウインナーを取り出し、立てかけてあったフライパンを手に取った。電磁誘導加熱式調理器具の上にフライパンを置いて、油を敷き、卵割った。電源を入れると、ウインナーもフライパンの空いてる所に投入した。蓋を閉めて、火力を調整し、焼けるのを待つ。その間にキャベツを洗って千切りにし、ミニトマトの房を取って軽く洗い、さらに盛り付ける。フライパンのウインナーをひっくり返し、再度蓋を閉める。いつもの朝ごはんの流れで作りなれている為、別に他人の台所でも大して困ることはない。手際よくサラダを作り上げた。お汁は簡単に、豆腐とわかめのお味噌汁にした。水を鍋に注いで、カツオ出しを投入する。後は乾燥わかめを入れて、お豆腐を手のひらで賽の目にカットする。お湯が沸くまでこちらも待機だ。菓子パンを皿に盛り、湯沸かしポットのスイッチを入れた。インスタントコーヒーとコーヒーカップを取り出しテーブルに並べる。コーヒーだけは飲む人の拘りが強い飲み物だ。豆を挽くところから行かなくても、インスタントコーヒーなのかドリップコーヒーなのか、砂糖・クリープ・牛乳等、入れるものや量まで人それぞれ十人十色だ。家族であっても、5人いれば5個違うコーヒーが出来上がる。

 後は出来上がった順に皿に盛りつけると、朝食は完成だ。30分もあればそれなりの朝食はできる。和にこだわると、米を炊いたり、焼き魚を焼いたり、なかなか大変だが、和洋折衷なら手を抜くことはできる。すべて店屋物てんやものでは高くつき過ぎる。簡単にできることは家でやるのが普通の主婦の思考だ。湯沸かしポットが沸騰したことを知らせた。陽子は優子に声を掛けた。

「お姉ちゃんできたよ」

洗面所から返事が返ってきた。

「ありがとう。すぐに行くわ」

ガタガタと洗濯機が動き始める音がしてきた。陽子はドレッシングを冷蔵庫に取りに行った。優子がそのタイミングで台所に入って来て、二人で食卓を囲んだ。優子は三人の子供が家を出て三年になる。それまで朝はいつも戦争のようにバタバタしていたが、最近は旦那一人を送り出すだけだ。仕事の関係で帰ってこない時は、決して広くない家が、妙にガランとして、寂しさばかりが募る。今日は妹が泊まりに来てくれているのでそれほどでもなかった。テレビのスイッチを入れて手を合わせ「いただきます」と二人同時に声を出した。食事の時にテレビをつけるのは、昭和にテレビが一般家庭に普及してから、ほぼ毎日の行動となった。テレビは流れているだけの場合が多い。興味をそそる内容以外は、ほぼ見ていないに等しい。優子が陽子に喋り始めた。

「今日の9時のバスに乗る予定なので、8時30までに用意終わらせてね」

「どこまで行くんだっけ?」

「名古屋で乗り換えて、松本までよ。」

「芽衣ちゃんに初めて会うのが楽しみ。」

「私も出産の時に行っただけだから、久しぶりよ。もうだいぶあの時と変わっているだろうしね。」

「赤ちゃんの時は、どんどん顔つき変わってくるものね。」

「出産に立ち会うのもなかなか難しかったからね。予定日が決まっていても、必ずしもその日に生まれるとは限らないし、都合よく連休がとれないから大変よ。結局5日休み貰って、最後の日にやっと生まれたのだけど、すぐに帰らなくてはいけなかったので、殆ど芽衣に会えていないのよ。」

「悠馬さんがお医者さんなんだから、夫の病院で出産するのは仕方ないんじゃない。出産後、何度も病院にはお世話になるわけだし、同じ病院に掛かっていた方が、子供の状態をお医者様が把握しやすいしね。」

「まあ、それはそうよね。」

二人はコーヒーを飲み終え、動き始めた。陽子が食器を洗い、優子が洗濯物を部屋干ししに行った。ここからが女性あるあるの時間がかかる所だ。秘密戦隊が変身と言って、一瞬でヒーローに変われることが羨ましい。顔というキャンパスに色を塗ると、次は髪の毛だ。二人は自分の思う通りの変身を行い、昨日用意して置いたお泊りセットの最終確認を行い、家を出た。

 岡山駅に着くとお土産を買いに”サンステ”に立ち寄った。陽子は岡山定番の”きびだんご”や”大手饅頭”は今回持っていくのはやめようと思っていた。姉と共にサンステの中を見て回った。

「岡山チーズケーキ工房・清水白桃プリン・シャインマスカットが入ったきらきらゼリー・もんげーバナナロールケーキ」

優子は自分が食べたいものを次から次へと呟いた。陽子は姉が自分で食べる気満々なのを見て取り、微笑んだ。陽子は”瀬戸内レモンチーズタルト”が気になり姉に「私これにする」と言って、レジに向かった。姉の優子は関係各所にもお土産を配るつもりなのかと思えるぐらい、かなり多めにお土産を選んだ。出発の時間が迫ってきたので、姉は選んだお土産をすべて購入した。娘の家に行くだけなのに、二人ともスーツケース一個とボストンバック一個を持っていた。そこにお土産の袋一個が追加された。大量の荷物を持って歩くと、新幹線に乗り込むのも一苦労だ。久しぶりに乗る新幹線に陽子は興奮した。世界一安全な乗り物だ。静かに走り始めた高速鉄道は、あっという間に最高速度250㎞/hに達した。姫路より東は275㎞/h、西は300㎞/hが最高速度だ。この速度で走っていても車内は至って静かだ。車内が清潔なのは日本ならではの事で、世界中が驚きを隠せない。優子と陽子は社内でガールズトークに花を咲かせた。

 15時30分に松本駅に電車が到着した。駅前のコイン駐車場に車を停め、怜那は芽衣を抱っこして改札まで二人を迎えに行った。重そうな荷物を抱えた二人が改札をゆっくり抜けてきた。

「怜那・怜那」

優子が遠くから手を振りながら娘を呼んだ。すでに視界に捉え手を振っているので、そんなに連呼しなくてもいいのにと怜那は思いながら近づいて行った。優子は荷物を脇に置くと、ポケットからアルコールを取り出し、手を消毒してから、芽衣を抱きかかえた。

「お祖母ちゃんですよ」とすでにデレデレの状態だ。陽子が横から覗き込み、やっぱり小さい子は可愛いねと芽衣を見つめて独り言のような感想を口にした。三人は改札から車に移動し、荷物を積み込んで、優子が助手席に乗り込んだ。怜那は駐車料金を払い、運転席について車を発進させた。母の優子が怜那に言った。

「ちょっとお茶しに行こうよ。」

「スタバは帰り道にないんだけど、どこでもいい?」

「どこでもいいよ。陽子もいいよね」

「いいよ」

簡単な会話が社内で行われ、怜那は帰り道にある喫茶店に寄ることにした。


 昂希が最初に目を覚ました。一度経験があるだけに、覚醒までの時間も、他の二人より早い。また時空の狭間に入ったのだろうと思った。今回は前回みたいに周りが暗くなかった。前回が夜だったからなのだろうか。すこし違う気もする。どちらかと言えば、時空の狭間を通り抜けた感じだ。昂希はゆっくり体を起こすと、二人とも横で、横たわっていた。周りはジャングルのように木々が生い茂り、地面には青い草が敷き詰められている一角に寝ていたようだ。昂希は横にいる紗希の様子を伺った。死んでいる様子は無い。声を掛けてみるが、応答がないので、揺り動かして起こした。紗希は何が起きたのか分からない様子でポカンとしている。もう少し覚醒するまで時間がかかりそうだった。反対側で横たわっている拓希を見つめた。拓希も死んでいるようには見えない。こちらも声を掛けるが応答がないので、揺り動かして起こすことにした。拓希もなかなか脳にまで血液が回らないのか、しばらくボーっとしていた。昂希は周りを見渡し危険が無いか確認した。今のところ三人以外誰もいなかった。前回もそうだったので今回もそうなのかもしれないと考えた。しかし、昂希は前回のように世界が縮み始めるとどうしようと別の体験を思い出し、恐怖した。昂希は急いで二人の名前を呼び、覚醒させた。まだぼんやり周りが光っているようにも見えた。紗希よりも拓希が先に覚醒して、昂希に聞いてきた。

「ここどこ?」

「全くわからない」

「何が起こったの?」

「さあな。」

「どうするの?」

矢継ぎ早の質問に昂希もイラっとしてきた。

「いきなりいろいろ言われても、俺だって知りたいよ。ちょっと状況を把握するまで待て」

紗希が覚醒して、同じ質問を繰り返した。同じように答え、昂希は立ち上がった。二人はまだ座ったまま動けないようだ。昂希は立ち上がり、後ろを振り返ると、膝の高さぐらいの四角錐の石が、光を湛えていたが、消えかかっている。この石に見覚えがあった。ルーブルで見た石にそっくりだった。しばらくすると石の輝きが消えて、元の何の変哲もない石に戻った。

拓希は腕時計を見て時間を確認した。時刻はルーブルにいた時間と変わらず10時15分を少し回ったところだった。スマホを見ると電源が切れていたので、拓希はスマホの電源を長押ししてつけた。電波がきていないのかすべて圏外だった。通信の類は期待できそうにない。拓希は立ち上がり、兄貴と一緒に周りを見渡した。「どこだろう」と独り言を呟いた。

 最後に紗希が起き上がり、みんなのリュックを拾ってそれぞれ渡した。昂希が提案した

「とりあえずここに居ても仕方ないので移動しよう」

「どっちに行くの?」

紗希が聞いてきたので、拓希は思いつくままを口にした。

「あっちに行ってみようよ」

昂希は二人を制止した。

「ちょっと待って。山で遭難したら、来た道を引き返す。沢に降りるな、尾根に上れ。動き回るな。この三つが基本らしいが、今回の事例にはどれも使えそうにないな。」

少し考えて、拓希に声を掛けた。

「あの木に拓希登れないか?」

「大丈夫だけど。何を見るの?」

「ここがどこだか分かればいいけど、分からなければ、海が見えるか。人工物があるのか。周りがどうなっているのかを知りたい。」

「分かった」

拓希はスルスルと木を登って行った。紗希が心配そうに拓希を見ていた。

「大丈夫?」

「大丈夫よ。」

「何か見えるか?」

「向こうに山が見える」

指で方向を指しながら二人に伝えた。

「他に何か見えないか?」

拓希は反対方向を眺めた。三人の中では視力は良い方で、裸眼で.1.5はある。

「反対方向を指さし、あっちに煙のような湯気のようなものが見えるよ」

「南西の方角ね。」

昂希は呟いた。紗希はエッツという表情をして聞いた

「何で分かるの?」

「地面に突き刺した棒の影と腕時計の短針で北が分かるよ。影を短針に合わせて、時計の12と短針の角度の半分の方向が北なんだ。」

「でもそれ、日本だけじゃないの?太陽の南中時刻と12時が一致していないと意味ないよね。日本でも標準時の明石の天文台以外は少しずれて、北海道と沖縄は七度近くずれるみたいだし。」

