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エステルドバロニア  作者: 百黒
2章 神の都
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2 エルフ

 エイラと話を終えてから、オルフェアは体を再び白い布で覆い隠して丘を下っていた。

 オルフェアが自分たちの暮らす場所へ向かうには、丘の頂上にある神殿から麓まで降りなければならない。

 ぐるぐると丘を螺旋の道が通っており、その通り沿いに大半の民家が建てられている。

 道を行くだけで否が応でも住民に出くわすが、固められた土の感触を確かめながら視線を上げぬよう注意する。

 忌々しいほど澄み渡る空の青さを見ることは、彼女には許されていない。

 少し顔を上げれば、視界に映るのは汚物を見るような目をした人間たちばかりで、そんなものを視界に入れたくない。

 町往く人とすれ違えば、すぐ後ろからひそひそと声を殺して罵る内容が聞こえてくる。

 望む望まぬに関わらず人間よりも大きな耳は音を拾ってしまい、言葉一つ一つが脳にちくりと突き刺さった。


 汚い奴ら──いやらしい──きっと媚びを──体で────いなくなればいいのに。


 聞かれてるなど思ってもいないのだろう。ただ話のネタにして叩いているだけだろう。

 この醜さが、エルフが人間を忌避する理由だったはずなのに。


 全員が同じものを叩けば、そこに協調性と共犯意識が生まれる。

 元老院はそれを利用してこの神都に共通の概念を植え付け、情報の統括や規制をやってのけた。

 恐怖と信仰、飴と鞭、うまく手を変え品を変えて周辺国に警戒されぬよう細心の注意を払いながら好き放題やっている。

 老獪ろうかいの知謀はさすがと言えようか、この神都で暮らす者は皆一様にエルフを悪し様に扱い、エルフを救っていると名目を掲げて虐げている。

 信じる者は救われる。だが信じた者が救われるとも、信じられた者が救われるとも言われない。

 尊き神の教えを知っていながら、亜人を迫害するのは教えに反していると何故気付かないのだろう。

 それもまた、元老院によって亜人を悪とする証明を町の人間が信じたからだ。

 この神都の一切は、本来であれば教皇をトップに据えて行われるものを全て元老院が担っている。

 まだ教皇が幼いのを良いことに、実権を全て剥奪に近い形で奪い、発言力を一気に強めた。

 教典には書かれていない内容を老人に吹聴されて鵜呑みにする教徒の姿は、彼らは何を信仰しているのかと問いたくなる。

 結局は、掌で踊らせる者が得をするのが世界の真理なのだろう。

 元老院こそが、神の名の下に悪行を尽くす大罪人だというのに、そこに疑うことすらせぬ平和な脳味噌を疑いたくなる。


(……下衆め)


 勢いで殴りかかるのを必死に堪えながら、頭の中だけですれ違う者をボコボコにして、周囲から絶え間なく押し寄せる雑言の道をオルフェアは足早に外へと向かっていった。



 奴隷の住処は最も位が低いことを表すために神都の外に存在し、まるで朽ちた集落のような貧相な作りをしている。

 宗教国家に奴隷が存在するなど許されるものではないが、「亜人は咎を支払うためにその身で神に愛されし人間に永久の奉仕を行う者たちだ」と言う虚言に騙され、それを当然と思われている。

