さくら
さくらの花が舞い踊る。
ひらひらひらひら。
空に溶けこんで。
自分の軌跡を残して。
人の心に残ろうと、輝く。
その姿は。
儚く。
けれど、美しい。
それをつかもうと手を伸ばせば。
いつだって、逃げられる。
まるで私に触らないで。というように。
まるであなたは幸せになれないのよ。というように。
いつだってそのさくらは。
最後までつかむことができない。
*
たとえば。
あたしが素直で優しくて。
かわいげのある子だったら。
なにか、かわっていたのだろうか。
「せんせー。どこで結婚式すんのー?」
卒業式が近づく、三月。
この時期になると授業という授業もほとんどないせいか、遊びに学校に来てるもんだった。
「……内緒よ」
ふわりと笑って、水町先生は人差し指を口元にあてた。
そのふんわりとした雰囲気と包み込むような優しさは、憧れの女性像そのもの。
今年の春。
あたしたちの進学や就職とともに、担任である水町先生は結婚する。
同時に教師もやめるらしい。
「えー。けちぃー」
蜜に群がるあり。
クラスメイトの楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。
きゃっきゃっと恋バナに興味深々なのは、思春期なら当たり前。
水町先生に密かに憧れていたのだろう男子もちらちらと気にしている。
「あきないよね。あの人たちも」
目の前にいた唯一の友は、そんな光景に頬杖をついて。
あきれたように、そういった。
「そだね」
「あんた、平気?」
のぞきこんで聞いてくれる友人は一体どこまで察してくれているのか。
あたしは無表情で小さくうなずき、気にしてないように外へ目を向けた。
窓の外には、学校にどのくらいあるかわからないさくらの枝が見えて。
その先にはさくらの花と、色づいたつぼみ。
さくらをみると瞼の裏に浮かぶ、たった一人。
そっと水町先生に目を移すと、沸き起こるのは黒いモノ。
でも平気。
胸の内の真っ黒な感情はいつだっていつだって宿るけど、かってに消えてくれる。
締め付けられるのも、しんどい気持ちも、もう慣れた。
だから、平気。
あたしはそっと立ち上がった。
「行くの?」
「うん」
問いに、余計なことをいわず。
「いってらっしゃい。次の時間までには、帰ってきなよ」
「わかってる」
なにもいわないけれど、見守ってくれる友人。
その友人に心の中で感謝しながら、あたしは教室をあとにした。
向かう場所は、ただひとつ。
北館。
理科の実験以外では、絶対にだれも来ない場所。
閑散とした雰囲気。
陽の光で見えるほこり。
廃れている壁。
そのすべてが、ここは使っていないことを証明している。
でもこの三年間。
きっとここに来た回数は、だれよりも多いはず。
三階の角教室。
実験ですら使わない、教室と呼ぶには小さな部屋。
ここは。
文芸部の、部室。
いつものように遠慮なくドアを開ける。
ドアを開けて、最初に目に入ったのは。
茶色がかったストレートの黒髪。
肩幅の広い背筋の伸びた背中。
紺色のスーツ。
「先生」
抑揚のない口調で呼べば、怪訝にふりかえる影。
「なんだ。お前か」
あたしを認めた瞬間に発せられる低い声に、眉をしかめる。
「なんだ。なんて失礼ですね」
遠慮なしに入って、四脚しかない椅子のひとつに座る。
前には白くて細長いテーブルが二つくっついてるだけ。
そんなあたしの姿に、先生の眉間にもしわが入った。
「どうして座る」
「椅子があったら座るでしょう」
「お前、まだ一応授業中だぞ」
「授業なんて、してませんよ」
頬杖をついて、ほこりっぽい室内を見渡す。
両壁の本棚には本がぎっしり詰まっていて。
けれどもうっすらとしたほこりが、本の上に溜まっててだれも読んでないことが窺える。
唯一生活感をだしているのは端にぽつんと置いてあるデスク。
積み上げられた書類や書籍は、先生の私物にしか見えなかった。
