刀音川夏の陣(1)
八月の下旬。盛りは過ぎたとはいえ、まだまだ残暑が厳しい。
じんわりと肌にまとわりつく空気の中で、潤たち面々は参考書や問題集を広げ、勉強に精を出していた。もっとも全員、夏休みの宿題はとうに終えている。いよいよ本格化しつつある、来たる大学入試に向けた受験勉強だ。
だが暑さの所為で能率は悪く、どこか全員の集中力は欠けてしまっている。窓の外では、まだまだ世間は夏であることを大音量にて誇示するセミのBGMが響き渡っていた。
「みんみんみんみんみんみんみんみん鳴きやがって、ミンミンゼミか貴様!!」
「その通りだと思うよ」
吠えた潤に、奈由は冷静に突っ込んだ。
彼女たちは寮の談話室にて暑さにうだっていた。談話室は今クーラーの調子が悪く、あまり冷房の効きがよくない。個室には机があるが、扇風機があるのみでクーラーなどという上等なものは備え付けられていなかった。
いつもであれば学校や図書館で勉強しているところなのだが、あいにく本日、図書館は蔵書整理日であったため閉館しており、学校もまた休日のため閉まっている。図書館はさておき、学校とてクーラーはないのだが、風通しがいいためまだ寮よりは涼しいのだ。
そういうことで、彼女たちは個室よりは体感温度がいくばくかましな談話室に集まり、暑さという敵の猛攻に耐えつつ、目の前の受験勉強という敵と同時進行で戦っていた。二重苦である。
「ちくしょう……なんでこんなに暑いーんだよー」
ソファーの上に身を投げだし、ごろごろしながら潤がぼやいた。暑さに参って勉強を投げ出したらしい。
「今日一日くらい我慢しなさい」
「うー、だって暑いんだもん……」
たしなめた春の言葉に、唸るようにして潤は言う。タンクトップにショートパンツという、女子にしてはこれ以上ないくらいの薄着にもかかわらず、潤が一番、暑さに参っているようだった。
憐れんだ眼差しで琴美が潤を振り返る。
「遂に脳内までハッスルし始めましたか可哀想に……日本語喋ってくださいタラシさん」
「思いっきり日本語ですけど!?」
「セミという存在まで認知できなくなってしまわれたとは……勉学に関してはそこそこ優秀な脳と言えなくもなかったのですが、残念ながら辛うじて充填されていた利点までもが暑さで蒸発してしまったようですね、可哀相に」
「さりげなくめっちゃ酷くないこっちゃん!? 暑さに対する八つ当たり!?」
「ぎゃんぎゃん喚いてるあなたも大概暑苦しいですよカラシさん」
「辛子!? 私ピリッと辛いおでんの友達!?」
無表情での応酬だが、いつもよりも若干、琴美の言葉は辛辣である。潤の指摘したように、やはり琴美も暑さに苛立っているようだった。
潤の方は琴美とやりあう気力もないのか、呻きながら猫背で立ち上がると、冷蔵庫にしまってあるアイスを取りに行った。
「しっかしホントに暑いね……」
「もー頭とろけそうだよー」
「ここまで来ると参考書とか破ってやりたくなるよね」
「なっちゃんやめて」
先ほどの潤たちのやりとりをきっかけに、他のメンバーも集中力がきれたらしい。手を止めて姿勢を崩し、琴美以外の三人はぐったりとテーブルに身を投げた。
「なんかもーこのままやってても能率あがんないし、なんか冷たい物でも買いに行く?」
春は突っ伏したまま問いかける。冷蔵庫のアイスは潤が自分用にとっておいたものなので、彼女たちの分はないのだ。しかし。
「外に出るのも暑くない?」
「そうなんだよ……そこなんだよねー……」
奈由の言葉に春は言葉を濁す。涼みはしたいが、じりじりと日差しが照りつける戸外に出なければならない、というのは非常に勇気が要った。
潤がアイスを手に談話室の入り口まで戻ると、玄関からチャイムの音が鳴り響いた。アイスをかじったまま潤は首だけ玄関の方を振り返る。
「あ、お客さん? 誰?」
「でてー」
「でてー」
「でてー」
「折角立ち上げっているのですからこういう時くらい役に立ってくださいタラシさん」
「一人だけ酷いのがいたよ!? 出るけど!!!」
琴美の言葉に不平を漏らしつつ、潤は談話室のすぐ隣に位置する玄関へ向かう。現在、寮母はたまたま外出していた。寮とはいえ小規模であり、管理体制はだいぶ適当な部分があった。どちらかといえば、大人数でルームシェアしているといった感覚の方が近いのかもしれない。
インターホンで確認すると、玄関の前に建っていたのは見覚えのある顔であった。馴染みのあるその相手に、躊躇なく潤は玄関のドアを開ける。
「おう、何の用だ京也!」