 奴隷に人権などない。家畜と何も違わない。

 用途によって扱いは変わるのだが、性奴隷など大事に扱うのは娼館くらいだろう。

 彼女たちは正確には娼婦なんかでも性奴隷でもない。そうやって扱うのは元老院だけだ。

 だが、それに異論を唱えられる人間がいない以上、森で暮らしていた時以上の貧しい生活を強いられていた。


 エルフの住む場所は、廃材の捨て場にある。

 その腐った材木で乱雑に作られた掘っ建て小屋以下の環境に40人ほどが住んでおり、残飯を漁ったり、狩りをしてどうにか食いつないでいた。

 食料もないのにカラスが多く住み着いているのは、エルフが死ぬのを今か今かと待ちかまえているのだろう。

 それだけ飢餓に喘いでいるとカラスでさえ分かるほどに劣悪な環境下で生活を強いられている。

 腐臭の漂う積み上げられた木の合間を縫って進むだけで、染み出たヤニと泥で汚されていく。

 サンダルのような履き物で歩けば当然素足に付着するが、今では慣れたと言い切るが、気にするだけの裕福な思考ができなくなったとも言える。

 生きるだけで、精一杯なのだ。


 白く長い足を汚しながら、一つの大きなボロ屋にオルフェアが足を踏み入れた。

 扉はあったが既に役目を果たしていないし、窓も四角い穴が空いているだけ。

 雨風は凌げないし、虫も入り放題。寒さを防ぐのは煎餅布団数十枚だけ。調理器具は腐り、穴ぼこだらけで使い物にならない。

 それでも、この家がエルフたちの住む家で最も活気のある場所だった。


「あ、おかえりオルフェア。大丈夫だった?」


 声にいち早く反応した人物は部屋の中央にいた。

 薄暗い室内には、大量の布が床の上に敷き詰められており、その上には多くの子供が眠っている。

 その女性はしがみついて離れない子供の頭を優しく撫でていて、掃き溜めの中であっても聖母を思わせる慈愛を感じさせる。

 薄汚れて所々破れた大きなYシャツ。体を隠すには心許ないその服の裾からは、黒い刺青が顔を覗かせていた。


「ああ。私は、な」


 その答えに、皆の子供を一人で面倒を見ている彼女、シエレは寂しそうな顔で僅かに俯いた。

 シエレは悪意のない暴力によって左足の腱を切られたせいで満足に歩くことが不可能となってから、子育ての役目を皆から引き受けている。

 そんな彼女と族長であるオルフェア以外の女性は皆、森で術の解析をしているか、地下深くで慰み者にされているかのどちらかを強いられている最中。

 前者ならまだいい。しかし後者は、暫く解放されず生き地獄を味わわされているはず。

 それを思ってしまうと、空気が2人に重くのしかかる。


 40人程度。

 子供を抜いての数。

 それだけしか、もう大人は残っていなかった。


 奴隷に落とされたばかりの頃はまだ100人以上はいたが、今では半数以下にまで減っている。

 長命で病に高い耐性を持つエルフが十数年でそこまで減るなど、老衰や病気ではあり得ない。

 必然、皆がその命を絶った。

 隷属の呪いには本来自害を許さない効果と、他の奴隷に危害を加えない効果があるのだが、どうやら少々いじられているようで、その気になれば今すぐにでも首を切り裂くことができる。