「良く知っているね。だからスマホの方位磁石アプリを使ってみた。」

「なんだ。ずるい。でもスマホのアプリ使えるの?」

「通信が必要なものは機能しないだろうけど、方位磁石のアプリは動いたよ」

「充電できないから、今後は簡易の方位磁石を作ろう。」

拓希が木の上から降りてきた。

「拓希が見た煙の様な物を目指して行くことにしよう。この場所が重要になるかもしれないから、目印だけ付けていくことにしよう。何か刃物持っている?」

三人はリュックの中を探した。拓希は家の鍵を取り出し、紗希はメイク道具の先の曲がったはさみを取り出した。昂希はどれも使えないなと心の中で思った。周りを見渡して、先の尖った石を見つけた。一番近い木に「㋖」と遠くから見えるように、木の皮を剥がした。三人に共通する文字だ。昂希は付け加えた。

「もしここに戻らないといけない場合があるかも知れないから、一定の間隔で㋖と木に刻んでいこう。5本おきぐらいの間隔で、文字を刻んだ木が次の木から見えるようにしよう。」

二人は頷き、昂希に従って拓希が示した方角に向かって移動し始めた。森の中には無数の動物の鳴き声が聞こえる。見たことのない動物がちらほら目について、昂希と拓希は適当な長さの棒を拾った。昂希は紗希にも棒を渡し、辺りを警戒しながら進んだ。前に刻んだ㋖の文字が確認できるギリギリの所の木にまた㋖の文字を浮かび上がらせた。ゆっくり移動しいていると、前方に巨大な動物が動いている。昂希は横に手を広げ二人に静止を促した。よく見るとビーバーに似ているが、サイズがとにかく巨大だ。昂希は自分の伸長と同じぐらいの1m75㎝ぐらいだと推測した。その生物も木の実を食べながら、「じろっ」とこちらに目を向けてきた。三人は木に隠れ、様子を伺った。巨大なビーバーは自分の天敵かどうかを確認したようだが、その場から動くことはなく木の実を食べ続けた。三人はゆっくり後ずさり、視線を切らすことなく遠ざかって行った。拓希が言った。

「すごい大きさだったな」

紗希が記憶をたどるように、視線を右上に上げ呟いた。

「もしかしらた・・・」

「何?なにか思い当たることがあるの?」

昂希は紗希の言葉を遮るように聞いた。

「さっきの生き物、カストロイデスかも。」

「何それ?」

拓希がすかさず質問した。

「現代には絶滅しているはずの生物よ。いつの時代だったか思い出せないけど、かなり前に地球にいた生物よ」

二人は絶句して、少しの間立ち尽くした。紗希が二人の男性の間をすり抜け、二人の背中を軽く二回叩いて、

「行くよ」

と声を掛けた。昂希は我に返り、周囲を見回した。差し迫った危険は無さそうだったので、拓希に

「大丈夫か」

と声を掛けた。拓希はいろいろ考えているようであったが、

「今を生き延びることを考えようか。」

と言って、現実に起っていることを直視するよう仕向けた。男二人の顔つきが変わった。三人は先頭に昂希、次に紗希、最後に拓希の順に縦列で固まって移動することにした。拓希は基本後ろ向きで、紗希が拓希のリュックに紐をつけて、軽く引っ張る形で前進する。後方の㋖の文字がそろそろ見えなくなりそうだったので、近くの木に㋖の文字を刻印した。少し先を見ると、前方に明るい場所があることに気が付いた。森がそこだけ開けているのだろうと昂希は推測し、そちらの方に歩を進めた。少しばかり前方が見えるようになってきた。木の陰から昂希は明るい場所を見渡した。ここは木が少なく、草が生い茂っている地帯だが、草原と呼べるようなものでもなかった。地面がぬかるんでいるから木が生えていない場合もある。慎重に地面も見ながら、近くから遠くを見渡した。するとアルマジロの大きいものを見つけた。体長は2.5mに達するだろうと思える大きさだ。その向こうには、ナマケモノを巨大化したような生き物で体長6m近いと思われる。さらに右のほうには、馬を巨大化したような生物で体長4m、高さ2.5mぐらいの大きさだ。昂希の陰から紗希が顔を出そうとしたので、昂希が静止した。

「やばい動物がいっぱいいるぞ。どれもこれもサイズが規格外だ。」

「昂ちゃん私にも見せて」

紗希は恐怖よりも好奇心の方が先に立ってきた。後ろを向いている拓希も

「ちょっと兄貴変わってよ」

と言ってこちらも怖いもの見たさで状況が気になるようだ。紗希と拓希が前に行き、昂希が後ろを向いて警戒した。紗希が木の陰から頭を出して、開けた草場を見ると、紗希の目が輝きだした。

「オオアルマジロは、”グリプトドン”だわ。オオナケモノは、”メガテリウム”よ。巨大な馬のようなロバのような者は”エクウス”よ。その向こうに群れているゾウみないな生き物が”マムート”よ」

「すごいな、紗希。何で知っているの?」

「大学時代に少し研究していたのよ。ここにいるのはみんな草食系の生き物だから、たちまち危険が及ぶことはないわ。」

紗希は、スマホのカメラ機能を起動し、写真を撮り始めた。探求心のほうが先に立ってしまったのだ。もう木の陰に隠れることも無く、堂々と写真を撮っている。さすがに拓希がぼやいた。

「紗希姉、今それどころじゃないぜ。」

「ごめん。ごめん。どうしても写真撮っておきたいの。ちょっとだけ待ってね。」

昂希は後方を見張りながら、紗希に聞いた。

「草食系の動物が集まっているということは、この辺りに肉食動物は今のところいないのだろう。」

「そうね。肉食動物がいたら、みんな四散しているよ。」

やっと紗希はスマホを仕舞った。この開けた地からどこでも見えるように、この木に㋖という字を分かりやすい目印にしようと、昂希は自分の身長ぐらいの木を二本集めてきた。昂希は拓希につるのような、結べるものを探して来てと言った。都合よく蔓は無かったので、自分の背丈まであるような植物を何本か引き抜いて戻った。昂希は拾った板を、さっきまで寄り添っていた木に、横に向けて括りつけた。もう一枚の板も、先ほどより少し高い所に、横に向けて同じように括りつけた。遠くから見たら、この木自体が「㋖」と言う文字に見えるだろう。しかし、外れたり、壊されたりするかもしれないので、もう一つ隣の木にも、㋖という印が分かるように木に刻んだ。

「そろそろ移動しよう」

昂希はまた先頭に立って歩きだした。森の中を南西に向かって抜けてゆく。全体的に生物が巨大だ。警戒しながら歩くと、森がまた開けている。森の端に立つと目の前に川が流れていた。拓希は、辺りを警戒しながら、河原に降りた。そこまで深い川では無さそうだ。膝丈ぐらいの深さに思えた。川下をみるとゾウとサイに似た動物を見つけた。まだ森の端で待っている二人に拓希は、アイコンタクトと手で川下を指さした。紗希は拓希に、頭の上に腕で輪を作り、大丈夫の合図を送った。拓希は川の水を両手で救い、少量舐めてみた。透き通った綺麗な真水で、飲んでも問題なさそうだった。口に入れ飲み干すと生き返る気がした。今度は拓希が二人にマルを送り、二人を呼び寄せた。拓希はリュックに入れていたペットボトルを取り出し、少し残っていた中身を飲み干してから、新しい水を汲んだ。拓希が周りを警戒している間に、昂希と紗希も同じように水を飲んで、自分が持っていたペットボトルに水を汲んだ。突然下流のサイみたいな動物が数頭逃げ始めた。森の中から突然飛び出してきた4m近い動物が、サイみたいな動物を追いかけ始めた。飛び出して来た動物は、熊のような見た目で、動きは虎のように俊敏な動物だ。それを見た紗希は慌てて言った。

「二人とも早く逃げて。」

昂希が危険を察知して、先ほど降りてきた森の中を指した。

「こっちだ。」

三人は来た道を引き返し、森の中に駆け戻った。木の陰に隠れると、先ほどの動物がこっちに向かってこないか、影から確認した。目の前の獲物を追いかけているようで、こちらに向かってやってくることは無さそうだった。紗希は小声で説明した。

「今出てきた生物はアルクトドゥス・シムスよ。サイみたいな動物がコエロドンタ。」

三人は息をひそめて成り行きを見守った。逃げていたコエロドンタが子供を守る為か、逃げ切れないと思ったか、1頭が反転して、アルクトドゥスに挑みかかっていった。コエロドンタも大きさでは負けていない。こちらも4m近くの巨体で、顔に二本の角をもった毛深い動物だ。コエロがアルクに体ごと突進していき、二本の角で刺しにかかった。アルクは器用に後ろ足で横に飛び、素早く身をかわしながら、コエロの首筋目掛けて、前足で引っ搔きに行った。コエロも横移動したアルクに首だけ動かし、前足を払いのけた。両者の距離が空いた。アルクは咆哮し、再度コエロに挑みかかった。前方からの突進にはコエロの牙が有効だ。アルクもそれが分かっているかのように回り込みながら、コエロに近づいてゆく、動きはアルクの方が早い。横からコエロに挑みかかった。またもコエロは首だけ動かしアルクの突進を防ごうとしたが、アルクの長い前足の爪が、コエロの右足の上を引っ掻いた。深い毛が功を奏し、致命傷までには至っていないようだ。続けて円を描くように移動しながら、同じようにアルクはコエロに近づき、前足の爪で攻撃を続けた。次第にアルクの攻撃に、コエロは対処し切れなくなってきたようだ。深い毛の下から血が滴るようになってきた。万事休すだ。コエロの動きがだんだん遅くなっていった。アルクが近づき、ほぼ抵抗が無い状態でコエロの首筋に、アルクの爪が突き立って、勝負あった。

 木の陰から見ていた三人は、目の前の出来事に、自分たちが置かれている状況を理解した。自分たちが生きていた世界は、人間が食物連鎖の頂点にいる状態だったから、山や森にそこまで警戒せずに入っていた。しかし、今は捕食される側でもあるのだ。まして今いる世界は、3m超えの生物ばかりが生息している。武器を持たない我々は、襲い掛かられたらひとたまりもない。三人は無言で、ゆっくりと先ほどの戦いの場所から遠ざかって行った。アルクトドゥスの仲間が近くにいたら大変だからだ。三人は川が見えるギリギリのところで、辺りを見渡し、危険が無いか確認して、適当な石に腰かけた。拓希が不安を口にした。

