11 アーレンハイト
白き竜と聖女フアナの物語は、その真実が一つとして残されていない。
かつてヴァーミリアだった土地には獣人の小国が乱立しており、彼らは領土を求めて東征を繰り返していた。
カランドラはその頃には存在せず、人間たちは大陸の半分を治めるアーレンハイトにて、その脅威を退ける日々を送っていた。
ある日、獣人の国たちが結託して大規模な戦争を仕掛けてきた。その侵攻はこれまでのようなものとは桁違いの速度と暴力をもって急速に領土を侵略し、アーレンハイトは対抗策を講じられず、滅ぶのを待つしかなかった。
そこに、男神アルマの神託が下される。
世界を救う竜を生むための秘儀。技術。そして卵のような幼体。
神より授けられたそれらを、当時のアーレンハイトの者たちは喜んで用いたが、そこで一つの問題が発生する。
——人間を、供物に?
幼体は培養液の中にて、命を啜り育つとされる。
犠牲はやむを得ないという意見。そのような行いは認められないという意見。
獣人は着々と侵攻を進めていて時間などない。
そこで、当時の聖女は提案する。神託を授かった張本人は、にこやかに語った。
——このまま座して死すことを、神はお望みではありません。だからこそ、我らに神託を授けてくださったのですから。だから皆、神がお望みのままに、捧げましょう。
神の名のもとに。
その言葉で、全てが進んだ。
その結果がどうなったのかは語るまでもないだろう。
今まさに、同じことが、男神の神託によって引き起こされているのだから。
「伏せろぉっ!」
ルシュカの声に反応できた者だけが、オーバンの振るう“絶火の聖剣”が、横薙ぎの軌道に合わせて蒼炎の斬撃を奔らせた。
超高温の剣閃は頭上を掠めるだけで空気を焼却し陽炎を生む。天幕を両断した炎は瞬く間に触れたものを燃やし尽くし、ルシュカたちを白日の下へと曝した。
蒼き法衣を纏いし白き鎧の勇者が、冷酷に蒼炎の剣を構える。
灰となって天幕や、カロンの肖像画が空へと舞う。皮肉なほどの晴天の下では、白い化け物に変貌したアーレンハイトの元人間たちによる無差別な攻撃が行われていた。
整然としていた拠点はすでに荒れており、倒れた天幕や散らばった食料、散乱した日用品や武具などから、その唐突さが窺える。
「わ、うわああああ!」
「やめろ! クソっ! なんなんだこいつら!」
「死ね! 死ね! なんで……ぎいぃいいっ! あ、あががが……」
ヴァーミリアの獣人兵たちは、俊敏であり怪力でもある白い化け物に襲われて次々と食べられていく。
どれだけ傷をつけても回復し、死ぬ気配のない化け物に対応できない者から順番に殺されていった。
視線が周囲の状況の騒々しさに奪われている隙に、アイネスだったものがマシュマロのような体を揺らしてガルバへと襲いかかる。
護衛の兵士が対応するが、向けた武器は柔らかな白い肉を裂いただけで止めることは出来ず、関節がない軟体のような動きでそのまま護衛に体をぶつけると、メリメリと肉の中に護衛二人を押し潰しながら取り込んでいった。
「オー……バ……オー……」
「気色わりい。こんな形でまだ自己を持ってんのかよ。最低じゃあねえか」
「神より賜りし竜とともに在ることに、如何様な不幸があるというか。誇り喜ぶべきことだ」
「へっ! クソ勇者め、てめえがおんなじになってねえのがその証拠だろうがよ」
「私には私の役目がある。アーレンハイトのため、聖女様のため、それぞれがそれぞれにできることをしているまでだ」
オーバンが剣を振れば、蒼炎は際限なく広がり、拠点を次々に燃やしていく。
