7 波濤
オーバン・クリフォード率いる晴嵐騎士団は、無事にアイネス・フリート率いる破砕騎士団を連れて城へと帰還を果たした。
漁夫の利を得ようとする忌々しき獣どもに一矢報いたオーバンの活躍は瞬く間にエッツァへと広がり、人々に小さくとも確かな希望の光を齎した。
しかし、すでに結界は三枚も割れていることに危機感を訴える者も多く、その混沌とした様子は正に戦争の只中であることを感じさせるものだ。
特に国の政を担う貴族はその傾向が強かった。
城の中を進むオーバンとアイネスは、城の中にも満ちる非常時の慌ただしさを掻き分けるように真っ直ぐエレナの私室へと向かう。
「オーバン、ラドたちはもう戦ってるの?」
「報告では小競り合い程度を数回繰り返したそうだ。ただ、そろそろ陣を構えて本格的に迎え撃つだろう。アイネスは何か情報を掴んだか?」
「いいえ……結局カランドラが滅んだ理由は分からなかった。ただ、私とオーバンが相手にしたあの獣人、恐らくだけど魔物の国から来ているわ」
丸耳狐顔の獣人との話を一通り聞いて、やはりエステルドバロニアの介入があったのだろうかと推測する。
そうでもなければ、アーレンハイトよりも遥かに魔術体系が発展した国が無抵抗に落ちるなど考えづらい。
「とにかく、エレナ様にご報告しないと。オーバンのことも、感謝しないとね」
軽い足取りで前に回り込み、頬を染めて微笑むアイネスにオーバンも笑い返す。
その反応に、アイネスは嬉しさともどかしさを同時に感じていた。
婚約者になったのに、それらしい雰囲気がいつもオーバンから感じられない。
まだ彼にとって、自分は恋をする相手ではないと分かってしまう。
「むー」
「なんだ?」
「べっつに!」
そんな乙女の機微を感じ取れず、一人足早に進んでいくアイネスの様子に首を傾げながら、オーバンはその小さな背中を追った。
暫く歩いてエレナの部屋に辿り着いた二人は、装飾された扉の前まで来ると、一息入れてからノックをした。
「どうぞぉ」
ぼんやりとした返答を聞いて扉を開けると、中から溢れ出た匂いにオーバンは顔を僅かに顰め、アイネスは口を手で覆った。
香の匂いでも隠せない情事の悪臭が充満したきらびやかな部屋の中、汚れた肌をそのままにベッドの縁に腰掛けたエレナが、来訪を喜んでいるのが見える。
聖母のような笑顔を汚す多くの痕跡。
妖艶な裸体を隠すこともせずにいるエレナの姿に、アイネスは素早く室内に入ってからオーバンを吹き飛ばす勢いで扉を閉めた。
「待ってて!」
怒りの強く篭った声に、オーバンは扉越しに頷く。
「エレナ様! どうしてそんなお姿のままでいらっしゃるのですか!? 使用人たちはどこに……とにかく、まずはお清めなさらないと……」
「あら、そう? 急に来るから待たせられないと思ったのだけれど……」
「せめて何か羽織ったりしてください……さあ、こちらへ。この水はお借りしても? いえ……何かお使いになったりしてませんよね?」
「あらあら、アイネスは発想が豊かなのね」
「そんな話はしていません!」
賑やかな室内の声を聞きながら、オーバンは目を閉じて心を落ち着かせる。
怒り、悲しみ、妬み。
騎士として、エレナ・ルシオーネの剣として、相応しくない感情を追い払うように耳と心に蓋をした。
アーレンハイトの施政は、決定権を聖女であるエレナ教皇が実質持っている風に扱われているが、大半のことは貴族たちによって運営されている。
かつての竜の奇跡によってアルマ聖教が実権を握るようになったが、ただ信仰を唱える司祭たちにまともな国の運営ができるはずはなく、欺瞞と強欲の支配する暗黒の時代が続いたため、今のアーレンハイトは歪な封建制と化していた。
