8.ふたりの距離
寒さが厳しい季節に入ると、街は飾り付けられて賑やかになる。そろそろ、女神記念日。家族や恋人へ贈り物をする祝いの日。誰に何を贈ろうかと浮き足立つ人々の間を抜けるエレナもまた、自然と口元を綻ばせていた。市場の店主たちもせわしないけれど、弾けるような笑顔をしている。
「お嬢ちゃん、りんごの花の花言葉を知ってるかい? 『最も美しい人へ』『選ばれた恋』って言うんだよ。まさにあたしらのためにあるような言葉じゃないか」
恰幅の良い女将さんは、上機嫌でエレナにりんごを勧めてくる。隣で苦笑しているご主人は、困ったもんだと言いながらその癖どこか愛情に満ちていて、思わずりんごを手にとった。
結局エレナは勧められるがままに、真っ赤なりんごを買い込んだ。上手く乗せられてしまったが、多めにおまけをつけてくれたのだから文句は言うまい。さあどうやって食べよう。蜜が詰まったりんごは甘くて、そのまま食べても美味しい。小ぶりなものは、定番のアップルパイにしようか。
祖母はカスタードクリームがたっぷりと入ったアップルパイが大好きだった。他の領地から嫁いできた母は、このカスタードクリームを邪道だと思っていたらしい。母の地元ではレーズンとシナモンがたっぷり入ったものこそが至高だったのだとか。それが今ではアップルパイを出せば嬉しそうに口に運んでいる。人はどんな場所であっても、ゆっくりと時をかけて馴染んでゆくのだろう。
ヘルトゥはどちらが好きだろうか。ここ数日見かけない男のことを思い浮かべて、エレナは慌てて首を振る。甘酸っぱい香りを思いっきり吸い込めば、りんごがきらきらと輝いた。冬の朝には息の白さとりんごの赤が良く似合う。
そこで帰っておけばよかったのだ。どうして大通りをさらに進んでしまったのだろう。ただ流行りの店を覗いてみたかっただけなのに。
今まさに思い浮かべていた男が、お洒落な店で寛いでいた。ここはマスターが豆から煎ってくれるコーヒーが美味しいのだとか。だからあのカップの中身は香り立つコーヒーなのだろう。いつもと違うオフィーリア風の白いシャツがよく似合っている。無造作に羽織っただけなのに、それだけで絵になるのはさすがだ。
吸い寄せられるようにその姿を追いかけ、隣に艶やかな女がいることに気がつく。豊かな胸と細い腰を引き立てる華やかな装い。極上の女は、気だるげに煙草を吸う。その爪の先までいちぶの隙もない。飾り気のない自分の姿を思い出して、エレナは下を向いた。
女はヘルトゥの頬に唇を寄せる。くすくすといたずらに笑う女の喉を、ヘルトゥがついっと撫でるのが見えた。その自然な動きに、ふたりが親しい間柄であることが嫌でもわかる。ヘルトゥの微笑みは、変わらない。それはまるでエレナに笑いかけるときと寸分違わず同じようにも見えて。ヘルトゥと呼ぶ女の甘い声が、すぐ耳元で聞こえるような気がした。
ああ男にとって自分など、たくさんいる女のうちのひとりに過ぎないのだ。今までおぼろげに理解していた事実を突きつけられて、さっと血の気が引くのがわかる。指先が小さく震えているような気がして、ぎゅっと荷物を握りしめた。
わかっていたつもりだった。美しく、何にも不自由しない男が、自分を特別扱いすることはないのだと。ただあまりにも優しいから、つい勘違いしてしまった。それがどうしようもなく恥ずかしい。ひとりのぼせ上がって、馬鹿みたいだ。目頭がじんと熱くなった。浮ついた気持ちがみるみるしぼんでゆく。
もう一度買い物袋を抱え込む。華奢な女性ならこんな荷物を抱えて歩くことはできない。それなりの家の女性なら、そもそも使用人にまかせて、自分で何かをすることもない。先ほどまで鮮やかな色をしていたはずのりんごが、妙に色褪せて見えた。
ひとりでも大丈夫。それは決して悪いことではないはずなのに、どうしてこんなに寂しいのか。腕に食い込む荷物の重さが煩わしい。
泣くな、泣くんじゃない。
エレナは唇を噛み締めて歩く。ヘルトゥは何も悪くない。遊びを本気にしたエレナが悪いのだ。そもそもエレナは、ヘルトゥから名前で呼ばれたことすらない。男はただ「君」とだけ呼ぶ。すべての女に平等に優しい男は、その実ちっとも優しくない。
