11.煙草と珈琲と恋話
劇の本番も近くなった週末。朝市は今日も賑やかだ。ヘルトゥと並んで歩いた時は晩秋だったというのに、今はもう冬の只中で、随分と不思議な気持ちになる。薄紫色の髪をした男と見た景色は相変わらずきらきらと輝いていた。前と同じようにきらめいて見えることが嬉しくて、それなのにここにひとりでいることが寂しい。つなぐ相手のいない手のひらが、心細くて宙を彷徨った。
あの時と同じ屋台を見つけたので、またチュロスを買ってみる。ついでにカフェラテを注文すれば、なぜかおまけでブラックコーヒーがついてきた。戸惑っていると、お茶目な店主は誰かさんのように片目をつぶって笑う。
「そこの美人のお友達は煙草を吸っているからね。濃いめに入れたコーヒーがよく合うだろう?」
「あら、気が利くじゃない。うちのお店に来たらサービスするわよ」
いつのまにか隣にいたのは、路地裏で助けた公娼の女だった。
「煙草とコーヒーはよく合うのか?」
エレナは、ブラックコーヒーを出した店主の言葉について聞いてみる。煙草を吸わないエレナにはよくわからない嗜好だ。
「まあね」
女は淡々と答えを返す。目をつぶって、ゆっくりと煙草を味わう姿はさも美味そうだ。そういえば、ヘルトゥの隣にいた女も煙草を吸っていた。それほど良い匂いがするとは思えないのに、何が癖になるのだろう。
「美味しい?」
「別に。昔っから吸ってるからただの惰性」
馴染みの客に教えてもらったと言われて、エレナは思わず顔を赤く染める。女の鮮やかな赤い口紅がにいっと弧を描いた。エレナの様子が面白かったのだろう、シガレットケースとライターを軽く渡される。見た目に反してライターはずしりと重い。
「吸いたいならあげるけど、まあやめとけば? 男相手には不評だし。最中に煙草の味がするのが嫌なんだそうで」
まったく、朝市の爽やかな雰囲気の中で交わされる会話とは思えない。一瞬、ヘルトゥとあの艶やかな女が唇を合わせる姿が頭をよぎって、エレナは思わず自分の唇を押さえた。
「あ、なんかいやらしいこと考えてるでしょ?」
ぶんぶんと首を振れば、怪しいとまた笑われた。綺麗に化粧をした顔で迫られて、エレナはどぎまぎする。ふわりと白粉の香りがした。香水とはまた違う匂い。これが色香というものなのか。
「そういえば、この間のおにーさんは?」
「ヘルトゥのことか。一緒に来ては……」
「何、もう捨てられたの?」
返答を遮った上で、いきなり核心を突かれる。仕方がないわねえという顔で見られてしまっては、エレナもいたたまれない。捨てられること前提で話が進んでいるのが当然という様子に、がっくりとうなだれてしまう。浮かれて歩いていた自分は、さぞ滑稽だったことだろう。
「別にあんたが、地味だとか、お堅いとか、色気が足りないとか、釣り合わないとか、そういうことを言ってるんじゃないのよ」
悪気なくエレナの心をぐっさりとえぐりながら、女は話を進める。恨めしそうな顔をするエレナを尻目に、同性相手にお世辞なんて使わないと笑う女はひどく楽しそうだ。
「ああいう男はさあ、面倒な女は嫌いなんだって。どうせ訳ありなんでしょ?」
やはり職業柄、経験と勘に優れているのだろうか。女はさも訳知り顔で語る。
墓地で出会った時のあまりにも寂しそうなヘルトゥの横顔。直接言われたわけではないけれど、おそらくヘルトゥの故郷はもうない。そして、それを発端に今のように諸国を渡り歩いているのは間違いなかった。あえて、ひとつの場所にとどまらない理由は一体なんなのだろう。ずっとここに暮らしたいという場所や相手には出会わなかったのだろうか。