聖女は内政に関与することができないが騎士団を動かす権利を持ち、騎士団の団長は聖教の司祭と同義に扱われて聖女の駒となり、貴族は内政に携わる者の称号となる代わりに特別な報酬を得る。
それが、あの部屋の中に残された痕跡の正体。
国の全てに愛される清らかな乙女を思うがままに蹂躙する優越感に溺れた貴族の特権。
深い青の司祭服を強く握り、オーバンは何度も呼吸を繰り返して目にした光景を振り払うように務めるのだった。
「はい、もういいわ」
アイネスが再び扉を開けた頃には平静を取り戻し、オーバンは改めて部屋の中へ入る。
窓を開けて換気したおかげで匂いは大分薄まっており、新しい香木の匂いが似合う綺麗な部屋になっていた。
かなり頑張ったのか、汗だくで疲れたアイネスの隣には、いつもの美しいエレナが先程と変わらない聖母のような微笑みでオーバンを迎えていた。
「エレナ様、お体の具合は宜しいのですか?」
「ええ。ありがとうオーバン。アイネスも、手間をかけさせましたね」
「……今度からはきちんと使用人を置いてください。いえ、今度がない方が、いいんですけれど……」
「ふふ。これも大事な私の務めですから」
何事もないように口にしているが、そんなはずはないと二人は思う。
もし本心だとするならば、それは言葉を選ぶなら、教育の賜物なのだろう。
「それで、アイネスが無事に戻ってきたのは喜ばしいのですけれど、何か問題がありましたか?」
二人はエレナに、ヴァーミリアが動いていることと、その配下にエステルドバロニアの獣人と思しき者がいたことを伝える。
エレナは「そうですか」と呟いてから暫く口を閉ざし、何かを考える素振りをする。
「ヴァーミリアは、エステルドバロニアに協力しているようでしたか?」
「どう……でしょう。でも、一緒に行動していたことと、戦争に乗じて領土内に侵入している点から、共闘の可能性は高いと思います」
「私の知る限りでは、あの魔物の国の戦力であればヴァーミリアと手を組むメリットは薄いように思うのですけれど……転移門はまだ使えますか?」
「正確に確認はしていませんが、国内外周の九割近くが起動不可となっているので、恐らく背後を突くことは不可能かと」
「遅々とはしていますが、堅実ですね。そこは人間の王が従えているからこそでしょうか。グロキシニアの報告が悪いものじゃなければいいのだけれど……」
「あの……エレナ様」
うろうろと歩きながら考えるエレナに、アイネスが不安げな声で尋ねる。
「こちらから打って出るのは難しいのでしょうか。対魔投射器も万全ですし、改良型の魔力結合阻害装置も効果が出ていると聞きます。相手が対応する前に動くべきでは……」
「アイネスの言葉も気持ちも理解できます。ですが、それでは追い出すに留まるでしょう? 魔物は殺し尽くさなければ真の平和は訪れません。アウェイに踏み込むよりは神の加護を受けたこの地に誘い込む方が、ね?」
「では、せめてロイス海岸の奪還を!」
「代わりにどこの海岸が占領されるのか、想像できる? 一ヶ所の拠点で済ませているけれど、こちらが追い返すだけの力を持っていると知れば分散されるかもしれない。外堀を埋めるように転移門を止めることを優先されているってことは、私たちは時間が進むほどエッツァから出られないってことなの。だから一度の総力戦を以って一気に瓦解させて引き下がらせなければならないわ」
「……それなら、私たちも破砕卿たちと合流します」
それが最善であり、エレナの求めた形となる。
そのはずなのに、エレナは微笑みを湛えたままゆるゆると首を左右に振った。
