平手打ちから始まる婚約関係
とある王と王妃さまの逸話を聞いて思いついた話です。
ノリで書いたので、頭を空っぽにして読んでください。
空は青く澄み渡り、風は心地良く、小鳥のさえずりさえ聞こえる。こんな麗らかな陽気とは裏腹にクレイグの気持ちは暗澹としていた。
「ああ、行きたくない……」
憂鬱さを隠さずにぼやき、後ろを付いて来る従者・アランを振り返る。
「本当に行かなくちゃダメか?」
「ダメです」
にべも無く断じられる。
「本日のお茶会はエクルストン公が無理を言って招待状を手に入れてくれたんです。行かなければ、御父上の顔に泥を塗る事になりますよ」
「だよなぁ……」
クレイグはがっくりと項垂れる。
「ほら、そんな顔しないで! 今日はこんなに良い天気ですよ。絶好のプロポーズ日和です!」
「何だそりゃ……?」
バッと手を広げ、空を仰ぎ、世界を賛美するような従者に、クレイグは眉根を寄せる。
「これ以上に無いって程、素晴らしい陽気という事です! しかも本日行くケルツ伯爵邸の庭は美しいと評判です。ロケーションとしても最高でしょう!」
アランは滔々と語る様に、クレイグの心境は益々重いものとなっていく。
「ああ、行きたくない……」
またもやぼやく主人に、アランは首を傾げる。
「どうしてそんなに行きたくないんです?」
「逆に、アランは何でそんなに乗り気なんだ?」
「愚問です!」
アランの目がカッと見開かれ、クレイグは慄いて仰け反った。
「顔良し! 頭良し! 性格良し! 全てにおいて素晴らしいクレイグ様がついに結婚をなされるのです! これが喜ばずしていられようか! しかも相手は家柄も財産もあるケルツ伯のご令嬢! 結婚した暁にはクレイグ様の立派な後ろ盾となり、クレイグ様の将来は安泰です! これが喜ばすにいられようか! 大事な事なので何度でも言いますよ! これが喜ばずに——ふごっ!」
「止めてくれ!」
クレイグは本当に何度も叫びそうな従者の口を両手でふさぐ。それでももごもごと口が動いている辺り、感情が迸って仕方ないらしい。
「でも、そのケルツ伯のご令嬢は、この婚姻に乗り気じゃないんだろう? 婚約の打診も断られたと聞いている」
クレイグが一番引っかかっているのはそこだ。
結婚するのは別に構わない。いつかしたいと思っているし、するだろうとも思う。けれど相手は彼女でなくても良いはずなのだ。しかし、父も母も従者ですら、彼女を推す。それは偏にクレイグの出自が起因している。
エクルストン公には二人の息子がいる。
一人は妻が産んだ、嫡男・トランス。
見目麗しく、詩作にふけり、芸術への造詣も深い彼はとてもモテる。本当によくモテる。これでもかというくらいモテる。散歩に出かけたら、必ず女性を引っ掛けて帰ってくる程である。実際にクレイグは何度もその場面に出くわした。
そんな素行の問題がある事と領地の経営に興味を示さない事から、後を継がせる事に懸念を示す者は少なくない。
もう一人はクレイグだ。妾の産んだ庶子である。
庶子故にいずれは家を出るものと思い、その際に母と家族を引き取って養えるだけのものを、と考えたクレイグは勉強も剣の鍛錬も、全て真面目に取り組んで修めてきた。結果、跡継ぎに相応しいのでは? となったのは皮肉としか言いようがないだろう。
「俺は別に爵位は欲しくないんだけど……」
「何をおっしゃいますか! あなたほど跡継ぎに相応しい人間はいませんよ!」
アランは塞いでいた手を押しのけ、更に言い募る。
「しかしながら、どんなに資質が優れていようと、血統を重んじる輩もいます。ですので! ですので! クレイグ様にはケルツ伯爵令嬢と婚姻を結び、後ろ盾を得るべきなのです!」
「しかし……」
