"Wannabe"
三日月の夜、雲が逃げ出した空。
マルシエラ大聖堂と呼ばれる教会で、一人の少女が星明かり射し込む身廊を歩いていた。
ステンドグラスからの柔らかい彩光に染められる横顔はまだ幾分かのあどけなさを残し、等間隔に並んだアーチの柱の陰から身を出す度に腰まで伸びた銀髪が煌めいている。
少女の静なる歩みが向かう先にはラウムン教の救い主である精霊女神エインセルの彫像と主祭壇があって、その前に純白のベールを被った女が佇んでいた。
燭台からの灯りが消えた暗がりの中に在りながら、彼女の姿は目映い正の神秘性を伴って堂内を明るく暖めるようである。
少女は女と互いの表情がはっきりと確認できる所まで来ると、両手を前で重ねつつ丁寧に御辞儀をした。
「……こんにちは」
「こんばんは、ですよ。こういう刻は」
「……こんばんは? ……こんばんは」
余韻に垂れた疑問符は、二言目には少女の声から抜け落ちた。
少女は挨拶を知らなかった。それは両親から今まで何もかも教わらずに育ってきたせいである。
だが、彼女自身は無知を恥と思ったことなど人生に於いて一度も無い。恥という概念すら心に持ち合わせていないのだ。
つまりは、そういう子供だった。
「付き添いの、お母さんやお父さんは来ていないのですね」
「うん。……ダメ?」
そう訊ねた少女の顔には色が無く、小さく震える声だけが僅かに滲んだ感情を独り歩きさせている。その感情すら本物かどうか怪しいものである。
女は少女の問いに対して微笑みながらゆっくりと首を左右に振ると、
「そんなことはありません。むしろ、貴女はとても立派です。親孝行な子ですよ」
と言った。
そしてそのまま、遥か天蓋から覗く三日月に向かって両手を広げると瞼を閉じて口元をそっと動かした。
それが合図と言わんばかりに、消沈していた燭台群は波打つように順々に己の灯りを取り戻す。
大聖堂から闇を追い出す蝋の光は、曝した少女の魂さえも縦横無尽の方々から晒し上げるようだった。
「それでは、始めましょうか」
女はすうっと息を吸い込んだ。
少女は円らな瞳を瞬いた。
それは即ち運命の歌、女の喉から響く詩歌。決まりに従う二人の対峙。
少女は虚空を見上げたままに、初めて感じる音色の渦に夢見心地で巻き込まれる。
そして、視界に揺れる見上げのフレスコ『アルマの祝福』の精霊達がその歌声に応えるように、祝福の反響で少女の全てを満たしていく――。
*
この世界、ラルグ・リュミーダに生きる人々の間で語り継がれる伝承にこのようなものがある。
「世界中の誰からも自分が想われなくなった時、その存在は恰も初めから無かったように消えてしまうだろう」
嘘か真か、どうしようと確かめようがない話だ。何故ならば、人は命ある限り自分自身を想い続ける生き物だからである。
祈呪、各々が持つ想いの力を彼の先人達はこう名付けた。相手を尊び、憎み、憐れみ、慈しみ……数ある種の中で人間だけに与えられた特別な感情は心に座する透明無垢な魂を何色にも染め上げる。
中には魂を清らかなものに保つため、発声によって心の洗濯を試みる者もいた。時には叫び、又ある時は囁くように。
それによって起きた信じがたい奇跡の数々、怒りは猛る炎となって街から街を焼き尽くし、悲しみは涙の洪水となって枯れた大地を飲み込んだ。
今では魔想術として世の理に浸透したこの強大な力は過信的な驕りとなり、人類の歴史に大きな傷跡と繁栄を永くもたらすことになる。
そして、今日。
精神を司る人類の先達として『精霊』を信仰するラウムン教団の総本山、王都ラ・シェンテにて。
平坦な日々を過ごしていた何の変哲もない青年が、人知れず運命の歯車に組み込まれんとしていた。
不運としか言いようがなく、神の気紛れ若しくは理不尽とも取れる。
ただ彼は、決して意思薄弱の脆き歯車ではないという。噛み合う隣の歯車へ思いもかけない動きを伝え、やがて世界の在り方そのものに強く働き掛けるだろう。
言うなれば、これは揺り動く感情の物語。
出会いと別れは腕を絡ませ歩み寄り、奪取と贈与は紙一重。求める心理は真理に変わる。
青年の名はメルセル・ファタル。
彼が迎える結末は果たして希望に満ちた終幕か、或いは――。