 自身の首も、他者の首も。


 亡くなった半数は自ら死んだ。後の半数は同じエルフに殺された。

 前者はこの身分を疎み、世界を憎んだ末に。

 後者は最愛の者を見せしめにされて、発狂した者の暴挙によって。

 きっと、それも余興だったのだろう。そのための隷属の緩和なのだと想像できる。

 思い出すだけで心がざわめき、全身から淡い魔力光が溢れ出す。

 時が過ぎればそれだけ憎しみが募り、しかし同時に寂寥も募った。


「子供たちが起きちゃうわ」


 静かに、少し涙声になったシエレの指摘にはっとし、オルフェアはすぐさま自制する。

 この子らにまで心配をかけさせるのはいけないと、ぐっと吹き上がりそうな憎悪を抑えつける。

 子供の中には人間と混じった子もいるが、等しく大切なエルフの民として育てている。

 薄汚い血だとなじるなど、できはしない。

 望んで生まれてきたわけじゃなくとも、その子は生を望んでいるのだから、そんなことはできなかった。

 女所帯で、劣悪な環境で、しかし誇り高い強さを胸に抱いてほしいと願って大事に育てている。

 どんな子供であっても、大事な家族なのだ。


「そう、だな。すまない」


 小声だがはっきりとした口調で謝罪し、汚れた足で踏む場所を選びながら一人一人の顔を覗きこんで確認する。

 エルフらしい顔立ちだが耳が小さかったり、耳は大きいが顔立ちが人間だったり、未成熟で生まれたせいで片腕がなかったりと何らかの障害を持つ子も多い。

 いくら交配が可能と言っても、本来交わらない遺伝子が掛け合わされれば異常が出るのも当然と言える。

 それで気が狂ったエルフたちもいたが、今いる大人は皆、分け隔てなく我が子のように残された子らを大事に育てていた。

 様々な子供たちだが、見ているだけで頑張ろうと思えてくる。

 この子たちのためにもより良い未来を模索しなければと奮起できる。

 エイラの次にオルフェアを救ってくれる存在だ。


「またすぐ行くの? ここ最近みんな帰ってこないから、あまり誰も居ないままだと」


 優しい手つきで頭を撫でるオルフェアに問うと、シエレを安心させるよう、にこりと笑ってみせた。


「安心しろ。今作業している者たちに帰宅を促すつもりだ」

「そう……そんなに強固な術がかかっているの?」

「我らエルフの魔術とも、人間の魔術とも違う法則で構築されているらしくてな。なかなか解呪の手だてが見つからずにいる」


 西にあるフィレンツの森にかけられた迷いの呪法は、他の種族よりも魔術に長けたエルフでも手を焼いていた。

 エルフと人間では、同系統で同レベルの術を発動するために使用する公式が違うように、魔術と呪術ではその発動する式が違う。

 それらを特殊な才能で看破できる彼女たちだったが、この世界に存在する魔の英知を極めた種族でもその奇っ怪な魔術式を解明できていない。

 どんな術でも必ず規則性が存在しており、当然迷いの呪法にも決められた幾つかの規則性が存在するのだが、その常識が全く通用しない。

 エルフを総動員しても解除できない不可解な法則で成り立つ魔術、なんの前触れもなく姿を現した白銀の城。

 まるで、本当に神の居城なんじゃないだろうか。

 そんな馬鹿げた妄想を浮かべてしまうのも無理はない。


「……嵩天より舞い降りしアーゼライは天地を創り命を産んだ。その全てが一つであり、そして一つは全てである。ディエルコルテの丘に立つ姿は白銀と黄金で輝きを放ち、慈愛と寵愛で満ち溢れていた」

「嗚呼、神よ。しかし我らの魂は一つなれど、その心も体も違うのです……教典の話か」


 シエレの長い台詞に首を傾げたオルフェアだったが、その真意をすぐさま理解する。

 アーゼル教典の一節、神が世界を創り、生命を創った部分だ。

 オルフェアが紡いだ文章には、「弟子の問いにアーゼライが答える。神はそれを命の試練としていずれ全てが一つになる時を待つ」と言う内容が続く。

 それと件の城とどう関係するのか。じっとシエレの瞳を見つめて続きを促す。


「きっと関係ないと思うんだけど、天地は創った。命は創った。弟子がアーゼライに違いを伝えた。そして命の試練。この試練が、今だって考えられるのかな、なんて」


 もし、この世界で生きる数多の命に対する神の遣いで、これを討ち滅ぼすことが命の試練だとしたら。

 一瞬、脳裏を人間と共にエルフやドワーフ、ウェアウルフや精霊が肩を揃えて並ぶ光景が浮かぶが、すぐに泡沫となって消える。

 許せるものか。この地獄が試練であっても、あの城が試練であっても、一族郎党全てを犯し尽くして侵し尽くした人間を、許せるわけがない。

 シエレも同じ気持ちなのか、「ただの妄想だから気にしないで」と冗談めかして笑った。

 それに合わせて、オルフェアも笑顔を作り、面倒な考えを振り払うように楽しげに笑い合った。

 シエレの笑顔の奥が笑っていないことに、一抹の不安を残して。







 フィレンツの森と呼ばれる由縁は誰も知らない。

 昔の貴族がそう名付けたとか、偉大な英雄がその森で没したとか、与太話のような仮説が囁かれるだけで、真剣になって調べようと思わない。そんな程度の森だった。

 鬱蒼と生い茂る木々が広がっており、日の光が満足に通らぬせいで湿っぽく、息をするだけで不快感を募らせる中、22人のエルフの女性が一ヶ所に集まって両手を胸の前で合わせている。

