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13.再会の時

 翌日教会を訪れたエレナに伝えられたのは、子どもがひとり行方不明になっているという神父の悲壮な告白。行方が知れないのは、劇の主役を演じることになっていたあの少女だった。昨日街へおつかいに行ったきり、帰ってこなかったのだという。


 ここ最近、若い女の失踪が続いててね


 公娼の間で、人攫いが出るって噂になっているんでしょう?


 公娼の女とイザベルの言葉が耳の中でこだまする。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。金に困っている人物と、人身売買の噂。そして失踪事件。エレナのなかで、次々に話がつながっていく。噂は、ただの噂ではなかったのだ。


 持ってきたバスケットがゆっくりと足元に落ちて、気の抜けたゴム毬のように小さく跳ねた。綺麗に焼きあがったパンが、むき出しの床石に散らばる。こんなものを朝から作っていた自分が滑稽だった。


警察(ポリシア)には?」


 かすれた声を絞り出したエレナの問いに、神父様は顔を歪める。届け出をしたが、今の段階では待つ以外のことができないのだと。何をすべきか、エレナはぎゅっと目をつぶって考える。このままただ待ち続けることなど、エレナにはできなかった。


 いつもは溌剌とした子どもたちが、不安そうに教会の隅でひとかたまりになっている。それを見てしまうと、いてもたってもいられない。危険なことはしないように、という神父様の静止を振り切って、エレナはたまらず教会から駆け出した。扉を出る直前、「運命の女神よ、我らを導きたまえ」という祈りの声が聞こえた。


 既に犯人の目星はついていても、証拠がなければ動けない。待つことが戦いなのだと言っていた、イザベルやエステバンを表に引き出すわけにはいかない。それに、また戦う姿を見せて、失望の顔を向けられるのも怖い。祖父だって、「剣を教えるのはあくまで護身のため」と口を酸っぱくし、エレナが兵科に志願したときは苦い顔をした。今でも、無茶をすると言えばとめられてしまうだろう。


 駆けながら思い出すのは、あの朝市の出来事。ヘルトゥだけはエレナの行動を咎めることなく、自由にさせてくれた。ただ黙って、エレナのことを見守ってくれていてくれるような優しさを、エレナは他に知らない。どこにも行かないでほしいと漏らした自分の本音を聞いて、姿を見せなくなった美しい男。しがらみを嫌い、誰かと深い関係になるのを避けたいのだと、暗に言われている。それでも、自分を受け入れてくれて協力してくれそうな人物に、他に心当たりは無かった。


 彼は、まだあの宿屋にいるだろうか。もしも宿屋を変えていたなら、酒場を回って訪ね歩くしかない。記憶を頼りに道を進むと、ほどなくして見覚えのある建物が現れた。ヘルトゥについて主人に尋ねてみれば、不思議がることもなく、あっさりと部屋を教えてくれる。もしかしたらこうやって尋ねてくる女が多いのかもしれない。


 そのままそっと息を吐き、ヘルトゥの部屋の扉を叩いた。自分の呼吸と心臓の音が、やけに耳に響くような気がする。いざここまで来てみると、急に心細さが浮き上がる。味方が多いに越したことはないけれど、やはり多少無理をしてでもひとりで行くべきか。

 長いような短いような間の後に、ゆっくりと扉が開いた。


 寛いでいたのだろう、薄物を羽織っただけの男の姿。それがあまりにも美しくて、エレナはこんな時にもかかわらず、思わず見惚れた。エレナの姿を見た男は、ほんの少しだけ驚いたようにも見えたけれど、すぐにいつもの柔らかな笑顔に表情を変える。


 ああ、男の笑顔は心を隠す仮面のようなものなのかもしれない。そう気がついて、エレナは心がひやりとする。エレナの隣にいた男は、共に過ごしていて心から楽しいと思ったことがあったのだろうか。


