1話
聖女から強い輝きが薄れて消えた後、そこに立っていたのはまるで別人の平凡な少女だった。
「聖女さまは、彼女の世界にお帰りになりました」
少女が宣言して、そしてその世界から、聖女は失われたのだった。
◇
大陸に平和がもたらされた春。役目を終え帰還する聖女を一目見ようと、焼けた家の建て直しも、種まきも、牛馬も商いもなにもかも置いて、怪我をしたものも家族を失ったものも、民はこぞって、沿道に押し寄せた。
魔素を操り、気候や地殻変動も意のままにして大陸を席巻したある国を、存亡の危機に立ち上がったいくつかの大国の王家から派遣された精鋭たちと、ある日神殿に降り立ったという聖女とが、苦難を超えて打ち倒したのだ。
煌びやかな兵たちの輝かしい行列の中程、ひときわ立派な馬に跨がった六人の精悍な騎士たちに周囲を守られ、聖女は神々しい姿を披露して、咽び泣き、感謝の叫びを上げる老若男女にかすかな微笑みを与えて通り過ぎて行った。うねる髪は光のような色、瞳は晴れた空の色。肌も唇も、ほのかに光を纏うようで、あまりの神聖な姿に、民は心打たれ、危機の終焉と平和の実現を実感した。
集った精鋭たちの、それぞれの国の都を、同じようにして巡る。
それはこの戦いの最後の締めであり、あまりに虐げられ疲弊した国々を元気づけるための、聖女の大切な勤めだった。
ひと月かけて五つの都をまわり、そして聖女は粛々と、大神殿を要する大陸一の国の都へと入った。
それが、聖女の旅の終わりだった。
最終的に聖女がどの国に逗留するのか、その決定に大きく意志を反映したのは神殿だったが、平和になった世に似付かわしくはない、様々な駆け引きと取引とがあった。
聖女の身柄を勝ち取った大国の王家は、次は神殿とやり合って、またこれに勝った。
結果、聖女は今、大陸一の国の王宮に、賓客として逗留中だ。
国王も、聖女と旅を共にした王子たちも、掌中におさめた美しい玉を、心を砕いてもてなした。王宮の誰もが、くちさがない貴族たちでさえ、聖女を讃えた。世話をする侍女たちも、その光栄に感涙し、そして身と心を尽くして仕えた。
そして、平和を取り戻した世にさらに目出たい話題をと、彼らは聖女が誰かの隣に立ち、彼女自身の幸せを得る図を、自然と望んだ。候補の筆頭は王子となる。けれど、独身の身であり、聖女の隣に立って遜色ない立場の国内の男たち、さらには当然ながら、他国の王家、貴族からも、縁談が舞い込んだ。
王子を優先したいところだが、聖女の気持ちを無視することは、大国といえどできはしない。他国の者でも、拒否する権利は聖女以外にはない、とされた。
聖女は、いまだ祈りを生活の軸として、滅多に部屋から出て来ない。縁談の申し入れの封書で、王宮の部屋がひとつ塞がりそうになる中、王子からの面会の求めもやんわりと断り、聖女はひたすら、祈っているという。
◇
「聖女様、もう戦は終わりました。祈りは大変有り難いが、もう平和な世です。あまりにいつまでも祈っておられると、民も再び不安になる。たまには、そう、たまには外で、一緒に散歩でもしてみませんか」
ある日、痺れを切らした王子が、旅の間に共に囲んだたき火を思い出しながら、聖女の部屋を訪れ、いつもの断りの言葉を受けながらも、敢えて部屋の奥へと声をかけた。
その日は、旅の仲間が久しぶりに揃っていた。一度それぞれの国へと戻った後、聖女のその後を気にかけ、戦後の諸々の交渉も携えて集まったのだった。
紳士たる彼らは、それ以上は部屋に踏み込めない。
取り次ぐべき侍女たちは、聖女を優先すべきと言い含められて任務にあたっており、彼らを室内へ誘うことはしない。かといって、自国の王子や他国の王族たちを押し出して扉を閉めてしまうこともできない。
奥の部屋からは、何の応えもなかった。
じりじりと、焦りとも心配ともつかない心地になりながら、彼らは部屋を控えめに見渡す。侍女たちは落ち着かなげに持ち場に立っていたが、ひとりが、窓辺の床に座り込んで、小さな布の塊の世話をしていた。
「それは、いや、その子は」
「聖女様がお連れになられたお子様です。お側から離してはいけないと、ここでご一緒にお過ごしです」
彼らには、思い当たることがあった。かの国の中枢で、傀儡と言うも聞こえの良い扱いを受けていた幼子だろう。だが彼らは、配下の報告で、そんな存在を聖女が格別に憐れんでいると、そう聞き知ってはいたが、その姿を初めて目にしたのだった。