クレイグは尚も渋った。
「嫡子であるトランス兄上がいるんだから、庶子の俺が継ぐ必要は無いだろう。父上も何ではっきりとお決めになられないのか」
エクルストン公は壮健であるが、二人の息子はもう成人している。そろそろ後継を指名してもおかしくないのに決めかね、さらにはクレイグがなっても良い様、こうして縁談を勧めてきている。跡目争いにしかならない婚姻は、クレイグの望むところでは無い。
「俺は母さんと兄さんと、のんびり暮らせれば良いんだけど……」
クレイグがちらりと窺うと、途端にアランの涙腺は決壊した。
「くれぇいぐぅううう! なんて! なんて良い子なんだああああ!」
「うげっ!」
慌てて避けようとしたが既に遅く、クレイグはがっちりとアランの腕の中に捕らわれる。
「母さん! 母さん! あなたの産んだ子は天使です! やばいです! ボクはこんな弟を持てて、しーあーわーせーですぅうう!」
やばいのはお前だ。
つと口を出かけた言葉をのみ、宥める様に自分を抱く手を叩く。
そう、従者をしてくれてはいるが、アランは父違いの兄だった。
二人の母は元々男爵夫人であったが、アランを出産してしばらくして夫が他界してしまい、義弟が家を継ぐことになり追い出されてしまった。子供と生活のため、母はちょうど乳母を募集していたエクルストン公爵家に雇い入れて貰ったのだ。だが、その後、何故かお手付きとなり、身ごもり、クレイグを出産した。幸い正妻であるミーガン夫人は懐が広く、今も母は公爵邸に住まわして貰っているし、兄・アランも従者として雇って貰えている。
クレイグは自分達が何不自由なく暮らせているのはミーガン夫人のおかげだと思っており、彼女の産んだ子が跡を継がなければ立場が悪くなるかもしれないと恐れている。恩人に後ろ足で砂をかける様な真似はしたくなかった。
しかし、このお茶会で求婚して来いというのも養い主である父の命令だ。こちらも断る事は出来ない。一応それとなく不承知を伝えてみたが流されている。
「俺は普通にアランを兄さんって呼べる環境に居たいだけなんだけど」
兄が自分に弱い事を知っているクレイグは心の中で鳥肌を立てながら、はにかんだ笑みを浮かべて甘えてみる。
「くれいぐぅうううう!」
アランの力は強くなり、段々と呼吸も苦しくなってくる。
「安心しろ、クレイグ! どんな立場に居ようと、兄ちゃんはお前の味方だ! 呼び方なんて関係ない!」
「いや、そうじゃな——」
「だから気にせず、爵位を狙え! あんなボンクラにお前が負けるはずはない!」
「あの——」
「求婚も成功するに決まっている! ケルツ伯爵令嬢もお前を見れば一目で気に入るだろう! お前は誰よりも魅力的だからな!」
すでに一度断られていると言った事実はアランの中から消滅しているらしい。そしていよいよ呼吸不全に陥ったクレイグは指摘も出来ない。
「さぁ! では行こうじゃないか! めくるめく、栄光の旅路へ!」
アランはビシッと空の彼方を指さすと、ぐったりしている弟兼主人を引きずりながら街道を爆走した。
先程までの喧騒とは打って変わり、ケルツ伯爵邸の庭園には和やかな空気が流れている。
会話に興じる紳士、それを時折熱っぽい視線で眺める令嬢、扇で顔を隠し、噂話に励む夫人達。どれも見慣れた、けれどもクレイグには馴染めない光景だ。
主催者である伯爵夫妻には挨拶も済ませ、一通り人の輪も回ったところで、アランから脇を突かれる。
「クレイグ様、いらっしゃいましたよ!」
小声で告げたアランは人から見えない様に指で指し示す。その先にいるのは波打つブロンドが豊かな、美しい令嬢だった。
「彼女がケルツ伯のご息女、アデレイド様です」
「アデレイド……」
クレイグは思わず名前を繰り返す。
