外伝4.母の愛はいつまでも
子どもを片手の数ほども産んだとは思えない美しい夫人が、居間でせっせと銀の食器を磨いている。たおやかな容姿とほっそりとした白魚のような手には、布巾よりも刺繍糸の方がよく似合うのだろうが、ここには余分な使用人などいない。効率主義を掲げる夫人としては、ハンカチなどに刺繍を施すよりも食器を磨くことが優先されるのは当然のことであった。
「今頃になって気がつくなんて、我が子ながら馬鹿な娘だこと」
今頃忙しなく菓子作りに励んでいるのであろう娘を思い浮かべ、夫人は小さくため息をつく。そのまま心の澱とともにスプーンの曇りを落とした。
「あの歳まで軍属でいたことが、どれだけ特殊なことなのか理解しているのかしら」
優しい微笑みとは裏腹に、夫人の口調は手厳しい。そもそもとりたてて裕福ではないこの家が、借金もせずに日々やりくりできているのは、ひとえにこの夫人の辣腕によるものである。容姿通りのほんわかした性格であるはずもない。
貴族子女たちのデビュタントは遅くても十代のうちだ。そこから考えれば二十代も半ばまでエレナを自由にさせていたこの家が、どれだけ特別なのかわかるはずなのだが。
「教会に通っているのも、見逃されているだけだなんて思ってもいなかったのでしょうね」
エレナにとっては祖母、彼女にとっては姑の遺言は確かにあった。とはいえ、いくら「教会へ喜捨を」と言われていたところで、令嬢がふらふらとひとりで出歩くのを放任するのが当たり前であるはずがないのだ。使用人用の勝手口から出かけているのを、あえて目溢ししてやっていただけである。そこがわからないところが、娘らしいと言えば娘らしい。
「本当に馬鹿な子」
磨き終わった銀食器を食器棚に並べ、代わりにティーセットを取り出す。透し模様が美しい真っ白な陶器。
ふっと、彼女の口もとが緩んだ。エレナは甘え方を知らない。それは母親である彼女から見てももどかしいものだった。どちらかといえば苛烈な性格の彼女と、言いたいことを内にしまいこんでしまうエレナでは、どうしたって馬が合わない。自然と会話も減ってしまう。それでも彼女なりに娘の幸せを願っていたのだと、いつかエレナが知ることはあるのだろうか。いいや、知る必要のないことだと夫人は笑う。それを知ってほしいと思うことは、きっと愛情の押し付けでしかない。
引き出しから紅茶の缶を取り出す。これをお土産にと彼女にくれたのは、舅だったか。
エレナが懐いていたのは舅、つまりエレナにとっての祖父なのだが、そのせいで何をどう拗らせたのか、娘は花嫁修業をするどころか女だてらに軍人になってしまう始末。まあこの件については、孫に懐かれてついつい甘やかしたあの男が戦犯だろう。しかも何とか普通の幸せをと思いながら用意した縁談の結果がアレなのだ。婚約がまとまらなかった時の舅の怒りは思い出したくもない。
舅としては、貴族社会には馴染めないエレナでも、裕福な商家であれば少しは暮らしやすいだろうと慮ったらしい。とはいえ貴族相手の商売をやっている以上、エレナと縁があるはずもないのだ。ちらりと脳裏に野心家の青年の姿がよぎる。
「エレナ様の良さが損なわれてしまいますので」
縁談を断る際にも自分に非がないように理由を述べていたエステバンはいかにも商人らしいが、その理由がまたその通りだからこちらとしても引き下がるより他に仕方がない。万が一、エレナがあの男に嫁いでいたとしたら、愛情はともかくきっとエレナは心を病んだであろうから。あの娘は自由のない場所では生きていけない。いつもどこかへ行きたいと大空を夢見る娘。その癖、自分が何をやりたいのかも理解していないからやきもきしたものだ。だが、それももはや心配要らないだろう。
テーブルの上には箱に入った色とりどりのケーキたち。娘の作り上げた甘いスイーツを皿に並べ、夫人は紅茶を淹れる。
もしもエレナが素直に甘えられるような男性を見つけたら、相手が誰であれ逃さないようにどうにかしなくては。そう思っていたところに現れたあの美しい男。一目見てエレナの手に負えるような男ではなさそうだと思っていたのに、何をどうやったものか結婚し、パティスリーの開店にまでこぎつけた。娘は幸せにやっているのだろうか。
気になってちらりと店の前を通ってみれば、不器用な娘がはにかんだように自分に笑いかけてきた。本当は買う予定などなかったにも関わらず、勧められるがままにケーキを買い込んでしまったのはなぜだろうか。甘い甘いケーキには、きっと娘の幸せがたっぷりと込められている。自分では与えてやれなかった温かい愛情とともに。
ティーカップの中を覗き込めば、どこか満足そうな自分と目が合った。砂糖とミルクをたっぷり入れてかき混ぜれば、ティーカップはもう何も映さない。