「このままでは、俺たち喰われてしまうよ。どうしよう?」

「この拾った棒だけでは厳しいな。動物が怖がるものは、やっぱり火か」

「そうね。人間以外の動物は、無益な戦いをしないから、火をもっていれば、よほどお腹が空いてない限りリスクを冒して攻撃してくるとは思えないよ。」

「火と言えば、やっぱり油がいるよな」

昂希は現代的な考えで、アルコールランプを思い浮かべていた。ペットボトルに油を入れて、棒にハンカチを巻き付けて、ペットボトルに刺して、燃やす発想を考えていた。火を熾すことはそんなに難しくはないだろうが、長時間維持することが難しい。昂希は紗希に聞いてみた。

「油の原料で思い当たるものは?」

「オリーブの果肉から採れるオリーブオイル。胡麻から採れるゴマ油。これが日本の食卓でよく使われる食用の油ね。セイヨウアブラナの種子から採れる菜種油とサラダ油が揚げ物とかで使用する油かな。サラダ油は菜種・大豆・ひまわり・とうもろこし・綿実・ごま・米・紅花・ぶどうのそれぞれから採った油をミックスして作っているから、サラダ油と呼ばれるものが自然界にあるわけではないよ。後は、ココヤシの胚乳から採れるココナッツオイル。アボカドの果肉から採れるアボカドオイル。アルガンツリーの種子から採れるアルガンオイル。日本で密かに話題になったのが、シソ科のアマという植物の種子から採れるアマニ油と同じくシソ科のエゴマの種子から採れるエゴマ油かな。植物から作る油はこんなところだろうけど、どれもすぐには油なんか作れないよ」

確かにそうだと昂希は思った。現代人はいろいろな恩恵に浴していたことを実感した。油一つとっても、

海外で原料を採取した人、原料を日本に運んだ人、原料を加工した人、販売した人、その他もろもろいろいろな人の手を渡って、各家庭にたどり着いているのだ。ふと拓希が呟いた

「そういえば、この間大学でキャンプした時、枯葉を集めて火をつけたけど、松の葉が良く燃えたな。」

昂希は「アッツ!」と声を上げた。

「そうだ。松明は松で作るのだった。ただ松だけでは長時間持たないかもしれないので、竹と松を組み合わせてつくろう。縛るのに木の蔓か縄を作る必要があるな。紗希はさっき拓希が拾ってきた植物を三つ編み上に編んで、簡単な縄を数本作って。拓希は松を探して、枝と葉をいくらか拾ってきてくれないか。俺は竹がどこかに無いか探してみる。ここでは危険だから、さっき草食動物が多かった辺りまで引き返して、作業しよう」

三人は先ほどつけた㋖のマークを探して引き返した。今度は同じ場所から木を探すこととなった。巨大な動物ばかりに目が行っていたので、木の種類など気にしていなかったが、良く見ると松の木がそこら中に生えていた。先ほどの巨大な生物もお腹が満たされたのか、少し数が減っていた。比較的安全そうなところに松の木が生えていたので、拓希が指を差して言った。

「あの松の木の枝を折ってこようか?」

「生の木は駄目だ。倒木がいい。」

三人はお互いが見える範囲で自分たちの目的の物を探し始めた。偶然にも松の木の倒木は見つかったが、竹はどこにも見つからない。見つけたところで、切るものがないのでどうにもできないことに昂希は気づいた。竹をいて、その中に他の木を入れ、松明にする案だったが、できそうもないので、比較的燃えにくいシラカシの木で代用することにした。持ちやすい太さの枝を折り、この木を芯にする。持ち手から適当な長さの所で、芯としたシラカシの周りに、他のシラカシを数本束ねて留める。この中に松など拾った木を入れて、紗希が編んだ植物で周りを何重にも括った。沢山持ち歩くことは難しいので、一人一本ずつ三本作りそれぞれが持つことにした。また、先の尖った硬めの木を三本と松の木自体も三本用意して、それぞれのリュックの両サイドに一本ずつ縛り付けた。手にも一本頑丈な木を持っていく。出発しようとした所で、紗希は疑問を口にした。

「これどうやって火をつけるの?」

確かに、作っただけでは役に立たない。実際に使用できるか試してみる必要がある。

「紗希の言う通りだな。実際に火をつけて歩こう。」

昂希はリュックの中から、先ほど集めた木のクズとメモ用紙を取り出し、メモ用紙をビリビリに千切った。さらにポケットの奥をまさぐり、糸くずやほこりの塊を取り出した。枯葉や細くて燃えやすい木と少し大きめの木を側に用意し、リュックにつけていたキーホルダーを取り出した。凹凸レンズがキーホルダーに組み込まれている。拡大鏡の一種だ。太陽の光をレンズに通し、黒ずんだ部分の一点に照射した。しばらくすると煙が出てきた。ポケットのクズを近づけ、煙から火が出るのを待つ。ゆっくり息を吹きかけながらしばらく待つと、ポケットのクズからも煙が出てきたので、先ほど千切った紙を近づけて息を吹きかけた。すると突然小さな火が熾った。メモの切れ端・木屑・枯葉を入れて火を大きくし、細い枝を入れて、本格的に木に火を移す。徐々に大きなものに火をつけて行き、一本の松明に火が灯った。予想以上に煙が多く、逆に目立つかもしれないという不安は隠せない。目立つと襲ってこなくなるかもしれないという、逆の発想も考える。あれこれ悩んでいると、拓希がそろそろ行こうよと言ってきた。昂希は多少火が出ている程度の松明を見ながら「ああ」と返した。また先ほどの川までたどり着いた。㋖の文字を、川向こうからでも確認できる場所に彫った。この場所なら一つ前の文字もかろうじて見える。三人は川の様子を慎重に確認した。生物らしいものは見当たらない。河原に降りて、水縁みずべりまでやってきた。水も綺麗に透き通っており、水深もそこまで深くは無さそうだった。森の淵まで水の跡が観られるところを見ると、ここ最近雨が降っていないようだ。拓希が持っていた棒を川に刺し、川底の様子と水深を調べた。膝丈ぐらいの深さだとわかる。拓希がズボンの裾を捲し上げ、靴下を脱ぎリュックに入れた。靴は再度履きなおし、靴ごと水の中に入った。ゆっくり棒を先については一歩進む、を繰り返した。突然水深が深くなるところも、危ない生物も見当たらなかった。靴をはいて見ずに入るのは、鋭利や石でのケガや貝や魚の下からの攻撃を少しでも防ぐためだ。水から上がると、次は紗希が川を渡り始めた。紗希も同じようにゆっくり歩いて川を渡り切った。最後に昂希が川を渡る。このぐらいの川なら、先ほどの4mサイズの獣は苦にもせず追いかけてくるだろうと気が気ではない。周囲を気にしながら、それでも急いで川を渡り切った。三人は靴に入った水を捨て、軽くタオルで足を拭き、靴下を履いて、濡れた靴をそのまま履いた。河原を歩いて登り、向かいの森の端にたどり着いた。㋖の文字を同じ木の表と裏に彫った。一本しか点けていなかった松明の火を分けて、もう一つ松明を点火した。一つは立派に燃えているが、もう一つはあどけない炎だ。そろそろ出発しようとしたところで、紗希が昂希に耳打ちした。

「トイレにいきたいんだけど。」

辺りを見渡し昂希が言った。

「その辺の木の陰でするしかないよ。」

「はずかしい」

紗希の切実な声が聞こえてきた。

「でも遠くに行かれたら、いざって時に守れないよ」

しぶしぶ紗希は覚悟を決めて、木の陰にしゃがみ用を済ませた。その間二人は、前後で松明を焚き、辺りを警戒した。紗希はすぐに昂希の所に戻ってきた。

「ありがとう。さっきの川で手だけ洗ってくる。」

「気にするな」

「やだ、気持ち悪い」

紗希は単身河原に降りて行った。昂希は拓希を呼んだ。拓希は周囲を警戒しながら足早に近づいて来て、河原で手を洗っている義姉を見ながら、小声で呟いた。

紗希義姉さきねえトイレ早かったな。」

「そうだね。哺乳類の排泄時間は、長くて20秒らしいからね。野生では襲撃の危険が常に伴うから、そのぐらいの時間で全部でるように、人間の体はなっているようだよ。すべての動物は、喰う・寝る・出す。を必ず行わないと生きていけないけど、天敵からしたらそれを行っている時が、絶好の捕食チャンスだからね。ぎりぎり生き延びられる時間が、体の中に組み込まれているようなんだ。」

「それはそうだよね」

「現代人はトイレに長く入っている人が多いけど、排泄以外のことに時間がかかっているだけなのだよ。平和ってありがたいよね。あと、聞いたところによると、日本人は特に腸が歪んでいる人が多いそうだ。筋力不足や無理なダイエット・便秘による腸の変形で、綺麗なⓝを描いている人が少なく、トゥルンと一発で出尽くす人は、かなり少なくなっていると聞いたよ。」

「へえ。そうなんだ」

昂希は河原から上がってくる紗希を左目で捉え、拓希にそろそろ行くぞと声を掛けた。三人が縦一列になり、昂希が先頭で前を警戒。拓希が半身の姿勢で後ろを警戒し、紗希が真ん中で拓希のリュックの紐を引っ張りながら誘導する方式は変わっていない。川べりの㋖の文字が見えにくくなってきたところで、一旦止まり、㋖の印を木につけた。すると突然、犬の遠吠えとおぼしき声が聞こえてきた。紗希は言った。

「この辺に狼かハイエナの群れがいるのかも知れない。火を用意しておいた方がいいかも?」

昂希は頷いて、最初に点けた松明には、予備の木を足して、最後に残しておいた松明にも火を分けて、全員で松明を一本ずつ持つことにした。それに伴い、拓希は後ろを向いて歩くことが困難になり、昂希が先頭で、前を警戒し、後ろ二人が横に並んで、三角形を形成して、横と後ろを拓希と紗希がお互いの視覚になりそうなところを含めて警戒する形で前進した。前方に狼のような動物が5・6匹近づいてきた。堂々と前からの宣戦布告だ。紗希が二人に忠告した。

「ダイアウルフよ。彼らの縄張りに入ったのかも知れない。腐肉食動物だけど、弱いと感じた獲物に容赦するようなタイプではないわ」

体長が1.5mぐらいなので、大きさも我々とほとんど変わらない。6匹が横に広がり、攻撃のタイミングを伺っている。拓希は紗希に、松明を渡し、こぶし大の石を拾った。紗希を真ん中に、昂希が左手に松明、右手に棒を持って、紗希の右前に立ち、拓希が右手に石をもち、左手に棒を持って、紗希の左前で身構えた。紗希も半身の姿勢で、後ろも警戒しながら、前のダイアウルフを睨みつけた。

