8話
水の中に潜ったような、柔らかい感覚。
そして次に訪れるのは重力と、恐らく衝撃。
「痛…くない…?」
想像していた衝撃は訪れない。だがその代わりに、体に心地よい風が当たって行くのを感じる。
香澄は恐る恐る目を開けた。
目の前、というか真下に広がっていたのは航空写真で見るような景色だった。
荒野の真ん中にほぼ円形状に作られた巨大な遊園地らしき場所。
そこは、遊園地より一回りほど大きい壁で包囲されていて、
外との出入り口は一箇所しかなく、そこも固く閉じられていて二人の人間が番をしている。
遊園地と壁の間には駅のような建物があり、何人もの人々がそこから出てきている。
どうやらこの街には地下鉄があるらしい。どこの街と繋がっているかは知らないが、珍しいことだ。
重厚な壁の外側には、緑色の小さなテントが四箇所にあった。
今は遠すぎて良く見えないが、ちらほらと人の影も見受けられる。
恐らく、見張りをしているハンター達だろう。
いくら重厚な壁でも、魔物達にとってはただの時間稼ぎにしかならないと聞いた事がある。
だから常にハンターが街の外で目を光らせているといったわけだ。
「う、わぁ…」
めったに見られない景色に一瞬興奮した香澄だったが、
その景色を見ることが出来る、という状況に顔が引きつり、恐怖がのしかかる。
徐々に景色が近くなる事から落下していることは分かるのだが、そのスピードがどうもおかしい。
通常の落下ならば、スピードは速くなっていくはずだし、そもそも体にあたる風はこの程度ではないはずだ。
「どうなってんの…?」
先日魔方陣を使った時とは大違いだ。あの時はこんな空高くに移動しなかった。
「面白い格好ー!」
その声は香澄の横から聞こえた。声の主は空中に立ち、香澄を見て笑っていた。
確かに、余裕で立っている悠梨とは違い、
香澄は地面に腹を向け、両手足を大きく広げているという、なんとも無様な鳥というか、お決まりのポーズで浮いているのだ。
「分かっとるわ!こっちはパニックなんじゃい!」
「面白い口調ー!」
悠梨は、相変わらず腹を抱えて爆笑している。
「…あー、もう。災難!っていうか、悠梨さん何故にそんな余裕なんすか?!」
香澄にとって面白い格好だとか、口調だとかそれどころではない。
とにかく今は空中に浮いているということが問題なのだ。
悠梨はひとしきり笑い終えると、息を落ちつかせ香澄に近寄った。
「落ちたいとか思わなきゃヘーキ。」
言いながら香澄の手を取り、立ち上がるように促す。
「え、嘘?」
悠梨に促されるまま、体を起こすと、案外簡単に立ててしまった。
「ね?ヘーキでしょ。」
と気の強い笑みを浮かべる。
「これ…。どーなってんの?」
「瞬間移動した後に別の魔術が作動するようになってる。
街中に現れたら一般人が驚くし、外だと移動先に魔物がいるかもでしょ。
それに、空中の魔物は平和主義なやつが多いから。」
外に小屋作るとか、街のアパート一室借りれば済む話なのに。
何でわざわざこんな空中へ放り出されなければいけないのだろうか。
―校長の悪ふざけ…?
それくらいしか、理由が無い気がした。
「あそこ降りよ。」
悠梨は街の門に最も近いテントを指差した。魔物は居ないが人も見受けられない。
だがそれよりも、他に問題があった。
「お、降りるって…。」
このままのスピードで落下していたら、1時間はかかってしまいそうな勢いだ。
遊園地に夕方訪れたというだけでも十分なタイムロスになっているというのに、
さらに落下で一時間も使っていたら楽しむ時間が無くなってしまう。
悠梨は、ふと3歩ほど踏み出すと目の前に手を出した。
そして、その手はパントマイムのようにある位置でピタリと止まる。
瞬間、直径3mほどで、黄緑がかった半透明の球体が二人を包むように現れた。
くるりと振り向いた悠梨の瞳は、茶色ではなく赤だった。
「この中なら空中を自由に動ける。移動も落下も自由自在なの。
だから、あそこに降りようと思えばできるよ。」
そう言うと壁から手を離し、目を瞑って腕を上へ伸ばした。
すると黄緑色の壁は見えなくなり、次に開いた悠梨の瞳も茶色に戻っていた。
悠梨の言う通り、この中なら大丈夫だろうことは分かる。
きっと無事に辿り着けるだろうが、なかなか香澄には落ちる、もとい降りる勇気が沸かない。
心のどこかで魔術を信用できず、否定している部分があるのだろう。
いちいち魔術関係で時間を取る香澄に、
いい加減イライラしてきたのか、悠梨はムッとした表情を浮かべる。
「ねー早く行こ!時間なくなっちゃうよ。」
と甘えるような、怒ったような口調。
「とは言いましても…得体の知れない物に命をかけるのは難しいことなんですよ。」
眼下に広がる光景に冷や汗を垂らす。
もし失敗して死んでしまったら、そう思うと恐ろしかった。
何より、そんな死に方は『平凡』という香澄のポリシーに反する。
まぁ、こんな状況にある時点でかけ離れてしまってはいるが。
「じゃあ、あたしを信じて。」
悠梨の猫目が更に鋭い目線を送る。
