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2.酒場の出会い

 とある酒場のカウンターで、エレナは頬杖をついたまま小さくため息をついた。そのままそっとグラスの中に指先を入れる。

 マニキュアの塗られていない淡い桜色をした裸の爪先が、赤いサングリアの中でゆらゆらと揺れた。氷同士がぶつかる澄んだ音が耳に心地良い。


 安い煙草の匂いも、入り混じる酒の香りも、騒がしい男たちの下卑た笑い声さえどこか安心する。軍属とは言え、女ひとりで常連になる程度には、エレナはこの店が好きだった。気取らずに、剥き出しのままの自分が許されるとても珍しい場所。


 無作法なのをわかっていて、あえてハンカチで拭かずに指を舐め上げる。そのまま軍服の胸ポケットから二通の手紙を取り出した。どちらも彼女宛の手紙だが、正直受け取って以来悩みの種。いっそ汚したくなるような白さが忌々しい。


 ひとつは所属する軍の紋章が描かれている。中身はただ一行、広報科への異動を命じる辞令。つい先日、兵科に属する軍人だからと婚約が解消されたばかりだというのに、このタイミングで安全な科への移動命令とは。


 国で起こった革命の余波はいたるところに残っている。爵位制度の廃止だけではない。軍の方針も変わってしまった。これまで兵科に居た数少ない女性達が、軒並み後方へ下げられているとは聞き及んでいたが、ついに自分にもお達しが来た。これからも軍で働きたいと思うのならば従うほかはない。


 エレナはきゅっと辞令を握りしめる。


 そのままぞんざいにテーブルの上に投げ出せば、みるみるうちに、紙面が赤く染められてゆく。どうやらテーブルにはサングリアが溢れていたらしい。よく見てみれば、使っていたグラスの腹に大きなひびが入っていた。ここから酒が漏れていたのだろう。


 すっかり濡れそぼった紙屑をつまみあげると、無造作に近くの灰皿に突っ込んだ。煙草を吸わないことを今日だけは残念に思う。どうせならこの紙屑を灰にしてやりたかったのに。


 グラスのひびにそっと指を這わせて、エレナはもう一通の手紙を手に取る。真っ白い封筒だが、よく見れば精緻な透し彫りが施されていた。


 たかが封筒一枚にもこれだけ金をかけるとは、やはりあの男は羽振りが良い。自分を振った青年実業家を思い出して、エレナはふわりと微笑んだ。あの男は一挙手一投足で物の価値を変えてしまう。これもまた、彼の商売のひとつなのだろう。この封筒は、きっとこの街でこれから流行するに違いない。


 頼んでおいたはずの皿が目の前に来る。網目模様が美しい、羊のチーズ。赤ワインに良く合う甘く濃厚な味わいがエレナは好きだった。エステバンにも食べさせてみたいと思う。それがもう叶わないことなのは、手の中の封筒が物語っているけれど。


 ざわついていた店が一瞬だけ静かになる。


 歌が聞こえた。異国風の衣装を纏った歌い手は、初めて見る男。薄紫色をした長い髪と緑色の瞳が店の灯りの中できらめく。場末のこんな店には、あまりにも似つかわしくない端正な顔立ちをした男だった。


 歌う曲は、エレナにとって馴染みのないもの。普段は耳にしないゆっくりとしたリズムのそれは、ささくれ立った心を落ち着かせてゆく。

 感傷的になっていたのは、エステバンからの手紙を見ていたせいかもしれない。それは、彼が別の女性と結んだ婚約披露パーティーの招待状だったのだから。


 別にエステバンのことが好きだったわけではないのだ。ただ頑張っていたはずの軍から下された辞令と、見合い相手に中身を知った上で切り捨てられた事実が思い出されて、ほんの少しばかり辛いだけ。自分が誰かに大切にされるような特別な人間だなんて初めから思っていないけれど、それでも落ち込む時だってある。


 聞こえてくる歌詞は取り立てて珍しいものではないはずなのに、そのままで良いのだと、十分に頑張っているのだと言われているような気がする。ぽとりと手の甲が濡れたのを見て、エレナは初めて自分が泣いていることに気がついた。