松明を渡した拓希に、目の前のウルフが飛びかかってきた。拓希は長い棒を横に振り、ウルフの胴を横から叩いた。大型犬の重量の為、ビクともせず向かって来る。拓希は大声で、「こいや!」と叫ぶと、声に驚いたのか、ウルフの足が鈍った。その一瞬に拓希は、右手に持っていた石を、ウルフの正面から投げつけた。至近距離からの投石にウルフは避けきれず、まともに顔で受け「キャン」と言ってその場にくずおれた。拓希が棒を振り上げると、ウルフは飛び起きて後退し、距離を取った。昂希の前にいるウルフは火を警戒しているのか攻撃してこない。昂希も火を前面に押し出し威嚇を続けていた。拓希めざして次のウルフが突っ込んできた。拓希は棒を真っすぐに構えて、突きの要領でウルフの顔を狙った。先を尖らせた硬い木を武器として使用している。この攻撃に、ウルフも左右に警戒にステップを踏みながら、拓希に近づいてくる。昂希の方にステップを切ったウルフに、昂希が火を近づけたので、ウルフのリズムが狂った。拓希はすかさず顔を目掛けて、渾身の突きを放った。しかし、少しウルフとの距離が遠く、鼻をかすめる程度でしか当たらなかったが、急所のようで顔をそむけるしぐさをした。ここぞとばかりに、拓希は頭上から棒を叩き下ろした。それでも立ち上がろうとしてきたので、目を狙って思いっきり突いた。見事に目に命中すると、ウルフは気が狂ったように暴れながら、どこかに走り去った。昂希の死角となった右奥から、ダイアウルフが飛びこんできた。昂希は前の一匹に気を取られて、見ていなかった。完全に虚を突かれ右足に噛まれそうになったが、左手に持っていた松明でウルフを叩きつけた。ウルフは地面にたたき伏せられたが、体ごと回転して立ち上がり、そのまま昂希に飛びかかってきた。昂希は右足を引きながら、右手に持っていた棒をウルフの頭を目掛けて叩き下ろした。急所をはずしたのか、ウルフの勢いが止まらない。右足に噛まれる寸前で拓希が横から、ウルフの足の付け根を棒で勢いよく突いた。致命傷にはならなかったが、ウルフの攻撃は止まり、足を引きずりながら後退した。昂希が左手に持っていた松明は壊れて、火が地面で燃えている。拓希が昂希の危機を助けている時に、拓希の死角から低い姿勢で突進してきているウルフがいたが、拓希は気づいていない。紗希が「きた」と叫んだ時には、ウルフの口は拓希の足の目の前だ。紗希はとっさに一本の松明をウルフの口に目掛けて、突き刺した。ウルフは燃えている木を、口の中に無理やり入れられた形となった。ウルフは顎が外れたのか、上手く噛むことが出来ないようだ。辺りをキョロキョロしながら、どこかに立ち去って行った。松明は紗希の手に一本だけとなった。次の二匹が同時に攻撃を仕掛けてきた。一匹は昂希に一匹は拓希に向かってきていたので、昂希は重心を低く取り、ウルフの喉元を狙ってついてやろうと棒を構えた。すると突然昂希に向かって来ていたウルフが、拓希の方に方向を変えた。拓希に二匹のウルフが同時に突っ込んだ形だ。拓希は棒を横にぐ形で振ったので、一匹のウルフには攻撃がヒットしたが、もう一匹に対処できない。拓希は、右足を引き、二匹目のウルフの下腹をトーキックで蹴り上げた。蹴り上げられたウルフはその場で少し浮いたが、構わず拓希を噛もうとしてきたので、左手に持っていた棒で顔を小突きあげた。ウルフは顔を叛け、ブルブルと全身を震わせた。その時、一匹目のウルフが低い姿勢から拓希の左足に突進してきて嚙みついた。拓希は、持っていた棒を振り上げ、ウルフの目を目掛けて思い切り突いた。火事場の馬鹿力並みのパワーで突いた為、棒は脳まで達してウルフは絶命した。昂希は拓希が顔を小突いたウルフを後ろから棒で殴打した。ウルフが振り返り、向かってきたので、昂希は口の中に狙いを定めて、渾身の力で突き刺した。棒はウルフの喉から内臓まで達して絶命した。満身創痍で後退した二匹は、その場から立ち去って行った。昂希は大丈夫かと言って、拓希に駆け寄った。紗希に周りを警戒してもらいながら、ウルフが死んでいる場所から少し離れた場所に移動して、拓希を石の上に腰かけさせた。ズボンを捲し上げ、靴下を脱がしてみると、足から血が滴っていた。昂希は急いで先ほど組んだペットボトルの水で足を綺麗に洗い流した。腿の付け根をタオルできつく縛り、傷口を強めに摘まんで、血を絞り出した。何度か繰り返し、最後に水で綺麗に洗い流した。ケアリーヴを数枚鞄に入れていたが、もう少し血を出した方がいいかもしれないと思い、ハンカチで噛まれた足を包み、紗希のヘアバンドで足に固定した。応急処置を済ませた三人は残りの水を飲み、一息ついた。昂希は危惧の念を抱いていた。出国する前に念のため予防接種は何種類か打っておいた。狂犬病の注射もしたから大丈夫だろうが、何せ未知の生物だ。どんな病気をもっているか見当がつかない。病気を発症しなければいいけどなと心の中で思った。拓希を石の上に座らせて、少し休憩させている間に、昂希は木に㋖の文字を刻むため、近くの木に移動した。紗希も同じように昂希について行き、小声で聞いた。

「拓希君大丈そう?」

「わからない。寒気など風邪の症状がでたらやばいな。水を怖がり出したらアウト、狂犬病が発症したと考えるしかない。」

紗希は無言で頷いた。昂希は前の文字がどこにあるか探したが、もう見えるところになかった。戻って探すのも危険だ。再度ここから印をつけて行くことにした。㋖の文字を刻み、三人は先ほどの戦闘した現場まで戻った。破壊された松明が使えないか見てみた。一本はどうにも修復が困難だったが、もう一本は何とかなりそうだったので、木を寄せ集めて修復した。紗希が持っているものと含めて2本となった。

「そろそろ移動しないと、仲間を連れてきたり、死肉を漁る別の動物が現れたりしたらやっかいだ」

昂希は二人に言うと、携帯で南西方向を確認した。今は暢気に方位磁石を作っている暇はない。また、獣の鳴き声が聞こえてきた。三人は、昂希が先頭で歩いていたが、拓希が後ろにいては、様子を確認できないので、危険ではあるが拓希を先頭で移動することにした。けがをした拓希のペースで移動できるメリットもある。三人は慎重に移動して行った。ダイアウルフと戦った場所の近辺で彫った㋖の文字が見えなくなりそうな距離を移動したので、再度木に㋖の文字を刻んだ。紗希は拓希に声を掛けた。

「拓希君大丈夫?」

「今のところ大丈夫」

紗希は拓希の顔色や汗の量などそれとなく確認した。そこまで普段の拓希君とかわった症状はなかった。

「そう。何かあったら早めに私たちに言ってよ」

紗希が拓希に伝えている所に、作業が終わった昂希が戻ってきた。

「拓希、眩暈めまいとか頭痛とかはない?」

「そんな症状はないよ」

「分かった。なら、頑張って進もう」

二人は頷き、一歩ずつ確実に歩みを進めた。獣の鳴き声はするが、今のところ襲って来る動物はいない。二度三度㋖の文字を刻んで進んだ。数歩行くと拓希が突然止まった。後ろを警戒していた、昂希が無言で拓希の横に来た。今の状況を受け入れると、何かあった時に声を出すということをしない。指で差し示したところに、猿の子供のような毛深い動物がうずくまっていた。拓希と昂希は見つめあい、お互い無言で手だけを動かして、迂回する進路をとるように協議していた。紗希が怖いもの見たさに、脇から顔をのぞかせると、突然声を上げた。

「あら、かわいい。どこか怪我をしているようね」

男二人が紗希に向いた時には、紗希はその動物に近づいて歩いていた。小さな猿のような動物も、紗希の声に反応してこちらを向いた。二人は慌てて紗希の後に続いた。火をもっている紗希に、小さな猿のような動物は警戒を示し、歯を出して威嚇し始めた。紗希は拓希に火を渡して、男二人にそこで待つように言った。数メートルまで近づくと紗希は止まって、優しく「どうしたの?」と手を上げながらしゃべりかけた。近くまでよって見ると、毛深い動物は、猿というより人類に近く感じられる。紗希は優しくしゃべりながら、一歩ずつ近づいて行った。小さな人に近い動物は、今度は怯えたしぐさをした。紗希は「大丈夫よ。何もしないから」と優しく声を掛けながら近づいた。すると今度は、小さな動物は逃げようとした。しかし、足に傷を負っているのか立ち上がることができない。紗希は手を伸ばして、小さな動物の手に触れることから始めた。小さな動物はビクッとした反応を示したが、逃げようとすることはやめた。今度は反対の手にそっと触れた。同じ反応を示したが、今度は好意的に受け入れているようだ。紗希はけがをしていると思われる足を見てみた。両足に何かが刺さっているようだった。紗希は一つずつ丁寧に刺さったものを抜いて上げた。小さな動物は紗希に心を許したようだ。紗希は小さな動物をゆっくり撫でながら、抱きかかえた。もう抵抗するそぶりも見せず、手を紗希の肩に掛けてきた。紗希は小さな動物を抱きかかえ、二人の男性を振り返った。すると男性二人の後ろに体長2mのスミロドンが近づいてきているのが分かった。男二人も紗希の成り行きに注視していて、周囲の警戒が疎かだったようだ。幸いスミロドンは一頭だけしか視認できない。普通は集団で行動する動物だ。紗希が二人に叫んだ。

「後ろ、危ない、逃げて」

紗希は小さな動物を抱えたまま、先頭に立って、スミロドンから遠ざかるように走り始めた。二人は後ろを確認すると、スミロドンはすぐそこまでに迫っていた。昂希と拓希も紗希を追いかけるように走り始めた。しかし、ケガをしている拓希が遅れ始めた。昂希は拓希に「紗希を見逃がないようについて行け」と言って、自分は少し進路を右にとった。スミロドンは逃げていく者を獲物と認識し、咆哮して迫ってきた。昂希は右に進路を取った後、スミロドンがどちらを追いかけてくるかを見ていた。スミロドンは真っすぐ拓希を追いかけ始めた。昂希は立ち止まり、大きめの石を拾って、スミロドンの右から投げつけた。サーベルタイガーに似た体重400㎏の動物にはビクともしない。続けて三投し、すべてスミロドンにヒットさせた。強靭な肉体をもつスミロドンでもさすがに無視できなかったのか、昂希を右目で捉え、こちらに向かって来た。昂希は紗希と拓希が向かった方向よりやや右に進路を取り、逃げ始めた。スミロドンも昂希目指して向かって来た。昂希は小学校から大学までサッカーで鍛えた足を持っていた。持久力とスピードは、部内でもトップクラスだ。小学校の時には、学校代表として陸上競技大会呼ばれたこともある。