潤はアイスを右手に、空いた左手は壁について体重を預け、思い切りだらけた体勢で京也を出迎えた。
と、彼は挨拶より先に手にしていた上着のパーカーを思いっきり潤の顔面に投げつけた。不意を突かれてまともに潤の顔へヒットする。ワンテンポ間を置いた後で、ふるふると首をふり顔の部分にかかった布を払ってぶはっと息を吸いこむと、パーカーを頭にのせたまま潤は京也をきっと睨みつけた。
「何しやがんだてめー!」
「それはこっちの台詞だバカワカメ、ンな恰好で玄関に人を迎えるんじゃねぇ」
ひくりと口元を引きつらせて京也は低い声で応酬した。
「てっきり寮母さんがでるかと思ったらいきなりお前のそれか、大層なご挨拶だな」
「そっちこそ、挨拶もなしに投げつけるたぁ素敵な礼儀だな」
「おやおや」
にまにまと笑みを浮かべつつ、騒ぎを聞きつけて奈由がちらりと顔を出した。
「京也くん、さてはつっきーの露出の多い姿に照れてしまったのかな」
「それはないな!」
腕を組みながらきっぱり京也が断言する。
「だってここにいるのは奈由ちゃんじゃなく月谷だろ」
「ほほぉぉういろんな意味を含めてちょっと尋問させてもらおうか」
「いいから服を着ろ野蛮人」
「着てるわ! 裸の王様か! ってバカに見えない服じゃなく誰にだって見える服をきちんと着とるわこの変態!」
「知ってるわ! そういう意味じゃなく、とにかく服を着ろお前!」
「やだよ暑いじゃん!」
「四の五の言わずに着やがれ、ああ頭痛がする」
こめかみに指を当て、京也はため息を吐いた。
奈由に続いて、春に杏季、琴美も玄関に集まってきた。口を尖らせて渋々パーカーを手に取り、着るか否かを思案している潤を春はじっと眺める。
「まあ確かに無防備すぎる格好だよね。お姉さんどきどきしちゃう」
「ちょ、さっきまで平気だったじゃないですかはったん!」
「さっきはみんないたからね。夜闇に乗じて何するかは分からないよ」
「分からないの!?」
目を細めた春から壁際に一歩後ずさり、素早くパーカーを羽織った潤であった。
「それで、暑い最中にこんなところまでどうしたんですか」
「ああ、それは」
奈由に問われ、京也は玄関の外に置いていたものを手繰り寄せた。彼が手にしていたのは、網に入った大ぶりのスイカである。
「さっき、一玉まるごと貰ったんだ。けど僕は一人暮らしだからさ。みんなで食べたらいいんじゃないかと思って、差し入れに」
「わぁいスイカ!」
甘い物やフルーツの類が好きな杏季が歓声をあげる。他の面々も立派なスイカ、しかも望んでいた冷たい食べ物の来訪に、思わず軽く手ばたきをした。
「それだけなんだけどさ。邪魔してごめん、後で寮のみんなで食べてよ」
「え、行っちゃうの? せっかくだからみんなで食べようよー」
杏季の言葉に京也は苦笑する。
「気持ちはありがたいけど杏季ちゃん、女子寮にあがるわけにはいかないしね」
前は無断で侵入したくせに、という言葉をかろうじて潤は飲み込む。しょっちゅう喧嘩する仲とはいえ、今はスイカをもたらしてくれた恩人だ。それに先ほど着たパーカーが暑く、わざわざ口論の種をまいてヒートアップする元気もなかったのである。潤がそう判じるほどまでに、今日は暑かった。
「じゃあ場所変えよう! 河原に行って冷やして食べようよ!」
思いついた杏季は両手を組み合わせ、ぱっと顔をほころばせる。
「勉強はいいのかい?」
京也の指摘に軽く頬を膨らませて杏季は熱弁をふるった。
「だってどっちにしろ暑くって勉強進まないもん! 川なら涼しいし、スイカも冷やせるでしょ。
休憩だって大事だよ。それに勉強するなら、夜になって涼しくなってからの方がいいじゃない。スイカ食べて帰ってくる頃には日が暮れてちょっとは涼しくなってるよー」
「十歳児のくせにたまにはまともなことを言う……」
「十歳じゃないもん!」
反論する杏季の頭をぽふぽふと軽く叩いてから、潤は親指を立て真顔で宣言した。
「よし乗った、行こう」
「そうだね、もー集中とかできないし」
「さすがに、頭に入るものも入らないような気温ですからね……」
「じゃあレバー持っていこう、プラナリアいるかもだし」
暑さに辟易しきった彼女たちは、一も二もなく同意した。だったら是非、と京也も賛同する。
「そしたら、せっかくだし他の連中も呼ぶか? 葵と臨あたり」
「あ、いいね。大勢の方が楽しいし」
「そうだな」
京也は男性陣の顔を思い受かべ、そして彼らを呼ぶことについても特に異論なく受け入れた彼女たちを眺めて微笑んだ。
「あいつらも、喜ぶんじゃないかな」