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12.イザベルの秘密

 エステバンとイザベルの店の前を通りかかり、おやとエレナはいぶかしむ。先日は大勢いた客が、今日は人っ子ひとり見当たらない。


 奥に見えるイザベルは、どこか疲れた様子だ。声をかけるべきかどうか。しばらくためらっていると、イザベルの方もエレナに気づいた。奥へ通されて、困ったように切り出される。


「最近、雲行きが怪しいの。ここ数日、エステバン様の悪評が広がっていて」


 降って湧いたように、おかしな噂が流れはじめたのだという。


「噂を流している犯人の目星はついているの」


 イザベルは物憂げに少しだけためらった後、とある人物の名前を出した。エレナの記憶によれば、やや辺境に屋敷を構える元貴族だったはず。

 

「以前から軽い嫌がらせはあったのだけれど」


 エレナは、自分が振られてしまったあの夜を思い出す。そういえば、ゴロツキに襲われたとき、エステバン自身も心当たりがあると言っていたような。


「この方、家の歴史は古くていらっしゃるけれど、お金と領地はお持ちでないし、ご息女もいらっしゃらないみたいで。革命で爵位制度が廃止になって、焦っているようね」


「それでなぜエステバンに嫌がらせを?」


「一度お金の無心をされて、断ったことがあるの。嫌がらせはそのあたりからはじまったみたい。出る杭は打たれるものだし、エステバン様もこれまではあまり気にしてはいなかったみたいだけれど」


 なるほど、と合点がいく。上流階級としてこれからも暮らしたいのであれば、爵位という肩書きが意味を失った今、必要なのはお金だ。広い領地を持つのであれば、そのまま領地経営で暮らしてゆけるだろう。娘がいれば政略結婚も可能となるが、それも無いとなると、諦めて新しい時代に適応するか、何かしらの方法で金を工面するしかない。

 エステバンに頼り、断られたことで逆恨みしているんだろう。とくにエステバンの家系は、もとから爵位を持たぬ成り上がりだった。肩書きが無いからと軽く見ていた相手に恥をかかされたと思っていても不思議ではない。加えて、エレナやイザベルといった古い家柄との婚姻話で、エステバンが名実ともに老舗となり立場が逆転することを恐れて失脚を狙っているとも考えられる。


「それが最近激しくなって、ついには、エステバン様が人身売買までやりはじめただなんて。公娼の間で、人攫いが出るって噂になっているでしょう? それにかこつけて、エステバン様に罪を被せようとしているのよ」


 先ほど公娼の女が話していた噂がイザベルの口からも飛び出して、エレナは目を見開いた。密かに噂になりはじめた程度だと言っていたのに。


「どうしてイザベルがその噂を知っているんだ?」


「商売人は情報が命なの。これくらい当然よ」


 イザベルは、いろいろと伝手があるのだとにっこりと笑う。


「エステバン様の選ぶ商品は素敵なものばかりよ。人の才能を見出すことはあっても、女性を叩き売ろうだなんて思うはずがないわ。商売に関するエステバン様の才能と努力は素晴らしいものなの。尊敬しているわ」


 うっとりと頬を染めるその姿は、婚約者に首ったけのように見える。その姿に自分を重ねて、エレナは苦い思いを抱えたままうっすらと笑う。そんなエレナを見て、イザベルがつぶやいた。


「恋をなさっているのね」


 無くしたはずのブレスレットの感触を思い出して、エレナはそっと左の手首をさする。否定はしない。うまくは行きそうにないし、公娼の女にも馬鹿だと笑われたばかりだけど、恋をしているのは事実なのだから。


「ちょっと聞いてくださる?」


 そう言って、イザベルは見覚えのある封筒を取り出した。ふたりの婚約披露パーティの招待状だ。美しい透し彫りを、イザベルの指先がそっとなぞる。隠しきれない熱を孕んだその瞳は、まさに愛しい相手を見つめているかのよう。


「この封筒、わたくしが選んだものなの。あなたのお話をエステバン様から聞いて、自分のやり方を貫く生き方に感銘を受けたのよ。それで商売に興味があると正直に伝えたら、エステバン様が協力してくださるって」


 人の中身を見る、と言っていた彼らしい返事だとエレナはうなずいた。


「わたくしが選んだこの封筒が美しいと褒められたとき、本当に嬉しかったのよ。ありのままの自分を受け入れてもらえたような気がして」


 イザベルは穏やかに笑う。彼女もまた必死で世の中を生き残ってきたのだと、エレナは気がついた。いつも息ができずに、溺れそうになっていたのは自分だけではないのだ。すいすいと優雅に人の波を渡っているように見えるイザベルにも、誰にも言えない想いがあることを初めて知った。落ち込んでいる自分を励ますためかもしれないが、イザベルが秘密を打ち明けてくれたことが、素直に嬉しい。


「だから、こんなことでエステバン様とわたくしの商売に影響が出るのは許せませんわ。これは戦いよ」


 茶目っ気たっぷりに微笑んで、イザベルはエレナの手を握った。その手が自分の手よりも頼りなげで、エレナは動揺してしまう。


「くれぐれも危険な真似は」


「まあ、勘違いなさらないで。わたくしの戦いはこのまま臆さず商売を続けること。危険へ身を乗り出すことではないのよ。人の噂もなんとやら、通り過ぎるまで心を強く持つの」


 じきに事態は落ち着くはずだ。そう言われて、エレナも首を縦にふる。どのみち、噂は噂でしかない。物的証拠が無ければどうすることもできないのだから。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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