いい加減、先生もきれいにしたらいいのに。
ほこりくさくて嫌になる。
だからって片付けようとは思わないけど。
「お前な、文芸部でもなかったくせに文芸部より使うとは、おかしいと思わないか?」
「全然。大体ここの文芸部、活動してるんですか?」
あたしが知りうる限りで文芸部の部員をみた記憶がない。
別にどーでもいいんだけど。
「……一ヶ月に一回くらいか」
思い出すようにつぶやく先生も、きっと部員の顔なんてろくに覚えてない。
「先生はどーしてここにいるんですか?」
「顧問だから」
「そのくらいの活動だったら、別にここにいる必要ないでしょうに」
平然というものだから、平然と疑問を投げ返す。
先生は気にした風もなく、肩をすくめた。
「先生の物置化してますよね、ここ」
ちらとデスクの上にある私物であろうファイルや書籍を見る。
さらにはその隣にコーヒーメーカーまで置いてある。
豆まで持参しているようだった。
家なのかここは。
「いいんだよ」
「そういうの知ってます? 職権乱用っていうんですよ」
意味ありげに視線を送れば、先生は細い目をさらに半目にして。
ため息をつきたそうな顔をされる。
「お前はどうして、そういう余計な言葉ばかり知ってるかね」
「そういう風に育ったもんですから」
にっこりと笑えば、それはそれは大きなため息をつかれた。
「……ところでお前、高校受かりそうなの?」
「おあいにくさま。あたしはもう推薦でばっちりですから」
髪をもてあそびながら、返す。
あ、枝毛だ。
あとできらなきゃ。
「なんでお前みたいなやつが推薦で受かるのかわからん」
失礼な先生は失礼な言葉をあっさりという。
あたしは笑みを作った。
「あたしの成績、なめないでください」
「いくつなんだよ」
「四二つに、あと全部五です。それに愛想笑いくらいなら、あたしにもできますから」
「世も末だな」
胸ポケットから取り出したのは煙草で。
その長い指に挟んで、吸う姿はやっぱり大人の男の人で。
同級生の男の子とは違う、お父さんとも違う、大人の色気があった。
結構、先生の煙草を吸う姿は好き。
でも。
煙草独特の匂いが、鼻につく。
部屋に充満する煙に、自然と顔が苦くなる。
このにおいは、あまり好きじゃない。
「校内は禁煙ですよ」
「お前がいわなきゃ、ばれない」
「不良教師」
あたしの言葉に先生は不適に笑うだけ
「生徒の相手してやったんだ。そのうえ、娯楽まで奪おうなんてどうかしてる」
……それはどうだろう。
望んで教師になったくせに、娯楽どうこうの問題ではないような気もするけど。
「タバコは体に悪いんですよ」
「そんなの、吸ったときからわかってるよ」
けらけら笑う。
百害あって、一利なし。だろ? と続けていわれる。
「それなのに、どーして吸うんですか?」
「どうしてだろうなあ」
まるで他人事のようにいいながら、コーヒーメーカーへいそいそと向かう。
コーヒー中毒と煙草中毒。
先生、早死しそうだ。
コーヒーメーカーがこぽこぽと音をたててる。
静かな空間に響くのはそれだけで。
今度は、コーヒーの香りが部屋に漂った。
さっきの煙草と入り混じって、変な匂い。
「お前もコーヒー飲むか?」
「もらいます」
あ、いまの無愛想だったかも。
もともと感情表現が豊かじゃないあたしは、潜在的に愛想というものを持ち合わせていないらしい。
三年間ですっかり慣れた先生はもう気にしてすらいないようだけれど、それでも目をすがめられた。
「もうちょっと愛想良くできないのか」
「できません。する必要もありません」
なんて素直じゃない言葉。
ほんとは笑顔で、いいたいのに。
先生はああ。そうかい。とぶつくさつぶやきながら煙を吐いた。
あたしのかわいくないのは、こういうところ。
「もう先生と出会って、三年ですね」
話題を変えてみると、先生も懐かしそうに目を細めてうなずいた。
「早いもんだな。あのころのお前は、死にそうな目してた」