陽の光を浴びて輝く艶やかな髪、滑らかで触りたくなるような白い肌、唇はふっくらと紅く、凛とした目元が印象的だ。まるで光の女神の様な姿に目が離せなくなる。
「知識と教養を持ち合わせ、立ち振る舞いも優雅。そしてあの美貌に、御母上は降嫁なされた王女と血統も確か。まさに通り名通りの“完璧令嬢”! 求婚の申し込みは後を絶たないそうです」
加えて実家は潤沢な資産を持っているとなれば、完璧すぎるくらいだろう。高嶺の花にも程がある。
「さぁ、クレイグ様! 出し抜かれない内にさっさと行ってきてください!」
「あ! おい!」
尻込みしていたクレイグはアランに背中を勢いよく押され、アデレイドの前につんのめって飛び出すことになる。幸いぶつかる事はしなかったが、アデレイドの大きな目がさらに大きく見開かれた。
「あなた……」
初めて見る男の姿にアデレイドは目を瞬かせる。クレイグは慌てて姿勢を正すと、紳士的な笑顔を浮かべ、礼を取った。
「初めまして、アデレイド嬢。私はクレイグ。エクルストン公爵家の者です」
「エクルストン……。では、あなたが?」
途端に美しい顔に険が浮かぶ。
「エクルストン公爵家のクレイグ様とおっしゃいますと、わたくしに求婚の申し込みをなさった方、という事でよろしいかしら?」
「そうです」
どうやら認識はされていたようだが、これが吉と出るか凶と出るか。いささか凶寄りの感じがして、拍動が大きくなる。
「お断りしても、何度も何度も、しつこく申し込みなさった方という事でよろしいかしら?」
「は?」
思わずきょとんとしてしまったが、急いで取り繕って従者へと視線を向ける。アランは得意げな顔をしていた。
「——ど、どうやら、その様です」
クレイグは何とか声を絞り出した。
申し込みする事に同意したが、まさか断られても何度も送っていたとは思わなかった。何回したのか知らないが、アデレイドの様子からすると片手では足りないのは確実で、下手すると足の指まで必要となりそうだ。
「そう。では今日はどのような要件かしら? まさか、また求婚しに来たとは言いませんわよね?」
侮蔑の混じった視線を浮かべても、彼女は美しい。しかし、最初に見た時の情感は既に消え失せており、今はただ事務的に会話を続けるつもりだった。
「ええ、その通りです」
少なくとも求婚を済ませなくては家に帰る事も出来ない。さっさと済ませて酒場にでも寄ろう。そうしよう。
腹を括ったクレイグはアデレイドへ手を差し出す。
「アデレイド嬢、どうか私と結婚して頂けませんか?」
「お断りします」
間髪入れずに返事は返され、クレイグは心の中でほくそ笑む。
「そうですか。残念ですが、諦めま——」
「クレイグ様の一体何が不満なんです!?」
「うぇ!?」
さっくり締めて終わらそうとしていたのに、背後から物言いが入る。
目尻を釣り上げ、鼻息を荒くし、地面をへこませそうな程強い足取りで近付いて来るのは、自他ともに認めるクレイグ馬鹿・アランである。
「な、何ですの、あなた!?」
「クレイグ様の従者です! アデレイド様、あなたの目は節穴です!」
「何ですって!?」
突然の非難に、アデレイドも血色ばむ。
「クレイグ様のどこに問題があると言うのです!? 学問・剣術共に優秀で、領民からの信頼も厚く、しかも気性は温厚且つ善人! 非の打ちどころのない好青年では無いですか!」
「あ、アラン、その辺で止めてくれ」
常日頃から言われまくっている事だが、聴衆がいるところでやられると羞恥が半端ない。右手で顔を覆いつつ制止を求めてみるが、暴走するアランには逆効果だった。
「そして、ほら! この恥じらいようの可愛さ! 天使も嫉妬しますよ!」
するわけがない。
