表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/29

外伝8.愛の言葉はショコラに込めて

 今朝はいやに冷える。ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ちつつ窓に目を向ければ、飛び込んできたのは空から舞い落ちる雪の花。今年は例年よりも初雪が遅かったらしい。窓を開けようと起き上がったところで、慌ててエレナは思いとどまった。


 時刻はまだ夜明け前。ベッドで横になったままの夫は、規則正しい寝息を立てている。昨夜遅くまで起きていたのだ、無理はない。どれだけ夜更かしをしていてもエレナが決まった時間に起きることができるのは、軍人生活で培われた特技なのだろう。隣で眠る夫を眺めながら、エレナはうっすらと微笑む。


 それに、とエレナは思う。旅慣れているけれど、実は細やかな夫がここまで深い眠りにつくことができるのは、この家に安らぎを覚えている証なのだ。窓を開けて冷たい空気が吹き込めば目を覚ましてしまうかもしれない。エレナは穏やかに眠るヘルトゥの横顔を見るのが好きだった。夫の眠りを邪魔するのは本意ではない。


 しっとりとした髪に指を絡ませ、自分だけに許された甘い時間を楽しんでいれば、ふと脳裏をよぎるものがある。亡き祖母は、かつて初雪が降ると、とびっきり美味しいショコラを祖父にプレゼントしていた。どうやら祖母のふるさとでは、初雪が降ると恋人や結婚相手にショコラを贈る習わしがあったらしい。にこやかに微笑む祖母とショコラを片手にむっつりとした顔の祖父。今思えば、あれは不器用な祖父の照れ隠しだったのだろう。


 祖母が腕によりをかけて作ったショコラを口にできず、半べそをかきながらおねだりしたこともまた懐かしい。エレナをやんわりとたしなめた祖母は、なんと言ったのだったか。これはあげられないわ。一生をともにする相手ができたならあなたが作って渡すのよ。確か、そんな台詞で自分をなだめてくれたはず。


 気温の高い夏は、ショコラにとって天敵だ。すぐにだれてしまうため作るのも難しいし、保存にも向いてはいない。何とも理にかなった風習だったのだなと、エレナは妙なところで感心した。せっかく思い出したのだ、これをいかさない手はない。エレナは夫の目尻に触れるか触れないか、そっと口づけを落として立ち上がる。ありがたいことにここはお菓子屋なのだ、善は急げというではないか。


 軽やかに階段を降りれば、いつもの仕事場の道具たちがきらきらと輝いて見えた。彼らもまた、エレナとともにヘルトゥへの特別なプレゼント作りを楽しみにしているかのよう。エレナはくすりと笑いながら、材料を並べてみる。とびっきり上等なカカオマスをはじめ、エレナがこだわり抜いた材料たち。さあどう形作ろうか。


 エレナは早朝から作業に勤しむ。時間が経つのも忘れてショコラ作りに没頭することいくばくか。出来上がったのは三種類。


 ひとつは、ココナッツのホワイトチョコガナッシュ。ミルクチョコレートでコーティングすればなめらかな口どけとともに、ふわりと愛しいひとの香りに包まれる。


 もうひとつは、ピスタチオペーストの若草色が鮮やかなホワイトチョコベースのガナッシュ。夫の瞳の色はもっと透き通った翠色だけれど、この若草色もなかなかに綺麗だとエレナはひとりご満悦だ。


 そして最後のひとつは、薄紫の色彩がのっているカシスガナッシュ。薄紫のその色は、先ほどまで眺めていた夜明けの空に良く似ている。そう、いつまでも包まれていたいしっとりとした夫の髪色と同じ色だ。出来上がったばかりのそれをいそいそと箱に詰めると、エレナは仕事場を後にする。


 階段を上ったその先。愛しの夫は、いまだ静かに眠っている。そっとその枕元に贈り物を置くと、エレナは美しい男の耳元に自身の唇を寄せた。


「愛してる。これから先もずっと一緒だ」


 普段からそう素直に言えたならどんなに良いことか。気持ちを言葉にしなければ相手に伝わらないことは十分理解している。けれどエレナには、その言葉がどうしても言えない。だからこうやって想いを形に変えてみるのだ。ショコラの甘さは、同じだけ甘いエレナの恋心そのものなのだから。


 エレナはヘルトゥを起こすことなく、また仕事場に戻って行く。目が覚めた夫は、どんな顔でプレゼントを口にするのだろう。いつもはいろんなことを教えてくれる夫だが、今度ばかりはエレナが夫に教えてあげる番だ。帰る場所を無くしてしまった夫だけれど、あなたの居場所はこの国にちゃんとあるのだと伝えたいから。少しずつオフィーリアの習わしに染まっていく夫を想像して、エレナは口角をあげた。


 さて、甘いものがお好きな領主様の奥様をイメージキャラクターにしたプリン開発の件もあることだし、奥様にもショコラをお届けしてみようか。お酒が苦手な奥様にはカシスは好まれないだろうから、ホワイトチョコレートをベースに苺とブルーベリーを合わせてみるのも良いかもしれない。ほわあと瞳をまんまるにする奥様は何より可愛らしいことだろう。


 オフィーリアの一地方の風習だった「初雪の日」だが、それを知ったイザベルの手によって大々的な行事となるのはもう少しだけ先のお話。時好のショコラの種類にさえイザベルが関わることになるのだ。笑いの止まらないイザベルの横に黙って立つエステバンはショコラを貰えているのかどうか、それは誰にもわからない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
こちらもどうぞよろしくお願いいたします。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