6.朝市の出来事
いつかお菓子を売ってみたい。そう自覚して、まずは露店の視察という名目で、ヘルトゥと出かける約束をした朝市が立つ週末。
早朝にも関わらず、やけに庭が騒がしい。窓から身を乗り出せば、エレナと同じく軍に従事する祖父が、剣を握る後ろ姿が見えた。なぜこんな朝早くから剣を振り回しているのか。ちらりと見えた祖父の剣の相手にも心当たりがあって、エレナは部屋を飛び出した。
庭には祖父とともにヘルトゥがいた。男の薄紫色の髪がたなびき、ゆったりとした独特の衣装が風をはらんで翻った。この男、剣まで嗜むのか。考えてみれば、男は旅を続ける吟遊詩人なのだ。身を守る術に長けているのは、当然のことかもしれない。
迎えに来たヘルトゥに、祖父が襲いかかったのかもしれない。止めなければと飛び出したのに、庭に踏み込んだ途端、エレナは言葉を失った。自分も剣を嗜むからこそ分かる、達人同士のやりとり。エレナはただじっと、ふたりの動きを目で追いかけるしかできなくなる。
どちらかと言えば短気な祖父は、待ちよりも攻めが好きなタイプだ。力強く硬派な剣さばきは、一昼夜で身につくようなものではないことを、白髪混じりの髪が物語る。エレナが目指すたくましい背中には、まだまだ追いつけそうにない。
一方繰り返される攻撃を軽やかに避けながらも、ヘルトゥも動きを崩さない。エレナは小さく息を吐いた。美しいと思うと同時に、悔しいのだ。経験の差は、技術や理論では埋まらない。この男もまた、長く旅を続けたことの無いエレナでは、どうあがいても届かない高みにいる。
ヘルトゥは、こともなく滑らかに動いてゆく。扱う曲刀は、それほど大きなものではない。旅に差し支えのないように小振りなものを選んでいるのだとしたら、それは己の腕に自信があるのだろう。リーチが短い分、相手との接近戦になるのは必然なのだから。
勝負は一瞬だった。祖父が一歩踏み込むのと同時に、ヘルトゥがわずかにたたらを踏んだ。かわし損ねた衝撃で、ヘルトゥのシャムシールが弾き飛ばされる。降参だというように、彼は両手を挙げた。直前に目があったように思ったのは、エレナの気のせいだろうか。
勝負に勝ったというのに、なぜか祖父はひどく機嫌が悪い。
「最後、わざと手を抜いただろう」
唸り声をあげる祖父に向かって、にっこりとヘルトゥは微笑む。滅相も無いとでも言いたげなその表情はとても綺麗だ。祖父はむすくれたまま、屋敷に帰ってしまった。大きな手のひらでエレナの髪をぐしゃぐしゃにするのも忘れない。
それにしても、まったくもってわけがわからない。エレナは首を傾げる。ふたりは初対面かと思ったが、そうでもないらしい。剣の応酬は、決して殺気溢れるものではなく、むしろ親しみを感じるものだった。飲み友達には見えないが、一体どこで知り合ったのか。
「さて、それじゃあ行こうか」
祖父との関係を問おうと口を開く前に、先手をとられてしまった。そのままなんとなく流されてしまう。
空気が冷たいとはいえ、あれだけの動きをして少しも汗をかいていない男の姿に、エレナはどきりとした。どこにいても男の香りは甘く立ち上っている。くらりとよろめきそうになるのを、なんとか踏みとどまった。
視察なのだからと動きやすさを重視したが、もっとまともな格好をすればよかった。視線を下に落とせば飾り気のない胸元が寂しくて、アクセサリーでもあればとため息をつきたくなった。
服装にこだわりなどないはずなのに、どうしてこんなことが気になるのか。涼やかな吟遊詩人の顔を見て、エレナはすとんと腑に落ちた。ああ、自分はこの美しい男に可愛いと思われたいのだ。そんなことを考える自分が恥ずかしくて、エレナはそっと顔を伏せる。
そのままふたりは家を出て、大通りへゆく。ちらちらと道行く人たちから視線を向けられているように感じるのは、気のせいではないだろう。どうせちぐはぐなふたりだと思われているに違いない。それもこれも、隣の男が格好良すぎるのが悪いのだ。
しかもいつのまにか、手に串焼きを握らされている。エレナの好物だ。自然と目で追ってしまっていたのかと、自分の食い意地に腹が立つ。
「こういったものは好きではないかな」
「いや、そんなことはない」
