13 聖
エッツァ城の螺旋階段を駆け上りながら城内をくまなく調べ尽くすエステルドバロニアだが、他に生存者がいないことも、聖女や勇者がいないことも薄々感づいていながら、仕事を的確にこなしていた。
どの階にもアンノウンだけが彷徨っており、魔物を見つければ本能のままに襲い掛かってくる。まとめてミンチにされて転がる肉団子や、子供の落書きに使われた絵の具と筆のように、部屋の中に散らかった残骸を見ていれば、もうとっくに生きていると呼べる者がいないのは誰でも分かっていた。
それでも、フィルミリアが部下たちに下す命令は変わらない。
——全て殺してください。
タイムリミットがあることも知っているが、殺しそびれた者がいるなんてことがあってはならない。
これだけのことをされて報復しそびれるなんてことがあれば、フィルミリアは自分を許せないだろう。
それはフィルミリアの従えるサキュバスや悪魔たちも同感だった。
蠱惑的な者も、生命の冒涜と呼べるような姿の者も、本能に恐怖を与える見た目の者も、等しく思いを共にしていた。
「フィルミリア様」
頂上に近づくほど、あの白竜の汚らしい息遣いと身動ぎの音が近くなる。
白竜から放たれる粘つくような聖なる空気も濃度が濃くなっていき、フィルミリアたちの肌をチリチリと焼くが、城の最上階となるフロアに一つだけ存在する大きな銀の扉を前にしすると、煩わしさを忘れた。
「開けてくださいませ」
周囲を警戒しながら四つ腕の悪鬼【ラークサシャ】二体が扉の側に近づき、聖なる銀の力で掌を焼かれながら扉を開いた。
聖王の間。
美しい銀と、血の赤。塔を掴む白竜の爪。広間の壁際に並べられた老人たちの首。楽しそうにゆらゆらと踊る聖女。白竜に向けて祈りを捧げる聖銀の騎士。
魔物たちが嫌う、人間の悪意がこれでもかと詰まった光景だった。
「あら、ようやく来たの? 待ちくたびれちゃったわ。あーあ、おかげで逃げそびれちゃったじゃない。もうっ、意外と呑気なのね」
フィルミリアたちに気付いたエレナ・ルシオーネが踊りをやめて、心底残念そうな顔を作る。
まるで少女のようだった。あの花冠の勇者アルア・セレスタの方が、振る舞いだけなら聖女らしいと思えた。
「元から逃げる気なんてないじゃあありませんか。あったのなら、転移門が使えなくなる前にさっさと下に逃げればよかったでしょう? それとも、他に逃げる方法があるとでも?」
「さあ、どうかしら。私もグロキシニアも、アルマ様と一緒に居られればいいから、アルマ様が助けてくれたら生きていられるかもしれないわね」
「アルマ様ぁ? まさか、このクソキモドラゴンのこと言ってます?」
「ええ。竜の聖女アルマ様よ? 私がずうっと憧れてた偉大な御方……男神ザハナ様に最も近づいた御方……」
恍惚とした表情で語るエレナに、フィルミリアは怪訝な顔を向ける。
天に近づくほど無機質な美を持ち、地に落ちるほど禍々しい勇を持つというのがフィルミリアの中の天使と悪魔のイメージだが、神に近付いたという白竜はそのどれにも当てはまらない気持ち悪さだ。
何に似ているかとエステルドバロニアにいる魔物たちを思い浮かべて、一つ思い当たる。
「ああ……ハルドロギアたちに……」
つまりは、明らかな人造のもの。もしくは、神に等しい力で作られた 、魔物とは違う枠のナニカ。
そこまで考えて、フィルミリアは考えるのをやめて蛇腹剣を構えた。
「どうでもいいですね! 少なくとも、カロン様はおたくらと違ってセンスもスキルも別格なのは分かりましたので!」
「あら、そういえばカロン様はいらっしゃらないのかしら? 折角だから一目お会いしたかったのだけれど。きっとカロン様なら私の気持ちを分かってくださるんじゃないかと思っていたの」
「馬鹿です? こんなクソみたいな国にカロン様が来るわけないじゃないですか。それに、なんで貴方の気持ちを分かると——」
「分かるわよ? だって、孤独だもの」
ぎょろりと、エレナの目に睨まれてフィルミリアの顔が凍る。