クレイグはもう成長し切ったむさ苦しい男である。天使と同じ檀上に登れてすらいない。
「確かに、魅力的なのは認めましょう」
「え? いや、待って。認めないで!」
「ですが、彼には問題があります」
クレイグの言葉はさらりと流され、アデレイドはズビシッと音が鳴りそうな程しっかりと、アランに指を突き付ける。
「彼は庶子ですわ!」
「ぐっ……」
アランは脇腹を押さえてうずくまる。
「え、何で? 別に何も当たってないよね?」
戸惑うクレイグをよそに、二人の応酬は続く。
「あなたは意図的にこの情報を言わなかった! そう隠していたのですわ!」
「……ふっ。さすがですね」
さっと髪をかき上げ、アランは立ち上がる。
「ですが、隠していたわけではありません。そんな事、関係ないからです」
「戯言ですわ」
アデレイドは鼻で笑う。
「いいえ。確かにクレイグ様はエクルストン公爵夫人から産まれた訳ではありません。しかし、エクルストン公はクレイグ様を認知し、嫡子と同等の教育を与えて下さっている。クレイグ様は庶子であろうと、正式なエクルストン公爵家の者です!」
「くっ……」
今度はアデレイドが何かに煽られたように後ずさりをする。まさに悪戦苦闘といった体で、汗すら浮かんでそうだ。
一体何を見せられているのだろうか。
クレイグが思わず現実逃避し、遠い目をしたところで、最終結論が出る。
「確かに、エクルストン公はクレイグ様を公爵家の者としているのでしょう。しかし!」
パンッと小気味良い音と共に扇が開かれる。
「庶子は庶子! 由緒正しきケルツ伯爵家の娘として、わたくしアデレイドは、庶子には嫁ぎません!」
荘厳な効果音でも付きそうなほど、アデレイドは堂々と決める。それで勝敗はついたらしく、アランは悔しそうに俯いた。
「すみません、クレイグ様……。あと一歩だったのですが……」
「うん、何がだかわからないけど、まぁ良いよ」
落ち込む肩を叩いて慰める。
その様子をアデレイドは一瞥しながら、扇を広げて顔を扇ぐ。
「全く、躾のなっていない犬だこと!」
腹立たし気に言い捨てられた物言いに、ピタリとクレイグの手が止まる。
「主人が主人なら従者も従者ですわ。このように躾も出来ない者が一人前ぶって求婚など、勘違いも甚だしい。本来なら恥ずかしくて人前になど出られませんわ」
「——さい」
「はい?」
アデレイドは怪訝な顔で聞き返す。
「謝って下さい」
「何ですって?」
今度はクレイグの言葉を間違いなく聞き取ったはずなのに、アデレイドは再び疑問を口にする。
「アランに謝って下さい」
精悍な目付きで、クレイグはアデレイドと対峙する。
「何故わたくしがそんなことを?」
「彼は犬では無い、人間です。発言を撤回し、謝罪してください」
「お断りします」
アデレイドは要求を真っ向から拒否する。
「あなたもきちんと理解しなさい。連れている者でその人の品位は変わります。きちんとした者を従えられないから、あなたは庶子だと言うのです」
「どうしても謝罪する気は無いと?」
「ええ。わたくしに謝罪を要求する前に、あなたがきちんと躾すべきだったのです。野良犬ごときにわたくしが謝るなどあ——っ!」
乾いた音が庭園に響く。
手を振り抜いたまま動かぬクレイグと顔を背け、目を白黒させるアデレイド。何が起こったのか一目瞭然なのに、理解できた者は少ない。
「あ、あなた……!?」
赤らむ頬を押さえ、手を振るわせてアデレイドは睨み付けてくる。
「理解出来ない様なので躾させて頂きました。彼は人間で犬では無い。それどころか私を良く想い、仕えてくれる素晴らしい従者です」
クレイグは今日一番の魅力的な笑みを浮かべて語る。
