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4.巡る風の歌

 冬の足音が聞こえはじめる中、久しぶりに暖かな日差しに恵まれたある日。手作りのお菓子を詰めたバスケットを手に、シンプルな白のブラウスと黒いパンツという軽装で、エレナは街外れにある墓地を通り抜けようとしていた。


「まるで春のようだな」


 緑豊かなこの場所は、世界から切り取られたかのように静かだった。木々のざわめきと、小鳥の鳴き声だけが聞こえるこの墓地には、祖母が眠っている。


 エステバンの婚約披露パーティで、テーブルに揃えられた菓子を食べてエレナがまず最初に思い出したのは、祖母のことだった。優しい甘さのお菓子は、祖母が昔よく作ってくれたエレナの好物によく似ていたから。


 自分のお墓に飾る花があるのなら、その分で教会に寄付をするように、と一風変わった遺言を残した祖母の想いを引き継いで、エレナは最近、この墓地を抜けた先にある教会へ通っている。


 残念ながらエレナには寄付をするお金は無いが、代わりに、軍で鍛えた体力が自慢の身体と、祖母お手製のお菓子のレシピがある。お菓子作りは、やってみると意外と楽しいものだった。自分にも女らしい一面があるじゃないかと思うのは、さすがにうぬぼれすぎであろうか。


 足をすすめるうち、どこからか歌が聞こえてきて、エレナは小首を傾げた。馴染みのない旋律と聞き取れない言葉は、それにも関わらずなぜか惹かれてしまう力強さを秘めている。もっときちんと聞きたい。エレナは、バスケットを握りしめたままゆっくりとその声を辿り始めた。


 高く低く伸びやかに、声が晩秋の空に吸い込まれてゆく。風が吹けば、人の声などかき消されてしまうもの。それなのに、歌声はまるで風に歓迎されているかのように、ますます美しく響き渡るのだ。この声に色が付いているのなら、それは柔らかな翠色をしているに違いない。


 ふわりと甘い香りが鼻をくすぐるのと、薄紫色の髪が視界に広がるのはほとんど同時だった。


「あなたは……」


 思わず呟いたエレナの声は、ごく小さなものだったはずだ。それにも関わらず、男は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。ただそれだけなのに、目が離せなくなってしまうのはなぜだろう。


「すまない、邪魔をするつもりはなかったんだ」


 エレナがそう謝罪すれば、男は気にするなと言うように微笑んだ。


「初めて聞く曲だが、とても力強いのだな。それでいて優しげで、不思議な気持ちになる歌だった。墓地で歌うくらいだから、この曲は鎮魂歌(レクイエム)なんだろう?」


 近づいて足元を眺めてみれば、簡素な墓石が妙に真新しいことに気づく。彼らが長い旅に出かけた日はみな同じ。この国に革命が起きた日だ。エレナは冷たい石に刻まれた数字を、白い指先でゆっくりとなぞってみる。胸に込み上げてくるのは、穏やかな憧憬だった。


 男を見上げれば、目を細めて空を見つめている。空の向こうに、何を見ているのだろう。男の瞳を覗くと、まるで深い深い海の底を覗き込むような不思議な感覚がした。


「ああ。これは私の故郷の歌だ。忘れてしまわないように、ときどきこっそり歌うんだよ」


 吟遊詩人は旅から旅へ生きるもの。ほんのひと時をともに過ごせても、いつかはどこかへ消えてしまう。形の無いものは、忘れてしまえばそれで終わりだ。自由というものは、その実、深い孤独と隣り合わせなのかもしれない。


 異国の墓地の片隅で、革命で散った名もなきものたちへ安息の歌を捧げる男が、一体どういう経緯で旅人となったのか。エレナは知るよしも無かったし、あえて聞きもしなかった。ただ、その姿があまりにも寂しくて。何か声をかけようとするも、結局何も言えずに押し黙る。気の利いた言葉ひとつ出せない自分を恥じて下を見れば、抱えていたバスケットが目に入った。


「良かったらこれを」


 思わず小さな包みを差し出して、そんな自分にエレナは苦笑する。大の男にこんなものを差し出してどうしようというのだろう。案の定、男は少しだけその翠色の瞳を大きくしていた。あなたが泣いているように見えたからなんて、どうして目の前の男に言えるだろうか。男は、道端で転んで泣いている幼子とは違うのに。


「祖母が生前好んだお菓子なんだ」


 だからエレナは、ただ渡したものの説明だけを口にする。実は自分が作ったものだなんて、おくびにも出さない。


「ポルボロンという」


 口の中でお菓子が溶けてしまう前に、「ポルボロン」と三度唱えられたら幸せが訪れるのだとエレナが幼いころ、祖母から聞いた。流れ星を見つけるよりも簡単で、そのくせ三度唱えるのは大人になった今でもできないまま。


 目の前の男は動かない。よく知らぬ人から受け取るお菓子というのは、気味が悪いのかもしれない。はたとそれに気がついたエレナは、少しだけ困ってしまった。何か理由があれば受け取ってもらえるだろうか。


「この間の、礼だ。あなたのおかげで、決心がついたから」


 これは、事実だ。あの酒場でこの男に出会わなければ、エステバンの婚約披露パーティーだって欠席したはずだ。あの優しい味のお菓子を食べることもなく、自分を偽り続け、軍の広報科の片隅で腐っていたことだろう。そうならなくて、良かったと思う。今のエレナは幸せだ。だからあなたにも幸せが訪れますように。言葉に出せない思いを込めて、できるだけ可愛らしく見えるように頑張って笑ってみる。


「ありがたくいただくよ」


 軍部において、エレナの笑顔はたいてい不評だったのだが、今回は何とか形になっていたらしい。お菓子を受け取った男に向けてエレナは別の包みを口にしてみせる。毒はないという意思表示だ。そんな物騒なことを考えるようになってしまったのは、大人になったせいか。はたまた軍に勤めたせいか。行き遅れのご令嬢は、滑稽にも墓場で魔法の言葉を唱えてみる。


「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」


 やっぱり、今日も三回唱えることはできない。けれどエレナは、こうやって誰かとおまじないを唱えることができるということが、嬉しいのだった。


 どこか寂しそうな男の本当の笑顔が見たい。けれど、その笑顔を見ることになるのは、きっとエステバンの婚約者(イザベル)のような女性たちに違いないのだ。とも思うと、澄んだ空のきらめきが少しだけ胸に痛かった。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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