騎士リランの約束
「ラーシャ様、いけません!」
老従者のビウスが背後で叫んでいる。
「そちらには、もう瘴気が迫っております」
「あっちに北の集落の集合所があるのよ」
振り返る暇さえ惜しくて、道を駆け出しながらラーシャは叫び返す。
「あそこに住民が集まっていたら、瘴気に巻かれてしまう」
「ならば私が行きます」
ビウスが喘ぎながら叫ぶ。
「ラーシャ様は、どうか早く避難所へ」
「あなたの足じゃ無理よ」
普段坂道を登るだけで息切れしている老従者の体力を気遣って、ラーシャは言った。
「私が行く。あなたこそ先に避難所へ向かっていて」
「そのようなことができるわけはございませぬ。お嬢様!」
ビウスの叫びは徐々に後方に小さくなっていく。
ごめんなさい、ビウス。
ラーシャは走りながら思った。
だって、私がやるしかないじゃない。
街の兵士たちは中心部の住民たちの避難と、山から下りてくるであろう魔人への警戒で手一杯だ。
中心部から離れた北の集落のことまではとても手が回らない。
それでも、大事な領民の命を救うためには誰かが行かなければならない。
一番手が空いているのは、私だ。
領主の娘だとかそんなことは関係ない。
ラーシャは走った。
山の上から、黒い霧が徐々に広がってきているのが木々の間からも垣間見えた。
急がないと。
息を切らしながら、道を駆け抜ける。
北の集落の目印の大木を回り込んだところで、ぱっと視界が開けた。
やはりラーシャの危惧した通り、集落の小さな集会所で住民たちが不安そうに山を見上げていた。
「みんな」
ラーシャは駆け寄りながら叫んだ。
「危険よ。ここを一刻も早く出て」
驚いたように少女を振り返った住民たちの一人が、彼女の名を口にする。
「ラーシャ様」
それが領主ハルベルトの娘の名であることに気付いた住民たちに動揺が広がる。
「姫様が、どうしてこんなところに」
「まさか、我々を呼びに」
「いや、そんなまさか。姫様が直々になんて」
「急いで」
ラーシャはもう一度叫んだ。
「他の集落の住民たちはみんな避難しているわ。魔人が下りてくる前に、あなたたちも早く」
魔人。
その言葉に、住民たちの顔に恐怖が浮かんだ。
「魔人が下りてくるんですかい」
「じゃあやっぱりあの黒い霧は」
「怖いよ」
泣き出す子供までいる。
「そうよ、急いで」
ラーシャは言った。
「魔人に食われたくはないでしょう」
誰かが悲鳴を上げ、それが引き金になった。住民たちは取るものもとりあえず集落の外へと走り出した。
「そんな物を持っていく暇はないわ」
重い家財道具を持ち出そうとする者をラーシャは厳しい声で叱責する。
「逃げきれなくなるわ。とにかく、身一つで逃げなさい」
そうして住民たちをほとんど避難させた後で、最後に残ったひと家族にラーシャは目を向けた。
「さあ、あなたたちも早く」
けれど、その母親は逡巡していた。
「私たちも後から参ります」
そう言って、ラーシャに深々とお辞儀する。
「どうか、姫様もお早く避難を」
「何を言っているの」
ラーシャは首を振った。
「いいから早く逃げなさい」
「娘が」
母親は声に切実な感情を滲ませた。
「娘がまだ山から戻ってこないのです」
「なんですって」
ラーシャは目を見張る。
男手のいない家族だった。
母親と、彼女の抱きかかえる乳飲み子。それから母親の老母。
「薪を拾いに行ったのです。もう帰ってくる頃なのですが」
母親は憔悴した目をしていた。
本当は、母親は自分で山に探しにいきたかったことだろう。だが、乳飲み子と老いた母を置いてはいけなかったのだ。
「分かったわ」
ラーシャは即断した。
「私が行きます。あなたたちは先に避難して」
「と、とんでもない」
母親は狂ったように首を振る。
「ラーシャ様こそ、早くお逃げになってください。ここまで来てくださっただけでも恐れ多いことですのに」
「山へ行く道はあそこね」
ラーシャは母の言葉に取り合わず、山への道を指差す。
「その子の名前は?」
「姫様、どうか避難を」
「言いなさい、時間がないの」
十五にも満たない年の少女は、有無を言わさぬ威厳をまとって母親を見た。
「その子の名前は?」
「リア! リア!」
ラーシャの叫び声は、山道の木々の向こうに虚しく消えていく。
それでもラーシャは山道を歩きながら、声を嗄らして叫び続けた。
「リア、どこにいるの!」
もうずいぶんと歩き回った。
瘴気がすぐそこまで迫っていた。
これ以上は限界かもしれない。