 ぶつぶつと呪文を詠いながら、円陣の中央に描かれた六芒星に向けて意識を集中させ、次第に手から溢れ出した光を魔法陣に流し込んでいく。

 次第に強まる白い閃光が星を発光させていき、それがピークに達した瞬間、無情にも魔力光は地面に吸い込まれるようにして消え去り、努力を完膚無きまでに否定した。


「ダメかい。これも」


 何度目の失敗になるだろうか。解析を何度も繰り返し、詠唱も魔法陣も試行錯誤を繰り返してきたが、一向に術を破ることも、術式を解析することも成功していない。

 嘲笑うかのように魔術が霧散する光景を見て、誰かが小さく溜め息を零した。


「御母堂、このままでは――」

「分かっておる。皆まで言うな」


 300年を生きる今残っているエルフの中で最高齢の白い神官の服を着た女性に、まだ15になったばかりの汚れた白い布を巻いた少女が声をかけるが、言い終える前に苛立ちを含んだ声で遮られた。

 300も歲月を重ねていても、まだ30代後半にしか見えない長老格のエルフは艶が失われつつある長い金糸の髪を鬱陶しいと手で払う。


「どうだ。城に辿り着けた者はおるか?」

「いえ、残念ながら皆彷徨い歩いてここへと戻ってきております」

「戻っている、と言うよりは戻されているが正しいかと」

「どちらにせよ、何一つ変わっておらんというわけだな。まったく忌々しい」


 ぽつりぽつりと周りのエルフが口にした進展のない言葉に、信仰している神が降り立った地に目を向けながら吐き捨てるように呟いた。

 常であれば冒涜だと言われるべき発言だったが、誰一人として突っ込むことはない。

 既に神の存在などどうでもよく、寧ろその信仰が今の事態を招いたことに恨みをもっているくらいだ。

 騙されたのは自分たちで、目先の利益に目が眩んだのも事実で、自業自得といってしまえばそれで終わりかもしれない。

 そうであっても、憎まない理由にはならないが。


「リーレ。おぬしはどう思う?」


 御母堂と呼ばれて慕われるエルフが並び立つ孫に尋ねる。

 13という若さで呪術に長け、一族で唯一人最高位の呪法『屍の王』を会得した。

 まだ幼いことから肉体奉仕は避けられているが、あと一年もすれば女の尊厳を無慈悲に摘み取られてしまう。

 そうなる前に、自分を失う前に、与えるべきことを与えようと懸命に育てられている、エルフの期待を背負わされた天才少女。

 リーレは祖母の問いに顎に手を当てて考える。

 このまま事態が進展しなければ、大人たちの扱いが今以上に酷くなるかもしれないと思えば必死にならざるをえない。

 複数の思考を同時にこなしながら、今までの過程や考察、その結果を統合する。

 出た答えは、


「理解不能、としか言えないです……」


 解らない、の一言に尽きた。


「まず術の構成が根本から違い過ぎます。私たちが1から10の式を順番に組み立てて行うことを、1から30の式をバラバラに行なっている印象があります。順序を守らないことも理解できませんし、知らない20の式を知ろうにも、それも叶いません」

「で、あろうな。常であれば決まった手順で踏まれるものが、手順も守らず余計なものまで混ざっているときた。本当に、何をどうすればこんなことになるのか」


 魔術の公式は、それを見るための見識の魔術を用いれば見ることができる。

 一般人が見ても奇妙な魔法陣が見えるだけだが、そこに記される内容には規則性があり、それを見てどんな魔法が、魔術が、どんな式でどんな順序でどんな効果を現すものかを、魔法という世界の力の欠片を扱う者たちは理解できる。

