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9.言えない言葉

 ブレスレットをなくしてからしばらくの間に、ますます風が冷たくなった。息を吸うたびに身体の芯から凍えそうで、エレナは急ぎ足で教会に向かう。吹き付ける風から逃げるように教会の中に身を滑り込ませた。重い扉に身体を預けて、ほっと一息つく。


 顔をあげれば、教会の中でまず最初に目につくのは祀られた女神像。国を守護するとされる運命の女神の前で、子どもたちは一心に女神を讃える劇を練習していた。女神記念日で披露するのだ。

 見守るエレナ自身も、敬虔な祖母の影響で劇に出たことがある。あの時は一体何の役をしたのだったか。覚えているのは劇のあとに食べたクッキーの甘さだけ。


「運命の女神よ、我らを導きたまえ」


 静謐な教会の空気の中で、子どもたちの高い声が重なり合う。それはしんしんと降りしきる雪のように柔らかい。そういえばこの寒さにもかかわらず初雪はまだだったかと、エレナは窓の外に目を向けた。


 ここにあの薄紫色の髪をした美しい男の姿はない。最後に会ったあの日以来、エレナはヘルトゥの顔をただの一度も見ていなかった。よく会うと思っていたのはたまたまだったのか、知らずのうちに意識していたからよく会うような気がしていたのか。


 子どもたちもずいぶんヘルトゥに懐いていたというのに、男の不在をいぶかしむ声もない。もしやすべては幻だったのではないか。今はもう何もない左の手首を見て、エレナは小さくため息をつく。


 失恋をしたら痩せるのが定番らしいが、自分はどうだろう。ヘルトゥに会えなくなってから、泣き暮らすこともなく、今までの単調な生活に戻っただけ。剣の稽古のたびに、あの男の剣技を思い出すのもきっと気のせいだ。


 神父様の合図で、練習はお開き。エレナはおやつの用意をする。子どもたちはエレナが持ってきたアップルパイ(タルタ・デ・マンサナ)を、手づかみで口に頬張った。結構な大きさがあっても食べ盛りの子どもたちにかかればあっと言う間に消える。


 カスタードクリームをつけたまま走り回る子どもたちの口を綺麗にぬぐってやる。そのままエレナは脇によけておいた皿を持って、祭壇の近くに向かった。


「頑張っているね」


 壁に向かって何度も練習を繰り返す少女に声をかけた。おやつを取りに来ないので、様子を見に来たのだ。放っておけば甘いものなどすぐに誰かにとられてしまう。


 先ほどまで子どもたちが練習していた劇は、年に一度の晴れ舞台。けれどそれを差し引いても、彼女はとりわけ熱心に稽古に打ち込んでいた。稽古熱心なのは良いことだが、休憩もなしとなっては少しだけ心配になる。


 少女が演じるのは、劇の主役と言える存在。台詞だって他の比ではないのだから、緊張しているのだろうか。エレナの方を向くと、少女は懐かしそうに目を細める。


「お母さんがね、この劇、好きだったの。だからちゃんとやりたくって」


 さっきの練習も上手だったでしょう。はにかむように笑う少女を見て、エレナは言葉につまる。ここで暮らしているということは、身寄りがないということだ。おそらく二度と母親に会うことはかなわない少女は、一体どんな気持ちでこの劇に臨むのか。黙りこんだエレナのことをどう思ったのか、少女が不思議そうに首をかしげる。


「エレナお姉ちゃん、悲しいことがあったの?」


「そんなことはないよ」


「でも泣きそうな顔で笑ってる」


 それはあなたがあまりにも健気だから。けれどそれはきっと言ってはいけない台詞。エレナはただ少女の金色の髪を撫でる。


 少女がためらいがちにエレナからアップルパイ(タルタ・デ・マンサナ)を受け取った。とろりとあふれるカスタードクリームを味わうように、小さな口を動かす。ああ、少女の髪色はまるで卵のように優しい色をしているのだとエレナはため息をついた。


「お母さんが生きているうちに、もっとたくさん言えば良かったなあって思うことがあるの」


 食べながらおしゃべりしては駄目だよ。少女の言葉には、そうエレナが言って制止できない重みがあった。アップルパイ(タルタ・デ・マンサナ)を食べながら、少女は淡々と言葉を紡ぐ。まるで何かを堪えるように。


