18.恋は歌声とともに
夕暮れ時、ざわめく酒場の中で歌い手の甘い声が響いている。今日はエレナとヘルトゥの結婚式。すでにパーティーは始まっていた。
招待されたイザベルとエステバンは、市場の調査だ、と興味津々な様子。貪欲なまでに商売が好きなのだ。きっと帰り支度をする頃には、面白い品物をいくつか見繕っていることだろう。そのままふたりの様子を酒の肴にして、歌声と同様に甘い酒をうっとりと味わっていれば、呆れたような声がかけられる。
「まったく急に結婚だって言うから、びっくりしたわよ」
ため息をつきながら煙草の煙を吐いたのは公娼の女だ。やはり彼女はこういう夜の店がよく似合う。男を落としたらお祝いをしてあげる。その言葉通り、彼女はエレナの結婚式にも駆けつけてくれた。太ももまで切れ込みの入った濃紺のドレスが、女にぴったりだ。
「それで何でまた結婚式が酒場なわけ?」
当然の疑問にエレナは肩をすくめる。
「畏まったのは苦手なんだ。こういう気楽な食事会の方がわたしたちらしいだろう?」
「だからと言って、主役がドレスを新調もしないなんて」
「祖母の形見だから、気に入っているんだ。わざわざ新しく作る必要もないだろう?」
女の前で、エレナは努めてゆっくり回ってみせる。マラカイトグリーンのドレスが、風をはらんでふわりと翻った。
エステバンとイザベルの婚約披露パーティーで着たドレス。まるでヘルトゥの瞳のような色だと気づいてから、ますますエレナは気に入っていた。それにこれからの生活では、ドレスなど一生に数度しか着ないだろうし、新調するのも勿体無い……というのも本音なのだが、それはそっと胸にしまっておく。
「まさか指輪もいらないの?」
飾り気のないエレナの手を見て、女が呆れたように言葉を吐いた。そんな女にエレナは笑う。そして首から下げた古めかしい鍵を取り出した。エレナにとって何よりも愛おしいアンティークのような鍵を、そっと指先でなぞる。
「指輪ではないものをもらったんだ」
「何よその鍵? 金銀財宝が眠る宝物庫の鍵だとでも言うの?」
「エレナのお店の鍵ですわ。お菓子屋さんをはじめましたの」
いつの間にかやってきたイザベルが、訳知り顔で口を挟む。お菓子を作るときに指輪は邪魔になるだろうから、代わりにこれをあげよう。と、いきなり鍵を手渡された時には、まさかそう来るとは予想してはいなくて、驚きであたふたしてしまったのだったっけ。はにかむエレナとは対照的に、呆れたとでも言いたげな顔で女が煙草の煙を吸い込んだ。
にっこりと店の場所を伝えれば、公娼の女があんぐりと口を開けた。そこは大通りにある一等地。すぐ近くにはエステバンの店がある。
「あの大通りの空き店舗を買ったの?! よく前の持ち主が承諾したわね。最近じゃ、土地は財産だ、って手放したがらない人が多いじゃない」
「それはわたくしも不思議でしたの。エステバン様のお店の候補にその場所も上がっていたのですけれど、どうしても土地の持ち主に納得してもらえなかったんですって。エステバン様が口説き落とせないなんて相当ですもの」
そのとき、ふわりと甘い香りがエレナの鼻をくすぐった。顔をあげれば、美しい男が微笑んでいた。本日のもうひとりの主役であるにもかかわらず歌い手だった男だが、ようやく抜けてきたらしい。
「それに関してはあちらの御一行にご尽力いただいてね」
ヘルトゥがにこりと微笑んでゆっくりと指し示す。その先にいたのは、鼻にホイップクリームをつけたまま、にこにことケーキを食べる白桃色の髪の美少女。その横には、やに下がった顔で彼女を見つめる黒髪の白衣の男。金色に輝く瞳が、少女だけを見つめている。そこはすっかりふたりだけの世界だ。