「二人には、お願いしたいことがあるの」
予想外の言葉に、アイネスだけではなくオーバンも驚く。
まさかエステルドバロニアに停戦でも申し込むつもりかと思ったが、エレナが口にしたのは思いもよらぬ内容だった。
◆
守善の率いる軍団は、エレミヤやフィルミリアの従える魔物と違ってとにかく巨大な魔物が揃っている。
魔獣と呼ばれる、ヒト型と比べて知性が低い代わりに屈強な巨躯を持つため、広い平野を戦車のように突き進む制圧力を求められる軍だ。
その突破力は多少の障害をものともせず、圧倒的な質量の行進はちょっとやそっとじゃ止められたりしない。
反面、高低差のある地形や狭所は不得手なため、極端に機動力を失ってしまうという欠点がある。
事前にディルアーゼルやサルタンから仕入れた情報をもとに、このアーレンハイト周辺は守善の軍を運用するのに適した平地の多いとカロンは判断していた。
しかし今、守善たちの前に立ちはだかっていたのは巨大な峡谷であった。
草木もなければ地層もない剥き出しの山は長年の堆積によって作られたものではないことをノームが一目で看破しており、それはまるで獲物を誘い込むような細く急勾配のV字谷が幻影の向こうへと伸びている。
つまりは、これが聖王国の作った壮大な罠なのだと誰もが理解できた。
「まあ、ここらで止めないとむざむざ殺されるだけだろうからね。どこかで一転攻勢に出る必要があるだろうとは思ってたけど……」
守善は、慣れ親しんできた魔力欠如の虚脱感にうんざりしながら、先の見えない坂道を見つめていた。
進むにつれて地形が意図的に変化しているとは感じてはいたが、これほどの規模とは流石に誰も想定していなかった。
他の軍から受けた報告では、この場所以外は断崖が続いていて、首都エッツァ方面に向かう道は全て途絶しているらしく、今探索で得ている情報ではここが唯一聖王国の首都に続く道だという。
守善たちも迂回するルートを探してはみたが、四枚目の結界を境にして地面が大きく抉られており、巨獣を従える守善の軍でなくとも通ることができない地形になっていた。
スキルも魔術も封印されている状況で取れる手段は、この地点からの進軍を諦めて時間をかけてでも別ルートを作るか、魔物たちの元来備わった身体的特徴を活かして少数でも踏破するか、このあからさまな戦場に正面から突撃して罠もろとも薙ぎ倒していくかの三択がある。
「グルルルル……」
「分かってる。今から引き返して新しく別ルートを探すなんて時間の無駄になるだろうね。土竜や蚯蚓に奇襲させるのは……あいつらには荷が重いよ」
「グオォォォン……」
「当然このままでいるつもりはないけどさ。ここまで来ておめおめと引き下がるなんて真似、王様が許すはずないんだから」
左右に並んだ巨大な虎と猪を撫でながら、守善は小さく笑う。
不気味に聳える土砂の峡谷に伸びる道は、巨大な魔獣が二体並んで進むのがやっとの幅しかない。
左右の山の上には、きっと聖王国の騎士団が息を潜めて待ち構えているだろう。登った先でも万全の体制で狙いを定めているだろう。
能力を封じられた魔獣たちに誇れるのが強固な肉体だけとなれば、すべきことは決まっている。
戦いだ。弱肉強食だ。勝者が敗者の屍を踏んで往くだけだ。弱きを救うなら、強くあるべきだ。
敗北した者たちが何かを救おうなど烏滸がましいにも程がある。
故に。
故に、死を恐れるなどあってはならない。
そう教えられてきて、そう教えてきたのだ。
「持久戦にでもするか? どうせ相手は逃げることも出来ずに腐るしかないんだ。我らは悠長に時間を浪費して、馬鹿な策に出た人間どもが飢餓に喘ぐさまを眺めているのも一興だぞ?」