しかしそこは野生の動物、スミロドンは一気に距離を縮めて来た。森はなかなか走りにくい。昂希は背後に迫ったスミロドンの顔を目掛けて、持っていた松明を刺すように攻撃した。さすがに火は嫌いなようで、鋭い爪が空を切った。昂希は攻撃した松明を放置して逃げ始めた。スミロドンは火を迂回して、昂希を追って来た。木の間隔が広くなり、昂希も走りやすくなったので、一気に速度を上げると、200mは追跡してきたが、最後は諦めたようだ。巨体なだけに走るのは苦手なようだ。

 先行していた紗希が、森から飛び出して行った。周囲を確認することなく、開けた場所に飛び出した。幸いにも危険な動物はいなかった。しかし、前方から立派な角を持った鹿が一頭こちらに向かってきている。右側が少し小高い丘のようになっており、大きな木が一本だけ立派に生えている。紗希は右の大きな木を目指して駆け上がろうとした。すると鹿の後ろから毛深い人型の集団が現れた。紗希は「助けて!」とつい日本語で叫んだ。集団は紗希に見向きもせず、鹿を包囲するように展開していく。紗希は丘の上の大きな木を目指して慎重に移動した。

 拓希が松明を持ったまま、森を抜け出してきた。先ほどの怪我の影響かずいぶん時間が掛ったようだ。拓希は一度森の中を確認した。昂希もスミロドンも見当たらなかった。紗希義姉さきねえを視界に捉え、そちらの方に向かおうとした。左前方が騒々しい。鹿を追いかけて数人の毛深い動物が丘を駆け下りている所だった。拓希は急いで紗希の所まで駆け上った。まだ昂希が森から出てくる様子はない。

 丘を駆け下りながら鹿が逃げている。丘の下から、別の毛深い動物が数人出てきた。前方の数人が槍のような先の尖った棒を鹿目掛けて投げている。相当な速度で槍は飛んでいる。プロ野球投手の玉より早いぐらいだ。内二本は鹿に命中し、鹿は動きが遅くなった。そこにまた別の方角から二人が近寄り、左右から縄のようなものを、鹿の立派な角に引っ掛けた。しかも暴れて四方を蹴りまわるが、空をきっていた。縄をかけた二人が鹿の動きをうまく調整している間に、別の一人が首に縄をかけ締め上げた。後方から鹿を追っていた四人の内の一人がやりで鹿の頭部を突き刺し、鹿は動かなくなった。集団の中で一番大きい動物が皆を制して、他を威嚇するかのように獲物を確保して、仲間に鹿の解体を任せた。仲間はその場で石の尖ったものを用いて、手際よく解体を始めた。下から現れた集団と後から縄を使った集団はその様子を周りから見ていた。最初に丘から鹿を追っていた集団が最初にナマ肉を頬張り、血も捨てることなく飲んでいく。最初の集団がお腹いっぱいになって、獲物から離れると、次に下から槍で鹿を攻撃した集団が食事を始めた。

 昂希がやっと森から抜け出してきた。紗希と拓希を右の木近くに視認すると、森の中をしきりに確認した。昂希は大声で二人に声を掛けた。その声に毛深い動物たちが反応し、こちらを意識し始めた。最初に鹿を追っていた集団のボスらしき毛深い動物とその仲間が、紗希達目指して向かって来る。昂希は足早に二人と合流した。紗希の腕の中には、先ほどの毛深かい動物が大人しく抱っこされていた。集団は5mの距離で泊まり、仲間同士で言葉のような、合図のようなものを送りあって、コミュニケーションをとっている。突然、槍のような先の尖ったものをこちらに向けて威嚇してきた。昂希と拓希は棒を持って身構えた。紗希は慌てて、昂希と拓希に武器を置くように指示した。二人は棒と松明を地面に突き刺した。紗希は二人の前に出ると集団に向けてゆっくり喋りかけた。

「私たちは敵ではありません。話の分かる方はいらっしゃいますか?」

集団のボスらしき動物が、子供を指さし、手振りで返せと言っているようなしぐさをした。紗希は抱っこしていた毛深い小さな動物を地面におろして、「お行き」と言いながら、水を掛けるようなしぐさを二回して送り出した。毛深い小さな動物は、二度三度紗希とボスを交互に見て、少し口角を上げた。紗希には微笑んだように見えた。そして、ゆっくり足を引きずりながら、紗希の元を離れ、ボスの横にいた毛深い動物の元まで歩いて行った。ボスの横にいた動物が、子供を抱きかかえた。毛深い動物は攻撃態勢を解除した。そして、ボスらしき動物は三人に向かって、手の甲を二回振り、あっちへ行けと、追い払う仕草をした。鹿の肉は別の集団が食事をしている最中だったが、最初に鹿を追っていた集団は、子供を確保すると、そそくさと引き上げていった。昂希と拓希は顔を見合わせた。おとぎ話では、助けたカメに連れられて、竜宮城に行くはずだが、現実には追い払われるのである。

 紗希は、先ほどの鹿がどうなったのか注視した。二番目の集団もお腹が満たされると、四五人でどこかに消えてしまった。最後に縄を鹿に掛けた集団が食事をしていた。

 紗希はこの毛深い動物が、不思議な集団に思えてならない。最初は、獲物を仲間のいる方に追い込み、至近距離から槍で足を遅らせて、接近戦で仕留めるという集団での頭脳的な狩りだと思っていた。しかし、その後の行動を見ていると、実は別々の集団が、別々に同じ獲物を狙っていたにすぎなかったようなのだ。毛深い動物が、どのような生き物か判断できないが、このような関係では、同種が攻撃されていても、自分たちに危害が加えられない限りは助けたりしないのだろう。その後、自分たちが襲われる時が来るかも知れないのに、今危険が無ければ手を出さない。同種だろうと、どうなろうが関係ない。数が力であるという考え方が無いのだ。動物界では不思議な事ではないが、いずれこの種族は滅びるだろうと、紗希は一人考察していた。

 三人ともに自分の思考の世界に浸っていた。拓希が我に返り、兄貴に聞いてみた。

「これからどうする?」

昂希も我に返り、紗希と拓希を見て、大きく息をついた。今のところ危険な状況は脱したようだ。すると突然お腹から「グー」と大きな音が出てきた。三人は大きな木まで移動して、地面に座り込んだ。昂希が二人に聞いた。

「何か食べるもの入れてきた?」

「確かカントリーマアムを入れてきたはずなんだけど・・・」

拓希はリュックをまさぐりながら応えた。紗希はリュックのポケットから取り出して言った。

「私は、フリスクと飴ちゃんかな。あとグミを一個入れていた」

「僕はキャラメルとガムしか持ってきてないのよ。令和では製造が減ってきているお菓子なんだけどね」

今、その情報いると紗希は思いながら聞き流した。ペットボトルの水も底をつきかけている。昂希が提案した。

「今持っている食べ物を全部三等分にして、それぞれ持つことにしよう。いつどこではぐれるか分からないから、各自が同じ分量持っている方がいいだろう」

「フリスクとグミどうしよう?」

「それは紗希義姉がもっていたらいいよ。」

三人はそれぞれに食べ物を渡した。皆、お腹がすいていたのか、カントリーマアムを口にした。水で流し込みしばしの休息をとった。拓希が兄貴に声を掛けた。

「㋖の文字。もう前の木が分からないけど、この木にも印付ける?」

「いや、この木は遠くからでも分かるだろうし、前の木が分からないなら、もう印をつける必要もないだろう。同じような木があったらいけないので、ここの木の皮を少しだけ剥いでおこう。次回ここに来た時の目印になるだろう。」

二人は無言で頷いた。南西は、なだらかな丘を上がっていく方向だ。昂希が拓希に様子を聞いた。

「調子はどう?」

「全然問題ない。」

昂希は何度か頷いて、二人に声を掛けた。

「行こうか」

三人は立ち上がって、丘を登り始めた。

 

 真田怜那は車を運転しながら、いつもの道を走っていた。以前から一度は行ってみたいと思っていたお洒落なカフェを見つけていたのだが、なかなか芽衣がいるので入りづらかった。今日は母と叔母が同乗しているので、かねてから目をつけていたお店に向かうことにした。左にウインカーを出し、駐車場に車を停めて、後部のハッチバックドアを開けた。ベビーカーと芽衣鞄を下ろし、後部座席でチャイルドシートに寝ている芽衣を、ベビーカーに移した。母と叔母はその様子を静かに見ていた。ぎこちないが何とかこなしている怜那を見守っている。準備が終わると、四人で店内に向かった。昭和の喫茶店は扉が狭く、出入り口付近に、ゴチャゴチャいろいろなものが飾ってあり、さらにレジまで設置されているので、狭く入りづらかった。しかし、最近のお洒落なカフェは入口も広く、必ずしもレジが出入り口に設置されている訳でもないので、入口付近が混雑しない。さらにバリアフリーは令和の常識だ。四人は店内に入り、周りを見渡して、ここのシステムを把握しようとした。席についてから店員が来る方式と違い、どうも先に注文してから、好きな席を選ぶ方式のようだ。優子が娘に聞いた。

「怜那。飲みたいもの決まっているなら一緒に注文しといてあげるけど?」

「私。ここのお店始めてだから、何があるか分からない。一緒に注文するよ」

叔母の陽子が優子と怜那に話しかけた。

「じゃあ。私が席とってくるから、二人で注文して来て。私はお姉ちゃんといっしょでいいから」

と言って、ベビーカーを押しながら、四人掛けできる席を見つけに店内に入って行った。陽子は席を確保すると、椅子一つをテーブルから外し、ベビーカーをテーブルにくっ付けた。それを見ていた店員が、気を利かせて、どけた椅子を別の場所に移してくれた。陽子はお礼を言って、席に着くと、芽衣を見つめた。芽衣が目を開けたので、陽子は人に見せられない、いろいろな顔を芽衣にだけ披露した。そのたびに芽衣がキャキャと笑うので、陽子はさらに変顔を披露した。俯瞰で見ると恥ずかしい事この上ないだろう。優子と怜那が飲み物とケーキを買って戻ってきた。席について怜那が芽衣を見た。芽衣は突然泣き始めた。怜那は芽衣の表情と近況を回想し、ミルクが欲しいのだと気づいた。怜那は芽衣鞄から粉ミルクと水筒それに哺乳瓶を取り出した。水筒に入れてきたお湯と粉ミルクを哺乳瓶に入れ、混ぜ合わせた。怜那は芽衣を抱きかかえ、哺乳瓶に入れたミルクを口に咥えさせた。芽衣は泣き止み、一心不乱に哺乳瓶に吸い付いた。よほどお腹が空いていたのだろう。芽衣のお腹が満腹になるまで、怜那は何もできない。優子は怜那に聞いた。