その後ろには、呆れ果てたようにハンカチを持ってたたずむ褐色の若い男。そして親しそうにこの店の女主人とおしゃべりをしているのは、老年の執事だろう。一体この一行は何者なのか。公娼の女が問いただす前に、エレナが小さく驚きの声をあげる。
「ご領主様まで来てくださったのか!」
この国の政治に裏から携わる噂の男がヘルトゥだ。と、実は知っていたらしい祖父から聞いたとき、ヘルトゥが警察や領主にも伝手があったことに納得はしたが、それにしたってこの地方全体の領主様は雲の上の人だ。普通なら、こんな市井の結婚式にお越しになるような方ではない。
「幸せなことはみんなで分けあう方が楽しいんだよ」
にっこりと笑って片目をつぶるヘルトゥ。
「領主!? あの人が? そうは見えないけど……というか、何で領主なんかと知り合いなの? あんた本当は何者なのよ」
「何者って、王子様ですわ、エレナ限定の」
公娼の女がぼやけば、くすくすと楽しそうにイザベルが笑う。
「はあ、まったく。それで、店の名前はなんていうの? 宣伝してあげるわよ」
エレナはその話題に飛び付いた。それがさらなる墓穴を掘るとも気がつかずに。
「シエロ ドゥ アマネール」
エレナは小さくはにかみながら笑った。もともとエレナは、名前を決めるのが苦手だ。軍馬に名前をつける際など、何日も考えている間に別の名前がつけられてしまったこともある。けれど、お店の名前はすっと決まったのだ。
「どんだけこの男のことが好きなのよ」
いちいちエレナから説明されなくても、それが隣にいる男の髪色を表していることくらい簡単に想像できたらしい。あの日、女たちを救出した後に見た薄紫色の雲。だんだんと明るくなる空の美しさは、今でもエレナの心に焼きついている。
「あんた目が腐ってるのよ。もう勝手にして」
女がぐっと酒をあおった。男を落としたらお祝いしてあげると言ってはいたものの、こうも惚気られてはいい加減嫌になってきたのだろう。それでもこの気の良い女はなんだかんだ言ってエレナを心配してくれる。
「エレナ、この男は掛け布団代わりに女を抱いていた男よ。嫌になったらいつでもあたしに言って。もっといい男、紹介してあげる」
どうやら女は、ヘルトゥが一度エレナの前から姿を消したことを根に持っているらしい。困ったものだとエレナは苦笑する。諸国を流れ歩いてきたヘルトゥには、身体を重ねた相手も数えきれないほどいたに違いない。過去の女達に嫉妬しないと言えば嘘になるが、それも含めて今の男を好きになったのだから仕方がない。エレナは、ただ男を信じるだけだ。
「大丈夫だから」
エレナがなだめれば、思いもよらぬ真剣な眼差しで女がエレナを抱き締めた。
「あたしの言葉は、他の人が思っていることでもあるの。この男にちゃんと大事にしてもらいなさいよ」
きょとんとするエレナをヘルトゥが受け取り、ぽんぽんと優しく撫でる。それが大好きだよと言われているようで、エレナはへにゃりと笑った。いつもどこか堅苦しい顔をしているエレナが表情を緩めるものだから、イザベルも女も目を丸くしている。
音楽が変わった。どうやら酒場の主人が、張り切って歌を歌い始めたらしい。彼女の隣では、先ほど見た老年の男が優しく微笑んでいる。やはり恋と歌声は切り離せないようだ。歌のリズムに合わせて、ヘルトゥがエレナの手を引く。覚束ないながらもエレナが小さくステップを踏んだ。夜は始まったばかり。ますます賑わいを増し、宴は繰り広げられてゆく。
ヘルトゥとなら、この先に何があっても大丈夫。エレナは小さく笑って愛しい男に頬ずりをした。