 魔術師たちは常に見識の魔術を展開して相手の魔術師の攻撃や防御を解析しながら戦うというのが常識だ。


 が、そこに知識がなければ意味が無い。

 知らない法則だったり、知らない手順だったりするだけで魔術はその効果を変えてしまう。

 故に、膨大な魔術の知識を貪欲に求める。

 それが新たな術を生み出すことに繋がり、同時に完璧な守りにも繋がる。

 知らないことは罪なのである。


「私もまだ残っている書物を読み漁ってみたが、ここに記される法則も、手順も見つけることはできなんだ。効果は既に発揮されているからこれが迷いの魔術として機能する順序だと分かってはいるのだが」

「それを打ち破るために知らなければならない手順が、解明できませんね」


 魔法陣を一般的に公式と呼ぶ。

 そこに記される一つ一つの意味を式と呼び、式の起動する順序は円の中に記す場所で決まる。

 リーレの目に見えている公式は、彼女の知る魔法陣より三倍複雑に作られている。

 不要だと思うものもあるが、その不要なものがこの迷いの術を破れない理由なのも事実。

 こんなところで躓いていられないと、皆が焦っていた。


「とにかくやるしかないな。皆の者、次の術を――」


 試すぞと続けようとして、取り止める。

 考えていたせいで気付かなかったが、周りにいたエルフは大量の魔術を消費したせいで疲労困憊になってしまっており、力なく木に寄りかかっていたり座り込んでいる。

 朝からぶっ通しで幾つもの魔術を使っていたせいだろう。特別魔力を多く内包している者は平気そうだが、さすがにそれなりの実力しかない者たちには辛いらしい。

 困ったように頭を掻いたが、人数が少ないままでは十分な効果を発揮してくれない以上は暫し休息して回復を待たなければならない。

 一度として効果を発揮していないのにそう考えるものおかしいかと、内心で苦笑を漏らす。


「日が傾き出すまで、各々休んでおくれ」


 時間をかけたくないというのに。

 休憩を告げると同時にどこかへと走り去ったリーレを見ながら、どうかこの少女には危害が加わらないようにと願うしかできない己のふがいなさに嘆息を吐いた。




 リーレは、皆が休息している間一人で森を探索していた。

 どこへ行こうと元の場所へ戻るのだから、好きに歩き回っても関係ない。

 栄養が足りないせいで折れてしまいそうな細さの手足を駆使してあっちへ行ったりこっちへ行ったり。まともな生活にありつければさぞかし美しくなるだろう顔は頬がこけ、目の下に大きなクマを作っている。