「あの人はね、私と一緒なの。か弱い小鳥はこわーい人に睨まれて鳥籠の中。羽ばたくときもご飯を食べるときもずーっと人の目があるの。『あなたは私の小鳥だ』っていう目は何をしたっていなくならない。だから私は全部壊してもらおうって決めたわ。それでようやく今日が来てくれた。ふふっ、こんなに楽しくて晴れやかな気持ちになれたのはいつぶりかしらねぇ。だから、カロン様も私と一緒に飛んだらいいのにって。アルアから見聞きしたときから考えていたのよ? あっ、これって言っちゃダメだったやつかしら」
はっとした顔で口に手を当てる姿はひたすらにあざとい。
フィルミリアたちの反応が芳しくないことに気付いたエレナは、そのあざとさを捨てるようにふっと冷たい笑みへと表情を変え、口元に当てた手を降ろす。
「今更ね。ともあれ、貴方たちのように力を持つ者たちでは、カロン様が死んでも理解できることはないでしょう? 持つ者と持たざる者には隔絶した差がある。違いがある。考えがある。確かにカロン様は貴方たちの主なのでしょうね。主なければならず、主で居続けなければならないのでしょうね。それがどんなに悲惨で、可哀想で、親近感が湧くことか……ふふふふっ! 敬愛する主を一番理解しているのが私だなんて、なんて惨めな怪物たちなのかしら!」
蔑む笑い声を受けながら、魔物たちは苦い表情を作る。
この聖女の宣う言葉はすべて妄言だと、そう断じるには、あまりにもカロンという王のことを知らなすぎた。
偉大な王。素晴らしき国父。絶対の主人。
それは決して揺るがぬことだが、カロンという個人に対する認識はひどく曖昧だった。
エステルドバロニアが生まれてから百年余。変わらずに存在し、魔物たちを導いてきた人間なのに、それしか知らない。
言い知れぬ不安が魔物たちに漂う。
我々は、カロン様にとって、なんなのかと。
「——はっ」
そんな不安を、フィルミリアは鼻で笑い飛ばした。
つまらないと吐き捨てるような音に、エレナの眉がピクリと跳ねる。
「あら、カロン様の悩みに関心をお持ちではないのかしら?」
「かったるい扇動はやめてもらえませんかねえ? それに狼狽えるアホたちを見るのが鬱陶しくて仕方ありませんから」
「扇動?」
プロバガンダ扱いをされて、エレナは首を傾げる。
フィルミリアは胸を張り、堂々と告げた。
「たしかにそんな時はあったかも知れませんね! 爆裂ラブリーな私ですが、カロン様の御心をすべて詳らかにできるわけじゃありませんので、そんなお悩みをされていたかと言われたら、ないとは断言できません!」
だが、今日まで見てきた。
王であろうとする姿も、カロンでいようとした姿も。
「もしかしたら今もそうかもしれませんけどね、そんなのは分かり合っていけばいいだけのことです! だって私たちは王が好きなんじゃなくて、カロン様を愛しているんですから! 愛してくれるあの御方を、愛さずして何がエステルドバロニアですか!」
「理解できることはないでしょう?」
「やってみなければ分かりませんし、やらなければ始まらないでしょう? 立派かそうじゃないか、強いか弱いか、そんなしょうもないことでこの愛が崩れるような、そんな安い愛し方を私はしていませんのでね!」
あまりにも好き放題な理屈だ。ただ自分の中にある理屈を吐き出しているだけで、相手に説いてすらいない。
それでも、俯きかけた魔物たちの顔を上げるには十分な言葉だった。
「——ああ、エレナ聖王猊下におかれましては、愛されるために愛するしかなかったご様子で。美しく着飾った雌穴風情では、誰も愛してくれなかったみたいですねぇ」
クツクツと喉を鳴らして嘲笑い返すフィルミリアに、エレナは何も言わなかった。
ただ、そっと手を掲げる。それだけで、控えていたグロキシニアが前へと進み出て、床に突き立てた巨大な棺の蓋を開く。
「お互いに時間稼ぎはおしまい。アルマ様のもとに……お母様のもとに行きたいから、さっさと死んで頂戴」
白銀のタイルの隙間から湧くように、コポコポと聖銀がグロキシニアの周囲に満ちていく。
白竜もまた、自分の股下で騒ぐ魔物の存在に気づいたのか、寄せ集めた人間で作られた顔をゆっくりと下げて、塔の外から中の様子を覗き込んできた。
「あほくさですわ。どうせ母親をあのキモキモドラゴンの餌にされたとか、そういうオチでしょう? こっちもカロン様に怪我させようとしたアーレンハイトを滅ぼすのに忙しいんですから、さっさと死んでもらいますね!」
