17.男の過去とふたりの未来
楽しかった女神記念日は、まだ記憶に新しい。オフィーリアに雪が降る。音もなくただ雪は降り積もる。優しくすべてを包み隠す銀世界の中で、小さな生き物たちはみな春まで眠りにつくのだ。
本日のエレナの行き先は祖母が眠る場所。ここ最近は教会の子どもたちにあげるお菓子とは別に、小さな花束も持ってきている。自分の墓に花は不要だと言った祖母も、救国の英雄たちに供えることを見咎めはするまい。
墓地の中から微かに例の歌が聞こえてきた。あの美しい男が来ているのだろう。エレナはさくさくと雪を踏みながら、声のする方へ歩く。今度は邪魔をしないように、声をかけずに見守ることにした。それなのに男は閉じていたまぶたを開けて、ちらりとエレナに視線を送る。もっと気合いをいれて気配を隠すべきだったかと、エレナは苦笑した。
最後の一音が伸びやかに天に響いたのを見届けて、エレナは男に声をかける。もしかしたら今の歌声も天で凍りつき、雪の中に混じって地上に降り注いでいるのかもしれない。
「ヘルトゥ」
「やあ」
名前を呼べば、男はゆっくりとこちらを振り返った。久しぶりという言葉もなく、まるでエレナに会うことが当たり前で、待っていたのだとでもいうように。足元にあるのは、革命で散った無名戦士の墓標。他のものはみな雪に覆われているというのに、ここだけはきっちりと石に掘られた文字さえ読み取ることができる。おおかた、この男が綺麗にしてやったのだろう。エレナは持ってきていた小さな花束を、そっとそこに供えた。
「何度聴いても良い歌だな」
エレナの言葉に男がにこりとする。いつ見ても男は柔らかな笑顔だ。だからこそ男の本音はすべて微笑みの下に覆い隠されてしまう。それなのに気のせいだろうか、今日はその笑顔に少しだけ陰りが見えたような気がして、エレナは小さく首を傾げた。何があったというのだろう。疑問に思うエレナをよそに、ヘルトゥが口を開いた。耳に心地よい低音が、唇から溢れ出す。
「少し話を聞いてくれるかい?」
「なんだ?」
エレナが問い返せば、男の吐く息が白く立ち上るのが見えた。少しだけ目線をそらし、手持ち無沙汰なのを誤魔化すかのように、ヘルトゥが片手を軽く握りしめる。思わずそっとその手に自分の手を添えてみれば、驚くほどヘルトゥの手は冷たかった。いつもなら冷たいエレナの手を温めてくれるのは、ヘルトゥの方だったのに。一体いつからここにいたのだろう。両手でヘルトゥの手を包み込めば、男が笑ったままどこか苦しそうな顔をした。何か気に障っただろうか。手を引こうとすれば、ぎゅっと握りしめられる。
「つまらない話なんだ。本当に、くだらない」
「構わない。聞かせてくれ」
男にしては珍しい、歯切れの悪い言い方。先ほどの表情と同じく、微かに引っ掛かりを覚えた。握りしめられた手のひらが、少しだけ白く色を変えている。震えているのか、妙に力の込められたその手が不思議だった。ヘルトゥはどこか憂鬱そうにため息をつく。初めて見る男の憂い顔は、それでもやはり美しかった。こんな時でさえ、口元は笑みの形を保っている。男の緑の瞳は、エレナを超えて、もっとずっと遠い場所を見据えていた。
「かつて、ここから東の地に、とある国があったんだ。それなりの歴史をもったその国は、ある時、間違った男を王にした」
「間違った、とは?」
エレナの問いに、男が目を伏せる。
「民に圧政を敷いたんだ」
エレナの脳裏にこの国の王だった男の姿がよぎる。世にも美しい顔を仮面で覆い、笑顔で修羅の道を歩んだ男は、今頃どこで何をしているのだろうか。そっと足元の墓標に刻まれた文字を目で追いかけてみた。死者は黙して、何も語らない。
「少し前のこの国と、よく似ているんだな」
「ああ、そうだね」
男が、どこか寂しそうな顔をした。この顔を前にも見たような気がして、エレナは記憶を辿る。ああ、そうだあの秋の日に、ここで鎮魂歌を捧げていたあの時も、男はこんな顔をしていた。聞くべきかしばし迷い、結局エレナは口を開く。男がこの話を続けたいのだということが、エレナにもわかったから。