「今日、悠馬さん、何時ぐらいに帰ってくるの?」

「夜七時ぐらいに帰ってくると思う」

「夜、どこかにご飯食べに行く?」

「お母さんたちが来るって、分かっていたから、もうすき焼きの用意をしているよ。」

「あら、そうなの。ありがとう。」

怜那は芽衣がミルクを飲まなくなったのを確認して、芽衣をベビーカーに乗せた。怜那は哺乳瓶を仕舞いながら、叔母の陽子に聞いてみた。

「陽子姉ちゃん。芽衣を抱っこしてみる?」

「いいの?」

「どうぞ」

陽子は微笑みながら立ち上がり、ベビーカーで横になっている芽衣を、頭をしっかり手で補完して、そっと抱きかかえた。芽衣の顔を見ながら、陽子は

「陽子ねえちゃんでちゅよ。陽子姉ちゃんでちゅよ。」

と赤ちゃん言葉を連呼した。まん丸なお目目をさらに見開いて、陽子を凝視していたが、やがて芽衣は眠たくなってきたのか、目がトロンとしてきた。陽子は

「あら、あら。ねむたくなったでちゅか。」

と赤ちゃん言葉が抜けなくなってしまった。芽衣はゆっくり目を閉じた。陽子はベビーカーに芽衣を寝かせ席に戻った。優子が怜那に聞いた。

「病院の方はどうだったの?」

「健診では異常ないと言われたよ。成長具合も良好だって。」

「良かったじゃない。今度はいつ病院に行くの?」

「二週間後に予約しているよ。」

「この時期はたびたび病院に行くことになるから大変よね。ところで、悠馬さん休みはあるの?」

「ほとんど無いよ。日曜日も当直や呼び出しがあるから、休みでも出ていくことが多いし。2024年に医師も働き方改革で、少しは待遇が変わったようだけど、急患は待ってくれないからね。一緒にいる時間は本当に少ないよ。」

「ちょっと寂しいね。」

「怜那が悠馬さんと同じ病院に勤めることになると、病院で会えるんじゃない?」

「病院はそれぞれの科で動いているから、都合よく会えないよ。私の勤務が三交代になったら、もっとすれ違いになるかも知れない。」

「そうなんだ。お医者さんと結婚しても、若い時はデメリットの方が大きいのかもね」

芽衣がまた泣き始めた。怜那が芽衣を見つめて、抱きかかえると、予想通りおむつがパンパンになっていた。怜那は二人にオムツかえてくると言って、芽衣を抱っこしたまま、車に向かった。

優子は娘の怜那を見ながら、私もバタバタと子育てをしたなと思い返していた。ケーキを頬張りながら陽子に聞いた。

「悠馬さんと会ったのは、結婚式の親戚顔合わせの時だけかな。」

「そうよ。式場の控室で少し会話をしたぐらいよ。好青年っていう印象だけかな。」

「実は悠馬さん。真田家の家系に繋がりがあるらしいのよ。」

「そうなの。ひのもといちのつわもの(日本一の兵)と呼ばれた、真田信繁?」

「信繁って誰?真田幸村じゃないの?」

「幸村は、次男につける名前だったそうよ。」

「だったら幸村じゃない。信繁と呼ばれた人が二番目じゃないの?」

「実は、真田昌幸の長男は信幸なのだが、次は妾との間に昌幸の子がいて、その後に正室との間に産まれた子が信繁なの。さらに、真田は幼名を順番につけることをしなかったのよ。」

「なぜ?」

「さあ?真田家にどういう意図があったか分からないけど、病気などで夭逝しないようにじゃない?戦国時代でも幼い子の死亡率は各段に高かったからね。幼名が変な名前が多いのは、この子は優秀な子ではないので、そちら(死)の世界連れて行かないでください。という意味を込めたと言われているしね。真田では順番を逆にすることで、あちらの世界の魔物に錯覚させていたんじゃない。」

「なるほど。」

「長男信幸が源三郎で、次の妾の子は幼名を源四郎とここは順番通りに名前をつけたのだけど、信繁の時は、源次郎の幼名をつけたのよ。」

「へえ。そうなんだ。兄より偉く感じるね。」

「お姉ちゃんがそう感じるのだから、子を連れ去る妖怪もそう感じたかもね。」

「真田の次男は、人質としていろいろな大名に連れていかれたんじゃなかったっけ?」

「そうよ。真田は遅れて大名になった家で、周りには天下を狙える有力大名が犇めいていたから、大変だったのよ。家を存続させることが。」

「あの時代は家の存続が何よりも優先されたからね。真田ほど多くの主君を仰いだ家もないしね。」

「真田昌幸はどう思っていたのだろう?」

「昌幸からしたら、長男の信幸に真田を託し、後世まで残したかったのだろうね。父昌幸の生涯を賭けたはかりごとに、信繁も気づいたんじゃないかな。信繁の凄いところは、それに気づいて、自分の運命を受け入れたところじゃないかな。真田という名が後世まで残る為にはどうするべきかを考えると、兄の信幸のように徳川に付く方がよい。しかし、徳川嫌いの父昌幸と共に信繁は、真田の誇りにかけて、反徳川の道を進むことにしたの。心の中では兄貴たのんだぞという気持ちでね。徳川の世が定まって来ていたので、信繁が残りの人生を賭けて行うことは、真田の名を全国に知らしめて、最後を飾ることだけ。真田の旗印が六文銭なのは有名よね」

「それぐらいは知っているよ。後、最後は赤備えの隊だったってことぐらいは。」

「なぜ六文銭か知っている」

「それは知らない。」

「当時は三途の川の渡し賃が、六文だって言われていたのよ。敵に後れを取らない。戦に出たら生きて帰れなくても構わない。という気構えを表していたと後世の人は解説しているが、私はそうではなく、もともと生きて帰るつもりがなかったと思うんだ。生きて帰ったら、信幸が浮かばれなくなるからね。徳川の世が定まってきた中で、真田が生き残る最後の賭けが信幸なら、自分が生き残ることがデメリットでしかないことを、信繁は分かっていたのよ。大阪の最後の戦いも、敢えて家康を殺さなかったと見ているの。信繁なら家康と差し違えることはできた。実際手の届く距離まで家康を追い詰めたみたいだし、死ぬ気なら家康と差し違えることは可能だった。しかし、信繁は家康を殺した方が、デメリットが大きいことを理解していたのよ。秀忠は真田を心底憎んでいたから、家康と言う枷が無くなれば、必ず信幸に被害が及ぶことは目に見えていた。実際に兄信幸が家康に疑われた時があったけど、妻小松姫の父、本多忠勝(徳川の重臣)が間に入り、事なきを得た事件があった。この件で家康は本当に頭を悩ませたことがあり、真田信幸に関して、疑わしきを罰することができない下地を作ってしまっていたの。逆に言えば、家康さえいれば、信幸を罰することが難しいのよ。家康が許す。といったことを秀忠が覆すことはまず無理だから、殺すより生かすほうを選択したのよ。真田を愚弄するとひどい目に会うぞ。という強烈な印象を家康に植え付けたことで、信繁の仕事は終わった。大阪の戦で、逃げようと思えば逃げられたが、敢えて逃げずに首を差し出した辺りは、自分と父昌幸の長年の謀略の為だった。と思っているのよ。もし、大阪の戦の時に、昌幸が存命なら、秀忠と家康をどちらも葬り去る戦略を考えたかも知れないけどね。二人同時に首を取れば、徳川の世が別の世になることもあり得たけど、そこは家康の知略の勝ちで、大阪戦は絶対に秀忠と同じ行動をしなかった。敗走する時も、敢えて秀忠から遠ざかるように逃げていくのだから、さすがとしか言いようがないよ。」

「信繁って、真田ってすごいのね。ところで、肝心の源四郎はどこに行ったの?」

「幼い時に連れ去られたのよ。子供が出来なかった乳母めのとにね。どこを探しても見つからなかったそうよ。真田の家来から、草の物(忍者)までつかって捜索してもね。あの優秀な真田の忍者たちが見つけられないとなると、相当なものよ。さらに、正室の子じゃなかったからか、失態をさらしたくなかったからか、別に何か特別な理由があったのか、あんまりそこは覚えていないのだけど、源四郎がいなくなったことは、真田家だけの極秘事項になったのよ」

「源四郎は幼くして、すでにいなかったのだね。なら幸村と言う名前は、どこから来たの?」

「父昌幸は、源四郎が元服を迎えた時にこの名をつけようと、誰かに告げていたようなのよ。それを、信繁が知って使おうと思ったのかもね。一説には架空の人物とされているけど、一説には最後のいくさに出かける前に、自分の名前を幸村と改名したとされているのよ。」

「なんでまた、幸村としたのだろう?」

「一つには、真田に幸村と名乗る人物がいる。これは誰なのか?と疑心暗鬼にさせ、相手を混乱させる為の策略よ。もう一つは、信繁からの解放というのかな。常に囚われの身で生活してきた信繁にとって、最後に自分の意思で行動することの現れなのじゃないのかな。名を変え自分を解放し、幼くして居なくなった義兄をいだいて、最後の戦地に赴いたのだろうと思っているのよ。」

「良く知っているね。」

「隆ちゃんの受け売りよ。」

「あら、そう。でも、今でも真田の姓が残っているということは、昌幸と信繁の勝ちなのかもしれないね。うちの怜那が真田一族と思うと、特別な感じがするね。」

「まあ、確かにそうだけど、お姉ちゃんも、東山一族じゃない。」

「そう言われれば、全員どこかの一族だものね。」

怜那が芽衣のオムツを変えて戻ってきた。優子が怜那に言った。

「そろそろ出る?」

「私まだ、ケーキ残っているから、ちょっと待ってよ」

「ごめん。ごめん。」

怜那はケーキをあまり味わうことなく食べ終え、店を後にした。近くのスーパーで買い物をして、マンションに帰ってきた。

 怜那と陽子は、マンションに着くと、食事の支度や洗濯物の取り込み、部屋の掃除と今夜の布団の準備等でバタバタと動き回った。優子はもっぱら芽衣に付きっきりで、寝ている芽衣をソファーで見ていた。いや、見ながら寝ていた。スヤスヤ。

「ただいま」

悠馬が扉を開けて、中に声を掛けた。

「お帰りなさい」

怜那は返事をして、玄関まで悠馬を迎えに行った。陽子は怜那について玄関に行き、悠馬に挨拶をした。悠馬がリビングに入ってくると、横になっている優子が起き上がって、悠馬に挨拶をした。

「お帰り。お邪魔しています。」

「こんばんは。お義母さん。遠くまで良くいらっしゃいました。ゆっくりして行ってくださいね。」

悠馬は丁寧に挨拶をして、寝室に向かった。怜那は悠馬について寝室に行き、お風呂セットを用意しながら悠馬に聞いた。

「明日は何時に出るの?」

「6時半には出ようと思っている」

「わかったわ。6時に起こせばいい?」

「そうだね。そのぐらいで頼むよ」

悠馬はお風呂セットを受け取り、風呂場に向かった。怜那は準備して置いたすき焼きの野菜を鍋に入れて、自家製タレを掛けて火をつけた。旦那様がお風呂上りにすぐご飯が食べられるように、いつもしている工夫だ。今日は母と叔母が来たので、普段飲まないような高級なシャンパンを用意した。すき焼きにはミスマッチだろうが、庶民の食卓では関係ない。ワイングラスも人数分用意した。すべての段取りが終わって、芽衣の様子を見に行った。優子がしっかり見張っていてくれたので、熟睡している。というか、見ていなくても熟睡するのだがと思いつつ、いつも通りの母を見ると、何故か落ち着く自分がいるのも不思議だ。悠馬が風呂場から出てきた。今どきの男性あるあるで、スキンケアまでがお風呂の工程だ。昭和の人間には理解できない種族だろう。悠馬がリビングに入って来て、椅子に座ると、怜那がみんなにシャンパンを注いで回った。優子が妹の陽子に乾杯の音頭を求めた。陽子は張り切って