「っ、お母さんを馬鹿にしないで!」
「あっははぁ! どれがママのおっぱいでちゅかねぇ!」
グロキシニアが棺から溢れた聖なる炎を纏う水銀を放つのと、フィルミリアが手を翳して魔術防御を発生させたのは同時だった。
衝突と同時に魔力が閃光となって周囲へと四散する。
ドリルのように回転しながら炎を噴き上げる水銀をフィルミリアは難なく受け止め、聖は魔術においては直接的な脅威とはならないことを示した。
「いけー! しもべども!」
「舞って! 私の聖銀!」
そして、馬鹿みたいな号令に、いかにも悪魔という風体の者たちは臆することなくグロキシニア目掛けて疾走した。
彼我の距離は凡そ三十メートルほど。
それを詰めきるよりも早く、水銀は意思を持った兵器のようにグロキシニアの無意識下で行動し、迫る魔物に向けて迎撃を開始した。
水銀は槍や鎌、剣や斧となって悪魔たちに襲いかかり、悪魔たちの攻撃は盾や壁となって事も無げに防いでしまう。
フィルミリアは怒り心頭のグロキシニアの標的にされて絶えず攻撃に晒されながらも、隙を見て攻撃魔術を放つ。
しかし不意など存在しないように水銀は自動で迎撃し、それを補佐するように棺から溢れる炎が邪を払わんと広い聖王の間に広がろうとしている。
「水銀は勇者の権能。炎は聖遺物の付帯効果。どちらも敵性存在に対する自動迎撃付きですか。聖属性のおまけ付きとか、マブい淫魔な私には一番相性悪いんですけれども! 魅了する敵もいないし!」
口元には余裕の笑みを浮かべてみせるが、やっていることは綱渡りでしかない。
グロキシニアはニヤつくフィルミリアの守備を破壊しようと怒りに任せて攻撃してくれているが、精彩は欠いていない。
量にも形状にも制限がない水銀は、少し掠めるだけでも神聖がフィルミリアを蝕むため油断はできない。
普通ならフィルミリアにこれほどの猛攻を仕掛けていれば少なからず付け入る隙を生めるものだが、グロキシニアとエレナの周囲に漂う水銀の迎撃精度があまりにも高すぎるせいで、一個中隊もいる部下たちは残り十メートルほどの距離を詰められずにいた。
悪魔の系統ではない魔物でも聖属性は致命的だ。多少の傷を覚悟して攻めようとしたリザードマンの腕に聖銀が触れただけで、その腕が腐るように蝕まれて床に落ちたのを見た。
「あら、愉快なサーカスみたいに賑やかね」
安全圏で緊張感なく笑うエレナに攻めきれないことを揶揄されてカチンと来たフィルミリアが言い返す。
「そうしてられるのも今のうちですからね! これで終わると思わないでください!」
「まあ、怖い怖い。だから、早く殺さないといけないわ」
ニコニコとしながら、エレナは手に握っていたものを見せびらかすように指で摘んで掲げた。
とても小さなゴブレットだった。
ミニチュアのようなサイズで、一口分すら入らない大きさをした金の杯。
だが、それが放つ悍ましい神々しさは、紛うことなき聖遺物のそれであった。
一つの命を生み出すための炎が注がれた“灯火の聖杯”。
一つの命を生み出すために幾万もの命を材料とする男神ザハナからの贈り物。
エレナがゆらりと小さなゴブレットを揺らすと、塔の外からけたたましい音が鳴り響いた。
「マ゛ァァァァ……マ゛ァァァァアアア」
数多の悲鳴で生み出された音の中から、かろうじて聞き取れた言葉のようなものを発した白竜は頭を垂れて、眼球を集めて作った眼球で聖王の間を覗き込んできた。
「可愛い我が子。偉大なるアルマ様の化身。どうか私に歯向かう悪者を殺してちょうだい?」
フィルミリアが毒づくよりも早く、白竜の尾が塔を薙ぎ払った。
グロキシニアの攻撃に対応しながら身を屈めることが出来たものだけは吹き飛ばされずに済んだが、そうじゃない者たちは宙へと投げ出されて地面に吸い込ませるように落下していく。
それで躱せていたとしても、降り注ぐ瓦礫に潰されないように逃れなければならない。
空が近い塔の上。遮るものがなくなった聖王の間で無事でいるのは僅かだった。
「あら、結構残ってしまったわね」
頬に手を添えて、驚いた顔を作るエレナは、しかし再び聖母のような笑みを浮かべる。
「でも、これはどうなさるのかしら?」