 疲れているのだろうか。女性らしくないと評判の自分が、誰かの歌声を聞いて涙を流すだなんて。ごしごしと乱暴に拳で目元を擦る。こんな時、化粧をしていないのは都合が良い。ごてごてと塗りたくっていたならば、パンダのような顔になっていたに違いないのだから。歌が終わるまでエレナはぎゅっと唇を噛み締めて、下を向いていた。


「隣に座っても?」


 不意にかけられた声は、優しい、どこか懐かしい響き。


 こくんと頷いて邪魔にならないようそっとグラスを手前へ引き寄せようとしたところで、なんとグラスが真っ二つに割れた。そんなに力をいれたつもりは無い。きっと大きなヒビが入っていたせいだ。慌ててグラスをつまみ上げると、隣からくつくつと笑い声がした。


「気をつけて。怪我をするよ」


 ふと気になって見上げてみる。隣にいたのは先ほどまで店の中ほどで歌っていたはずの美しい男。ふわりと漂う甘い香りは、一体何なのか。香水とも違うそれは、くらくらと頭にもやをかけ、思考がまとまらなくなってゆく。


 魔法でもかけられたかのように、エレナは歌うたいから目が離せなかった。

 男は何を飲んでいるのやら、酒の入ったグラスをただ傾ける。それだけでなぜこんなにも絵になるのだろう。まるでどこかの王族のよう。夜の店のカウンターで、王子様が安酒を飲むというのもおかしな話だけれど。くすくすと笑いがこぼれ、先ほどまで確かにあった胸の痛みもほろ苦さも、いつのまにか何処かへ消えてしまった。なぜだか今は無性に楽しくて仕方がない。思った以上に酔いが回っているのかもしれなかった。


 ぼんやりとしていると、手からフォークが抜き取られ、そのまま皿の上のチーズがひとつ薄紫色の髪をした男の口に吸い込まれた。無作法なのに優雅だから、どうしてだか許したくなる。エレナは、少しだけ唇を尖らせる。そんな彼女をからかうように、男は唇に指を添えた。


羊のチーズ(ケソ・マンチャゴ)は、故郷を思い出すんだ」


 どうやらこの辺りの生まれではないらしい。とすれば、吟遊詩人なのだろう。不躾にじろじろと見つめた詫びとして、男が取りやすいように皿を近くに寄せてやれば、ありがとうと男はエレナの黒髪をゆっくりと撫でた。労わるように髪を梳かれ、思わず目を閉じる。とろとろとどこまでも溶けてしまうような男の掌の感触は、どうしてこんなにも心地よいのだろう。このままぐずぐずに溶けてしまえばいいのに。


「人生に疲れたら、好きなことだけを見つめてみればいい。自ずと大切なことが見えてくる」


 男の口から出た言葉が、エレナを優しく包む。初めて会ったはずだ。そうでなくとも、まともな軍人なら市井で愚痴をこぼしたりはしない。守秘義務ということもあったけれど、そもそもエレナは自分の中の弱い部分を誰かに見せるのがとても苦手だったから。それなのにどうしてこの美しい男は、今欲しい言葉をこんなに容易くくれるのだろう。眠気にも似た心地よさで、夢うつつのまま女は笑う。


 ほんのりと身体が熱い。髪を撫でる男の胸に、すりすりと頬を寄せてみる。優しい飼い主に可愛がられる猫とはこういう気分なのだろうか。このまま猫になってしまえ。そんな風に思っていても、終わりの時間は必ずやってくる。自分は猫にも、お姫さまにもなれない。この綺麗な男は、きっと自分のことなどすぐに忘れてしまうだろう。それでもエレナは男の名前を知りたかった。例え酔っ払いの戯言だと笑われたとしても。


「わたしの名はエレナ。王子様、あなたの名前は?」


 問いかけに、男はそっと女の耳に唇を寄せる。


 耳元で甘く囁かれた名前は、「ヘルトゥ」。男の名前は、どこか異国の響きを持っていた。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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