厄介なのは炎に宿る神聖だ。魔物にとっては毒でしかなく、種族によっては致死に至る。
本来は赤い炎を、オーバンは自身の持つ“晴嵐”の力で酸素と魔力を注ぎ込んで超高温の蒼炎にまで増幅させているため、迂闊に消すことも難しい。
ヴァーミリアが絶火と化け物の対応に手を拱く中、エステルドバロニアの判断は単純明快だった。
「拠点を放棄ー! 全部置いて海に逃げるぞー! ルシュカ様の指示? バッカ! んなもん聞かなくても分かんだろ!」
「第十六団を残して他は首都へ向かう! あの竜を殺す! オッケー!?」
「まともに撃ち合ったらいかんぜ! ありゃ脳みそ空っぽだから放っておいても構やしねえ! おら、逃げるぞ逃げるぞ!」
拠点の放棄。そして首都の竜のみを目標に据えた行動。
この戦況で拠点を維持する必要性はない。この白い軟体の化け物に固執する必要性もない。
エステルドバロニアの者たちは、その経験から理解していた。
目に見えて登場したのだ。イベントのラスボスが。明らかな元凶が。
だったらそれを殺せば勝ちなのだから、彼らと即断即決していた。
「……なるほど。さすがは魔物の国、エステルドバロニア。的確な判断だ」
白き竜を落とせば化け物が止まるかは不明でも、シンボルとも言える巨大な白き竜を落とせれば、このアーレンハイトとの戦争の勝利は掴めるだろう。
「だが、そう簡単にあの竜が落ちると思うのか? 偉大なる伝承の竜。魔物を屠るために天より遣わされた聖なる御使いが、魔物に打ち倒されると?」
あの竜が化け物の大本であるならば、同じように不死の可能性は高い。
その突破手段があるのかとオーバンは問う。
「……」
まだ伏せたままでいるルシュカは答えない。
彼女の頭の中にあるのは、突如エッツァに出現した竜のことでもなければ、この不測の事態への対応策でもない。
燃えてしまった、自分の天幕のことだけだった。
何度も浮かんでは消えていく、凛々しいお顔のカロン様。凛々しいお顔のカロン様。凛々しいお顔のカロン様。凛々しいお顔のカロン様……。
ルシュカの脳内を、同じ顔のカロンが万華鏡のように巡っていた。
ブルブルと体を震わせていたルシュカがゆっくりと立ち上がると、土で膝を汚したまま幽鬼のようにぐらりと揺れる。
手をだらんと垂らして、首はうなだれたまま突然くつくつと喉を鳴らして笑ったかと思えば、壊れた人形にように突然頭を振って空を見上げ、ぎろりと見下すようにオーバンへと眼球が向けられた。
「……許さん。許さんぞ虫けら。これまで私を虚仮にしてきた虫は山ほどいたが、今日ほど腹立たしいことはない……」
ビスクドールを思わせる、美しく冷徹なカロンの副官という理性は、すでになかった。
「……おい、逃げんぞライオン丸。恥も捨ててとっととな。ありゃいかん。わしらのことを忘れとる」
紗々羅がガルバとジルカの服を強く引き、引き摺るようにしてその場を急いで後にする。
ルシュカに指示を仰ごうとして近づいてきた魔物たちも、ルシュカの凄絶な空気を感じて即座に回れ右をして立ち去った。
周囲からは誰もいなくなり、残されたのはルシュカと、オーバンと、アイネスだったもの。
「殺す……コロスコロスコロス……コロス、コロス、殺す、殺すっ!!」
声に反応したアイネスだった化け物が一歩足を踏み出そうとした瞬間、銀の弾丸によって頭部を吹き飛ばされた。
体格には不釣り合いな、鉄板のような黒鉄の巨銃が、ルシュカの手に握られている。異様に大きな銃口から漂う硝煙が、蒼炎に燃えた灰とともに立ち昇る。
「生きて帰れると思うなよクソ雑魚のゴミクズがぁ!! 五体バラして貴様の飼い主にぶち込んでやるからなぁ!!」