はっとしてフィルミリアが見上げると、白竜は再び口内に周囲の魔力を取り込み始めた。
第二射の準備が進んでいる。その視線はエステルドバロニア。
エレナは、もう一度防ぐ手段はないという確信を持って白竜にエステルドバロニアを狙わせている。
「——っ、ぐぅぅ!」
ずん、と脇腹に衝撃と同時に灼ける感覚が走った。
「とった」
グロキシニアが手を翳し、隙をついて突き刺した聖銀を横薙ぎに振る。
腹部が半分抉り取られ、手を添えても聖なる炎は消えず、フィルミリアを蝕んでいく。
カロン様の危険と目の前の対処。二つを天秤にかけて意識が逸れた一瞬を狙われた。
「本当に腹立たしいですね……! たなんですかそのチート防御は……あのキモドラゴンの攻撃も瓦礫も、うねうね水銀バリアがあればお構いなしですか」
「そういう力だもの。これが私のクイックシルバー。神様が私に与えてくれた世界一の武器。あなたみたいな化け物を殺すのにこれ以上ないわ」
「……それで、カランドラも殺したんですか?」
ふ、とグロキシニアが動きを止めたタイミングでフィルミリアが蛇腹剣を振るった。が、やはり水銀に阻まれる。
「なにそれ。知らないわ。少なくとも私には関係のないことよ」
「おおありですよね。この期に及んでも無関係の顔ですか? カランドラに、あの白いクネクネがいるのを私たちは調査して確認しているんです。キモい食べ物……キモドラゴンの肉片をアーレンハイトが与えたから、あの国は滅びたんじゃないですか?」
「さあ。どうでもいいじゃない。ここにお母さんがいる。アルマ様がいる。それ以外、何か必要?」
ちらりと視線をエレナに向けるが、ニコニコ微笑むばかりで何を考えているか分からない。
間違いなくカランドラ滅亡に関与しているのは確定のはずだが、どうにも掴めない。
「残念だけれど、時間稼ぎにこれ以上は付き合わないわ。私たちは既に準備を終えている」
グロキシニアが腰に提げていた剣を抜いた。
聖剣ではないが、そう呼ばれてもおかしくはない輝きを放つ、いかにも宗教に基づいて作られた剣だった。
「分かってはいましたが、マジ最悪ですね……」
予期していた。いや、予期していたよりも絶望的な状況だ。
白竜はエステルドバロニアに向けて二発目を準備している。グロキシニアの権能をどうやっても突破できない。部下の半数以上は地面に落下したし、自分も負傷した。
こんな戦いは久しぶりだ。
満身創痍、四面楚歌、絶体絶命。
勇者との戦いは、常に加護を受けし者たちとの戦いだ。魔から生まれた全てを悪と断じて、力によって覇権を切り開かんとする。
憎らしいほどに命を輝かせて、神の寵愛を受けた光に溢れた人間。
だから、魔物はいつだって不利を被ってきた。
「……ふ、ふふ」
魔物だけなら、それで話は終わるだろう。
恐ろしい怪物は勇者に倒されました——そんな後書きで締め括られる。
だが。
「あの御方が、負けを認めるとでもぉ?」
苦痛に顔を歪めながらも、フィルミリアは嘲笑った。
グロキシニアが本能的に悟る。今すぐ殺せと。
剣を掲げたグロキシニアは、ヘルムの奥で唱え始めた。
「——天の階、空の恩寵、彼方の帳。我は神の代行者。我は偏在の代弁者。この銀は聖の刃となりて魔を屠る」
聖銀はグロキシニアの剣を覆い尽くして高く高く切っ先を伸ばしていく。
白い炎は刃に沿って燃え盛り、煌々と白日の下でも目指できるほどに輝いた。
グロキシニアは両手で剣の柄を握りしめ、フィルミリアへ向けて振り下ろした。
「《セレスティアル・ジャッジメント》!!」
振り下ろされた長大な刃が地面へと叩き付けられると、天を割るように聖なる炎が立ち昇った。
辺りは一瞬にして白光に包まれ、轟音と衝撃波が大気を吹き飛ばし雲を割る。
光が収まった時、辺りは噴煙に包まれており、魔物たちがどうなったのかをエレナたちは視認できない。
「どう? ちゃんと殺せた?」
呑気なエレナの問いかけに、グロキシニアは剣を構えたまま答える。
「——いいえ」
徐々に粉塵が風に流れて晴れる。
フィルミリアの前には、巨大な鋼の板が聳えていた。
それは分厚く、幅広く、長大な、磨き上げられたミスリルの刃。
浮遊する巨大な刃はゆっくりと交差を解き、それに守られたフィルミリアと、刃を操作する機械人形の姿を顕にした。
