"Hunting High and Low"
王都が誇る大牢獄への道順は、案外単純明快で余程の方向音痴でなければ子供だろうと迷わない。
まずは謁見希望の市民が犇めく王宮正門を通り過ぎ、王妃の庭園脇にある小道を裏手へ進んでいく。すると見張りの衛兵と地下に繋がる階段が見えてくる。
通行証を掲示してその三十程の段差を降りれば傷んでくすんだ木の扉があり、開くと最初に目に入るのが衛兵達の詰め所である。
隅に置かれた丸テーブルには空のワインが何本か転がっていて、側のベッドで夜勤を終えた門番が鼾を掻いて眠っている。衛生面は二の次で、単に体を休めればそれで良いらしい。
簡素な武器棚に掛けられた衛兵用の剣や斧、更には弓や猟銃は収監された罪人に無言の威圧を与えているが、手入れは随分怠っているようだ。
そして詰め所入り口の丁度対面、奥へと伸びる巨大な空間こそが、鉄壁の袋小路の異名を取るラ・シェンテ牢獄の全貌だ。
詰め所と牢を隔てる壁が皆無なために、呻きや恨みが合わさって聴くものの耳に澱みを残す。
「お、君が新入り君か? おっと、待てよ待てよ……新兵のリストを確認するからな」
そんな詰め所の一角で、二つの人影が揺れていた。
片方の影がテーブルの上から湿気った書類を手に取ると慣れた手つきで捲りつつ、ちらりと舌を出してやる。
カンテラの灯に照らされた顔は二十半ばの男のもので、鋭い目付きはさながら大蛇の睨みを思わせる。
「あったあった、えーと。メルセル・ファタル君で間違いないかい? 」
「はい。今日から刑務官としてお世話になります」
長身の青年――メルセルは深々と頭を下げた。
紺碧の髪色と整った目鼻立ちは相手に冷静沈着な印象を与え、地下牢獄という陰鬱な背景に良く馴染んでいる。
「士官学校ではかなりの優等生だったみたいだけど、可哀想に。魂が冷情じゃなければ王宮騎士としてロニアス王に仕えられたかもな 」
「ははは……同じことを先生にも言われました。最初は僕も騎士を目指してたんですけど」
メルセルは俯き気味で答えると、腰に下げた銃剣の腹を一度こつりと弾いてみせた。
声別試験――。
忘れもしない、彼のその後の人生を決定付けた忌々しい儀式。
王都に住まう人間は、歳が十を数えると街の中央広場に聳えるマルシエラ大聖堂に赴いて聖母の選別を受けることになっている。
聖母とは王府公認の世界宗教ラウムン教の最高指導者に代々与えられてきた称号であり、彼女の特殊な歌声を聴くことで魂が暖情か冷情どちらなのかを選り分けるのだ。
暖情は正の祈呪、愛情や友情思い遣りの心を本質に持ち冷情は負の祈呪である憎悪や拒絶の心であるとされ、生活の様々な部分で区別される。
居住区さえも別けられていて、親と子が異なる祈呪を持つ場合には互いに引き離されてしまう。
メルセルが刑務官を志望したのも、冷情の人間が就ける中で最も高位で難しい職業だったからだ。
彼がもしも暖情ならば、王の騎士でも王宮魔想術師の見習いにでも成れただろう。
「俺もメルセル君と同じで、冷情だからって騎士になるのを諦めたんだ。これでも腕は立ったんだが。……ああ、つまらない昔話で自己紹介が遅れたな。看守長のシヴァルトだ、これから宜しく頼む」
「此方こそ、未熟者ですが宜しくお願いします」
再び頭を下げたメルセルの肩に、シヴァルトは優しく手を置いてからからと笑っている。
口が裂けても言えないが、彼の浮かべる笑顔には鞘を無くした抜き身の刃に似た危うさがある。
「それじゃ、早速仕事に入ろうか。実は、君に是非監視を担当して欲しい囚人が居るんだよ」
「え? 」
シヴァルトの言葉に、思わず素頓狂な声を上げてしまった。目を丸くして、彼への返事もままならない。それほどまでにメルセルにとっては予想外の任務であった。
一刑務官が個人の囚人監視を受け持つことなどあるのだろうか。ラ・シェンテ牢獄には現在百六人の囚人がいるが、刑務官は自分を混ぜても男女合わせて八人しかいない。
そもそもで、最初は点呼や食事管理等の職務研修から入るものだと勝手に思い込んでいた。
「そう気負わなくても良い。子供でもできる簡単な仕事だよ。いやむしろ、まだ十八歳の君だからこそ彼女の相手に適役と言えるかな」
「彼女……? 囚人は女なんですか? 」
「ん、そうだが。問題あるか? 」
「いえ、そういう訳では……」
ますます謎が深まった。
事前に調べた規程によれば、女囚の管理は女性の刑務官が取り持つ決まりになっていたはず。
男と女の囚人では収監される区画も違うし、ある意味これは越権行為なのではないか。もしや看守長は自分を嵌めるつもりで……。