「それで、どうなったんだ?」
「王には弟がいた。だけどその弟は、とても愚かだった。どうせ自分は王にはなれないと、ふらふらと遊び歩いてばかり。王となった兄の政策についても、何の疑問も抱かなかった。そして――国が滅んだ。圧政に反発した民が反乱を起こし、王族は皆殺し。疲弊した国は隣国に攻められて、あっというまに街は火の海」
一瞬、エレナには炎になぶられる街並みが見えたような気がした。今この季節は身も心も凍りつくような寒さだというのに、じりじりと肌を焼く熱が垣間見える。基地のあった砂漠の夏よりも熱いのだろう、人の命を飲み込む炎のただ中は。
「それはひどいな」
ただ一言相槌をうてば、男も小さくうなずく。
「ああ。唯一生き残った王の弟は命からがら、国も、民も、全てを見捨てて逃げ出して、それ以来、一処にとどまらぬ根無し草さ」
「まるで見てきたような口ぶりだ」
エレナの言葉に、ヘルトゥが微笑んだ。吹けば消えてしまうような、薄く儚い笑みだった。
「もう、分かるだろう? 君は賢いはずだから」
「あなたがここで、この墓の前で鎮魂歌を歌う理由か」
王子様のようだと思っていた男は、どうやら本当に王族だったらしい。エレナは罪の意識にさいなまれた哀れな男をそっと見つめた。もう取り返しのつかぬ過去を未だに悔いる男の姿を。あの歌は男の贖いなのか。死者の魂に祈りを捧げながら、同時に己の心はずたずたに引き裂かれるのを良しとする。何という哀しい男。
「私はずるい男なんだ。何もかもから、逃げ続けている」
「そんなことはない。あなたは優しい」
微笑んでいるはずの男が泣いているように見えて、エレナは言い募る。そう、あの時も男が泣いているように見えたのではなかったか。泣けない男は、涙を流す代わりに笑うのだ。そしてすべてを歌にしてしまう。それがあまりにも切なくて、エレナは男の頬に手を伸ばした。溢れることのない涙は拭うことはできないけれど、ただここにいるよと伝えたくて。
「優しく見えるように振る舞っているだけさ。臆病なんだ。私はきっと、呪われているんだ。周囲の何もかもを壊してしまう」
この男が旅に生きる理由はそれなのか。男は怖いのだろう、何かに踏み込んで、誰かを傷つけるかもしれないことが。だから誰の心にも残らない孤独な道を選ぶのだ。男の心の傷はあまりにも深くて、ただの思い込みだと笑い飛ばすことなどエレナにはできなかった。だからエレナは、無意味に胸を張って自分の腕を叩いてみせる。
「わたしは強いから、壊れないぞ。見ただろう、その……腕っ節を」
「確かに」
くすりと、男が可笑しそうに笑った。あの日、犯人の屋敷で剣を振るったエレナを見れば、触れれば折れそうなご令嬢だなんて印象などあるはずもない。それでも、こうやって穏やかに笑われると少しだけ悔しい気もする。けれど男は憂い顔よりも笑顔の方が似合うから。まあ良いかとエレナも微笑んだ。そのまま男が何かを言いかけて頭を振ると、ふたりの間に沈黙が訪れた。冷たい風にあおられて、降り積もった雪がひらひらと舞い上がる。エレナはじっとヘルトゥを見つめた。
「話は終わりか?」
「ああ、くだらない話はここで終わり。ここからは真面目な話だ。先日、きみは言ったろう? たとえ間違っていたとしても、動かないで後悔するのは愚かだと。あの言葉が、ひどく心に響いた」
確かにそんなことを言ったような気がする。何とか拐われた少女を救おうと必死だったゆえの言葉だったのだが、もしかしたらこの男の気に障ったのだろうか。取り繕うのも今更だと思いつつ、エレナは回らぬ口を必死に動かす。
「いや、あれは……」
「もしも、過去の私が、真面目に勉強をしていたなら。兄の政策に疑問を抱くことができたなら。苦言を呈することができたなら。自分が王になっていたなら。どこかひとつ違えば、国は滅びなかったかもしれない。けれど結果的に祖国は滅んだ」