「そんな目、してませんよ」
「してたよ。でも変わった。すっごく柔らかくなった」
うれしそうに口ずさむ先生。
そんなうれしそうな顔、しないでほしい。
「それはせんせいの、せんせいのおかげですね」
口から出たのは小さな本音。
先生はそんなあたしに歯を見せて笑ってくれる。
その笑顔に、きゅん。と胸が締めつけられた。
「お、俺のありがたさがわかったか」
「感謝はしてます」
うなずけば、苦虫をかみつぶしたような顔。
なんですかその顔は。
「お前が素直だと、不気味だな」
「失礼ですね」
こんな他愛もない会話を、いとしいと思う。
こんな関係が、ずっと続けばいいと思ってる。
もうすぐすれば、ただのたにんになるのに。
「でも先生と出会えて、よかったと思います」
先生には聞こえないように、自分だけに囁くように呟いた。
ただのたにんになっても、会えてよかったと思う。
だって。
きっと先生と出会えなければ。
先生がいなければ。
あたしは世界が色あせているようにしか、見えなかったから。
*
中学一年生の、入学式。
新入生は浮き足立つ、この季節。
当のあたしはというと冷静で。
中学生になった実感もないまま。
ただ、来なきゃいけない。という義務感から来たようなものだった。
あたしにとって世界は写真みたいなものだった。
レンズ越しに見ているような世界。
たしかに世界は動いているのに、動かない映像。
どこか現実感がなく、すべてが色あせていた。
一人のほうが好きだった。
人と関わるとどうしても壁を感じてしまうから。
自分とこの人は違うんだって。
どこか、別の生き物に思えていた。
だから友人といえば、おさななじみくらいで。
とくにそれで、寂しいとも思わなかった。
でも一人だけ。
壁を感じない人がいた。
きっかけはたったひとこと。
「さくら、きれいだろ?」
耳を通り過ぎた音に、首をめぐらせてその方向を見れば。
さくらの雪の中。
子どもみたいな笑顔が、そこにあった。
初めて、きれいだと思った。
さくらをバックに笑う大人の男の人。
舞い散る桜と同化するその姿は、紺色のスーツとマッチしていて。
無意味に、心臓が高鳴ったのを覚えてる。
「君、新入生?」
慣れ親しんだ口調で話しかけてくる。
スーツ姿。
背が高くて、低い声。
先生なんだ。と気付くのに、時間はかからなかった。
「はい」
「じゃあ一緒だ。俺も、今年から赴任してきたんだ」
人懐こい笑顔を浮かべる先生に、きっと人気者になるだろうな。と直感的に思った。
「緊張するだろうけど、お互いがんばってこう」
手を差しだす先生。
一瞬戸惑ったけれど、特に断ることもなくあたしも手を差しだした。
「じゃ、俺、君の友達第一号な」
握手をかわすといわれた言葉。
一瞬きょとんとしたし、正直言うとこの人ばかだろな。と思った。
先生と生徒で、友達同士って。
「あ、笑った」
あたしの顔を見てうれしそうに。
笑ったなんて気付かなかったけど。
「よろしくな」
「……よろしくお願いします」
それが、一番最初だった。
それからしばらくは会わなくて。
学校生活が慣れたころ。
たまたま、職員室前で鉢合わせした。
あたしは覚えていたけど、たぶん先生は覚えてないだろうな。て思ってた。
「あ、入学式の時の人?」
でも先生は。
あたしの姿を見た瞬間に、あの時と同じ人懐こい笑顔を浮かべて。
あの時と同じようにフランクに話しかけてくれた。
「あ、はい」
まさか声をかけられるとは思っていなくて。
若干うわずった声。
自分でも、なんで緊張しているのかわからなかった。
でも話すと楽しくて。
時間すら忘れられて。
それから、他愛もない話をするようになった。
部室にも、部員にはならなかったけどちょこちょこ顔をだすようになって。
先生と話す時間は、クラスメイトのだれと話すよりもずっと有意義だった。
あたしが知らないことを、いっぱい知っているから。
しばらくして、気付いた。
