4 進軍
お待たせし過ぎたかもしれません。
聖王の間と呼ばれる部屋には玉座がある。
しかし、正統な王が存在しないアーレンハイトには、この座に座る者はなく、猊下と呼ばれるエレナでも集められた騎士たちと同様に広間に立っていた。
エレナの前に進んだオーバンとザイルは、形式に則った礼だけを済ませて話を促すように直立の姿勢を取る。
その姿に、黄土色の司祭服と白い鎧の少年が不満そうに顔を歪めた。
「遅れてきたことに、謝罪とかないの?」
ダークブラウンの髪をいじりながら言う台詞ではない気はするが、オーバンはそこに触れるつもりはない。
「時間通りです」
「大事な話なんだから、もっと急いでくるべきじゃん。こうして揃ってるのを待たせたのは事実なのにさ」
「怒濤卿、この会話がすでに時間を無駄に費やしていますよ。それは終えてからに致しませんか?」
正しくはあるが、それでも納得ができない“怒濤”ラドクリフ・ベルナットは頬を膨らませて非難を続ける。
齢十三ながら団長に抜擢された稀有な才能の持ち主であるが、まだまだ風格は伴っておらず未熟さが目立つ。
サイズの合わない大きな司祭服の袖を振り回して更に不満を強調するが、隣に立っていた痩身の老人が僅かに前に出たのを見てすぐに仕草を止めた。
「ラド」
「分かってる……ますよ」
皺だらけの皮を骨に張り付けたような、今すぐにでも倒れて二度と起き上がらなくなりそうな。
しかし鋭い赤の隻眼に爛々と生気を灯す、古参の騎士であり“斬裂”の勇者であるアルガン・バイスは、エレナに深く頭を下げ、隣のラドクリフにも促すように背中を押した。
「……申し訳ありませんでした」
「あら。構いませんのに。でも、よく言えましたねラド。貴方の成長を感じられて嬉しいわ」
エレナは笑みを絶やさず、母のいないラドクリフの心を優しさで解す。
聖女から褒められたことが嬉しかったラドクリフはもう一度頭を下げるが、ニヤつきは隠しきれていない。
そんな若さにエレナは柔らかく笑い、アルガンも仕方ないと頬を緩める。
自然と、エレナが場の中心に移り、彼女によって空気が穏やかなものへと変わった。
力を用いずに制する姿は、さすが聖女といえよう。
「さあ、話を始めましょう」
横一列に並んだオーバンたちに、エレナは初めて真剣な声色で語りかけた。
「今、魔王軍はロイス海岸に拠点を置き、このアーレンハイトとアルタユ渓谷の両方へと進軍しています。何事もなく進ませてしまえば、二十日も経たずにエッツァまで来てしまうでしょう」
「破砕卿から連絡はありましたか?」
オーバンの問いに、エレナは首を振った。
「いいえ。恐らくアイネスも敵の動きは気付いているでしょうから、魔術の探知を避けているんじゃないかしら」
「転移門使って帰ってくればいいのに」
「アルタユ渓谷から一番近いものでも三日はかかる。まだ辿り着いてないんだろう」
アルガンの言ったことが正しければ、ロイス海岸から侵攻する魔王軍と鉢合わせる可能性がある距離だ。
無計画に行動すれば見つかってしまうだろうが、アイネスであれば慎重にルートを定めて帰国するとオーバンは信じている。
「であれば、今居る全軍で迎え撃つのですか? まだ結界は一枚しか破られていない。アルスター丘陵地帯なら地の利も得られそうですが」
「そうですか? 私はレーヌ平原かと思いましたが」
「わしも猊下に賛成だ。魔物相手に地の利など考えんほうがいい」
「アルガン爺さんよ。あの丘陵なら色々と持ち込んで応戦できるだろ。わざわざ平原で正面切って戦うこたねぇだろ」
「ザイル、貴様は……いや、貴様らは魔物を分かっておらん。奴らは我々人間の尺度で考えてはいかんのだ。土の中を進軍するくらい平気でしてくるぞ」