空間から取り出された黒鉄の巨銃を両手に握り、烈火の如き憤激を放つルシュカに、オーバンは表情一つ変えずに言い返す。
「アーレンハイトの名のもとに、必ずや死を」
発砲音と、オーバンが踏み込むのは同時だった。
顔の横を弾丸が掠めていくのを視線だけで追いながら、懐へと潜り込んだオーバンが横薙ぎに剣を振るう。
スタンススキル《勇者Ⅶ》
スタンススキル《烈風の末裔》
スタンススキル《疾風怒濤》
スタンススキル《聖女の守り手》
スタンススキル《聖騎士の魂》
武器保有スキル《絶えぬ悪火》
固有ウェポンスキル・剣《デルヴェントスパーダ》
「神より賜りし焔の剣。しかと味わえ!」
聖遺物と呼ぶに相応しき古めかしさと豪奢さの両立する剣から迸る赤い炎が、風によって蒼く輝き、剣の軌道を燃やしていく。
脇腹に迫る刃がルシュカに触れる。その寸前に割り込んだ銃によって受け止められるが、蒼炎は剣閃をなぞるようにルシュカの身を焼いた。
悪を絶つ炎を生む聖遺物には、魔物に対して絶大な効果を発揮する特性が付与されている。並の魔物であれば余波でも消し飛び、勇者相手であっても重傷は免れないほどに強力なものだ。
「づっ……あぁ!」
炎はルシュカの脇腹を一瞬で炭化させた。大きく抉るように燃やし尽くして黒く変色させ、通り抜けた際にも白磁の肌を焦がしていく。
だが、彼女は全く意に介さず、腕を振って銃を構えた。
銃口が再びオーバンに向くと、オーバンは飛び退きながらも牽制するように剣を振り、その軌跡に炎を残す。
しかしルシュカは、あろうことか炎の中へ平然と飛び込み、最短で距離を詰めてオーバンに迫った。
ほとんどの魔物にとって弱点となる神聖を持つ炎を腕と足で遮りながら飛び込み、抜けた瞬間には構えて放つ。
腕の骨が赤熱する。顔が爛れる。それでもルシュカは猛攻を止めない。
オーバンが対物ライフルを思わせる巨大な弾丸を逸らすのは、猛る炎を用いても精一杯であり、瞬速の剣捌きを合わせて弾いても激しい衝撃に手が痺れる。
だが、この調子で続けていけば先に倒れるのはルシュカだ。
冷静に状況を判断しながら、一丁六発を撃ち終えてリロードの挟まるタイミングで、再びオーバンが仕掛ける。
ウェポンスキル・剣《ヴェンデッタ》
ウェポンスキル・剣《グラウンドヴェイン》
距離を詰めて大きく上段から剣を振り下ろすスキルから、地面ごと断つ切り上げのスキルへと派生させる。
間合いの中へと踏み込まれたルシュカは銃身を交差させて防御し、オーバンはその上から力任せの一撃を叩き込んだ。
蒼炎の余波を浴びながら、銃に罅が走るほどの威力にルシュカの態勢が反るように崩れたところに、振り下ろされた刃を翻して絶火の聖剣を確実に刃を届かせた。
刃が股へとめり込む感触。
それを割いていく生々しい抵抗を感じながら、オーバンは一歩踏み込んで更に深く刃を突き刺し、脳天まで一気に剣を振り上げた。
確実に致命傷となる一太刀である確信。
聖なる蒼炎も相俟って、間違いなく殺したと分かる感覚だった。
声もなく、鮮血を吹いて左右に裂けていくルシュカを見ながら、残心で構えるオーバン。
「……やった、と」
これで死ねと、そう願っていたオーバンの思いに反して、ねっとりとした声が炎の中から聞こえてくる。
「思ったのかぁぁぁああぁあ??」
眼の前で轟々と燃える蒼炎の中、真っ二つに割かれた顔で瞳がギラリと光った。
「っ!」
背筋を走った怖気に、オーバンが反射的に飛び退くと、元いた足元に銃弾が打ち込まれた。