メルセルがそんな不安と思案に耽っていると、シヴァルトが今度はかなり力を込めて右の肩を叩いてきた。
「付いてきな。彼女の牢まで案内するから」
「あ、はい。……分かりました」
「冷情はネガティブな思考に陥りやすい。余計なことは考えるな 」
シヴァルトはそれだけ言うと、牢獄の方へと歩き始めた。
メルセルはぎょっとして、慌てて彼の背中を見つめる。最後の忠告には並々ならない想いと冷気があった。
彼の祈呪に当てられたのか、頭の痺れが止まらなくなる。思考が霧散し、一瞬目の前が真っ白になった。
腐ってもラルヴァ王立士官学校十四代首席、シヴァルト・フィッツネイシンと言ったところか。
士官学校出の人間で彼の名を知らない者はいない。
創立以来最高の人材と謳われながら、冷情であったために類い希なる剣の才能を生かすことなく王宮地下に幽閉された悲劇の主人公。
未だに冷情生徒の間では語り草となっている。 主に諦めと憧れと諦めの象徴として。
実のところメルセルが刑務官になったのは、騎士が駄目ならせめて彼の下で働きたかったという部分もある。
「済みません、看守長! 」
そんな彼に初日から嫌われてしまってはどうしようもない。
メルセルは柄にもなく張り上げた声で謝ると、シヴァルトの背を追い掛けるために走り出した。
*
「出せッ! このッ、俺は無実なんだよォ! 娘に会わせろォ! 」
「おいおいシヴァルト、そいつぁ新入りか? 結構可愛い面してんじゃねぇか、へへ」
ラ・シェンテ牢獄は長方形の直線状で左右に牢屋が建てられている。奥に行くほど囚人の罪が重くなっている仕組みで、進めば進むほど周囲から浴びせられる罵声も激しくなった。
通路は酷く汚れていたし、腐肉にチーズを塗りたくったような臭いも辺りに充満している。
メルセルは耳を塞ぎたいのを堪えて、前を歩くシヴァルトの足に視線を集中しながら付いていった。
「あの、看守長……。件の女囚はどこにいるんですか? そろそろ牢屋の端に着いてしまうのでは……」
「あ、そうか。メルセル君は知らないだろうな、『縛牢』のことは」
「何ですか、それ? 」
もはや積もりに積もった謎の塊が意識の底を抜けそうである。牢の名だけでも不穏な空気を醸し出す、彼女はそこまで危険な人物なのか。
シヴァルトは、頭を抱えて悩みに悩むメルセルにはお構い為しに話を続ける。
「簡単に言えば独房だよ。何のことはない、この先にある扉の向こうがそうなっている。さて、心の準備は大丈夫かい? 」
メルセルははっとして顔を上げた。
既に自分は牢獄の袋小路、その真ん前に着いていて、鋼鉄の扉が憮然として立ちはだかっていた。
四角の漆黒の中心に大きく、王家の紋章である宝剣に巻き付く双頭の竜が彫刻されている。
シヴァルトは足を止めると、ベルトに括ったキーリングの中でも取り分け重厚な装飾の鍵を選んで三段ある内一番下の鍵穴に差し込んだ。
何度か鈍い金属音を響かせた後、がちゃりと小気味の良い音が二人に扉の解錠を告ぐ。
(いよいよか……。どんな女性なんだろうか。嫌な予感しかしないけど)
メルセルは半ば諦念の思いでシヴァルトが重たそうに扉を押すのを眺めていた。
少しずつ広がっていく隙間からは白銀の鋭光が溢れてくる。 ここは地下なのにどうして光が、とメルセルが考えるより先に右目の方が解放された『縛牢』の間への順応を終えた。
……終えたまでは良かったのだが、
「ふぅ……シュー、良い子にしてたかな? 昨日も一応教えたけど、今日からお前の先生になるメルセル・ファタル君だよ。ご挨拶しなさい」
「せんせい? ……せんせい、こんにちわ。私の名前は、シュー……です」
その目をすぐさま疑った。それから脳を疑った。 幻覚じゃないと判断すると、開きっぱなしの喉の奥から気の抜けた声が漏れ出した。
「君が……」
メルセルが目の当たりにした囚人は、両手の自由を石の枷で封じられた幼い少女の姿をしていた。
薄汚れたワンピースだけを着ているが、どこか上品な空気を感じさせるのは閃く銀の麗髪のせいだろうか。
彼女が寄越した屈託の無い笑顔は、メルセルがこの日初めて受け取った本物の暖かさでもあった。
「看守長……この子は何の罪で捕まったんです? 」
「やっぱり、それを訊くよな。まあ、誰が見ても悪趣味な冗談にしか感じられないだろうからな」
シヴァルトは無造作に頭を掻いて、一度低く唸った。
言おうか言うまいか、激しく迷っているらしい。
が、遂に意を決したのか不意にメルセルへと向き直ると険しい顔をして溜めていた物を一気に吐き出すように言った。
「シュー……シュー・ネス・ケープは声別試験の最中にラウムン教の聖母を殺した、大罪人だ」