先生との間には、距離とか壁っていうものを感じないなって。
いつも感じていた壁とか。
色あせていた世界が。
先生といる間だけは消えうせて。
鮮やかな色彩をもって、輝いていた。
話すようになって知ったこと。
さわやかな人じゃないってこと。
めんどくさがりで、整理整頓が下手なこと。
意外に腹黒いってこと。
誰よりも生徒のことを気にかけて、力になってくれるってこと。
先生といる間だけは居心地よくて。
知らない先生の部分や知識を知ることが、楽しくて。
いつしか、先生に会いに行くためだけに学校へ行くようになっていた。
あるとき、いったことがあった。
「人と関わると、壁を感じるんです。それでいてあたしの世界は、すべてが色あせていて。どこか、現実感がない」
先生はそれにきょとん。としたあと豪快に笑った。
「そりゃ珍しい現象だな」
くったくもなく。
それからあたしの頭をかき回して。
「それだけお前は世界を客観的に見てるってことだ。自分で受け入れようとしないで、一線をひいて見ているんだよ」
そう、なんでもなさそうにいった。
そのときの衝撃は今でも覚えてる。
体のありとあらゆる場所が発熱したみたいに、一気に体が熱くなって。
どうしようもなく、恥ずかしかった。
見透かされていると、思ったから。
あたしが、大人になりきろうとしてなりきれてないってことに。
でも先生はそんなあたしを馬鹿にすることなんてなくて。
「飛び込んで来い、この世界に。自分の足でな」
外の世界へ誘うように、ゆっくりと手を引いてくれたんだ。
その言葉のおかげか。
あたしの世界は急に、変わった。
今まで見えていた世界のすべてが。
命がめぶいたかのように活発に動き出して。
色彩すべてをふんだんに使って。
あたしの視界を、おおいつくした。
それでも。
先生だけは、さらに濃い色で。
世界と同化することはなかった。
その現象の意味をあたしが理解したのは、もう少しあとだったけど。
でもあたしの世界を変えたのは。
間違いなく、先生だった。
*
「城島と出逢ったのも、たしかさくらの下だったよな」
窓の外。
早咲きのさくらが花開いている。
「……そうですね」
「早いよな。もう、三年だもんな」
なつかしげに。
その目には、三年前のあたしがいるんだろうか。
今のあたしと、変わってる?
それともやっぱり、先生にとったら一緒なのかな。
あたしは考えを打ち切るように視線をそらして、さくらをじっと見つめる。
「先生はさくら、好きですか?」
こぼれおちた音。
無意識、だった。
小さい声だったはずなのに、先生はしっかりと聞き取ったようだった。
「――ああ。好きだよ」
その言葉に、当たり前ですよね。と笑う。
先生が、嫌いなはずない。
「お前は?」
「……好きですよ」
言った瞬間に心が黒く、にじむ。
ゆっくり広がって、侵食する。
でもだいじょうぶ。
これはこの場限りだから。
「ほらよ」
コーヒーをいれたカップを差し出される。
上から覗き込む先生の瞳を見つめながら、そっとカップを受け取った。
「ありがとうございます。これ、洗ってますよね?」
「洗ってるよ」
一応の確認をすれば、不服そうな声。
仏頂面。
だってここにあるもの、ほこりかぶってそうだし。
カップまで持参なんて、やっぱり家だなもう。
先生はさくらを見ながら、コーヒーに口をつけた。
「さくらは綺麗だよな」
言葉を、紡ぐ。
「美しく、儚い分だけ、人の心に残る」
胸のうちが、やけそう。
熱くてしょうがなくて。
でもこれはきっと、コーヒーのせいだ。
コーヒーの熱さのせいだ。
絶対そうだ。
「詩人みたいですね」
ごまかすように鼻で笑って。
「ばかにしてるだろ」
さくらから視線をそらして、あたしをしかめつらで見る先生。
「先生みたいに、ロマンチストにはなれません。さすが、文芸部の顧問です」
嫌味っぽい笑みを見せて。
誤魔化せ。全部。
「そんなんだからお前、彼氏できないんだ」
