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外伝6.秋の日はふたり一緒に

 葡萄畑に行きたいとエレナが言い出したのは、ヘルトゥとふたりで出掛けた散歩の帰り道のこと。肌に突き刺さる日差しもすっかり和らぎ、朝夕などは何か羽織らねば寒いくらいだ。今だって上着を忘れたエレナは、珍しく自分からヘルトゥに腕を絡めている。普段は手を繋ぐので精一杯の恥ずかしがり屋のエレナだって、理由があればこうやって堂々とくっつけるのだ。何て素敵な季節だろう。石畳にふたりの長い影が伸びている。


「葡萄畑?」


 面白がるような声色で相槌を打つヘルトゥを前に、ついついエレナの話は弾んだ。ここから少し離れた田舎町に有名なワイナリーがあること。今が葡萄の旬であること。生食用の葡萄も買えるので店のお菓子に使いたいこと。そこのワインが美味しいこと。そして紅葉を迎える葡萄の赤い葉もまたその町の風物詩であること。こうやって自然に話を促されれば、言葉がうまく出てこない自分だって焦らずにゆっくり話せるし、何だか面白い話をしているような気分にもなる。色男というのは、聞き上手でもあるのだなあとエレナはしみじみ感心した。


「ヘルトゥの国には、紅葉はなかったのか?」


 珍しく饒舌になっていたからだろう。思わず気楽に問いかけて、その瞬間エレナはしまったと唇を噛んだ。さっと血の気が引くのがわかる。男の暮らしていた国は今はもうない。それを知っていたから、一緒に暮らし始めてからもエレナは故郷について聞いたことはないのだ。家族の話だってそう。もちろん聞いてみたいと思ってはいたけれど、口下手な自分では相手を傷つけずに聞く自信がなかったから。それなのに、こんな時に限ってうっかり口を滑らせるなんて。ちらりとヘルトゥの顔色を伺うことさえはばかられて俯いていれば、そっと優しい手つきで唇をなぞられた。


「私の国では、秋の木の葉は赤ではなく黄色になるものだったよ。草原が金の海のように色を変えて、それを見た後はあっという間に冬が来る」


 こんな時は紅葉ではなく、黄葉というそうだ。ヘルトゥは、片目をつぶりながら教えてくれる。気にしないでだなんて野暮な言葉を使わない優しい夫。痛みに揺れる瞳ではなく、どこか懐かしい眼差しで語るその姿がただ救いだ。ふたりの姿は夕焼けに照らされて、茜色に染まっている。一瞬、石畳の代わりに黄金色に輝く草原が見えたような気がした。


 そのまま会話が途切れて、少しだけ歩みが遅くなった。道のあちこちで、小さな露店が商いをしている。珍しいものでも見つけたのか、男が途中で足を止めた。熱心に売り子の話を聞くヘルトゥの横から覗いてみれば、店先に飾られていたのは色とりどりの絹紐だ。それもヘルトゥの衣装のように、どこかエキゾチックな色合いをしている。オフィーリアからずっと遠い場所から、遥々運ばれてきたのだろう。このまま結っても良いが、好みにあわせて編み込めば世界でひとつだけの組紐になるのだと売り子は熱心に勧めてきた。


「何色にしようか」


 どうやらヘルトゥは乗り気らしい。そういえばこの男は料理も楽々とこなして見せるくらい手先が器用なのだ。組紐を作ってくれるらしい夫の言葉を聞いて、エレナの表情が申し訳なさそうなものになる。一番最初に買ってもらった真珠のブレスレットも、すぐになくすような粗忽者だ。また失くしてしまうのが怖いから、アクセサリーの類いはつけたくないのがエレナの本音。だからエレナが日頃身につけているものといえば、結婚指輪代わりの店の鍵くらいだ。


 欲しくないわけではないが、また失くすかもしれないと思うと素直に受け取れない。どう伝えるべきか、エレナが口ごもっていれば、皆まで言わずとも言いたいことは伝わったようだ。ヘルトゥは口元を緩めて、優しく微笑んだ。色を見極めるためにだろう、男は絹紐をエレナの髪に結びはじめる。


「無くなるのがいけないことなら、お菓子だって贈れなくなる。形が消えても構わないんだよ。本当に大切なものは、相手を想うその心なんだから」


 「失くす」ことと「無くなる」ことは違うような気もするけど、ヘルトゥのさりげない優しさが嬉しくてエレナの胸はじんわりと温かくなった。夫の言葉には、甘いお菓子と同じように相手を思いやる心が当たり前のように込められている。


 まったくこんな夕焼け空の下で色なんか確かめられるのだろうか。なすがままにされるのも妙に悔しくて、エレナもまたヘルトゥに似合う色を探し始める。朝焼け色の髪に似合うのははて何色か。


 多くを持ちたがらない男は、形にならない思い出を胸にしまって生きているのだろう。甘いものも酸っぱいもの全部ひっくるめて。ふたりの思い出もこれからたくさん作ればいい。酸っぱい葡萄(どうにもならない過去)を悔やむより、これから食べる甘い葡萄の話をしよう。そんな風に囁かれれば、もはやエレナの心は夢の中だ。紅く染まった葡萄の葉と、グラスの中で揺れる赤い酒を思い浮かべながら、エレナは売り子が隣にいるのも忘れてほんのりと頬を朱に染めた。


 この組紐をつけて旅行に行くのが楽しみだ。葡萄畑には、畑の管理も兼ねて牧場もあるらしい。可愛らしい羊や山羊と遊んだり、久しぶりに馬に乗るのも楽しいだろう。これはワイナリーについてからのお楽しみにしておこうと、ヘルトゥが驚く顔を想像してエレナは笑みをこぼした。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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