それが、かつての戦争で人類が大敗を喫した要因だとアルガンは語る。
魔物は人間よりも千差万別だ。
空を飛び、地を潜り、大海に潜み、彼方より来る。
如何にして阻み、効率的に殺すか。
人同士の戦争では考えつかない手段を幾つも持つ相手に、人の常識は通用しない。
「何をするにも索敵が重要だ。手習いで挑むのは短慮が過ぎるというものよ」
「けど、せっかく買ったのに使わねえのも問題だろ。あんなの易々と動かせるもんじゃねえし。狙われたら……」
「でしたら、両方に陣を構えましょう。敵主力がまっすぐエッツァをめざしているのは間違いありません。であれば、そうするのが効率的かと思いますわ。各方面にも兵と装置を送り、別働隊に警戒しつつ、皆様方には敵主力との戦闘に備えていただくのがよろしいかと」
エレナの提案に異を唱える者はいない。
これはパフォーマンスに過ぎないからだ。
敵の侵攻に総力戦を行うはずもなく、当然幾つもの防衛拠点を構築して応戦する。
それに向けて兵達も準備を進めており、号令一つあれば即座に転移門を活用して迅速に陣を展開できるだろう。
だから、エレナは一言「任せる」と発するだけで、万事を彼らが滞りなく過不足なく進めてくれるのだから、こうしてわざわざ集まる必要すら本来はない。
「皆様、それでよろしいですか?」
改めて尋ねられて、オーバンたちは姿勢を正しエレナをまっすぐ見つめる。
ひだまりの微笑みに、彼らは口を揃えて決まった言葉を喉から発した。
「我らの聖女の思うままに」
これは、聖女エレナ・ルシオーネの為に行われているようなものだ。
聖女が猊下と呼ばれるに相応しい存在であると確認するための儀式でしかない。
それに、誰も疑問を持っていない顔をしている。
いかに聖女が聖王国にとっての要であり、急所であり、支えであり、歪みであるか。
一人、ザイルだけが心の中で悪態を零していた。
「では、この作戦の指揮は……アルガンにお願いしようかしら。ザイルとラドは彼を手伝ってちょうだい?」
「大任を戴けるとは、有りがたき幸せにございます。どうぞ我らにお任せくださいませ」
「ええ。ありがとう」
「猊下、私と聖銀卿はどうすればよいのでしょうか」
「オーバンには、アイネスを迎えに行ってもらいたいの。孤立しては彼女たちが可哀想だし、やっぱり皆で力を合わせないといけないから。グロキシニアはエッツァ周辺の転移門を点検してからアルガンたちに合流する予定だから気にしなくて大丈夫です」
「了解いたしました」
他に質問がないことを確認し、エレナはこほんと可愛らしく咳払いをしてから両の手を天に掲げた。
「偉大なる男神は常に人の生を見つめています。挑み続ける強き者には祝福を与え、悩み惑う弱き者には救済を与える。全てはこの地上を再び神の住まう地とするために」
それはアルマ聖教の経典に書かれる、人の意味。
「ザハナ様はお告げくださいました。『大いなる邪悪はこの地にて朽ち果てるだろう。神の天恵は地に溢れ、悍ましき怪物は人間の前に死を迎える』と」
聖女だけが聞けるとされる神の言葉に感嘆の声が上がった。
「邪悪を滅ぼし、楽園へと至るために、我々人間は生きているのです。ザハナ様が降臨なさって、魂の救済が行われるその日まで」
そうして静かな祈りへと移る。
遠くに聞こえる鐘の音と、差し込む陽光に抱かれる、絵画のような風景にオーバンは心酔していた。
神に愛されたとしか表現できない聖女の清らかさは、幼き日に憧れた銀の乙女の逸話そのものであった。
「さあ、お行きなさい。私の可愛い勇者たち」