不意に魔獣とは違う、はっきりとした人語が聞こえて、守善は苦笑を漏らした。
「ルシュカが一番焦ってるくせに、よく言うよ」
ゆっくりと道を開けた魔獣の合間を進んで守善の隣に並んだルシュカは、空色の髪をかき上げて守善と同じように苦笑したが、すぐに口元から笑みを消した。
「……死ぬだろうな」
冷たい言葉だった。
守善は、気怠そうに笑う。
「そりゃ、今回はそうなりそうだね」
この世界の勇者がミラのようなレベルであれば、鼻で笑って「そんなわけない」と言えただろうが、スコラの登場は魔物たちの、エステルドバロニアの認識を大きく上方修正させることとなった。
戦闘衝動を抑えるためにとグラドラやエレミヤ、五郎兵衛が何度も手合わせをしてきたが、その中でスコラは負傷こそするも明確な敗北にまで至ることはなかった。
勿論グラドラたちが加減をしているのもあるだろう。しかし同様にスコラも加減しており、その上で対等に近いレベルで渡り合ってみせた。
底が知れない感覚は、かつて幾度も立ちはだかった勇者たちを彷彿とさせる。
「これだけの力を行使できるんなら、かなりレベルは高いでしょ。おまけにこっちは魔力が全然扱えないしさ。で、あの装置を止める方法は思いついてるんでしょ? いますぐどうにかできるの?」
「まだ調査中ではあるが、十中八九成功すると見越している。カロン様とも作戦の詳細は詰めているところだ。しかし、実行するには囮が必要だという見解で一致している」
「なるほど。それで俺のところね」
「エレミヤとフィルミリアはもうすぐ到着する。グラドラたちも呼びたかったが、この局面で裏を取られるのだけはなんとしても避けねばならん。ヴァーミリアも動いているしな」
「そっか」
「今、私の下僕どもが必死になってあの妨害装置の効果範囲を調べているところだ。それさえ把握できれば、あとは上手くやる」
言葉が途切れて、そのまま沈黙が訪れる。
戦の前の静けさとは、この張り詰めた空気の中に混じる哀愁が呼ぶのだろう。
守善は魔獣たちの方へ顔を向けた。
「第四軍の精鋭たち!」
一頭一頭の顔を確かめるようにしながら、鼻息を荒げて足で地面を強く掻く皆に向かって声を投げかける。
我先にと逸る気持ちを抑えるように、立ち昇るような闘志と覚悟を誤魔化すように、喉奥で唸り声を鳴らして巨体の獣たちは守善の言葉を待った。
「勝負しようか」
怠けでも、怒りでも、愉悦でもない。
誇り高き魔獣の長として、堂々と笑って、守善は言い放つ。
「誰が一番最初に死ぬのか、誰が一番頂上に近づけるか――誰が、王の礎に相応しいか、久しぶりに競おうじゃないか」
遠くからエレミヤとフィルミリアの軍が驚くほどの咆哮を、魔獣たちは高らかに放った。
不安も恐怖も吐いて捨てて、ただ正義を求めるための駒となるための咆哮を。王を救うに値する強者であることを示す咆哮を。
◆
土砂を高く積み上げて作られた人工の山は、アーレンハイトで最も高い二つの山となっていた。
小さな丘に津波のような土が幾度となく遠い被さり、周囲は引き潮のように深く窪んでいく。
そんな単純な理屈で首都を覆うように掘られた深い崖は魔物の侵入を拒み、人工の峡谷に伸びる谷道だけが唯一の侵入経路となっていた。
その道の頂上と左右の山に、聖旗軍が展開している。
その数は二万にも及び、常に五千以上の騎士が谷道を睨んでいた。
既に魔獣の大群が道の入り口付近にある森の中まで接近していることが知られており、いつ進軍が始まってもいいように警戒態勢が敷かれている。
布陣してから二日経過しているが、まだ魔獣たちが動く様子はない。
