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外伝7.勝利の美酒と女神の祝福

 エレナとヘルトゥが葡萄畑の有名な町へ出かけたのは、早朝に吐く息が白くなるような時期のことだった。まだ紅葉の名残も残っているとはいえ、寒さは一段と厳しくなった。オフィーリアに雪が降る日も近いだろう。


 お目当てのワイナリーは、のどかな山の中腹にあった。道のあちこちで、もこもことした羊たちがたむろしてる。葡萄畑に農薬を撒く代わりに、羊たちが雑草刈りの任務を遂行中らしい。可愛らしさに頬を緩めていたエレナがふとヘルトゥを振り返って見てみれば、男は何とも嬉しそうな顔で羊を撫で回していた。羊のほうも悪い気はしないのか、もっともっとと言うように頭を擦り付けている。


 冬を乗り越えるための衣替えを、彼らはしっかり終えていた。ころころの毛糸玉のようになった羊は一層可愛らしい。何よりいつもは落ち着き払ったヘルトゥが、動物たちと少年のように無邪気に戯れている。ちょっぴり目つきの鋭い山羊だってほらこの通り。ヘルトゥの魔法の手にかかればくたりと横たわってしまう。それを飽きもせずに撫でているヘルトゥは、どうやら根っからの動物好きらしい。はたと我に返った男が少しばかり恥ずかしそうにしている様子が可笑しくて、エレナは普段のヘルトゥの代わりにくすくすと笑ってみせた。


 存分に動物たちとのふれあいを楽しんだら、お次は目的の葡萄畑だ。鮮度も良く瑞々しい葡萄を摘まみながら、エレナはケーキに最適な葡萄を吟味する。ジャムにするならこちら、タルトにするならこちら。甘みと酸味、皮の厚みなどを確かめながらそっと口に含んでゆく。真剣に選ぶエレナの横で、ヘルトゥはいまだ名残惜しそうに羊たちを見つめていた。


 とっぷりと日が暮れたその後は、併設のレストランでの食事が待っている。田舎町の農園の中にあるとはいえ、どうやら名のあるレストランだったようだ。指定されたドレスコードに合わせて取り出したのはあのマラカイトグリーンのドレス。久しぶりに身につけてみれば、結婚式の日を思い出してついくるりと裾を片手に踊りたくなった。思った以上にエレナも浮かれているのかもしれない。


 店の入り口には、人だかりができていた。何と今夜はワインのお祭りに合わせて店の中で利き酒のイベントがあるらしい。


 ワインのお祭り? 不思議そうなエレナに向かって、店員が嬉々として説明する。古くからこの町で行われ続けてきた地元の小さな祭りを、最近は観光客に向けてもアピールしはじめたらしい。いずれはこの町のワインとともに有名にしていきたい風習だと店員は意気込んでいた。これはイザベルが聞いたら喜びそうな話だ。エレナがうんうんと頷けば、店員はさらに話を続ける。


 果実の風味が強い、爽やかな味わいが魅力的なこの地域のワイナリー自慢の銘柄と、他の地域や国外で生産されたワイン。それらすべてを当てることができれば、このワイナリー秘蔵のアイスワインが手にはいるのだという。


 店員の口からこぼれたアイスワインという単語にエレナは眼を輝かせる。氷点下で凍った葡萄で作られるワインは、手間も時間もかかる上に、量を確保することが難しい。それが手に入るチャンスが転がってきたのだ。喜ばない方がどうかしている。しかし、利き酒という関門にエレナは肩を落とす。いくらお酒が好きとはいえ、ワインの銘柄を完璧に当てられるほど詳しくはない。大体、「枯れ木のような匂いが魅力的なスパイシーな味わい」だとか、「ブルーブラックのインクの香り漂うビロードのような舌触り」などと言われても、エレナにはさっぱりだ。


 とはいえ一縷の望みを賭けて、エレナも利き酒に参加する。幾つか口に含んでいるうちに、ざっくりとどれも美味しいと思うようになってしまった自分が情けなくなった。これが利き蜂蜜などであれば、もう少し善戦できたのだろうが仕方がない。とても正解とは思えない、ぼろぼろの記入用紙を店員に手渡した後は、温かい食事が待っている。ヘルトゥと一緒にレストランご自慢の食事を頂いているうちに、エレナの気分も上昇してきた。そもそも普通に考えれば手に入るはずのないアイスワイン。そんなもののことを考えて落ち込むのは無意味なことだ。じっくりと煮込まれた肉料理に舌鼓を打っていると、ワイナリーのオーナーが現れた。どうやら結果の発表らしい。さて、アイスワインを手にする幸運な人間は誰だろうか。ありもしないドラムロールの空耳が聞こえる。


 耳に飛び込んできた名前を聞いて、エレナは首を捻った。今、まさに夫の名前が聞こえてきたような気がするのだが、気のせいだろうか。じっと目の前の夫を見つめていれば、ヘルトゥは器用に片目をつぶってみせる。ほら、この男はこうやってやすやすとエレナの欲しいものを与えてくれる。不意にエレナは、ヘルトゥに撫でられて道端で寝転んでしまった山羊を思い出した。自分も山羊も、すっかりヘルトゥの手のひらで転がされている。


「それでは優勝者に女神の祝福を」


 どうやらこのワイナリーのご令嬢が、優勝商品とともに口づけをしてくれるらしい。とびきり美人な女性からのキス。ありがちな贈り物だとわかっていたが、エレナはきゅっと唇を噛み締める。ここで表立って反対するほど、エレナは空気を読めない人間ではない。それでも嫌なものは嫌なのだ。少しだけ下を向いたエレナの横で、ヘルトゥがそっと片手を挙げた。


「勝利の女神はもういますので」


 にっこりと微笑むヘルトゥの顔がエレナに近づく。その気障とも言える台詞にどっと観客が沸いた。驚いたのはエレナの方だ。動揺しすぎて口がよく回らない。


「な、な、何を?!」


「おや、エレナがしてくれるのだと思っていたのだけどね」


 あの綺麗なご令嬢からヘルトゥにキスをさせるわけにはいかない。だからといって手を繋ぐだけで精一杯のエレナには、公の場でキスをするというのはいかんせんハードルが高過ぎる。目をつぶってふるふると震えるエレナは、ヘルトゥの服の袂で自分達の顔が観客の視界から遮られているだなんてまだまだ気がつかない。そんなふたりを周囲はやんややんやとはやし立てる。さあふたりの唇が触れるまであと少し。


 店員はといえば、賞品のワインをこっそりと用意し始めた。このワイナリーでも数える程度しか仕込むことができないという貴重なアイスワイン。その味わいは、愛の女神のキスより甘いと形容されている。

夕立様より頂いたイラストに合わせたSSです。

イラストはこちらから

https://20791.mitemin.net/i339888/

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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