オーバンは誰よりも早く、その忠誠を誇示するような敬礼をして踵を返し、自身の騎士団に向かおうとする。
「オーバン、少し残ってくださいますか?」
しかし、それをエレナに止められてしまった。
ザイルは御愁傷様というように、アルガンとラドクリフは嫉妬するように視線を向けて退室し、静かな部屋の中にはエレナのヒールの音だけが聞こえた。
「何かございますでしょうか?」
「聖遺物のことです」
思いもよらぬ名に、整った無表情も僅かに険しくなった。
「此度の戦いは、とても激しいものとなるでしょう。万が一にも、貴方たちが負けたりすれば、聖王国はたちまちザハナ様の加護を失っていくことになる。それだけは断じて許せるものではありません」
「無論、皆が承知しております。魔物の侵攻を決して許すことはできないと」
「ですから、その万が一に備えて、貴方には“絶火の聖剣”の使用許可を与えます」
始まりの聖女が男神より賜ったとされる秘宝の一つを使用していいと言われても、オーバンはピンとこなかった。
名は知っている。
銀の乙女の物語に必ず登場する、銀の乙女が男神より賜ったとされる三つの聖遺物の一つだ。
だが現存するとは聞いたことがなかったし、それよりも世界を救った勇者が使っていた武器があると言われるほうが現実味がある。
「その……あるのですか?」
「ええ。代々の聖女が秘匿してきたので、疑うのは無理もありませんが、確かに存在します。詳しいことはまだ話せませんし、その在り処も教えられませんが、先んじてこれだけは伝えておこうと思いまして」
「は、ぁ……」
「“灯火の聖杯”は私が、“拝火の聖櫃”はグロキシニアが、いざという時は使おうと思っています。その……お嫌でしたか?」
段々と眉間の皺が据えていくのを見たエレナの不安げな声に我を取り戻したオーバンは、慌てて跪いた。
「そのようなことはありません! あまりにも身に余る光栄でしたので、驚いてしまっただけです」
「そう。それなら良かったわ」
心底嬉しそうに微笑んでエレナが体を揺らせば、白いドレスのスカートが青髪をくすぐる。
「これは試練です。時代は新たな英雄が生まれることを望んでいるのでしょう。その一人に、どうか名を連ねてください」
エレナが静かに膝を折って、オーバンの手を白魚の指でそっと包み込む。
熱を帯びて潤んだ瞳が悲しみに揺れている。
エレナのそんな姿をザイルは「清廉な魔性」と例えたことがあるが、オーバンには関係のないことだ。
彼女が聖女であるなら、なんだって構わなかった。
「どうか」
願い縋る弱々しい声に、オーバンはただ頷いた。
彼が勇者となり、騎士となって、団長の座についても尚色褪せない思いが、聖女の虚ろな笑顔を本物だと信じ込ませていた。
それで、オーバンには十分だった。
外へと出れば、すでに連絡を受けていたのか、騎士たちが隊列をなして城の外で待機していた。
青い服に白い鎧と、金の服に白い鎧。
離れた場所で、馬上のザイルがヒラヒラと手を上げているのが見えた。
オーバンが跨る馬も副官が用意しており、即座に動けるよう整えられている。
「ご苦労」
「すでに他騎士団は、全ての用意を終えて出立しております」
「そうか。転移門は」
「起動完了していますので、すぐにでも」
「分かった。転移先で戦闘になる可能性もある」
「承知しております」
優秀な彼に、オーバンは笑って頷き、手綱を受け取って鎧を纏った白馬に軽い動作で跨った。
「こちらを」
差し出された剣を受け取り、腰に括りつける。
「行くぞ」
馬首を返して門の外に向かえば、騎士団は淀みなく向きを変えてオーバンの後に続いた。
その後をザイルの部下が追い、オーバンの隣へとザイルが近づいてきた。