ずんずん歩けば、あっという間に家につく。山間での軍事訓練や、砂漠での匍匐前進に比べたら、買い物袋を持って家まで帰るくらい準備運動のようなもの。でもこんな特技は、あの男の隣に立つ女には不要のものだ。
こういうときはただ黙々と働くに限る。エレナは凍るように冷たい水で手を洗ってから、ゆっくりとりんごの皮を剥く。小さく刻んで砂糖と一緒に煮込もう。弱火にかけて、ゆるゆると木べらで混ぜるのだ。悲しみも切なさも、煮込んでしまえば形もなくなって消えてしまう。
りんごは、花と実と木で花言葉が違っていたとエレナは思い出す。りんごの実の花言葉は、『後悔』だ。
行かなければ良かった。
聞かなければ良かった。
ことこと、ことこと。ジャムを煮る。
見なければ良かった。
知らなければ良かった。
ことこと、ことこと。りんごが透き通る。
出会わなければ良かった。
好きにならなければ良かった。
ことこと、ことこと。木べらにもったりとつくようになったら、火からおろしてゆっくりと冷ます。
煮沸した瓶にジャムを詰めていて、左腕が妙に軽いことに気がついた。あの真珠のブレスレットがないのだ。手を洗った時にブレスレットがあったか、それさえも定かではない。置き忘れたか、あるいはどこかに落としたのか。さっと顔が青ざめるのがわかる。
あんな男のくれたものなど忘れてしまえ。
そう思えればどれだけ楽だろう。それなのに涙があふれそうになる。暗くなる前に探さなくては。慌てて飛び出してきたせいで、この寒空の中、上着もない。身体が芯まで冷たくなる。泣けないエレナの代わりとでも言うように、雨が降り始めた。
あのブレスレットは、エレナの恋心そのものだ。例えヘルトゥに振り向いてもらえなくても、自分の気持ちを乱暴に捨ててしまうことなんてできない。道端でしゃがみこむエレナのことを、街を行き交う人々は気にすることなく通り過ぎてゆく。
「風邪を引くよ」
そっと傘が差し出された。顔を上げなくても、誰かなんてわかる。こんな風に手を差し伸べてくれるのは、王子様だと相場は決まっているのだ。ただ自分がお姫様ではないというだけ。ああ、やっぱりこの男は優しくて残酷で、甘くて苦しくて、大好きで大嫌いだ。エレナはそっぽを向いたまま呟く。
「どうしてもブレスレットが見つからないんだ」
「こんなに冷たくなって」
何もかもお見通しとでもいうかのように男はふわりと微笑む。自分が濡れるのも厭わずに肩を抱き寄せられた。
手を引かれて連れてこられたのは、ヘルトゥが借りているという宿屋の一室。
濡れた服を脱ぎ、お風呂につけこまれる。すっかり温まって風呂から出れば、手渡されたのはホットワイン。前に酒場でサングリアを飲んでいたのを覚えていたのだろう。ふうふうと冷ましながら飲み込めば、じわりと体の内側に熱が広がってくる。
「おいで」
ゆるく抱きしめられれば、身体から力が抜けていく。ああ、お酒を飲んでいるせいかとエレナは納得した。あのときこんな風に素直に甘えられたのも、きっと酒の力を借りていたから。そうでもしないと、自分の気持ちすら認めることが難しいなんて。男がどんな顔をしているのか、エレナからは見えない。だからこそ今だけは素直に話せるのだ。
わがままで、ごめん。
迷惑をかけて、ごめん。
好きになってしまって、ごめん。
でもどうかお願いだから……。
「どこにも行かないでくれ」
それは今まで言えなかったエレナの本音。聞こえないでほしいと思ったけれど、確かにヘルトゥの耳には届いたのだろう。一瞬、男の身体がこわばるのがわかった。ああ言わなければ良かったと思いながら、それでも言わずにはいれなかったのだとエレナは目を閉じる。どうしようもなく眠くて、ゆっくりと意識を手放した。
エレナが目を覚ました時、そこは自宅の一室だった。すべては夢の中の出来事だったかのよう。なぜだろう苦しくてたまらないのに、涙の一粒もこぼれない。不埒なことをされた跡はひとかけらもなくて、それもまたエレナは悲しかった。抱く価値もなかったか、面倒な女だと思われたのか。
けれど、それを聞くことはエレナには叶わない。それ以来、ヘルトゥはエレナの前に姿を見せなくなったのだから。