空の過去②
「・・・・」
目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
目をうっすらと開けると、今まで健康で縁のなかった病院の白い天井が見えた。状況が掴めず、意識がはっきりしない。空はしばらくぼうっとして瞬きを数回した。耳がおかしくなってしまったように、しんと辺りは静まり返っている。
しばらくそうして空がぼんやりしていると、にわかに辺りが騒がしくなってきた。
どうやらそれは医者たちの声のようで、それを理解すると同時にようやく耳に音が戻って周りの音が理解できるようになった。
「意識ははっきりしているようですね」
俺の顔、表情、反応をしばらく見たあと医者は誰かにそう言った。
俺はぼんやりとしながら何故自分がこんなところに寝ているのだろうかと記憶を遡る。
もしかして勉強のし過ぎで寝不足で倒れたんだろうか。だとすると医者が話す相手は母さんか、それとも海か。父さんは仕事だろうし昼間っからここには来ないだろう。
「ありがとうございます。あんなことがあったばかりだから、メンタル面が心配なのですが・・・。」
俺が悩みながら受け取った医者の言葉に返答する声は聞き覚えのある男の人の声だ。・・・これは、叔父さん・・・兄さんだろうか。
叔父さんにしては若いから、俺は兄さんと呼んでいた。
兄さんは心理カウンセラーの仕事をしていて、優しくて賢くて立派で、俺は昔からよく慕っていた。
けれど、最近会ってないし、兄さんがこっちに来る予定はなかったはずだ。
なんでその兄さんの声が聞こえるのだろう。それに、何故かさっきから話しているのが医者と兄さんだけだということも気になった。
母さんも海も、俺が倒れたのに来てくれなかったのか?俺は内心呆れながら兄さんと医者のほうへ視線を向ける。
すると、兄さんは優しげな笑みを浮べてから、少し心配そうな声音で声をかけてきた。
「空くん、久しぶり。怪我は打ち身しかなかったみたいだけど・・・調子はどうだい?」
打ち身、と言われて俺は身体を起こしながら首を傾げる。倒れたときに打ったのか?・・・それとも、俺は倒れたわけじゃない?
「大丈夫だけど。あれ・・・なあ俺、どうしたんだっけ。母さんは?海は?なんで来てくれてないんだ?」
思い切って、俺は兄さんにそう聞く。何故か、訊ねる自分の心の奥に何か懇願するような、すがるような感情があった。
俺が言うと、兄さんは苦しげに表情を暗くして俯いた。
・・・あれは夢だろう?とすでに戻り始めた記憶の混乱から逃れるように俺は兄さんを見つめる。
兄さんは目に涙を浮べて俺を見た。
すがったはずなのに、自分で訊ねたはずなのに、それを聞きたくないと反射的に俺は身を引く。
けれど、兄さんは俺が聞きたくもない言葉を、小さくつぶやくように吐き出した。
「君の父さんも、母さんも・・・・海ちゃんも。残念だけれど・・・・亡くなった」
「・・・なんの冗談、兄さん」
俺は兄さんの言葉に、顔を引きつらせてそう問う。
けれど兄さんはゆっくりと首を振って、涙を浮べた瞳をこちらにじっと向けながらもう一度、同じことを言った。
「亡くなったんだ、皆」
俺はしばらく呆気に取られたように無言で兄さんを見つめて、それからどうしようもない感情に襲われた後再び意識を失った。正確には、そこから先を覚えていない。
夢だ、嘘だ、夢だ・・・・何度も何度も、頭では理解しながら、そう呟いてこと以外は。
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あの後俺はその事件についての説明をきいても、その当時のことを訊ねられても一切何も話さなかった。
犯人はたまたま俺の家に入った強盗殺人犯で、俺の存在には気がつかなかったらしい。
そのあと意識を失った俺には気がつかず外へ逃亡した犯人は、その翌朝俺の家の隣人が、あの惨状を見つけて通報したことによって警察官に取り押さえられた。
けれどそいつは、投獄される前に自ら命を絶ったらしい。
・・・つまり敵討ちをしようにも犯人はもうこの世に居ない。
その全てをきいた瞬間に湧き上がったのはあまりに自分勝手なそいつへのたとえようもない憎しみと、それと同等の自分への嫌悪だった。
あの時、俺は戸棚の後ろから海が殺されるところをしっかりと、この目で見ていた。正確には、”見ていただけだ”。
犯人は俺に気がつかずに背を向けていて、海だけがこっちを見ていた。
あの時俺は、海が殺される事もわかっていたし、海が殺されれば自分が助かる事も理解していた。
-・・・もし、あそこで俺が動いていれば海は死んでいなかったかもしれない。
犯人は俺に気がついておらず、背を向けていたのだから。
俺が父さんに刺さったままのナイフを抜いて、犯人に後ろから襲い掛かっていれば確実に不意をつくことは可能だった。
けれどそれをしなかったのは「怖かった」からだ。
もし殺し損ねれば、次に狙われるのが俺だという考えと、助かりたい、死にたくないという自分勝手な考え。
それに苛まれて震えている俺に向かって、海はすべてを理解して「大丈夫だよ」と微笑んだのだ。
そして海は、殺された。俺は海を見殺しにした。
海の優しさに甘えて、自分の命を取った。
「俺に生きてる価値なんて、ない」
大事を取って入院を勧められていた空は、病室から外を眺めながらぼそりと呟いた。
日が沈み始めた夕焼けの赤い色から目を背け、白いベッドに目を落とす。
