外伝1.定休日には夜更かしと朝寝坊を
今日はお店の定休日。久しぶりに朝寝坊をしたエレナは、大好きな旦那様の横で小さなあくびをした。
本当はいつも通り夜明け前に目が覚めたのだけれど、今日がお休みだと知っているヘルトゥにベッドに留め置かれたのだ。
「まだ日も出ていない。エレナ、惰眠をむさぼろう」
そんな風にふわりと微笑まれてしまっては、エレナから否定の言葉など出て来るわけもない。すっぽりと腕の中に納められ薄紫色の髪に包まれて、エレナは温かい胸に頬を寄せる。そうして頭を撫でられていれば、いつの間にかまたぐっすり夢の中。気がつけば日はもうすっかり高く昇っている。おはようのキスでいつも通りエレナが赤面すれば、くすくすと可笑しそうに笑われた。
「せっかくだから、私が朝食を作ろう」
三階にある日当たりの良い寝室から、二人一緒に二階へ降りてくると、ヘルトゥはエレナをリビングのソファに座らせる。そのまま悪戯な顔をして、片目をぱちんとつぶってみせた。軽くシャツを羽織っただけの姿で男はキッチンに立つが、それもまたとても様になるのだ。夜の店で歌い手として働いている時とはまた違う美しさ。食事用のパンを切り、卵を割る姿をエレナはうっとりと眺める。
その手際の良さを見ていると、自分の旦那様には苦手なことなど何一つないようにも思う。歌が上手くて、剣も得意、人当たりも良くておまけに格好良い。そんな中、結婚してから初めて知ったヘルトゥの不得手なものを思い出し、エレナは小さく頬を緩めた。実はこの美しい旦那様は、意外なことに片付けが苦手なのだ。
三階にはもともと部屋が二つあったので、エレナとしては一人一部屋ずつ使うつもりだった。特に貴族の男性というものは、書斎というものを持ちたがる。実際に書斎で仕事をしているかどうかはわからなくても、一人になることができる部屋というのは大切らしい。それを踏まえての提案だったのだが、結局のところ、ヘルトゥは自分の部屋を必要としなかった。もともと、彼自身の持ち物が少ない。多くを望まないし、必要としていないのだろうけれど、部屋の中はいつまで経っても殺風景なままだった。あげく、気を使って入るのを控えていれば徐々に埃っぽくなっていく始末。
実際のところヘルトゥは家を空けてしまうことが多いので、在宅の時はぴったり二人でくっついている。結局なし崩し的に、ヘルトゥのものであった部屋は空き部屋となってしまった。いつかお客様を招く時があれば、客間としても使えるだろう。新婚夫婦の元に泊まりにくるような無粋な人間は、今のところ皆無なのであるが。
「何だかご機嫌だね。どうしたんだい」
大好きな旦那様に手料理を振る舞われて、不機嫌になる奥様などいるのだろうか。くすくすと笑うのは男の得意技なのだけれど、今回ばかりはエレナの番。とっくの昔に出来上がっていた料理を前に、へにゃりと笑う。くすくすと笑うつもりがどうも格好がつかない。結婚してから、どうしてだか自分の顔は締まりがなくて困るとエレナは思うのだけれど、ヘルトゥを前にするとついついこうなってしまうのだ。とりあえず、素敵すぎる旦那様が悪いのだとエレナは決めつけた。
ヘルトゥの故郷流にスパイシーに味付けされたふわふわ卵を口の中に放り込む。とろりととろける卵の柔らかさと、少しだけぴりりと残る刺激が、眠気をすっかり取り除いた。紅茶もコーヒーも同じくらい嗜むはずの旦那様が本日選んだのは、少し濃いめに淹れられたカフェラテ。
「昨夜は夜更かしだったからね」
意味深な言葉にエレナはコーヒーカップを覗き込んだまま、顔があげられない。いつまで経ってもエレナはこの手の話題が苦手なのだ。それをわかっていてからかってくるヘルトゥはちょっぴり意地悪。それでもそういうところまで含めて大好きなのだから、恋の病につける薬などありはしない。
しゃっきりとしたラディッシュを味わいながら、エレナは今日の予定をざっと振り返る。せっかくだから、午後にはヘルトゥと一緒に買い出しに出かけよう。最近話題のあの店に行ってみるのも良いかもしれない。美味しい食事のお礼に後片付けは自分がしっかりやるつもりだ。とはいえ、料理を作ったはずのヘルトゥもエレナの隣に立って手伝ってくれるのだろうけれど。
ちらりと前を向けば、何をしても絵になる男が美味しそうにコーヒーを飲んでいる。目を閉じたその姿を見ていると、何故だか満足げに喉を鳴らすとびきり綺麗な豹が頭をよぎった。
「幸せだな」
小さく呟けば、ヘルトゥがわずかに目を見開いた。自分と同じくらいとまでは言わない。エレナはそこまで自惚れ屋ではないのだから。けれど共に過ごす穏やかな日々の愛しさを、この美しい男が少しでも感じてくれていたら、こんなに嬉しいことはない。だからエレナはそれ以上何も言わずに、そっと席を立ち、男の唇に自分の唇を寄せてみる。