「もしかして、持久戦の構えかぁ?」
聖旗軍の最奥に建てられた、最前線に用意するには豪華過ぎる天幕の中で、派手な金色の鎧を揺らすザイルがつまらなそうに呟いた。
「あの対魔照射器があるとはいえ、アーレンハイトは完全に孤立してる。このまま冬本番を迎えれば飢え死ぬのはこっちの方だぜー? 国中の人間がエッツァに押し寄せちまったせいで今季の収穫が見込めねえのは最悪だし、仮設住居も間に合ってねえし……まったく戦争ってのは悲惨なもんだな」
そう言って、右斜め前に座る枯れ枝のような老騎士に視線を向けた。
騎士団長のためにと用意された見栄えのいい木椅子に腰掛ける、灰色の司祭服に鎧姿の“斬裂”アルガンは、優雅に紅茶を啜りながら「ふん」と鼻を鳴らす。
「平地が良かったんだがなぁ……」
ぼやくアルガンに、ザイルは額を押さえて眉間に皺を寄せた。
「まだ言ってんのか爺さん。もう決まったんだから黙っとけって」
「そうもいかん。ちょいと所用で離れている間にラドが勝手始めていれば言いたくもなる」
そう言って、アルガンは再び紅茶を啜った。
アルガンは一貫して平地での総力戦を推している。
対魔照射器による優位を活かし、勇者の力で圧倒するにも向いているのは確かだ。
しかし、アルガンがいない間に進められていた人工峡谷を前にして予定を変更するのは難しかった。
「所用、ねぇ?」
断崖による首都への防備は、確かに攻め込まれるだけで見るなら実に効果的だが、ザイルも触れたように持久戦となれば退路も補給路も潰す最悪の崖だ。
沿岸部から物量で包囲してこられた時点で、冬の到来間近のアーレンハイトが生きるには早急に敵を潰すか追い払うしかない。
殆どの民が領地を放棄して首都に逃げ込んでいるせいで逼迫しており、悠長に構えられればアーレンハイトは次の春を待てずに自滅することになる。
その点も踏まえての平地戦を想定していたのだろうが――
「なぜ止めなかった」
「俺の言うこと聞かねえって。色々手は尽くしたさ。けど、力を使われたらお手上げ。他人の強化しかできない俺じゃ太刀打ちできねえよ」
両手を上げるザイルを睨みつけていたアルガンだったが、嘘はないと判断して視線を外した。
折角一計を案じて士気を高めたのに、この作戦ではその熱も冷めてしまう。
孤児から引き立てられ、エレナが甘やかして育てたせいで、強大な力をもったわがまま放題の勇者となってしまったラドクリフでも、こんな短慮は起こさないと考えていた己の甘さをアルガンは悔やむ。
「功を焦ったか。子供らしく勉学に打ち込んでいれば、もう少しまともに物を考えれたろうに。いずれは次代を担うなどと煽てる馬鹿どもも原因か」
「貴族連中か。聖女が国を治めるようになってから形骸化して長いのに、まだその空っぽの椅子にしがみついてるからなぁ。連中にしちゃ、まだガキンチョのラドは扱いやすいだろうさ」
聖女一強の体制が敷かれてから、貴族は戦力を領地の守り程度にしか集められなくなり、今では地方の役人とさして変わらない扱いだ。
ヴァーミリアとカランドラを相手に小規模な戦闘があっても、対処するのは聖旗軍で、貴族に戦功を得る場も与えられない。
オーバンの家のように勇者を排出できれば強い発言権を持てるが、大多数の貴族は当たりを引くまで子を作るしかなかった。
ラドクリフは何一つ後ろ盾を持たない格好の神輿だ。ここで手柄を立てればエレナにもっと認められるなどと唆されたのが容易に想像できる。
「それに……」
言いかけて、ザイルは言葉を濁した。
アルガンが戻ってきた時は、ラドクリフを止める最後のチャンスだった。