「良かった。私はこれが好きなんだ。ひとりで食べるのも味気ないから、付き合ってくれると嬉しいよ」
お上品な女性なら絶対に手を出さない食べ物を、自分が食べたいからと理由をつけて手渡してくれるこの男は、やっぱり手馴れている。
「ほら、ここ」
密かな好物をもぐもぐと咀嚼していれば、急に頬を指された。ヘルトゥがくつくつと喉を鳴らし、ようやくエレナは顔にソースがついていることに気がつく。これはさすがに恥ずかしい。ハンカチを取り出そうとしていると、綺麗な指先でぐっと拭われた。そのままヘルトゥが指を舐めあげる。
にっこりと微笑まれてしまえば、エレナはもう何も言えない。きっとこの美しい男にとっては、とりたてて意味のない仕草なのだ。緊張するだけ損だと、必死でエレナは自分に言い聞かせる。
「喉が乾いたな。飲み物を探して来よう」
少しだけ距離が離れた男の背中を見て、ほっとした。一緒にいるだけで苦しくて、それなのに目が離せなくなる。こんな気持ちなんて知りたくなかった。
彼が戻るのをその場で待っていると、すぐそばの路地から甲高い悲鳴があがった。どうやら揉め事らしい。誰も気がつかないはずはないだろうに、かかわり合いになるのを嫌がってか、そこへ向かう人影はない。
エレナはすぐに黙って路地を目指した。こういうことに首を突っ込むから、女らしくないと振られてしまったのを思い出す。それでも、誰かが困っているなら見過ごせない。この行動の結果、ヘルトゥが何と言うか考えないようにして、エレナはひとりでそこへ向かう。
路地にいたのは黒髪の若い女。こちらを見てほっとした表情を見せるその女に、エレナは覚えがあった。軍部が世話になっている公娼のひとりだ。きちんと国に登録をして働いている彼女たちは立派な職業人だが、そう考えない人間は多い。例えば、今も彼女の体を遠慮なく弄っている酔っ払いのように。
さっと腕まくりしてエレナは酔っ払いに近づいた。男の腕を軽く握ると、思いっきりひねってやる。騒がれても面倒なので、腹と股間にしたたかに蹴りを入れておいた。女も腹に据えかねたのか、靴のヒールで散々に男の手のひらを踏みつけている。エレナは女の手を取り、酔っ払いを放置してさっさと大通りへと戻った。
「どうも」
そっぽを向いたままお礼を言われて、少しだけ可笑しくなる。居心地が悪いのだろう。軍にいたときはなぜだか目の敵にされていた。もしかしたら軍のなかに好きな相手がいたのかもしれない。好きな男の側にいる女への嫉妬を、今のエレナは理解することができた。
「軍、辞めたんだって? 今まで八つ当たりして悪かったわね。お詫びに良い休憩宿教えよっか?」
この流れで、宿の紹介だと? 眉を寄せたエレナのことをどう思ったのか、女は笑いながら後ろを指差した。
「その人とデートなんでしょ?」
「ち、違う!」
誤解を解こうと必死に顔を横に振りながら、恐る恐る後ろを振り返る。彼はどんな顔をしているだろう。苦い顔をしたあの日のエステバンのように、ヘルトゥも美しい顔を歪めて、余計なことに首を突っ込むなと言うのだろうか。冷たく言い捨てられる姿を想像して、エレナはうっすら涙目になった。
「怪我はないかい?」
かけられた言葉が厳しいものではなかったことに安堵する。よく見れば、ヘルトゥの足元にはさっきの男と似たような風貌のごろつきが転がっている。仲間がいたらしい。こういう碌でもない連中は、徒党を組むのが好きなのだ。思わずヘルトゥにうろんな眼差しを向ければ、酔って転んでしまったんだろうねと微笑まれる。頬に靴の足跡をつけて白目を剥く酔っ払いを見て、エレナはくすりと笑った。
エレナを止めることもなく、かといって突き放すわけでもない絶妙な気遣いと距離感。やっぱりこの人は優しい。優しすぎて欲張りたくなる。ずっと隣にいられたらいいのに。独り占めできない男の横で、エレナは笑う。何故だろう、少しだけ泣きたくなった。
「目をはなすと、どこかへ行ってしまうから」
にこやかに手を繋がれて、エレナは甘い幸せに酔う。腕まくりをしているせいで露わになった傷跡を優しくなぞられて、思わずため息が漏れた。綺麗な男の手は意外と硬くがっしりしていて、剣を持つ人間らしい。このまま時間が止まってしまえば良い。エレナの冷たい手とは対照的に、男の手はじんわりと暖かかった。