喫茶店で
在宅で請け負っているプログラミングで、頭が飽和しそうだったので、ひといき入れに、なじみの喫茶店に行った。いつもは静かな二階にいって、気分転換をしようと思ったのである。
だが、二階に上がってみて、「しまった!」と思った。母子の群れに遭遇したのである。これはキケンな生き物である。子連れのクマが恐ろしいのと同じである。
四人の母親は、手を打ち、腹の底から笑いあっている。こうも野太い声なのかと思う。だれかの連れてきた二人の子供は、フロアを駆けまわり、あちこちの空席で寝ころびまわる。一方は女児だが、手に母親のスマホをもち、なにやら「そろえる」系統のゲームが立ちあがっている。ディズニー風のゲーム音楽がなりひびき、あちこち動くので、音量が変化して聞こえる。
子供を「カワイイ」とほめる声と、階段にちかよった子供を叱責する声が、ほぼ二三分おきに発せられた。
母親どうしの雑談も聞こえる。先日、某店で子供の誕生日会をしたら、「ケーキ、ここ置いとくね」と邪険にあつかわれて、サイアクだったこと(たぶん、彼女たちが騒がしすぎたのだろう)。幼稚園のセンセーが「ウチラ」ウルサイ親を引き離そうと画策していることと、その同意、開きなおり、笑い声。「女子に戻ってファッションの話をしよう」という提案、しばらくブランドの話をして、ケータイアプリに話は移った。そして、また、ママトモの批判にもどる。ママトモの子供が自分の子供のオモチャを貸してくれといってきて、親も貸すように頼んできた。「ウチラとはチガウよね」と同意を求める。「一人っ子だからワガママなんだよ」と、意見のつけたし、あれこれ……。
これが十畳ほどのフロアを圧する勢いでつづいた。なんども手をうち、「ウケル!」と笑いあう。
片隅にすわっている同年代の別組みの客は、母子ともに沈黙させられている。
まあ、自分も子供のころはうるさかったのだろうし、ここで育児ストレスの発散をして、大事にいたらないのであれば、別によかろうとも思う。人に迷惑にならない「程度」などというのは、群れには通用しない。そうでなくても、程度の問題など極端に圧せられるにきまっている。考えてみれば、電話オペレータや教師なども、毎日何時間もしゃべる商売で、とても正気の沙汰とは思えない。
もっていた本を読むのをあきらめて、「どうしてこんなに人類はうるさいのだろう?」と考えた。
イヌは幼犬でもそれほどうるさくない。声は大きいが、のべつまくなしに吼えるイヌはそういない。吼えるには吼えるなりの理由がある。散歩に行きたいとか、寂しいとか、そんなところだ。動物はしゃべらないのが常態で、声をたてるのは何かが起こったときだ。
要するに、自然界では敵に発見されるので、声をたてないのだ。ほかの存在を気にして、そうできている。つまり、動物はほかの動物に遠慮して生きているだろう。だとすれば、進化の過程で、ほかの動物を制圧し、天敵のいなくなった人類が、こういうところでハシャいでいるのだ。発情期の動物でも、人類ほど毎日バカ騒ぎはしないだろう。
そして、「人類ほどウルサイ生物は、地球上にそういない」という結論にいたった。人類の特徴はウルサイことである。鳥も獣も「何てウルサイ生き物なんだ」と、まずは、この生き物を認識するだろう。「しょせん、ヤツらはバカだ」と諦めているのかもしれない。そんな人類がイヌがうるさいといって、声帯を手術したりする。まあ、一部の人類がもつ愚かさがなせる技だろう。
なにごとも、ガマンすれば変わるもので、四十五分ほどで、この群れはいなくなった。途中で、母一人がグラスに何か付着していると、おおげさに文句を言いい、店員をよびとめた。店員が謝り、「お代は結構です」といったが、代金は通常通り払うといった。「クレーマーとはちがうのだ」というアピールなのか、半分以上飲んだアイスコーヒーを取り換えさせていた。
払いをすませるときも、雑誌を落とし、車のキーを鳴らし、ケータイにでて、騒々しい音を残していった。群れが去ると、存在していなかったようなBGMが聞こえてきた。ジャズ風のバラードが、この喧噪の背後で、甘く切なく歌っていたのであった。
ほっとしたのか、別組みの母子は会話をはじめ、男の子がセキをして、疲れた顔をした母の膝に、頭をのせて甘えだしたのであった。