しかしラドクリフはアルガンの忠告を跳ね除けて作戦を強行し、二人が従わなければならないまで状況を進めてしまった。
(このジジイから聖女の……雌の匂いがしなけりゃ、まだどうにかなったってのに……)
ラドクリフのことは嫌いだが、それ以上にアルガンが気に食わないザイル。
老練に恥じぬ知見と実力は認めているが、老練であるがゆえの冷徹さは認められなかった。
この男なら、わざと匂いを纏わせてきた可能性すらあった。
「なんにせよ、エステルドバロニアが馬鹿であることを願うしかないな。斥候に突かせることも、この地形じゃ意味を為さん」
「馬鹿かどうかは分からないが、周到なことは間違いないだろ。もし攻めてくるにしても、算段がついているからと考えるべきだ」
「対魔照射器の前では魔物など、丈夫が取り柄の異形でしかない。あの帝国が滅びない理由の大半を占める、魔物殺しの兵器だぞ? 空でも飛ぶなら話は変わるが、それでも狙う的が頭上に増えるだけだ。この“斬裂”には――」
「報告! 報告です!」
天幕の外から聞こえた切迫した様子の騎士の声に、二人は会話を区切り「入れ」短く告げた。
跳ね上げるように入口の布を捲った騎士は数歩進んで崩れるように膝を付き、
「魔王軍に動きあり! 坂路に向けて前進を開始した模様です!」
アルガンとザイルは顔を見合わせて、戦に赴く男の顔となった。
「馬鹿であることを願うしかないな」
「中央大陸纏めた手腕だけでも、馬鹿は期待できそうにねえよ」
二人は椅子にかけていた外套を羽織りながら天幕の外へと向かった。
遠くから聞こえる地鳴りは確かに巨大なナニカが蠢くざわめきだが、その揺れに激しさはない。
「状況は」
「はっ! 現在魔獣の群れが森からこちらへとゆっくり進軍してきております。まだ登坂口まで辿り着いていないため、怒涛卿からは待機を指示されております」
「そうか。向こうが睨み合いを選ばないでくれたことには感謝しないとだな」
「それから、銀騎士様も援軍としてこちらに向かっているとの報告がエッツァから届いています」
騎士から出た名前に、アルガンとザイルの足が止まった。
「銀騎士か」
あの不気味な鎧の騎士は、エレナにラドクリフよりも可愛がられているお気に入りだ。
正しい実力は定かでなく、一騎打ちで序列一位だったオーバンを倒したことだけをエレナから聞かされた以外の情報がない。
味方ではあるだろうが、信頼は置けなかった。
「随分と遅いな」
「気にしても仕方ない。普段でさえ何をしているのか分からんのだから。とにかく、可能な限り引きつけて迎え撃たねばなるまいな。まあ、金魂卿がいれば負けることもなかろう」
「嫌味か」
「信頼だよ。この戦争に必要不可欠だからな」
言葉の節々に、「しくじるな」という老騎士の圧が込められている。
ザイルの反抗は舌を鳴らすに留まり、そんな発散が若者扱いされる原因と気付いて、また無意識に舌を鳴らした。
兵を従えて最前線に訪れたアルガンとラドクリフは、そこで谷道を見下ろすラドクリフと合流した。
「呑気すぎ」
大の大人に混じって堂々と振る舞うラドクリフが二人の顔を見ると同時に、腰に手を当てて不満気な顔をした。
思惑通りに進んでいることを自慢するような雰囲気もあり、チラリとアルガンを見る目に篭もる妬みに幼いながらも男のプライドを感じさせる。
「もう騎士団は全員配備が終わってるのに、その団長がだらしなくてどうするのさ」
「優秀だから、団体行動は任せときゃいいんだよ。あいつらだって勇者の血筋だ」
ラドクリフの兵を見る目に僅かな侮蔑が宿る。
アーレンハイトの騎士団は皆、勇者の血を引く者か、勇者候補として力に目覚めた者で構成されていた。