「お母さんが作るアップルパイ(タルタ・デ・マンサナ)が大好きだよ」


「お母さんとおしゃべりするの楽しいね」


「お母さんってとっても良い匂いだよ」


「お母さんの手ってあったかいね」


「お母さんの髪の毛綺麗だね」


「お母さんが大好きだよ」


 そこまで話して、どこか遠い目をして小さく呟く。


「でも死んじゃったら、もう言えないんだ」


 じっとこちらを見上げてくる少女は、とても真剣な顔をしている。まるでエレナの心を見透すように。


「天国に向かってお祈りすれば、ちゃんと聞こえるってみんなは言うけれど、そんなのだめだよ。だってそれを聞いて笑ってくれるお母さんには、もう会えないんだもん」


 少女はにっこりと笑った。


「喧嘩しちゃったのなら、ちゃんと仲直りしてね。あとね、泣くのを我慢するのは良くないって神父様が言ってたよ。悲しいことは外に出さないと、涙で身体が溶けちゃうんだって!」


 どうやら、子どもたちはヘルトゥの不在を疑問に思いつつも、エレナの前では気を使って何も言わなかったらしい。普通だと思っていたのは自分だけで、実際どれだけ暗い顔をしていたというのか。こんな風に心配されるなんて恥ずかしくて、顔を覆いたくなった。そんなエレナを尻目に、少女は言いたいことを言ってすっきりした様子。食べ終わったアップルパイ(タルタ・デ・マンサナ)のくずをぱんぱんと払って、小指を差し出した。


「ちゃんと仲直りできたら、プレゼントをちょうだいね。もうすぐほら女神記念日でしょ」


 自分からプレゼントをねだったことを恥ずかしく思ったのか、少女はもじもじとする。もちろんだとエレナはうなずいて指切りをした。


「またふたりで教会にきてね」


 少女が子どもたちの輪の中に向かう。その後ろ姿を見ながら、守れない約束はするものではないなとエレナは苦笑した。


 子どもが羨ましい。好きな人に好きだと伝えられるのは、子どもの特権だ。好意を示して、迷惑に思われる心配もない。大人というのは不自由なものだとエレナは首を振る。


 さてどんなプレゼントにしようか。あげるならば少女だけではなく、みんなに。そこまで考えて、エレナは思う。普通の子どもたちと同じように、ひとりひとりに贈り物をあげられたら、どんなに喜んでくれることだろう。何でも誰かと「共有」することが、幸せとは限らないとエレナは知っている。


 ただエレナには子どもの好きなものがいまいちよくわからない。


 こんな時、ヘルトゥなら気の効いた贈り物を用意するのだろう。いつの間にか相手の欲しいものを探し出して、ぽんと当たり前のように寄越すに違いない。あの時のブレスレットのように。急に胸が痛くなって、顔がこわばるような気がした。そういえば最近笑ったのはいつだったか、エレナにはわからなかった。


 ああ、自分は泣きたかったのだなと腑に落ちて、エレナは下を向く。泣いてもどうにもならないから、泣くなと言い聞かせてきたけれど、悲しいことは悲しいと言って良かったのか。


 くるりと後ろを向いて、教会の扉を開ける。冬の冷たい空気が一気に中に吹き込んだけれど、誰も何も言わなかった。エレナが何をしに行ったのか、気がついているのだろう。そのまま教会からほど近い祖母の墓に向かった。ぼやけて前がよく見えない。泣いても良いのだと思ったら、後から後から涙がこぼれてくる。きっと自分はとんでもなく不細工な顔をしていることだろう。


 祖母の墓石の前で、膝を抱えて座り込んだ。こぼれた涙はコートを伝って、地面へ吸い込まれてゆく。丸い真珠の形にはならない涙を見ていて、やっぱり自分は人魚にはなれないのだと知る。空を見上げれば、ひとひらの雪が見えた。もっともっと寒くなれば、エレナの涙も宝石のように凍りつくのだろうか。そんなことを思いながら、エレナは声をあげて泣き続けた。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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