口惜しいが、このままでは自分まで瘴気に巻かれてしまう。
「リア!」
諦めきれず、もう一度叫ぶ。
その時、微かな人声がラーシャの耳に届いた。
「リア?」
呼びかけると、確かに小さな声が返ってきた。
こっちだ。
駈け寄って茂みの奥の窪みを覗き込むと、そこに小さな女の子がうずくまっていた。
「リアね?」
ラーシャがそう声を掛けると、女の子は顔を上げて頷く。
「よかった。さあ、帰りましょう」
「突然山が暗くなったから、びっくりして薪を全部谷に落としちゃったの」
リアは涙声で言った。
「手ぶらで帰ったら、みんなが困るの」
こんなときに、薪の心配をして帰れなかったなんて。
子供の考えることに驚きながら、ラーシャは優しくその髪を撫でた。
「大丈夫よ、薪なら私が用意してあげる」
「お姉さん、だあれ?」
「それは後で教えてあげるから。とにかく帰りましょう。あの黒いのが来たら大変よ」
ラーシャに手を引かれ、リアは立ち上がった。
黒い霧がとにかく恐ろしいものだということは分かるのだろう。手を引かれるままに走り出す。
急がないと。
だが、さすがに時間をかけすぎてしまっていた。
走り続けるラーシャたちの足元に、じっとりと黒い霧がまとわりつき始めていた。
「お姉さん、足元に黒いのが」
リアが泣きそうな声を上げる。
「怖いよ」
「大丈夫よ」
ラーシャは答える。
「だから、走って」
そう言うしかなかった。
とにかく足を動かして、この霧から逃げ切るしかないのだ。
「お姉さん」
リアがまた声を上げた。
「どうしたの」
「お姉さん」
「なあに、リア」
「お姉さん」
「だからなあに、リア」
「お姉さん」
嫌な違和感を覚えて、ラーシャは隣を走るリアを見た。
リアは何も喋っていなかった。
恐怖で声も出せないようだった。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、必死に首を振っている。
違う。さっきからあなたを呼んでるのは私じゃない。
そう言っているかのようだった。
「お姉さん」
少女の声を発しているのは、二人の隣を並走する男だった。
吊り気味の目と口が、どちらも耳元まで裂けていた。
ああ、こいつが。
ラーシャの心を絶望が支配する。
“爪痕”。
まるで巨大な獣にでも切り裂かれたかのような目と口。その奇怪な容貌からそう名付けられた魔人が、今二人の横を走っていた。
「お姉さん」
リアの声でそう言うと、魔人はにやりと笑った。
口がそのまま顎ごと落ちてしまいそうな、壮絶な笑顔だった。
ラーシャは上げかけた悲鳴を呑み込む。
とにかく、どうにかして逃げないと。
だが、どうにかして、というその部分については具体的なことは何も思い浮かばなかった。
ただ、必死に足を動かす。
山道を歩くことで鍛えられているのだろう、リアもラーシャに遅れずに走っていた。
けれど、“爪痕”は上半身をまるで動かさず、足だけを別の生き物のように動かして、息一つ乱さずについてくる。
うひゃひゃ、という少女の奇怪な笑い声。リア本人の声のわけはないのだが、全く同じ声であり得ない笑い方をされることで、聞かされるラーシャも頭がどうにかなってしまいそうになる。
ああ、このままじゃ。
ラーシャがそう思ったとき、不意に魔人が二人の目の前に立ちはだかった。
とっさに止まれず、二人はそのまま魔人の身体にぶつかる。
魔人はその衝撃を吸収すると、そのままの強さで弾き返した。まるで鞠か何かのように、二人は山道に投げ出された。
二人を見下ろし、魔人が再びにいっと笑う。
その凄まじい笑顔を見て、リアの身体から力が抜けた。
「リア」
呼びかけるが反応がない。
恐怖のあまり、失神したようだった。
ゆっくりと近付いてくる魔人に、ラーシャはとっさに掴んだ石を投げつけた。
魔人はよけようともしなかった。
耳まで裂けた口でばくりと石を受け止めると、そのまま音を立てて噛み砕く。
「お姉さん」
リアの声で、魔人はもう一度言った。
ラーシャも気を失いそうになりながら、それでも必死に耐えた。
私は領主ハルベルトの娘。
魔人相手に、こんなところで無様を晒すわけにはいかない。
「お姉さん」
魔人がその腕を振り上げる。
ラーシャはきつく目を閉じた。
「おう。やっと見つけた」
突然、低く野太い声がした。
それとともに魔人の背後から聞こえてくる、ずしずしという遠慮のない足音。
「やれやれ、とんだじゃじゃ馬姫様だな。こんなところまで探しに来る身にもなれ」
誰?