「連れている者で品位が変わるというのは、なるほど事実のようですね。あなたを諫められない従者ばかりを連れているから、あなたはそんなにも傲慢なのでしょう。求婚を断って頂き感謝します。それでは失礼」
一方的に言い終えるとクレイグはアランに合図をし、共にその場を去って行く。
しばらく庭園には草木のさざめきしか聞こえなかった。
「やってしまった」
明くる日、冷静さを取り戻したクレイグは、自室のソファに腰を落としたまま頭を抱えた。
自分が貶められる事は全く気にならないが、アランを貶める事には耐えられなかった。ならば口で言えばいいだけなのに、つい腹に据えかねて手を出してしまった。女性を殴るなど、男の風上にも置けないだろう。
「神よ! ボクは幸せ者です! 意地の悪い令嬢から颯爽と庇ってくれたクレイグ様のお姿! なんと神々しかった事か! 世界中に叫びたい! ボクの主人は世界い——ぶっ!」
「うるさい」
クッションを投げつけてやれば、見事に顔にぶつかり、言葉は途切れた。クレイグはほっと息を吐く。
「ああ、どうしよう……」
アデレイドは当然として、おそらくケルツ伯も娘に恥をかかせたと激怒している事だろう。エクルストンにどんな不利益が及ぶかわかったものでは無い。自分の短気が起こす未来に、うすら寒くなる。
だがふてぶてしい事に、侯爵家に迷惑が掛かる事は反省しているが、アデレイドを殴ったこと自体には後悔していない。むしろ大変満足である。
「でも謝罪に行けと言われるんだろうな……」
それが上辺のものでもやらなくてはいけない時がある。公爵家で教育を受けてきたのだから、当然それは理解しているが、納得は出来ない。
「どうにかならないものか……」
クレイグは思考を巡らせるが良い案は思いつかない。すぐそばでまた神に感謝を捧げ始めたアランの声がうるさいからかもしれないと思う。
「とりあえず、お茶でも飲んで休憩したらいかがでしょう? きっと名案が浮かびますわ」
「そうだな。ありがとう——ってお、おい!?」
クレイグはソファの上に飛び乗り、仰け反る。
「あら、どうしましたの? はしたないですわよ」
事も無げに注意するのは、昨日平手打ちをかましてしまった相手、ケルツ伯爵令嬢・アデレイドである。
「え? 何で? メ、メイドは?」
「このお茶を置いて下がって貰いましたわ。わたくし、淹れるのには自信がありますの」
「いや、そうじゃなくて!」
話が通じない。
だらだらと冷や汗を垂らしつつ、クレイグはアデレイドをまじまじと見つめる。
「お座りになって、飲んでくださいませ。冷めてしまいますわよ」
「お茶……」
クレイグの視線がテーブルの上のカップへ向かい、そこでハッとして息を呑む。
そう、彼女は復讐をしに来たのだ。
公衆の面前で恥をかかせたクレイグを害そうと、わざわざ公爵家までやって来た。そうでなくてはこんな所でお茶など淹れるはずが無い。
「一体、何を入れたんだ!?」
「まぁ!」
アデレイドは目を丸くし、口元に手を当てる。
「良く分かりましたわね」
やはり何か混入されていたらしい。下剤が、自白剤か、それとも毒薬なのか。クレイグの背筋に悪寒が走る。
「コンティークの茶葉にミレーの樹液を一滴垂らしたんですの。そうすると風味が良くなりますのよ」
「は? 樹液? 風味?」
クレイグは困惑し、単語しか出てこない。
「そ、そうじゃなくて、薬を——」
「あら、精力剤を入れておくべきでした? でもそれは初夜まで待って頂きたいです」
ほんのりと頬を染める様子は大変魅力的だが、今はときめくよりまごついてしまう。
「いきなり何やっとるか————————っ!?」
バッと割って入ったのは言わずもがな、アラン。神との交信は終わったらしい。