そのセリフと表情に一瞬ドキリとしたが、
よくよく考えて見ればツッコミどころが満載なわけで。
普通、たかが数日の関わりでは、人を信用できない。
そんな短い期間に築いた友情など、薄っぺらいものでしかないのだ。
けれど正直、そんなことを考えている自分はどうかと思う。
悠梨は真剣にこちらを見つめている、本気でそう思って香澄に突き付けた言葉だった。
「………うん。分かった。」
悠梨の真っ直ぐな瞳を直視できなくて、目線を逸らし、
少し俯き加減で一言だけぽつりと、答えた。
決して、彼女の事を信用できると踏んで出した答えじゃない。
自分を信じて、出したもの。
いや、あんな考えしか持てない自分が嫌で出した"逃げ"なのかもしれないが。
それが悠梨にも伝わったのか、複雑な表情を浮かべていた。
―誰かを、心から信用した事あったっけ。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
今まで気にもしなかったことだが、改めて考えてみると家族くらいのような気がする。
仲の良い友達はいたが、親友と呼べるまでではなかった。
いつも、クラスにいる適当な子と一緒に居て、遊んで。今思えば、とても薄い日々だったようにも思う。
何かを確かめるかのように、離すまいとするように、悠梨が香澄の袖を掴んだ。そして、
「イメージして。」
そう一言だけ告げると、手を離し、香澄から離れた。
彼女が静かに目を閉じたかと思うと、急に彼女の体が降下しだした。
結構な速度だったが、悠梨の髪や服はそれほどはためくことはない。
恐らくあの黄緑がかった壁のおかげなのだろう。
そして、地面ギリギリで急停止し、ふわりと地上に舞い降りた。
髪の色も相まって、さながら羽のない天使のようだ。
下から悠梨が手を大きく振っているのが分かる。
「落ち着け…。うん、大丈夫だよきっと。あたしだもん、こんな風に死ぬ訳ない…大丈夫…。」
おかしな気の鎮め方だが、これくらいしか思いつかなかった。
魔術と言うものが存在しているのは分かっている。実際に見た回数もこの数日で格段に増えた。
でも、何だか利用するのが凄く怖い。信用できていないからなのだろうが。
きつく拳を握りしめて、目を閉じて大きく息を吐く。
―悠梨みたいに…。や、もう少しゆっくり降下して…。
頭の中にイメージを膨らませる。降りていくときの風の感触、周りの景色の動き。
細かく、ゆっくりと頭に描いて行く。
そして、緑のテントと悠梨が見えたら、緩やかにスピードを落として、地上にちょうど降り立つ。
気付かない内に、香澄の体は動いていた。
実際は漠然としたイメージでも構わないという寛容なものなのだが、
香澄のその細かい想像によって、体そのもののように動いてくれている。
―なんだか、気持ちいい。
ゆっくりと目を開ける。
柔らかな風が髪を少し揺らす。
けれど外の景色はどんどん変わっていって、緑のテントも近づいてきた。
心地のいい体験だった。けれど、まだ指先が少し震えている。
最初のイメージ通り、緩やかに減速し始めた。自然な動きで、想像のままの位置に降り立った。
悠梨がそんな香澄を満面の笑みで迎えてくれた。
「香澄!楽しかったでしょ?」
「…まぁ。うん。」
楽しかった。風も、空を自由に飛ぶ(というより落下する。)感覚も、どれも心地よくて。
それなのに、指先の震えはまだ止まらなかった。
*
「噂には聞いてたけど、やっぱ遊園地広いね!」
香澄は辺りを見回す。
地図を見ても、とにかく広いんだな。という感想が一番に思い浮かんだ。
園内の移動はバスなどが主だという。
また、ホテルなども完備されているらしく、泊りがけで回る人は少なくないそうだ。
さすがは東大陸一の娯楽施設といったところか。
「ねえ、悠梨。凄いね!」
と景色を見ながら声をかける。
人の波が大分動いたが、悠梨からの返事は未だ帰ってこない。
「悠梨さん?無視されると虚しくなるんですけど…。」
隣にいる妙な存在感の方を向き、目線を斜め下へ動かす。
こんな人ごみの中でも目立つ金髪ツインテールの少女は、この遊園地にただただ感動するだけで、言葉も出ない様子だった。
そして、とにかく目をキラキラと光らせて辺りを見回している。
特に正面、遥か遠くに聳え立つ、学園とはまた違う優美で、ファンタジーな雰囲気を漂わせる城に興味津々ようだ。
一通り眺めてから、ようやくゆっくりと口を開いた。
「…凄い…。」
「東大陸で一番広い遊園地だもんね。あたしも来るの初めてだよ。」
「…凄い、凄い!早く回ろ!」
そう言うと一人で走り出す。しばらくすると振り返り、香澄を手招きで走るよう促す。
微笑ましい姿だった。生きてきた環境もあるのだろうが、魔法には一切動じず扱うというのに、
遊園地ひとつでこんなに目を輝かせ興奮するなんて。
「はーい。ちょっと待って!」
香澄も小走りで悠梨の元へと向かう。彼女はそれを確認すると、再び走り出した。
その女子高生としては小さな背中を見失わないように、追いかけた。