「別に、ほしいなんて思ってませんよ」
彼氏なんて、いらない。
あたしがほしいものは、たったひとつだけ。
「さみしいやつだな」
「彼氏がいるからって、さみしくないなんて限りませんよ」
「恋はいいぞー。世界が変わるからな」
にこにこ笑う先生に、締め付けられる心臓。
しってる。
そんなこと、しってるよ。
恋をすれば世界が変わるなんて。
だれかはばらいろになるといった。
だれかはあざやかにかがやくといった。
でも。
あたしは。
どこまでも底が見えない、深い藍色に変わった。
「じゃあ高校で探します」
「そうしろそうしろ」
コーヒーを飲みながら先生は同意する。
つきん。と胸が痛む。
先生に気付かれないよう、首をふった。
この胸の痛みは。
きっと、きのせい。
もうすぐすれば、泡のようにきえゆくもの。
あとかたもなく。
「城島も卒業か」
「……うれしいですか?」
「いや、寂しくなるな。でもどうせ、またくるんだろ?」
その瞳は。
子どもみたいな瞳は。
なにも疑うことを知らなくて。
残酷に、あたしをきりつける。
「どうでしょう」
にっこり笑う。
気付かれちゃいけない。
全部、ぜんぶ。
「なんだ。その曖昧さは」
「だって先生が来年もいるとは限らないし、文芸部もあるかわかりませんし」
「いるね。あるね」
どっからくるのか、その自信。
「……じゃ、期待してます」
きっとくることなんてないだろうけど。
この胸の痛みを忘れるために。
この胸のうずきを抱かないために。
時計に目を走らせる。
もうすぐ授業が終わる。
ここにいられるのも、あとすこし。
「城島」
「なんですか?」
時計を見たまま、問い返す。
黙った先生を不審に思ってあたしは、視線を移した。
窓にもたれかかっていた先生はあたしと目が合うと、微笑んだ。
どくんっ
あの時と、同じ。
入学式の、人懐こい笑顔と。
「卒業、おめでとう」
窓の外の早咲きのさくらと同化して。
入学式と重なる、その姿。
「卒業式は、明日ですよ」
どこまでも素直じゃないあたし。
先生はくっくっと苦笑いした。
「ここは素直に礼をいえよ」
「嫌です」
だってお礼をいったら。
もうほんとにおわかれになる。
卒業なんて、したくない。
ほんとはずっと先生とたわいもない話をしてコーヒーを飲んで。
できることならこのままいっそ。
時間が、止まってしまえばいいのに。
ふいに考えていたことに、自嘲する。
あたしらしくない、乙女チックな考え方。
いつからあたしは、こんなにも恋する乙女になっていたのだろう。
そのとき。
この時間を終わらせる警報が鳴る。
ああ。
時間はなんて残酷なんだろう。
「お。終わったな」
「はい。じゃああたし、帰ります」
コーヒーを飲みきって立ち上がる。
ほんとはまだここにいたい。なんて思う、乙女チックなあたしの考えをねじふせて。
「次会うときは、卒業式だな」
にかっと笑う先生。
卒業式。
もう、あえなくなる。
こんなイトシイ時間は。
もう、なくなってしまう。
心臓が、うなる。
このままでいいのかって。
ほんとはこんな他愛もないことだけをしにきたんじゃないんだろって。
「……先生」
胸をおさえるように、ぎゅっと手をおく。
……ほんとは。
ほんとは今日、ここに来た目的は。
「なんだ?」
あなたの心に。
「いいましたよね? さくらは人の心に残る、と」
あたしの残像を。
「いったよ」
微笑む先生に、あたしも小さく微笑む。
「先生の心にも、残りますよね?」
消させないため。
「ああ。もちろん」
あたしは先生に歩み寄る。
不思議そうな顔をする先生。
「先生」
「ん?」
あたしは、にっこり笑った。
「あたしは、先生のさくらになれますか?」
あなただけの、さくらに。
突然の意味不明な問いに、は? と目を丸くする先生の胸倉をつかむ。
さらに困惑顔を浮かべる先生を、思い切り自分のほうにひっぱった。
落ちてくる影。
消えていく色。