 休むべき時に休まないのは褒められたことではないが、リーレは皆に黙っている一つの謎を明かそうとしていた。


 猫。


 あの城が現れてから、新都にも森の中にも随分と猫を見かけるようになった。

 今まで見かけなかったわけではない。その頻度が突然増えたことが気がかりなのだ。

 誰も気にしている風がないが、それが何かしらの魔術で認識阻害がされているのではないかと感じている。

 精霊術や元素魔術、回復魔術といった、普通の魔術師が一番最初に覚える魔術の才能が皆無で、呪術に特化しているから不可解に思ったと考えている。

 つまり、この森の全てが呪術で構成されていて、猫にも呪術がかかっているとしたら、その2つは噛み合わさるのではないだろうか。

 誰だって、行く先々で猫の姿を見ていれば不思議に思うはずなのに、その様子がないのはそういうことなんじゃないだろうか。

 リーレ自身、その疑問がずっと霞のように、ふとした拍子に忘れてしまいそうな蒙昧な状態で認識しており、疑問がはっきりと心に根付いてくれない。

 その違和感こそが、呪法を解く鍵になっていた。


 ずっと考えていた。

 もしその猫があの城からやってきたとすると、この迷いの呪法を無効化する術を持っているんじゃないかと。

 だから一つの仮定を組み立てる。

 存在に気付いていても疑問を抱かせないようにしているのは、猫に何か意味があり、それを悟らせないためではないかと。

 猫が戦えるわけがない。だが、もし獣使いのような存在の手下だとすると偵察はこなせるだろう。

 急に増えたと感じるほど多くの猫を使役できる存在はまず有り得ないので、複数名が動かしているはずだ。


 見つけないと。

 とにかく猫を見つけて、捕まえないと。

 それからじっくり調べれば、きっと何かが分かるはずだ。


 確信めいた気持ちで、必ずどこかにいるはずの猫を探し回る。

 心の中の焦りは、一族よりも自分に対するものばかり。

 幼いことを理由に穢されずにいるが、解決できなければきっと全員にペナルティが与えられるだろう。

 そこには、きっと自分も入る。

 後一年の猶予などあってないようなもので、向こうがその気になればいつだって抱かれなければならない。

 嫌だ。そんなの、死んでも御免だ。

 もう少しでこの首輪を外す手だてが見つかりそうなのに、そんなことになるくらいなら──


 むせかえる栗の花の匂いが漂うあの凄惨な地下室を思い出し、膝が崩れた。

 ガクッと上体が沈み、地面に四つん這いになってこみ上げる嗚咽を必死に堪える。

 大人たちの献身で自分がこうしていられるのは分かっていても、自分も同じ目に遭いたいなどとは思うわけがない。


 助けたい。助かりたい。もうこんなの、嫌だよ……。


 いつだって気丈に振る舞ってきた少女の瞳から、初めて涙が溢れた。

 慟哭を上げて額を地面に擦りながら咽び泣く少女の想いが森の中に反響する。

 やるせなさがこみ上げる。天才だと煽てられても、結局は子供であることに変わりなどない。

 刻一刻と迫る辱刑を怯えていないはずがなかった。




 ──なら、望み通りにしてやるニャ。




「っ、誰!?」


 突然耳に届いた聞き慣れぬ声に、泣くことを忘れて顔を上げる。

 右腕で目を擦りながら、左手で布の内側に隠していた護身用の短刀を取り出して構える。

構える。

 周囲を見回しても何もいない。大木の陰に隠れてでもいるのか、お粗末な探査の魔術を発動させるために詠唱の姿勢をとった。

 右手に集めた魔力に、呪文を唱えて術を形成する間に敵は動く様子がなく、術が発動しても周囲に変化はなかった。

 エコーのように、掌に魔力で描かれた魔法陣が空間に波を作り出す。大気中に存在する魔力を振動させ、生体反応を探り出す魔術である。

 広がる魔力の淡い波。小さな虫すら判別する魔力は、対象に触れた瞬間音となって術者に教えてくる。音量の大きさや高低でそのサイズも分かる仕組みだ。

 高位になればもっと複雑な術式で正確に敵を把握できるのだが、リーレにはこれが精一杯だった。

 じっと警戒しつつ探査の結果を待つ。

 不自然なくらいに静かな森。虫でもごく小さな音で存在を知らせるはずが、それすらない。

 此処には、昆虫までも暮らしていないと気付き、頬を汗が伝う。


 考えてなかった。呪法にばかり目が行ってて森自体の探索をしてなかった。

 まさか、これほどまで徹底して近寄れぬようにしていたとは。


 探査の術式が索敵範囲まで広がりきると、ついで二回目の探査が始まる。

 ごくりと喉を鳴らして自分を中心にぐるぐる回って警戒をしていた。



 キィィン……


 鳴った! 近い! 場所は──


「にゃぁ」


 足下!?


 ばっと顔を下に向けると、真っ白なふわふわな毛をした猫が愛くるしい顔でリーレを見つめており、事の異常さが合わさって全身に怖気が走り抜ける。

 一度目では反応しなかったのに、二度目で鳴った。

 つまり一度目が終わった瞬間にはリーレのすぐそこまで来ていたということ。

 ただの猫じゃない!

 防御魔術を構築しながら、先手必勝と短刀を勢いよく振り下ろす。

 だが、それは徒労に終わった。


 まっすぐリーレを見つめる猫の瞳が極彩色に輝いた途端、全身から力が抜けて意識が飛んだ。

 何をされたのかも何が起きたのかも分からない。

 辛うじて魔術によるものだと体で理解した。

 ゆっくりと倒れ込みながら、意識が飛ぶその直前まで見えていた白い猫の顔が、笑った気がした。





 ──ようこそ。白い楽園へ。



 

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