けたたましい笑い声が、燃え盛る前線基地に響き渡る。
炎の中で、左右に切り裂かれた体が下から順に、縫い合わせていくように少しづつ再生していく。
まさに悪魔だ。まさに魔物だ。まさに怪物だ。
ルシュカは身体にも服にも汚れが一つない、文字通り元通りの姿で炎の中から現れた。
これまでの行動は、無表情の中に僅かな動揺を浮かべるオーバンの様子を笑うために演じていたのではないか。そんな疑念が浮かぶほどに、ルシュカの顔には愉悦の蔑視が、ビスクドールのような美しい相貌に溢れていた。
個体保有スキル《コントラディクションATK》
個体保有スキル《コントラディクションDEF》
個体保有スキル《相克の武》
個体保有スキル《相克の魔》
対象の攻撃力と防御力に合わせて自身のパラメータを変化させる二種のコントラディクション。
対象に有利な耐性と属性に有利に変化させる二種の相克。
発動条件は相手の使用する複数スキルを受けること。
回避を行わずに敢えて受けることで聖なる蒼炎に有利な属性となり、有利なステータスとなり、有利な能力値となる。
種族保有スキル《コントラディクションHP》
種族保有スキル《コントラディクションMP》
そして、HPとMPの割合を交換する【アノマリス】のスキルによって体力が即座に復活するため、致命傷から逆再生するように相手には映る。
アポカリスフェの運営によって生み出された後期の作品であり、対個人に特化した最強のカウンター。
勇者パーティや英雄の軍団などの複数戦にはそのスキルを活用するのは難しいが、こと一対一の場面であれば存分に発揮できる。
本来であれば、防御力が上がると攻撃力は天秤のように傾いて下がるようになっているが、ルシュカには関係がない。
魔物の能力値に依存しない固定値でダメージを与えられる、魔力の消費を殆必要としない銃火器が、そのデメリットを帳消しにしているのだ。
「残念な勇者だなぁ、オーバン・クリフォード。もしアイネス・フリートが勇者のままであれば、もっとやりようがあっただろうに。ここに残るのが私じゃなかったら、もっと勝ち目があったろうに。だが、仕方ない。貴様は、この私がもっとも許せないことをしやがったんだからな」
轟々と。
開かれた亜空間からゆっくりと現れる様々な砲塔。
ルシュカ個人で運用が可能であり、人一人を殺すには十分すぎる兵器が虚空からその銃口をオーバンへと向けられる。
「貴様が燃やしたカロン様の偉大なる肖像の代償に、貴様の命じゃ足りんが……今はそれで溜飲を下げてやろう。最後は国諸共更地にして、我々に牙を剝いたことを地獄で後悔させてやる。せいぜい頑張れ、聖女の勇者。最後に貴様のどの部位が原型を留めていられるのか、試させてもらおうじゃないか」
ルシュカを纏う陽炎の中。炎を背にした彼女の影。
そのどれもが、歪んだ悪魔のようにオーバンには見えた。
「……聖王猊下のために」
それでも、オーバンに唱えられる言葉はこれしかなかった。
◆
首都エッツァを守る結界は消え去り、エステルドバロニアは規格外な竜の出現を前にしながらも侵攻を継続。
各地の報告を受けながら、不気味なほど生き物の気配が消え去った世界を進むほどに、嘔吐のような咆哮を上げて、不完全な体を鳴らすように翼や手足を動かして城に登る竜の異様が大きくなっていく。
眼前に首都が見えてきた頃には、晴天の下に広がる地獄の全容がはっきりと見えてきた。
「こんな……」
「くっそキモいですね。これまで見てきた中でも、いっとう酷えですわ」
先行して森を抜けたエレミヤとフィルミリアたちは、古く大きな都市周辺の状況を見て思わず目を伏せた。