徹底して勇者の血縁で兵を揃えているのはアーレンハイトとニュエルの二国であり、それに準ずるのがカランドラ、カムヒとなる。
国軍の全てに勇者候補を据えられるとなれば、この世界の兵力としては最高と言えるだろう。
だが、ラドクリフからすれば成り損ないの集まりで、勇者になれなかった自分の末路にしか映らなかった。
だから、兵たちに期待していないのが、ザイルには手に取るように分かった。
「そう一人で背負い込むなよ」
「ふん」
見透かされたのを感じて、ラドクリフは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「団長! 魔王軍が速度を上げて作戦区域内へと侵入を開始しました!」
駆け寄りながら叫ぶように告げられた騎士からの報告に、三人の眼の色が変わる。
騎士を置き去りにして峡谷の下が見える位置まで走った三人が目にしたのは、轟音とともに突き進む数百にも及ぶ巨獣の群れが、土煙を巻き上げながら列をなして峡谷の道を登ってくる光景だった。
「ひでぇ絵面だ……」
ザイルが苦し紛れの軽口を吐くが、首筋を冷や汗が一筋伝っていた。
魔物の軍勢と誰もが理解はしているし、何度か接敵もしているし、魔獣たちのことも当然知っている。
それでも、この迫力と殺意はこれまでの非ではなかった。
猛る獣の咆哮が空をも揺らす。
いかに魔力が扱えないからといえど、人の及ばぬ怪物なことに変わりはないのだ。
「総員構え!」
けたたましい地鳴りに負けじと聖旗軍の士官たちが部下に大声で命令し、山間を狙うように弓を構えさせる。
ごうごうと音を立てて迫る光景に、アーレンハイトの騎士たちは弓を構えた姿勢のまま震えていた。
ここを抜けられれば、一気に聖王国に近づかれる。ここを死守しなければ家族や友人が轢殺される。
そうでなくても、自分たちは。
そんな恐怖に絡め取られて、兵たちの緊張の糸が今にも切れそうなほど張り詰めていった時、
「聞けぇ!」
よく通る声でザイルが魔物にも負けない声で吼えた。
兵たちがよく見える道の頂に立ち、大きな旗の括られた槍を空に掲げて更に叫ぶ。
「これこそは聖王国の証! いかなる獣も寄せ付けぬ聖なる騎士を導く御旗! 悪しき者を屠るために男神の加護が魂に宿る!」
ガチン、と石突を地面に突き立てたと同時に、ザイルを中心に巨大な魔法陣が現れて黄金に輝き始める。
“金魂”は祖霊の力を仲間へと宿す強化の勇者。ここに集う人間たちに魔物と立ち向かう力を与える英雄の権能。
黄金の魔力は空へと舞い上がり、騎士一人ひとりに降り掛かってそのステータスを三段階も引き上げる。
その力が宿った実感は騎士たちの自信となり、迫り来る巨獣に向ける弓矢から震えを取り去った。
個体保有スキル・《ガーデン・オブ・ソウル》
勇者だけが使える特殊なスキルによる軍団強化は、それだけで騎士を勇者に近いレベルまで能力を引き上げ、勇者に対してはレベル差をものともしないステータスに変える。
「撃てぇ!!」
そこから放たれる魔力を纏った矢は、エステルドバロニアの精鋭にも負けない威力を見せた。
弧を描かず一直線に飛来する無数の矢が魔獣たちに襲いかかる。
魔獣に普通の矢なんてそう効くものではないが、魔力を奪われた今の魔獣の強度では、金魂の加護を受けた騎士の一矢を妨げることは叶わない。
深々と矢が顔や足に突き刺さり、苦痛の咆哮を上げる魔獣たちだが、それで減る体力など微々たるもので、針鼠になって死ぬよりも早く到達してやろうと邁進を続けてくる。
それを見て騎士たちに歓喜の声が湧いたが、どれだけ傷つこうとも突撃を止めない姿を見て慌てて次の矢を番えて何度も放ち続けた。