ベッドも、赤く染まっていた。それを見ると海の白い服にべっとりと染み付いた赤い血を思い出してぞくりと震えた。
「-・・空くん?大丈夫かい?」
「ッ!」
突然降ってきた声にバッと顔をあげると、兄さんは驚いたように目を丸くしていた。
俺の表情か、俺の行動かはわからないが、俺を見て目を丸くしていた。
けれどすぐにその表情を崩すと、兄さんは優しく微笑んでベッドの端に腰掛けて話しはじめた。
「明日、退院しても大丈夫だそうだよ。・・・・ねぇ空くん。辛くても、またやりなおそう。僕も君の力になる。僕のうちで一緒に暮らして、学校にも-・・・」
兄さんがそこで、ぴたりと口をつぐんだ。俺が兄さんを睨んでいたからだ。
兄さんは驚いたようにこちらを見て、俺は兄さんという”人間”を睨んだ。
「行かない」
睨みながら、俺はただ一言そう言った。
今まで兄さんを睨んだことなどなかったし、兄さんを尊敬して慕っていたからこんなふうに反抗したことはなかった。
だからだろう、兄さんは心底驚いたようにこちらを見て、それから悲しそうに微笑んだ。
「・・・そっか」
俺はふっと視線を逸らして手をぐっと握り締めた。
兄さんも、俺も、犯人も、ここの病院の人たちだってみんな人間だ。いつ自分の私利私欲のために誰かを殺したり、裏切ったりするかわからない。
もう誰とも関わりたくないし、誰とも一緒に住みたくなんかなかった。
そのときから芽生えたのが”死にたい”という感情だった。
*
「俺はそのあと兄さんが借りてくれた、今のアパートに一人で住んでた。お金も兄さんが送ってくれてるし、俺はそのあと何回も死のうとしたけど死ねなかった。俺は結局人と関わってるし、死ぬこともできない・・・怖いんだよ死ぬのが」
琴葉の腕の中で項垂れたまま俺は震える声で言った。
いつの間にか、琴葉が俺の背中をさする手は止まっていた。今、琴葉はどんな表情をしているのだろう。
途中、再び目に浮かんできた涙を見られる事が嫌だったというのもあるのだが、妙な安心感のある琴葉の腕から抜け出せずに琴葉に身をゆだねた格好のままの俺はその表情を見ることはできない。
「一人になりたいとか言って、俺は今こうしてお前らとも関わってるし、誰とも暮らしたくないとか言って、でも今はいあいつらと暮らしてる。・・・たまに不意に寂しくなるんだよ、全部、何もかも」
少しだけ、琴葉の体が震えていた。
またこいつは人のことで泣いてるのかと呆れながらも俺は何も言わない。
全てを話した、妙な脱力感と、泣いた倦怠感で俺は動きもしない。
「・・・話してくれて、ありがとう」
ようやく琴葉がそう声を発したときには俺は充分に落ち着いていた。
やはり琴葉は泣いていたらしく、鼻をすすりながらまだ少し肩を震わせている。
「別に。俺が話したいから話しただけだ」
俺はいつものようにぶっきらぼうに返事をして、ぐいっと琴葉の肩を押して身体を離した。
琴葉は押されるがままに後ろに下がり、赤い目をこちらに向けてきた。
琴葉は目元にたまった涙を拭いながら俺を見て、一度視線を外すとすっと息を整えるように深呼吸してから、再び俺を見た。
「死ぬことは怖いのって、普通だよ。寂しいのだって普通だよ。・・・なんでせっかくお姉さんが助けてくれた命を、捨てようだなんて思うの?」
琴葉は黒っぽい瞳を真剣な表情でこちらに向け、言い放つ。
俺は視線を逸らさずに琴葉をしっかりと見て、吐き捨てるように言った。
「助けてもらった命じゃない。人を見殺しにした命だ」
自分でも馬鹿っぽいし、理屈もおかしいし、こじつけだと周りに思われてもおかしくないことを言っていることはわかる。
周りから見れば、俺は海に助けてもらった命を捨てようとしている馬鹿だろう。
けれど俺にとってこれは、そんな単純な問題ではなかった。
あの時の海の瞳が忘れられないし、見殺しにした自分が許せないことは一生変わらない。
俺が吐き捨てるように言うと、琴葉は何か言いたそうにしたが、ぐっとそれを飲み込んだらしくため息をついた。
そしてじっとこちらを数秒睨んだ後、がしりと俺の手を掴んだ。
「でも関わりたくないっていってた人とこんなにも空は自然に過ごせてる。私達とこうして、毎日。空初めて会ったときより楽しそうに見えるよ」
琴葉がいう言葉に、俺は少したじろぐ。
確かに、と思いかけて我に返り、反論しようと口を開こうとした時には、琴葉が口を開いていた。
「それって、空が私達に心を少し開いてくれたってことだよね。私はそれだけでも嬉しいし、進歩だと思う。」
琴葉はもう一度俺の手を握りなおして、目の端にまだ少しだけ涙を浮べたまま微笑んだ。
「ありがとう、空」
-・・・「仕方なく」と言う言葉を準備していた俺は、それのせいで言葉を飲み込んでばっと視線を逸らした。
なんでこいつはこうして人の心に入り込んできて、俺なんかに礼を言ったりするのだろうか。
けれど、それも前ほど嫌な気はしなかった。
逸らした俺の視線を追う様に琴葉はひょいっと俺の顔を覗きこんで幸せそうに笑って、言う。
「それに寂しさを消すことはきっと私達にもできるよ。ね」
一人で暮らしていたときの虚無感と、寂しさは確かに最近忙しい日々に紛れて感じなくなっていた。
「・・・近い、離れろ」
結局それに気がついてしまった俺は何も言い返せずにただ、至近距離に迫る琴葉の顔をぐいっと押して悪態をつくことしかできなくなっていた。
影治しと力、空の過去①に挿絵を追加しました。
要編~過去編はここで一段落となります。