白い化け物が、目的なくエッツァの周囲を徘徊している。
それだけならまだ良かった。一番嫌な思いになるのが、ところどころに人間の死体が散らばっていることだった。
首都から支給される食事にもありつけなかった避難民だったのだろう。メルと呼んでいた奇妙な食料が発端となって化け物が生まれたのだ。
それを口にしていなかったのか、摂取量が少なかったのか、彼らは同じ化け物になれず、悍ましい光景に怯えながら殺されてしまったのだと推測できた。
同じ人間で、恋人や家族だったかもしれない相手が化け物へと変貌していくのを目の当たりにし、そして殺されるなど。
アポカリスフェというゲームのように、良心が残された世界とは違う、底のない純然たる悪意。
人間に同情などしたことのない魔物たちでも、これには思うところがあった。
「あれを殺せばいいんでしょ?」
「そうですねぇ……あ、カロン様から連絡が来ましたよ! あの白い変なやつは、今後【アンノウン】と呼ぶそうですね。あと、でかい竜……竜? あの人間をぎゅっとしてから竜の形にしたような奴は、【白竜】ですって」
「うん。そうなったら、どうやって行くかだよねー……あれ死なないんでしょ?」
「みたいですねぇ。なんでも、ルシュカが発砲して脳天ぶちまけても死なないらしいですよぉ? 天使の祝福をしてない銀の弾丸だったそうですけど、ダメみたいですって!」
悪魔や人狼だけではなく、魔物全体に効果の高い銀でダメとなると、あのアンノウンの本質は魔物とは違うのだろう。
白竜も普通とは言い難い。人間の四肢や顔どころか、遠見の魔術で見れば指すら形を保ったまま竜の一部となっているのが見える。
カロンの使う召喚術や、【キメラ】のような複合の仕方とも完全に別系統の製造方法だろう。魔物と呼べるかどうかすらも定かではない。
エレミヤもフィルミリアも、他の魔物たちも、あれらを同族と感じられないでいるのも大きな理由だった。
「犬ころと男色もこっちに向かってるみたいだけど……守善は動けないの?」
「あれだと無理でしょうねぇ。そもそも、あのヘンテコな……ああ、あの白竜とは相性激悪な気しますし! そもそも、あれを殺す方法を私たちは思いつきませんから、カロン様が準備を整えるまでの時間稼ぎと露払いがお仕事になりますね!」
つまり、強行突破。
魔力による拘束で無力化し、城へと侵入し、聖女を殺す。
エレミヤが後ろを見る。
満身創痍な者も多い。だが、意気軒高であることは間違いない。
最終決戦という言葉に心が踊らないわけがない。
「行くよ」
短いエレミヤの言葉だったが、囁くような声でも兵士たちには伝播し、一糸乱れぬ咆哮とともに一歩が踏みしめられた。
ずん、と地鳴りとともに大地が揺れて、それからさざ波のように行軍の振動がエッツァへと迫る。
多種多様な魔物が、アンノウンの蔓延る聖王国へと向けて。
勇者と魔物の戦いと言えたのなら、後世にも伝えられるような物語の終幕には相応しかっただろう。
しかし、もはや人間と呼べるものの存在しなくなった聖王国では、そのような逸話にすら出来ない。
アンノウンが魔物の接近を感じて、ゾロゾロと不規則に動き、城の頂上では人間の集合体である白竜が嘔吐音のような咆哮を上げている。その光景を、エレミヤはぼんやりとした目で見ていた。
あの教会で、怯えていた人間たちの顔が浮かんでくる。老若男女が寄り添い合って、怯えながらも生きようとしていた命が、同じ人間によって全て吹き飛ばされた、あの光景。