「出会いにKP」

と死語を使った。皆、苦笑いしながら、

「乾杯」

と言って、お酒を一口飲んだ。しばらく四人はすき焼きを頬張り、お酒も進むと、口も軽くなる。いくらか打ち解けたところで、陽子が質問した。

「お姉ちゃんから聞いたけど、悠馬さんは真田家の末裔なの?」

「自覚はないけどそのようです。親から言われたのは、情報収集して分析し行動せよと死ぬまで生きよという言葉でした。当たり前のことなのですが、なぜかすごい言葉に重みがあって、その時は少し真田を意識しました。」

「そうなのですね。さすが、ゴホゴホ・・・。」

陽子はむせたのか、言葉の最後が聞き取れなかった。優子が陽子の背中をさすりながら、悠馬に聞いた。

「こっちに来たついでに、ご実家にも挨拶に行きたいのだけど、時間採れるかな?」

悠馬はスマホを取り出し、自分の予定表を確認した。

「今週は休みを取れそうなので、うちの両親にも連絡しておきます。」

「ありがとう。めったに休みが取れないのに、貴重な休みを潰して悪いわね。」

「実は、僕の方も実家に最近帰る時間が無かったので、孫の芽衣の顔を見せに行かないといけないと思っていたのですよ。実家からも遠回しに、孫の顔を見たいと催促がありましたから。」

「そうなの?」

怜那は思わず口を挟んだ。

「確かに結婚前に一度行ったきりで、悠ちゃんの実家はまだ慣れていないから、お母さん達が居てくれる方が心強いかも」

怜那は素直に胸の内を語った。微妙な空気が流れる前に、悠馬が口を開いた。

「今から実家にラインで連絡しておきますので、明日には日程調整できると思います。そろそろ明日もあるので失礼します。ごゆっくりして行ってくださいね。御馳走様でした。」

悠馬はゆっくりと席を立ち、洗面所に姿を消した。


なだらかな丘は意外と距離があり、なかなか先が見通せる場所までたどり着かない。周りの見通しがよいので、三列縦隊で接近戦を想定していた森よりは、比較的余裕を持って歩いている。しかし、周りの気配を感じることに、現代の街より数倍気をつかう。草のさざめきや獣の鳴き声、鳥のさえずりりにいちいち耳をそばだて、気配を伺う。丘の距離があると感じるのは、その所為せいかも知れない。昂希こうきは振り返り、二人を見た。こちらも神経過敏なぐらい、静かに付いてきている。喋ることが危険だと肌で感じているのかもしれない。丘の頂上だと思われる場所にたどり着き、吃驚びっくりする光景を眼下に見た。横の拓希ひろき紗希さきも、その光景に目を奪われている。昂希は今来た道を振り返り、こちらにも驚いた。木々が高くて分からなかったが、丘だと思っていた場所は、確かにやや登りなのだが、全体的な地形はずっと下りなのだ。スキーのジャンプをテレビで見て、最後の飛び出しが上向きになっていると錯覚するのと同じだ。まだ、ゴルフのパットで上りと下りを誤認する感覚と似ている。我々はずっと下っていたのだ。隣にいた紗希がつい言葉を発した。

「すごい。なにこれ。」

昂希は前を向き、眼下の建造物を見直した。現代でも見かけない規模の巨大な建物だ。中心部が小高く円形に作られていて、宮殿らしき建物が見える。その周囲に堀があり、水が囲んでいる。円形のお城のような作りだ。その水の周りをさらに陸地があり、堀があり、陸地があり、海に繋がっている。日本人の感覚では、三重の堀と表現するだろう。堀は大きな船が充分に行きかうことが出来るぐらい巨大だ。陸地同士は、大きな橋の様な物で、何か所か繋がっている。さらに各々の陸地部分には、船が係留できるようになっており、堀の所々に大きな船が停泊している。拓希が二人に聞いた。

「行ってみる?」

「行くしかないよな。まだ距離はあるけど、このまま森で寝るには危険が多すぎるし、選択肢がないのだから仕方がない。」

「分かってもらえる人がいればいいけどね。」

紗希は不安を口にした。昂希は二人に言った。

「日が傾きかけて来た。夜になれば今の何倍も危険になる。残り時間が少なくなって来ているし、あの建物に一縷の望みを繋ぐしかないよ。」

二人は無言で頷いた。昂希が先頭で丘を下り始めた。紗希が次に続き、拓希が最後に歩きだした。巨大な動物をこの辺りでは何故か目撃しない。橋が架かっている所を目指して、三人は足早に進んだ。上から見ると近くに感じた入口も、なかなかたどり着かない。だいぶ日も傾いてきている。周囲を警戒していたが、森の中と違い獣の気配は感じられない。時折、強烈な匂いが鼻を刺す程度だ。ついに三人は橋の手前までたどり着いた。橋の手前に守衛のような人は見かけない。橋の先の建物の入り口も、門の様な物はなく、大きく口を開けたままの状態だ。橋自体も独特で、真っすぐに伸びている。なぜこんなものがあるのか分からないが、石のコンクリートのような造りになっている。三人は無言で顔を見合わせて、ゆっくり頷いた。まずは昂希が、木の棒で橋を突きながら、慎重に進んだ。数メートル進んだ所で、振り返り、昂希が頭の上に両手で大きく丸の文字を作った。二人は、恐る恐る、橋に足をのせた。橋はビクともしないぐらい頑丈だ。二人を待っている間に昂希は橋をゆっくり観察してみた。二人が到着して拓希が言った。

「お待たせ。」

昂希は拓希の言葉が聞こえないぐらい、橋に見入っていた。拓希がもう一度聞いてみた。

「兄貴。兄貴。どうしたの?」

昂希が応えた。

「この橋は古代のコンクリートで作られているようだ。」

「何それ?」

紗希と拓希は同時に言葉を発した。昂希は目を輝かせながら答えた。

「現代のコンクリートは、ポルトランドセメントという原料で出来ていて、水和反応という化学反応で、強固に結合させている。しかしこのコンクリートはアルカリ性の性質を持っているので、二酸化炭素の侵入で中性化するし、塩害で強度を失うので、良く持って100年ぐらいが限界なのだけど、古代のコンクリートは2000年経っても崩れないと一時期、話題になったのよ。」

「僕たちはその話題、全然知らないけど・・・。」

「そりゃそうでしょ。建築関係に全然携わっていなければ、知らなくても当然かもしれないけどね。ローマのパンテオン神殿の柱を調べた科学者の発表で、ローマン・コンクリートと呼ばれる古代のコンクリートの作り方が明らかになった。それは、火山灰と石灰せっかいを混ぜてモルタルをまず作る。そのモルタルと火山性凝灰岩を木製の型に詰める。ここで海水を使うのがポイントで、モルタルと火山岩が海水に触れると、熱の化学反応が引き起こされ、構造物全体を一つに固める役割を果たす。コンクリートの中にアルミナ質のトバモライト結晶(層状鉱物)が含まれており、これが長い時間をかけてコンクリートの強度を高め、現在でもコンクリートを強くしている。海の中に入れていると、海水により、コンクリート全体でトバモライト結晶が成長するという分析結果もでている。だから、ここのように、海の支柱にする方がいいのよ。また、火山灰を使用することにより、経年劣化でひび割れたコンクリートを自己修復できるのも、このコンクリートが優れている所なのよ。ひび割れたところから雨水などの水分がコンクリート内に侵入すると、石灰を溶かしカルシウムが溶け出してくる。このカルシウムと二酸化炭素が結合して炭酸カルシウムを作り出し、コンクリートのひび割れを修復する。火山灰の中にあるシリカと水が反応してゲルを作り、コンクリート内の小さな穴を埋めていくので、製造時よりコンクリートの強度が増すことになるのだ。現代のコンクリートの天敵が、古代のコンクリートには必要な要素ってところもすごいだろ。」

昂希が説明すると、拓希が話を膨らませた。

「人間で言うと、骨折した箇所の骨が、逆に強く太くなるのと同じってことかな。」

「同じようなものだね。さらにこのコンクリートは、現代のコンクリートより、短時間で出来るというのも特徴だ。最近では、古代の技術を使ったり、さらに応用したりして、コンクリートの研究が進化していているのだ。」

「そろそろ先に進もうよ。」

拓希が昂希の話を遮って提案した。

「そうだね。」

昂希は棒を掴むと先に進み始めた。この橋は横も大きく、現代の四車線道路ぐらいの幅がある。そしてこの橋には、所々に人工的に穴があけられている。直線的に走れば、海に落ちてしまうように作られている。ただ森で出会った巨大な生物の中には、この穴では落下しないような生き物もチラホラ見かけた。三人は穴を避けるように歩き、橋を渡って行った。この建物は周囲を大きな高い壁で覆っている。壁に近づき昂希が材質を調べてみた。どうも銅で作られているみたいだ。これはすごいと思った。木の加工は比較的簡単ですぐに使用することが可能だが、銅は原料を集めるところから始めなければならない。玉石混交という四字熟語がある。価値あるものとつまらないものが入り混じっていることのたとえで表現されている。しかし、この四字熟語の意味よりも、言葉自体が実に分かりやすく無知を知らしてくれる。我々素人が普段歩いている地面を見てもそれが、価値ある物なのかそうでないのか、実生活の中で分からない。今、踏んでいる土地がどのようなもので作られているのか理解している人は、土に見識のある人物だけだ。つまり我々は、自分の家の庭に宝石が眠っていて分からないのだ。新潟県の佐渡島には、未だに大量の金が埋まっているとされている。しかし素人が見ても、どれが金の鉱脈なのか分からない。また、ナウル共和国と言う国は、国のほとんどが鳥の糞で出来ている。これは非常に貴重なりん鉱石で、世界中に輸出している。瀬戸内海の海が枯れてきているのは、栄養塩の不足とされている。特にリンの不足が顕著で、瀬戸内海にいた魚介類のほとんどが、取れなくなってきた。蝦蛄えび・いいだこ・いかなご・ままかりなど豊富な瀬戸内の幸が壊滅状態だ。温暖化によるところも大きいが、栄養の不足も顕著だ。このような資源を我々は踏んでいても気づかない。知らないからだ。ということは、銅という素材をここの人々は知っていることになる。すごい技術と知識としか思えない。