強国に名を連ねるだけの実力を持つアーレンハイトの騎士たちは、リフェリスとは比較にならないほど精強ではある。
しかし、あくまで比較対象が弱いだけでアーレンハイトが特別に強いかと言われればそんなことはない。
魔力やスキルによる強化がなくてもものが違う。
先頭を切って駆ける四つ足四つ目の獅子はハリネズミのようになっても速度を落とさず、どれだけ魔法を受けても怯みはしなかった。
「敵先頭、到達します!」
上へと登り切れれば後は食べ放題だ。
獅子は後続する巨獣たちに抜かされぬよう走り続け――頂に立つラドクリフの姿を見た。
「……ばぁぁぁああか」
突如、山が唸る。
轟々と音を立てる山は地面が捲れ上がるように頂上付近で大きく隆起し始めて、巨獣たちを飲み込むように大きく反り上がると、津波のように全てを飲み込んでいった。
個体保有スキル・《タイダルタイド》
水であろうと土であろうと、物質全てを波のように変化させられるラドクリフの力は、押し寄せる魔物たちを巻き込みながら下へと押し流し、土砂の中に押し潰した。
「は……ははっ……はぁっはっはっはっ! ざまあみろ化け物め! これが人間の力だ! これが勇者の力だ! 思い知ったかぁ!」
遥か下で蠢く哀れな獣たちを睥睨しながら高らかに笑うラドクリフ。
「す……すげぇ……」
凄絶な土の津波によって一気に崩壊したエステルドバロニアの魔物たちが、麓で土砂に埋もれている光景を目の当たりにした騎士たちは、圧倒的な勇者の力に慄いた。
同時に、勝てるかもしれないと希望を見出していく。
「勝てる……勝てるぞ……!」
“金魂”のスキルによって強化されたラドクリフのスキルがあれば突破されることはないと、次第に士気が盛り返してくる。
その気の緩みを突いて、一頭の獅子がラドクリフに跳びかかった。
土砂の波を潜るように必死で泳いだのか、爪も腕もズタズタに傷ついているが、鋭い牙に宿る殺意は折れていない。
騎士たちの悲鳴が幾重にも重なり、ラドクリフに突き立てられる。
その寸前に、銀の剣閃が獅子の首に走った。
ズルリと滑るように首がラドクリフをすり抜けて地面に落ちる。
巨体を避けたラドクリフは、鮮血に汚れた顔を拭いながら側に歩いてきたアルガンを睨みつけた。
「余計なことしないでよ」
「ほほう。聖女に寵愛を貰えぬのがそんなに悔しいか?」
怒りに噛み締めたラドクリフの歯が甲高い軋みを上げるが、アルガンは剣を収めながら飄々と笑う。
「ここで功を稼がねば、いつまで経っても子供のままだものなぁ。独り占めしなければ目にも留まらないか」
「五月蝿い……っ! 聖女様は僕を愛してるんだ。褒めてもらえれば僕だって……お前みたいな年寄りが、あの人に近付くなよ!」
鼻息荒く、幼い顔に憤怒を露わにするが、アルガンは子供の戯れ言と笑って受け流す。
ここ数年になってようやく開いた聖女の股を、こんなガキに譲るものかと。
「なら、油断せんようにな」
ニヤニヤしながら去っていく背を見送って、ラドクリフは怒りに任せて獅子の頭を蹴り飛ばした。
「全軍に改めて通達しろ! 殺し尽くすまで警戒を解くな!」
近くにいた兵士に命じて、ラドクリフは再び坂の下を睨む。
戦争だからこそ、これまでに淀んでいた思惑が多く湧き上がる。
人の欲に際限はない。
信仰深い敬虔な者であろうとも抗い難いゆえに、人は神に許しを乞うのだろう。
魔物は神に許しを乞わず、救いも求めない。
ただ王に捧ぐべき勝利のために幾つでも命を賭けられる。
果たしてどちらが信仰深いのか。
それは勝者が決めるのだろう。
「くひっ」