今遠くには、破れた布切れがくっついたりめり込んだりしたアンノウンが、魔物の気配に誘われるように蠢いている。農家だったのだろうか、ただの村人か、それとも子供だったのだろうか。
これまでは一度として考えたことがなかったのに、どうしてか人間というものに対して、言葉にできない感傷が湧いていた。
「接敵します!」
鋭い号令が静寂を裂いた。
その声に反応したかのように、白いものが一斉に身を震わせる。
目もない。耳もない。鼻すら存在しない滑らかな肉塊が、それでも魔物たちの存在だけを正確に捉え、四肢を折り曲げ、不自然な軌道で駆け出した。
骨格という概念を持たぬかのような動きだった。関節はあり得ない方向へ折れ、転倒することなく加速し、まるで肉そのものが地面を這うように迫ってくる。
その姿は、生物というより悪夢が形を得た産物に近い。
「術式起動! 能無しだからと侮るな! 一体残らず縛り上げろ!」
「真正面から壊そうとしないで! 四肢を落として動きを止めて! くっつかれる前に散らしなさい!」
「三……二……一……開始!」
幾重もの魔法陣が戦列の前に咲いた。
青白い光が地面を這い、無数の拘束術式が蛇のように走る。絡みついた魔力はアンノウンの身体を締め上げ、その白い肉を軋ませた。
だが、それでも止まらない。
締め潰されようと、腕が千切れようと、脚が逆方向へ折れ曲がろうと、アンノウンはただ前へ進み、命を貪ろうとしていた。
フィルミリアが腕を掲げると、アンノウンの足元から無数の黒い茨が噴き上がり、白い身体へ幾重にも絡みつく。
棘は肉を裂き、骨らしきものを砕き、獲物を巨大な檻の中へ押し潰していった。
その脇を、エレミヤが駆け抜ける。
ナイフを手の中でクルリと回し、眼前のアンノウンから順に四肢を切り落とした。
白い肉体が遅れて四つに崩れ、宙を舞った腕がなおも指を蠢かせる。
切断面から血は流れない。
代わりに粘ついた乳白色の組織が糸を引き、切り離された肉片同士が互いを求めるように震え始めるのを見て、兵士たちが即座に拘束魔術で地面に縫い付けた。
「人間相手のほうが、マシだったな」
誰かのこぼしたその言葉が、共通の認識だった。
「団長、もうすぐ城に入るわ。混戦になる。だから先行しすぎないでね」
側に飛んできたリリネットの言葉に頷いてエレミヤは速度を落とし、少し息を吐いて周囲を確認した。
ぶよぶよとした白身が辺りを飛び散り、魔術でくっつかないように縛られている。
「ここまでは想定外。でも首都の内部で不死身の群れに襲いかかられたら、絶対行軍が滞るわ。狭路じゃ満足に進めないし、あれが道を阻んだら退けるのも大変だもの。いい? 一人で勝手に行っちゃダメだからね?」
やけに念押しをされるので、エレミヤはいつもの調子で笑った。
「大丈夫だよー。王様からも注意してって連絡きてるしー」
「……エレミヤ、なにか変よ?」
「そう?」
「ええ」
エレミヤが否定しようと口を開こうとしたとき。
城に巻き付く白竜に魔力が集まっていくのを感じて顔を上げた。
ミチミチと肉を剥がすような音を鳴らしながら背部を膨らませていき、大きく裂けるように開いた口には白い閃光が収束している。
あの光を魔物たちは知っている。
遠き空。天空の連環に住む聖なる者たちが使う魔術やスキルに酷似した魔力だった。
???????《??????????????》
白竜は喉奥に魔力を飲み込むと、咆哮とともに光の奔流を放った。
首を勢いよく振り、人間の破片を飛び散らせながら、エステルドバロニアへと向けて、一瞬音が消えた直後に空間を一直線に貫き、周囲を消滅させながら白銀の美しき王城を襲った。