男は大きく息を吸い、震えながら続ける。
「実は早くから気づいていたんだ、この国の王の行動にも。けれど、気づいてもなお、私は自分の手で何かをすることが怖かった。かつて自分が間違った選択をしたせいで、たくさんのものが失われた。だから、自分の考えに自信がもてなかった」
今、彼が震えているのでなければ、とても信じられなかった話だ。だって、この男はいつだって自信満々で、悠々自適。飄々とした笑顔で微笑んでいたではないか。
「そうしてグズグズしているうち、この国も似た末路を辿りそうになった。私が、旅人という立場に甘んじて傍観を決め込まず、何かしていれば。この国は今、違う未来をたどっていたかもしれない」
彼の祖国や、この国の王政が滅んだのはヘルトゥだけのせいではないはずなのに。祖国からただひとり生き残った男は、全部自分のせいだと、失われた命の重みを己の肩に全て背負っている。押し潰されそうになりながら必死でこらえ、前を向く姿があまりにも痛々しかった。
「君に言われて気がついた。何もしないという愚かな選択を、もうしたくはない。だから、告げよう」
男は意を決したように一呼吸おいて、エレナに向き合う。
「エレナ、私を呪いから解き放ってくれ」
初めてヘルトゥにその名を呼ばれて、エレナは嬉しさとともに戸惑いを感じた。傷ついた男に自分がしてやれることなど皆目見当がつかない。それでも、何か自分がしてやれることがあるのなら、エレナは何をおいても男に与えてやりたいと思った。
「ああ。わたしにできることなら」
「ありがとう」
男の声が思ったよりも近くで聞こえて、エレナは目を瞬かせた。ふわりと甘い香りが香る。いつの間にかしっとりと柔らかい男の髪に埋もれていて、そこで初めてエレナはヘルトゥに抱きしめられていることに気がついた。何か柔らかいものが、唇に押し当てられている。うまく呼吸ができない。混乱した頭のエレナには、それがヘルトゥからの口づけだということが、しぱらく理解できなかった。
「結婚しよう」
さらに追い討ちをかけるような突然の男の言葉に、エレナは目を白黒させる。よく見れば、男の顔はいつもの柔らかそうな笑みからひどく真剣なものに変わっていた。常ならば、ただふわりと笑って、己の心の大事な部分を見せない男。そんな男の心からの言葉は、とてもまっすぐで力強い。
あまりにも性急な求婚は、きっと男が逃げることをやめたからこそ。前を向いて生きていくことを選んだ男は、差し出していたエレナの手をしっかりと握り返してくれたのだ。
色々大事な告白を幾つも飛び越えているような気もするが、恋い焦がれた男にその身を求められて嬉しくない女などいるだろうか。それにこれはきっと男の誠意の現れでもあり、同時に余裕のなさでもあるのだろう。誰にでも優しい代わりに一線を引いて過ごしてきた男が、がむしゃらに自分を欲してくれている。それがあまりにも嬉しくて、エレナはうっすらと頬を染めた。
「はい」
小さく頷いて抱きしめられたその胸に頬を寄せれば、どきどきと心臓が早鐘を打つのが聞こえた。エレナのものではなく、美しい男の胸の音。エレナよりもずっと色恋に長けたはずの男ですら、こんな風に緊張するものなのか。
「私のエレナ」
祖母が名づけてくれた名前を重荷だと思ったことはなかったけれど、自分には分不相応な名前だと思っていた。それなのに、こんな風に呼びかけられれば、自分の名前が愛おしくて仕方がない。深い深い傷を持つ男の心を自分は癒してやることができる、そんな風に自惚れることなどできない。それでも男が望んでくれるなら、エレナは男にとっての光でありたいと思うのだ。
おずおずとエレナはヘルトゥの背に手を回す。もう一度ふたりの影が重なった。触れた唇はそこから溶けだしそうなほど熱を帯びている。不器用で甘え方を知らない女と、温もりに飢えた孤独な男はようやく心の隙間を埋めるものを手に入れた。
冬はいつか終わる。寒い寒い季節のあとには、花が咲き乱れる春が必ずやって来るのだ。