この王宮に入って以来、まともに顔を合わせてくれない聖女と、同じ部屋で過ごす子ども。
聖女が加護している以上、その子どもは敵国の枷からは解放されている。彼らが、もの申す相手ではない。だが、その場には沈黙が降り、彼らはかすかな苛立ちを感じて、戸惑った。
「どれ、顔を見せてみよ」
沈黙を振り払うように、王子が声をかけた。
布の塊は動かない。傍らの侍女は弱ったように、双方を見比べた。
「申し訳ありません。この子は、いつも顔を見せません。聖女様も、そのままに、と仰せで……」
「なんだ、聖女様と同じく、隠れて祈ってでもいるのか」
その場の誰しもが、一瞬、心の奥深くに蜘蛛の糸を絡められたように感じた。皮肉ともとれ、感嘆ともとれる、際どい発言だった。誰がその言葉を発したのかと、咄嗟に男たちは目を見交わす。侍女たちは強張り、毅然と彼らを追い出すべきかと、またそれぞれに見交わし合った。
けれど、そのまま、どちらも態度を決めかねるうちに、奥の部屋から衣擦れの音がした。
ふわり、ふわりと。
羽が生えたかのように歩んで、聖女が現れた。輝く美貌、存在。けれど、いつもその唇にのる微笑みだけが、すとんと落ちている。
「聖女様」
だれかが呼びかけた、その瞬間。多少なりと魔素を操る者たちは、啜るような音を立てて、聖女の体から、この場から、いやこの世界からだろうか、遠いどこかへと、何かが吸われて薄れていくのに気がついた。
感じられない者たちは、聖女が突如として強烈な光を放ち、すぐさまその光が滲むように擦れて、そして消えて行くのをまざまざと見た。
呆然と、誰もが立ち尽くす。
その中で、ふいに子どもが立ち上がり、聖女の服の裾に縋った。
——いや。
「聖女、さま? いや、貴女は、誰だ?」
そこに立っていたのは、乾いた大地の色の髪と、雨の森の色の目をした、冴えない娘だった。
落ち着きなく辺りを見回し、困ったように眉を下げて、おずおずと、居並ぶ男たちを見た。
口を開いて。
出て来た声も、聖女とは似も付かなかった。
「わたし、ナダラ村のシェリーです。わたしの中にいらっしゃった聖女さまは、彼女の世界にお帰りになりました」
王子が、腰を抜かしてへたり込んだ。侍女たちが、ひとり、またひとりと崩れ落ちた。旅の仲間たちが、さすがの連携で、各所に知らせに散ったが、あちこちで壁や人にぶつかって傷だらけになった。決してあってはならない事態に、王宮全体に激震が走った。
——遠くで大騒ぎになっている。逆に静まり返った部屋の中で、平凡な娘は裾に取り付いた子どもを、そっと覗き込んだ。
娘と同じ、明褐色の髪と暗緑色の目。ふっくらとした頬を撫でても、子どもは何の反応もしない。娘が、ゆっくりとその体を抱きしめても。
「あんたは、わたしの弟」
そう言って、娘が一粒、涙をこぼしても。
事情聴取を重ねに重ねた結果、聖女は確かにこの世界から立ち去ったのだと、神殿は認める決断をした。
シェリーに、聖女であった期間の記憶はある。けれどそれは、遠い物語の世界のようで、詳細な場面も会話も思い出せるわけではない。誰と会っても、王宮や旅の途上で世話になった、という程度の知識は思い浮かばない。まして王子をはじめとした精鋭たちに対しては、その高貴な存在に畏まって平身低頭し、会話もろくにできないまま、酸欠のようになって倒れかけた。
記憶、姿、声、そしてその気高い心まで変わってしまったとあっては、シェリーに聖女のふりをさせることもできない。
シェリーを王宮に留めておく理由は、まるでなかった。
とはいえ、聖女の依り代であったこと自体は、大変な功績である、と王家は考えたようだった。
かの国の都で保護された子供を弟だと主張するシェリーを、おおらかに受容し、シェリーがかつて暮らしていた村に戻ることも許し、無人となり荒れ果てていた家屋を修繕し、かつ、安全で快適な旅まで提供したのだ。もちろん、報償としての金銭についても、村を管轄とする領地の主に、定期的に恩賞として授けるようにと勅令が下された。領主はその恩賞を補ってあまりある額を、国庫から受け取り、それで村周辺の治安と生活の整備をすることになった。シェリーの身を、最大限に安堵するための措置だ。
シェリーは、それらをすべて、しっかりと享受した。それは、聖女と自分との関わりを洩らして、もたらされた平和に水を差すようなことを決してしない、という意思表示ともなった。
次話は夕方投稿予定です。