ラーシャは目を開いた。
魔人の背中が、目に入る。
突然の闖入者に、魔人もそちらに向き直っていたのだ。
「お姉さん」
魔人がまたリアの声色で言うと、闖入者はそのずんぐりとした身体をひと揺らしして笑った。
「誰がお姉さんだ。どう見てもお兄さんであろう」
そう言いながら、ずかずかと近付いてくる。
ああ、危ない。
ラーシャにもそれが分かった。
魔人が、何の前触れもなく男に飛びかかった。極限まで開かれた口から、短剣のような牙が何本も覗く。
「ふん」
一刀だった。
男がそのずんぐりとした身体に似合いの幅広の剣を一振りすると、ただそれだけで魔人の身体は両断された。
「お姉さ……」
上半身だけでなおも飛びかかった“爪痕”の顔を、男の剣が縦に真っ二つに叩き割る。
「つまらん魔人よ」
剣を一振りして鞘に収めると、男は足で魔人の残骸を蹴り飛ばし、ラーシャに向き直った。
「やっと見つけたぞ、お姫様」
男は不機嫌そうな顔を隠しもせずに言い放つ。
「従者も真っ青な顔で心配していたぞ。一人で瘴気の中に飛び込むとは、馬鹿な真似を。無茶をして死にかけても良い立場ではあるまい」
そう言って、手を差し出す。
ラーシャはその手を払いのけた。
「無礼でしょう」
ラーシャは男の顔を睨みつける。男は意表を突かれたようにぎょろりとした目を瞬かせた。
「な、何?」
「私はこの街の領主ハルベルトの娘ラーシャ。領民の命を護るのは、領主たる父の務め。私はそれを代行したまでのことです」
そう言って、呆気にとられた様子の男に構わず、自分の足で立ち上がった。
「魔人を倒してくださったことは感謝いたします。けれど、名も名乗らぬ方に私の行動についてあれこれと言われる筋合いはございません」
ラーシャが男に背を向け、気絶したままのリアを抱き起こすと、背後で、ぐふっという声がした。
振り返れば、それは男がこらえきれずに噴き出した笑い声だった。
「これは失礼した」
ひとしきり肩を揺らした後で、男は跪き、慇懃な礼とともに名乗った。
「ナーセリの騎士リラン。ハルベルト殿のご令嬢ラーシャ殿を探しに参った」
それが、ラーシャとリランとの出会いだった。
魔人が瘴気とともに消滅したことを祝う宴の席で、リランはきちんと着飾ったラーシャのドレス姿を見て「これはこれは」と大げさに目を丸くした。
「山の中で無礼な騎士に一喝した女丈夫とはとても思えませぬな」
「あの時は気が立っておりましたゆえ」
ラーシャは目を伏せる。
「どうかお許しを」
「いや。あの時ラーシャ殿のおっしゃられたことは何一つ間違ってはおらぬ」
リランはそう言うと、杯の酒をぐびりと飲み干した。
「このリラン、ラーシャ殿の一喝で目が覚めましたぞ」
そう言って笑う姿は、見れば見るほど、ずんぐりとした熊のようだった。
「そういえば、あの少女も家族の元へ帰れたようですな」
「ええ」
薪を持ち帰れなくてごめんなさい、と謝るリラを、母親は無言で抱き締めていた。その光景にはラーシャも目頭が熱くなった。
「それは何より」
リランは頷き、ラーシャの注いでくれた酒に口を付ける。
「なかなかに勇敢な子であった」
そう言うと、歴戦の騎士の顔に思いがけず人懐っこい笑顔が浮かんだ。
ラーシャは意外な気持ちとともにそれを好ましく見た。
「リランさまこそ、そのようなお顔もなさるのですね」
「顔?」
リランはぎょろりと目を剥く。
「どんな顔でしょうな」
騎士は鼻にしわを寄せて苦笑した。
「いずれにせよ、ろくな顔ではありますまい」
「素敵なお顔です」
そう言うと、リランはきょとんとした後で、この男らしくもなく照れたように顔を赤くした。
「そのようなこと、初めて言われましたな」
「ならば私だけのお顔ですね」
ラーシャはそう言って微笑むと、声を潜めた。
「今回の件、父には怒られました」
「ほう」
リランはまたぎょろりと目を剥く。
「何と」
「無茶をするな、と」
「無茶などいくらでもされればよろしい」
リランはそう言うと、いたずらっぽく片目を瞑った。
「その時はまたこのリランが駆けつけましょう」
「お戯れを」
ラーシャは笑顔で首を振ったが、ふと思い直してリランの顔をまじまじと見た。
「ですが、本当に来ていただけるなら、それよりも心強いことはございませぬ」
「駆け付けますとも」
笑顔を引っ込めたリランは、やけに真剣な顔で言うと、また杯を空けた。
「この街に魔人が現れた時は、必ずや真っ先に。この命に代えても魔人を討ち果たしてみせますぞ」
そう言った後でリランは、俺としたことが不吉なことを言ってしまったわ、と大声で笑った。