 追い返されたらどうしようというエレナの心配をよそに、当たり前のように部屋の中に通された。ひとつしかない椅子をエレナに譲り渡すためだろう、ヘルトゥはゆっくりと寝台に腰掛ける。脚を組む姿さえ様になっている。


「助けて、ほしいんだ」


 男に助けを求めれば声が震えた。足だって立っているのが不思議なくらい、小さくがくがくしていることに気がつく。男に声を欠けた瞬間に心の堤防が決壊してしまったらしい。急に目もとが潤んで、視界がどこかぼやけてしまう。仄暗い部屋の中で、ヘルトゥを照らす灯りが涙でにじんだ。美しい男がどんな表情をしているのか、今のエレナにはよく見えない。


「どうしたの?」


 久しぶりに会うヘルトゥの声はやっぱり優しくて、じんわりと耳でとろけてゆく。もう随分会っていないエレナには、その声の一音一音が愛おしい。いっそこのままこの声に溶かされてしまいたいけれど、今の自分にそんなことを願うことは許されない。


「教会の子どもが拐われたんだ。犯人の目星はついているが、証拠がないから警察(ポリシア)は動けないそうだ」


 訥々(とつとつ)としか話せない自分がもどかしい。これではまるで子どもの使いだ。酒を飲んでから来れば、もう少しすんなりと話せただろうか。それでも急かさずにじっと耳を傾けてくれる男の姿に、勇気を振り絞ってエレナは言葉を続ける。


「ぐずぐずしては、子どもが危ない。助けにいきたいが、わたしひとりでは難しい」


 無茶苦茶なことを頼んでいる自覚はある。それでも、エレナはヘルトゥに乞うのだ。


「助けて、くれないか」


 話し終えた瞬間に、自分がまるで祈るように手を組み合わせていたことに気がついた。慌てて手をほどき、目元に溜まった涙をぐっと拳でぬぐう。そのままヘルトゥをまっすぐ見つめた。穏やかな微笑みを浮かべたままの男は、黙ったまま動かない。ひとつ瞬きをすると、澄んだ緑の瞳がひたりとエレナを見据えた。


「確証がないのに動くのかい」


 尋ねる男の声音はいつも通りなのに、エレナはびくりと肩を震わせる。事実を確認されているだけなのに、責められているような気がするのはエレナに負い目があるからだろう。どう考えても、エレナが持ち込んでいるのは厄介事だ。本当に馬鹿なことをしていると思う。


 それがわかっていてなお、期待してしまうのだ。この男なら何とかしてくれるのではないかと。あまりにも甘く、都合が良い考えなのは承知の上で。


「このやり方がたとえ間違っていたとしても、動かないで後悔するのは愚かだ。わたしは、自分の眼の前で起こっていることから、目を逸らしたくない」


 ぎゅっと唇を噛み締めて、ヘルトゥの返事を待つ。


「分かった、手伝おう」


 一瞬の間とともに、男はうなずいた。男の返事を耳にして、エレナは小さく息を吐いた。思っていたよりも、ずっと自分は緊張していたらしい。ぽんぽんと優しく頭を撫でられて、そのあまりの安心感に目をつぶれば、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。ああ、この男の香りだとくらりとめまいがした。


「少しだけ待っててくれるかな? きみが食事を摂って、少し身体を休めるくらいの時間で良い。準備をさせてくれ」


 優しく耳元で囁かれて、反射的にうなずき返す。準備と言ってなにをするのか、エレナにはわからない。けれど男がそう言うのであれば、それはきっと必要な準備なのだ。適当なことを言って、エレナの前から姿を消したりはしないとエレナは知っていた。ここまでこの男のことを信用するなんてきっとあの公娼の女なら呆れるだろう。いやどうしようもないと笑うかもしれない。それでもエレナは男とならば、きっと何でもできるのだ。


「すまない」


 エレナが小さく謝れば、男は可笑しそうに笑う。


「こういうときは『ありがとう』だよ」


 ありがとう、と言い直して、エレナはそっと微笑んだ。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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