 橋を渡り終え、三人は恐る恐る建物の中を見た。ここにも守衛のような人影は見当たらない。中は公園か牧草地と思われる場所で、一面が緑に覆われていた。馬が自由に歩いている。右手の先に建物が見える。三人は近づいてみることにした。いつも通り三列縦隊で警戒は怠らない。建物まで実に距離がある。建物と言っても木の策が四角に組んであるだけのようだ。一時的に馬を繋いでおく場所のようだ。馬のメンテナンスに使用していたのだろうか?当然、人の気配はないが、確実に知的な生物が存在する事だけは明らかだ。どこまでも草原が広がっている。右の奥には、別の動物が集団で草をんでいる。特定の動物が集団でこの中にいるのだ。牧畜でもしているのだろうか?昂希は後ろを振り返った。こちらも広大な緑の草原だが、その先に木が生えており、林になっていた。三人は辺りをキョロキョロ見渡すばかりで途方に暮れていた。紗希が昂希に聞いた。

「何もなさそうなんだけど、どうする?」

「そうだね。山から見た時に、水が内側に流れていたようだったから、あそこの門から真っすぐに歩いて、水のあると事まで向かって見ようか。何か見えるかもしれない。」

三人は頷き、警戒しながら、進んで行った。堀までたどり着くと、三人は驚いた。綺麗に湾曲しており、美しい孤を描いている。なかなかこれほど巨大な建造物で綺麗な孤を描くことは難しい。水は手の届く範囲にあった。拓希はそっと水を手のひらにとり、舌の先を少しだけつけてみた。すこし辛い。海水ほどではないが、真水とは言えない水だ。川の先を見ると、少し高くなったところに陸地が見える。左右を見渡してみた。右手には先ほど見た集団の生き物と、ただただ広い緑が広がっているだけだ。左手を見てみた。こちらには、林の先に建築物が密集して建っている。そこそこ大きな村があるようだ。手前の林で入口からは全く気付かなかったが、ここまでくると土地が湾曲しているのでわかったのだ。建物が密集している場所を目指して進むことにした。広々とした草原を抜けると、林になっている。ここからまた三人の感覚が研ぎ澄まされる。しかし、獣の気配は感じられない。いつもの通り三列縦隊で林を進んで行った。鳥の囀りが聞こえるだけだ。警戒して歩いたが、危険なことはなかった。すんなりと林を抜け、村の入り口付近に到着した。松明を持って歩いたため、すぐに二足歩行の毛深い動物が数人近づいてきた。第一村人は、物珍しそうに我々三人を見ている。火にそれほど警戒心は無さそうだった。そこまで三人に対して好戦的にも見えない。村人たちはお互いに自分たちの言葉で会話をしていた。言葉が全然分からない。昂希はどうしようか思案していた。すると、拓希が大声で、日本語でしゃべった。

「我々は日本からやってきました。食べ物と水を分けて欲しいのですが、誰か言葉が分かる人はいませんか?」

村の人々は顔を見合わせて、口々に会話をしている。数人が突然どこかに走って行った。拓希は物怖じせずに今度は身振り手振りを添えて訴えた。

ハンバーガーを両手で持って食べる時の形を作り、口の前に両手を持ってきて、食べる時の口の仕草をして見せた。次にコップを持つ時の手の形を作り、口で物を飲む仕草をして見せた。村の人が何人か仕草で分かったようだ。また数人が突然どこかに走って行った。拓希が必死に何度も同じ仕草をして、分かってもらうよう努力した。しばらくすると、年を重ねた男性を引き連れて、先ほど出ていった人々が返ってきた。大まかな事情は理解しているようだ。年配の男性は、三人を警戒しながら、じっくりと観察している。年配の男性の横にいた人物に、何やら話しかけた。横の人物は、我々三人の松明を指さし、地面に置けと云っているようなしぐさをした。紗希はそのしぐさを敏感にキャッチして、松明を地面に刺した。次に棒と鞄を前に置けと云う仕草をしたので、三人とも指示にしたがって、自分たちの前に棒と鞄を置いた。スマホだけは、肌身離さず持っていたので、不審な動きをすることなく、自分たちのポケットの中にある。少し下がれという指示をしてきた。三人は荷物を置いて、数歩後方に移動した。紗希が昂希に小声で喋った。

「盗られるのかな?」

「中身を確認するだけだろう。盗られたところで、中にはあまり貴重なものは入っていない。」

三人は様子を伺っている。昂希の予想通り、中身を確認しただけだった。年配の男性は横にいた人物に再度話しかけた。その人物が窓口のようだ。窓口の男性は、手で荷物を持って私に付いてこいと言うようなしぐさをして見せた。三人は顔を見合わせて、お互い頷き、荷物を手に持った。年配の男性は、後を彼に任せたのか、歩き去って行った。窓口の男性は、隣にいた若者に二言三言話をした。話を聞いた男性はすぐにまた走ってどこかに行ってしまった。窓口の男性が先頭に立って歩いていく。周りを数人の見物人が常に取り囲む状態だ。村の入り口付近に、大中小の建物が並んでいる。一つは林の方から見ると、壁にしか見えなかったが、村から見ると大ホールのような集会場になっていた。後は中サイズの寄合所と小サイズの休憩所といった造りの建物になっていた。その中の一番小さい休憩所に案内してくれた。男性は建物に着くとここに入れと手の動きで指示してきた。

「ありがとう」

と三人は日本語で言って、拝む仕草をし、頭を下げた。三人は休憩所に入って、腰を下ろした。中にはテーブルと思われる幅の広い大きな石が中央に置かれており、周りには、腰かけるのにちょうどよいサイズの長いすが奥に備え付けてあり、左右に木で作られた椅子が数個おいてあった。三方が石の壁で出来ており、顔が通るぐらいの穴がそれぞれ一面に一つずつ開けられていた。正面に扉はなく、完全に開けっ放しの休憩所だ。ただ屋根だけは据え付けてあった。三人がしばらく中を観察していると、先ほど指示を受けた若者が、数人の女性を引き連れて帰ってきた。三人の女性が、一膳ずつ食べ物を運んできてくれたようだ。女性の手には、小麦を練って丸めたような食べ物と陶器の器に入った水とお汁のようなものを木の板に乗せて持ってきてくれた。三人はまた同じように拝む仕草をして、頭を下げて

「ありがとう」

と言った。もう一人の女性が、布のようなものを三つ持ってきてくれ、椅子の上に置いて出て行った。

「ありがとう」

三人は常に同じ仕草と、同じ言葉を発し続けた。窓口係の男性は、指示したものが一通りそろうと、身振り手振りで食べろと云って来た。三人は椅子に腰かけ、同じように手を合わせて

「いただきます」

と発声してから、頭をさげ、器を手に持って、水を一口啜った。この様子を見て、窓口係の男性は近くの男性二人に声を掛けてから、居なくなった。二人の男性も、休憩所から少し離れたところの岩や石に腰かけ、見張っているようで、ゆっくりしているような場所からこちらを伺っていた。三人は目の前の食べ物をゆっくり観察しながら、少しずつ口をつけていった。小麦を団子にしたような食べ物には、少し塩が振ってあるようで、塩味を感じた。お汁のようなものには、何の魚か野菜かわからないが、葉物と魚介が入っているようだった。三人は充分ではないが、いくらか食事をしたおかげで、生気が戻ってきた。三人はすべての器を空にすると、拓希が立ち上がり、見張りと思われる男性に声を掛けた。

「ごちそうさまでした。これどうしましょうか?」

身振りを交えて説明した。二人の内一人が立ち上がり、どこかに行ってしまった。拓希は休憩所に入って腰を下ろした。しばらくすると、年配の男性と窓口の男性と女性数人が現れた。女性が器を片付けて行った。年配の男性は三人に声を掛けてきた。当然何を話しているか分からない。窓口の男性が年配の男性の言ったことを、なんとか身振り手振りで伝えようとしてきた。言葉を喋りながら、口の横で右手を閉じたり開いたりして見せた。次に、人差し指を一本立てて、真ん中の小高い丘を指さし、親指と人差し指で丸の文字を作った。昂希は、「しゃべる。丘の上。丸。」と読み取って、あそこに行けば分かる人がいるのだろうと思った。窓口の男性は続けて、空を指さし、腕を交差させた。昂希は「空=時間。バツ=遅い。」と読み取った。昂希は、右腕と左腕を使って、頭の上で大きく丸を作った。次に休憩室を指さし、右手と左手を合わせて顔の横に持っていき、首を倒して目を閉じた。ここで寝てもいいかという仕草をした。窓口係は年配の男性に何やら声を掛け、同じように右腕と左腕を使って、頭の上で大きな丸を作った。三人は頷き、また手のひらを合わせてお辞儀をして

「ありがとう」

と言った。年配の男性と窓口の男性は、頷き、その場を離れた。三人は暮れなずむ村を見つめて、哀愁を漂わせた。とても長い一日だった。緊張の糸が切れたのか、ドッと疲れが押し寄せてきた。紗希が拓希に聞いた。

「足の具合はどう?」

「別に痛みも無いし、寒気や動悸もしないよ」

「良かった。まだすこし早いけど、眠くなってきたから、みんなで寝ましょうか?」

昂希が二人に言った。

「二人が先に寝てくれたらいいよ。俺はもう少し起きておくから。」

「寝ないの?」

「いや、三時間くらいしたら拓希を起こして、交代しようと思う。さすがに危ない動物はいないだろうけど、何が来るか分からないから、警戒は怠れないよ。その次に紗希が三時間頼むよ。みんな何かあればすぐに全員を起こしてくれよ。」

「わかったわ。」

紗希はリュックからタオルを取り出して、長いすに横たわり、頭の下にタオルを敷いた。先ほど貸してくれた布をお腹にかけて、目をつぶった。疲れていたせいか、すぐに寝息を立て始めた。拓希も同様に椅子を並べて横になり、リュックを枕にして目をつぶった。こちらもすぐにいびきをかき始めた。昂希はスマホの電源を入れて時間を確認した。午後8時を過ぎていた。夏なので比較的遅くまで日があったようだ。今となっては夏でよかったと感じる。スマホの電源をオフにして、外の様子を伺った。辺りは暗いが、村人の家には明かりがチラホラ見ることができる。光が揺れているので、蝋燭ろうそくのような自然の炎で照らしていることが分かる。寄合所の横の小さな穴から、中心の小高い丘の神殿を見ると、建物が光り輝いている。光量や光方から明らかに人工の光をつかっているように感じられる。あの中心部は高度な文明があるのだろうか?昂希は人の気配を感じ、入口の方を見た。先ほどの二人が交代したようだ。我々の警備なのか、我々を警備してくれているのか微妙な立ち位置で、二人が建物の周辺に陣取っている。昂希も目を閉じ、耳で周辺を警戒した。何度も睡魔に襲われるが、何とか三時間何事もなく過ぎたので、拓希を起こして拓希が寝ていた椅子で横になった。紗希に起こされるまで、全く気付かなかった。


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