「……なるほど。防御は成功しましたが、連続では厳しいですね。リベリオンが術式の影響でオーバーヒートしています。次の砲撃への対処は不可能と判断」
「コ……コードホルダーじゃないですか!?」
露出の激しい黒い装甲を身に付け、鋭角な手足を動かす美しい人形。機巧種ランク10【エクスマキナ001】コードホルダーは、じろりとオッドアイでフィルミリアを睥睨する。
「マスターの命令によって、飛んできました。流石に距離があるので少々時間はかかりましたが、間に合って良かったです」
「……ほんとに思ってます? すごい、こう……『別に死んでてもよかったのに』って目をしてる気がしますけど?」
「気のせいでしょう。しかし、聖属性は確かに厄介ですね。私に不利属性はありませんが、それでもこの威力。ひどい作り物にしては中々です。マスターの判断は正しい。とはいえ、あなたも準備はしていたのでしょう?」
コードホルダーの問いかけにフィルミリアは苦い顔をする。
相手の神聖は事前に分かっていたことだ。だからそこに備えた回復アイテムや装備も持ち込んでいた。
小さなアンプルを胸元から取り出したフィルミリアが、ガラスの首を折って口に含むと、じわじわと蝕み続けていた白い炎がゆっくりと消えていく。
回復手段はあった。だが、エレナとグロキシニアが思った以上にやる。
「物量にここまで対応されるとは思わなかったんですよ。言い訳はしません。しっかり負けそうでした」
「素直は良いことです。いえ、私たちが間に合うよう時間を稼いだのですから、上々でしょう」
「私たち?」
フィルミリアの疑問にコードホルダーは答えない。
代わりに、グロキシニアの水銀が城の外へ向けて攻撃を始めたことで、皆が何者かの存在を認識する。
グロキシニアも“拝火の聖櫃”の白炎を振るい、一個中隊の 魔物の軍を退けた凄まじい攻撃を何者かへ放ち続けた。
白炎と銀が踊る中、群青と白の毛に包まれた巨躯で突き進み、巨大なスレッジハンマーをブンブンと振り回して、屈強な肉体で水銀を弾いていく。
それは唯一聖銀を克服した人狼、【クロセル】のグラドラ。
「くっ! なんで……!」
どう見ても神聖と水銀が最も効きそうな人狼だというのに、まるで苦にせず迫ってくる魔物に初めてグロキシニアに焦りが見えた。
切り裂こうにも、貫こうにも、潰そうにも、屈強な人狼には傷ひとつ負わせられない。聖なる白き炎でも微かに毛を焼くだけだ。
あれほどに遠かった十メートルがあっという間に詰められる。自分の倍以上ある人狼が目の前でスレッジハンマーを振りかぶったのを見て、初めて水銀はグロキシニアとエレナを守るための巨大なシェルターへと姿を変えるのだった。
「おぉぉらあぁあああ!!」
グラドラの一撃が放たれると、シェルターとなった水銀は柔らかく撓んで力を吸収しようとするが、耐えられなかった箇所はミシミシと音を立ててひしゃげる。
手応えを感じたグラドラがもう一撃放とうとするよりも早く白竜の爪が薙ぐように振るわれたので、グラドラは飛び退いてコードホルダーの側へと着地した。
「お、お犬様じゃないですか!?」
「てめぇぶち殺すぞ。わざわざコイツに捕まって飛んできてやったのによぉ。あぁムカつくぜ! 爆速で飛びやがるから口を閉じても風でこじ開けられて裂けそうになるわ、ガクガク揺れるせいで気持ち悪くなるわ……つーかクソ猫はどこ行ったんだ!」
ガツガツと床を蹴って怒りを撒き散らしたグラドラは、一通り怒りを吐き出してからようやくグロキシニアたちに顔を向けた。
「これでイーブンってとこか? 楽しめそうじゃねえか。なあ?」
「戦争なんて虚しいものに楽しさなんて見い出すなんて、野蛮ですのね。いかにも獣じゃないですか」
「寒い挑発すんなよ聖女様。つまらなすぎて反吐が出るぜ」
バックパックユニットの大剣を構え直すコードホルダーと、蛇腹剣を杖にして立ち上がるフィルミリアを背で庇うようにして、グラドラはスレッジハンマーを前へと突きつける。
「誰も彼も、勝ちてぇから戦ってんじゃねえのかよ」
グロキシニアにその言葉は響かない。
ただ、エレナは儚く微笑んで、「そうでしたね」と呟いた。
「だから、戦いは嫌いです」