世界が闇に転じると同時に、唇に落ちた熱。
それはたった一瞬だった。
「……え」
離れれば、まぬけな顔をする先生。
あたしはお構いなしに、先生に見せたこともないような極上の笑みを見せた。
「先生、水町先生とのご結婚、おめでとうございます」
好き。なんていわない。
「今まで、ありがとうございました。――それと、ごめんなさい」
いったところで、
先生の心に住むのはあたしじゃない。
それは絶対に、変わることがないもの。
混乱している先生を置いて、あたしは部室のドアに向かい始めた。
その途中。
「城島!」
先生はあたしを、呼び止めた。
ふりむかず。
ただ、待つ。
「おれ……」
「謝らないでください」
「え?」
「あたしの気持ち、答えてなんてくれなくていいんです」
最初から知ってたから。
もうこの気持ちが叶わないことなんて。
「城島……」
「あたしを先生の、さくらにしてください」
先生の。
先生だけの。
「それくらい願ったって、バチ当たりませんよね?」
先生はなにもいわなかった。
あたしは目を閉じて、息をはく。
「……俺はお前といる時間、楽しかったから」
背中にふりかかる、心地いいくらいの声。
はっ。と小さく世界がきしむ。
心をゆさぶるこの想いは、いわないと決めたはずなのに。
喉元までせりあがってはきだしたくなる。
もう、すべてをぶちまけてしまいたいと。
でもしない。
これ以上先生にいい思いなんて、させてやらない。
あたしの青春も。
あたしのファーストキスも。
全部奪ってしまった、先生には。
これ以上なにも、あげない。
なにもいわないあたしに、先生はいった。
「先生として、お前の成長間近に見れて、本当にうれしかったから」
“先生として”
それが、もうあたしへの答えを示している。
「あたしも、楽しかったです」
気持ちを呑みこんで。
そんなことを口にする。
形だけでも過去にするために。
「ありがとうございました」
今度こそそういって。
思いきりドアを開けた。
ドアを開けたその先は。
色あせていたあのころとは違って。
まばゆいばかりの世界が、広がっていた。
*
廊下を歩く。
休み時間なのに、静かな廊下。
当たり前か。
この場所、人はめったに来ないし。
教室に戻る気にもなれず階下へ向かう。
靴をはきかえて、さくらのもとへ向かった。
先生と出逢った、さくらのもと。
さくらを見上げる。
空に溶け込んだ、ピンク。
ひらひら舞うさくらは、美しく。
ゆっくりと降りていく。
自分がいた証を、残すように。
「美織?」
唯一の友人の声にふりむく。
見れば不思議そうな顔をした友人が立っていた。
「なに?」
「いつまでたっても戻ってこないから。こんなとこでどうしたの?」
「ううん。別に」
またさくらを見上げて。
「……ね、さくら好き?」
先生、あたし一つうそをつきました。
「別に。ふつうかな」
あたしの性格をきちんと知っている友人は、突拍子のない質問にも律儀に答えてくれる。
「あたしは、嫌い」
さくらなんて好きじゃない。
好きどころか、嫌いなんです。
「どうして?」
だってさくらは。
先生の最愛の人と同じ名前。
水町先生の下の名前。
ううん。ほんとは、それだけじゃない。
「いつも逃げられるから」
「逃げられる?」
「そう」
舞い散るさくらに手を伸ばす。
つかもうとすれば。
ひらり。とかわされる。
「まるでしあわせになれないのよ。っていわれてるみたいだから」
あたしをあざ笑って。
いつだって、逃げてしまう。
「だからね、嫌いなの」
視界が一瞬にじんで、雫が落ちる。
先生、あたしはあなたのさくらになれましたか?
美しいけど、儚いさくらに。
自分がいた証を必死に残そうとするさくらに。
……あたしにとっても先生はさくらみたいでした。
手をのばしても。
つかまえようとがんばっても。
いつもすんでのところで逃げて。
けっして。
つかまえることが、できない。
fin.