「でもひとりは寂しいから、とっかえひっかえ後腐れのない女と一緒にいるわけ。一緒に寝ても、朝起きたら隣にはいないわね、きっと。あの手はね、心のどっかに穴が空いてんのよ。壊れたコップと一緒。どれだけ水を注いでもそこからこぼれていって、満ちることがないの。一緒にいたって疲れるだけよ」
今飲んでいるのはカフェオレなのに、エレナはヘルトゥと出会った酒場で飲んだサングリアの味を思い出す。あのとき使っていたグラスはひびが入っていて、いつの間にかテーブルを汚してしまっていた。最終的にはふたつに割れて、中身は全て消えてしまったのだっけ。
ヘルトゥに恋をしても、彼の心には何も残らないですべてどこかに流れ落ちてしまうのかもしれない。心を傾けたぶんだけ自分が辛くなるのはわかりきっている。けれどエレナは、コーヒーを飲みほして小さく微笑んだ。
「それでも、好きだから」
「ほんと、馬鹿ね」
きっと女の言うことは正しいのだ。けれど、エレナは自分の気持ちを大事にすると決めたばかりだから、ただ笑って礼を言う。女はやれやれと言わんばかりに、煙草を深く吸った。わざとなのだろう、顔に煙を吹きかけられて、エレナは思いっきりむせ返る。悪戯が成功した子どものように、女が笑い声をあげた。
「でも前より、今のあんたの方がいい顔してるよ。前に見かけた時は、色恋沙汰には興味ありませんってつまんない顔してたもん。人間味があっていいんじゃない」
よしよしと頭を撫でられて、ヘルトゥにも同じように頭を撫でてもらったことを思い出した。女がまとうのは、どこか夜めいた淫靡な煙草の香り。ヘルトゥの甘い香りを思い出したくて目をつぶれば、けらけらと笑って、女がエレナの鼻をつまんだ。
「またいやらしいこと考えてるでしょ」
「違う!」
「まあもしあんたがあのおにーさんを落としたら、連絡をちょうだい。お祝いしてあげる」
応援しているのかいないのか、女の心はちっとも読めない。いずれにせよ、面白半分なのは確かだ。鐘の音が聞こえると、約束の時間だと女は身支度を始めた。週末は稼ぎどきなのだという。記念日に合わせて家族に贈り物を買うのかと聞けば、できるかぎり客に貢がせてやるのだと息巻く。
「あたしは高いのよ、あたしにもらわれて贈り物も幸せでしょ」
そう言ってぺろりと唇を舐める女は、とてもしたたかで美しい。
「ところで」
口を開いた女は、急に真剣な眼差しでエレナに耳打ちした。女の雰囲気の変わりように、エレナもはっと気を引き締める。
「ここ最近、若い女の失踪が続いててね」
つい先日も、同僚の公娼が消えたのだという。
「あたしたちは、こういう仕事をしているから。急に見かけなくなる子も少なくない。でも、あの子に限って連絡もなしにいなくなるなんて。事件じゃないなら良いんだけど」
公娼たちの間では、「人攫いに違いない」と密かに噂になりはじめたとか。先日路地裏で騒いでいたのも、例の人攫いかという怯えもあったらしい。結果はただの酔っ払いだったようだが、肝が冷えたと女はため息をついた。
警察に届け出ても、残念ながら事件性のない成人女性の失踪は捜査の優先順位が低い。苛々した様子で煙草を揉み消すと、気合いを入れるように女が両頬を叩く。
「辛気臭い話をして悪かったね。さあ、出勤だ。噂は噂だけど、万が一ってこともあるから。あんたも気をつけなよ」
「たとえ本当でも、わたしなんて誰も襲わないさ」
エレナが答えれば、女に肩をすくめられた。何かあっても返り討ちにしてやるというべきだっただろうか。まあ今更言い直しても仕方のないことだ。エレナは思案しながら、大通りへ。