「何故あなたがここにいるんです!? ここはクレイグ様の自室です!」
「全く、相変わらず失礼な!」
アデレイドは鼻を鳴らしてアランを睨み付けると、ふんぞり返って口を開く。
「妻が夫の自室にいて、何がいけないのです?」
「夫!?」
「妻!?」
クレイグとアランは驚愕して声を上げる。
「ええ、わたくしはクレイグ様の妻! 常にお側で支えるのが役目ですわ!」
「それは違う!」
バシッとアランが否定する。
混乱して狼狽えるだけのクレイグと違い、やはり兄は頼りになる。クレイグは期待を込めてアランを見る。
「常に側で支えるのはボクの役目だ!」
「違うだろ!」
思わず突っ込めば、アデレイドはドヤ顔になり、アランは悲しげに眉尻を下げた。
「違うのですか、クレイグ様……?」
「いや、そうじゃなくて、支えて欲しいけど、そこじゃなくてだな」
「ほら見ろ! やはりボクが一番なのだ!」
「まぁ! クレイグ様にはそんな趣味が!? いいえ、それぐらいで動じてはいけませんわね。私は正妻。正式な妻はどっしりと構えていれば良いのです。最終的にわたくしの元へ帰ってくるのですから!」
二人の間には火花が散り、背後には伝説の生き物である竜と厳めしい虎の幻が見えてきそうだ。実は仲良しなんじゃなかろうかとも思う。
「それで、アデレイド嬢」
「はい何でしょう?」
ようやく冷えて来た頭を押さえつつ呼び掛ければ、アデレイドは華やかな笑みを向けてくる。とても昨日己に危害を加えた人間に向ける顔では無い。
「どうしてあなたがここに居るんですか? それに妻とか夫というのは?」
「ああ、そうですわね。きちんと順を追うべきでした」
そう言うとアデレイドはすっと姿勢を正し、アランへ向き直る。つられてアランも直立になった。
「アランさん、あなたを犬と呼んだ事、お詫び申し上げますわ」
深々と下げられた頭に、アランも思わず腰を折って返す。
「クレイグ様、彼は目を曇らせる事なく、主人の良さを理解している、従者の鑑でしたわ。わたくしが間違っておりました」
「い、いえ、分かって頂けたのならそれで……」
何がどうして謝罪する気になったのか分からないが、向こうが非を認めてくれたのだから、これで問題は解決するだろう。クレイグはほっと胸を撫で下ろす。
「さて、これで心置きなく婚姻が結べますわね」
「はいぃ?」
晴々としたアデレイドとは反対に、またもやクレイグの表情は曇る
「あの、あなたは私の求婚を断ったはずでは?」
「ええ。確かにあの時まではあなたを夫にするなんて、考えられませんでしたわ。でも、あなたの良さを知った今、それは過去のものとなりました!」
「素晴らしい!」
アランは感涙し、惜しみなく拍手を贈っている。照れたように顔を伏せるアデレイドも満更でも無さそうで、やはり二人は仲良しなのだと納得する。
一方クレイグとしては猜疑心を捨てきれない。
「あなたは庶子と結婚するのは嫌なのでは?」
「そうですわね。わたくしはこの血統を守り、引き継いでいくことを命題だと思っておりましたが、それを投げ捨てても良い程のものをあなたはくれました」
まっすぐクレイグを見て告げるアデレイドは、初めて見た時と同じ様に気高く美しく、クレイグは胸に温かなものが灯るのを感じる。あの光の女神が今、自分を見てくれている。喜びが打ち震えたくなる。
だがクレイグはアデレイドに贈り物などしていない。昨日も一応用意はしていたのだが、渡す前にあの一連の騒動になだれ込んでしまった。
「私があなたに何を差し上げたのでしょう?」
クレイグが緊張を押し隠して問いかければ、アデレイドは恥じらいながらも口を開く。
「平手打ちですわ」
「は?」
遠くで鳥の囀りが聞こえる。今日も良い天気だ。庭の巣箱に雛が生まれてるかもしれない。
表情の抜け落ちた顔でクレイグは思いを馳せる。
「平手打ちですわ」
「何でぇえええ!?」
聞かなかった事にしたいのに、親切にもアデレイドはもう一度繰り返してくれた。本当に余計なお世話である。
「恥ずかしながらわたくしは完璧令嬢と呼ばれておりました。事実、嗜んだ事は完璧に修めましたし、この通り淑女の中の淑女として、育ちましたわ。だからこそ、わたくしは叱られた事が無かったのです!」
早熟だったせいか我がままらしい我がままも言わず、言っても習い事を増やしたいという程度。そうして招いた教師にも真面目に師事し、知識や技術を吸収していけば褒めそやされた。
「何の間違いも無く、常に最適解を出す。ちょっとした失敗をして、皆で笑い合うという事もない。完璧であるというのは何てつまらないのでしょう。それに比べて欠点のある方の魅力的なこと! わたくしは完璧な自分を人形の様だと思いながらも、その仮面を外せずにいました。でも、それをあなたが打ち砕いてくださった!」
「ここに話が繋がるんですね。いきなり自分語りをするから何かと——ぐふっ!」
クレイグはいつの間にか茶請けを頬張りつつ、余計な感想を漏らすアランの腹部に拳を叩きこんで黙らせる。
「あなたがわたくしを平手打ちし、罵って下さったから、わたくしにも間違いがあると知れた。わたくしは人間になれたのですわ!」
「あの、少しというか大分、見解に齟齬がみられるのですが……?」
アデレイドの言い様だと、クレイグは大変なクズ男に思える。
「いいえ、間違ってなどいませんわ! あなたの手によって私は目覚めたのです!」
それは目覚めさせてはいけない何かだったのではないだろうかと、止まらない冷や汗を流しつつ、クレイグは思考する。
「さぁクレイグ様! わたくしを叩いて叱って、躾て下さいませ!」
頬を上気させ、手を合わせて懇願する様は愛らしく、思わず頷きそうになるが何とか耐える。ヤバい扉が完全に開いている様だが、クレイグにはその気は無い。多分、無い。
「アラン……」
「クレイグ様」
すがる様な眼差しを向ければ、アランは満面の笑みだった。
「まさかこの様な手で女性を落とされるとは、アラン感服しまし——ブフォっ!」
「せめて最後まで笑いを堪えろよ!」
「いえ、笑ってなどぶくくっ……おりまひひっ……せんふふぁふぁ!」
「完全に笑ってるじゃねぇか!」
胸ぐらを掴んで揺らせば、アランは耐える事を止め、全力で笑い出した。
「まぁ、クレイグ様! わたくしの事も叱ってくださいませ!」
「いや、無理ですから! あれは事故だったんです!」
「その様におっしゃって、責任を取らないおつもり!?」
「そうですよ、男ならきちんと責任を取りましょう!」
「お前は楽しんでるだけだろうが!」
そうだった、とクレイグは気付く。
アランは元々アデレイドと結婚させようとしていたのだから、力になってくれる訳が無かったのだ。同じ理由で父も母も誰にも頼ることは出来ないだろう。自分一人で何とかしなければならない。この美しい女神のおかしな誘惑に負けてはいけないのだ。たとえ目を潤ませ懇願する姿にどれだけ煽られようと、負けてはいけないのだ。
しかしクレイグは気付かなかった。負けてはいけないと思う時点で弱気であることを。意識が傾きつつある事を。
次から次へと繰り出されるアデレイドの愛の攻撃に、クレイグが絆されたのは夏が始まる前のことだった。
両家の合意の元、婚約を結び、一年後に結婚し、妻の倒錯的な要求に翻弄されつつ、従者と結託して暴走するのに巻き込まれ、公爵家を継ぐ事になり、何故か公国まで建国し、後世の歴史書に夫婦共々名前が載るかどうかは、神のみが知る事である。