「聖女様との逢瀬は楽しかったか?」
「……そうですね。貴重な時間でした」
「受け身に誤魔化すってことは、俺にも言えない内緒話か」
元師匠だったせいで、嘘を簡単に見破ってくるザイルに冷たい目を向ける。
「ラドが睨んでたぜ」
「知ってますよ」
「そうかい」
こんな時にも軽口が止まらないザイルを目で制しながら、オーバンたちは城壁の外へと出た。
アーレンハイトの首都エッツァの町並みは、よくディルアーゼルと比較される。
どちらも白い家々の立ち並ぶ光景だが、エッツァはより人工的な印象を与える整然とした美しさがある。
何もかもに人の手が加えられており、街道を飾る木々も同じ形に整えられ、それが国の規律の高さを物語っていた。
そんな街道を進む、晴嵐騎士団と金魂騎士団。
青と金が、寒空の澄んだ空気に白い息を吐きながら行進する姿を見ても、街の住人たちは大した関心を抱いていない様子ですぐに視線を外していく。
いたとしても、オーバンを見て黄色い声援を上げる若い娘たちくらいだろうか。
なんにせよ、魔王の侵略が大陸に伸びていると囁かれていながら、この街の人々の暮らしに大きな影響を与えることはなかった。
カランドラやヴァーミリアによる示威行為に対処しに行くのが騎士団の常だったこともあり、まだまだ大きな問題とは思っていないのだろう。
誰かが吹聴して大騒ぎになるよりはマシだが、しかし危機感が薄すぎるのも問題がある。
「この様子じゃ、門の外は悲惨だろうな」
ザイルが、住民たちの呑気な姿に毒づく。
無視しようか考えたオーバンだが、それも職務の一環だとして、大きな溜め息に続けて面倒くさそうに口を開いた。
「そうですね」
「……お前の真面目で隠し切れない偏屈なとこ、嫌いじゃねえけどイラッとするぜ」
そんなことはない、とオーバンは思う。
序列二位の座を預かる身として、“晴嵐”の勇者として、名実ともに相応しくあろうとしている。
そもそも、物心ついた頃からこの性格だ。
子爵の家に生まれて、騎士として育ち、勇者となって聖女にも認められている。
周囲からはとても好評なので、なぜザイルだけは嫌いというのか聞きたいくらいである。
それとも、ザイルが平民の出だからかと思ったが、他の勇者候補や騎士たちからの信頼は獲得しているのでそれもないはずだ。
「今失礼なこと考えただろ」
「いえ、そのようなことは」
「嘘だね。顔に書いてあったぜ」
「気のせいではありませんか? それよりも、斬裂卿と怒涛卿はもう転移したのですか?」
「爺さんかなり張り切ってたしな。ま、一緒に行動する必要はねえだろ」
「そうですが、出立の前に挨拶でもしておこうかと思っていたので」
「ジジイとガキに必要なもんかねぇ」
「必要でしょう。いつ死ぬとも分からないのですから」
冗談を笑い飛ばそうとしたザイルだったが、オーバンの目を見てすぐに収める。
曲がりなりにも魔王の軍勢。そこいらの魔物とは比にならない相手であることは間違いないだろう。
悪しき魔物を決して許さないアルマ聖教だが、それを成すのは人の手によるものだ。
勝利が祈りを真実にする。
敗北が教義をまやかしにする。
どれだけの犠牲を生もうとも、必定である勝利を手にしなければアルマ聖教の祈りに価値はない。
「まだ、敵の全容も知りません。万が一がないとは言えない。それでも悪を滅ぼさなければ、聖王国は終わりです」
「話の通じる相手なら、生き延びる道だってある」
「ありませんよ、金魂卿。そのような道を選んでしまえば、アーゼライ教と変わらない」
オーバンにとって常識だが、ザイルにとっては浸透しない思考だ。
アーレンハイトに産まれたら誰もが敬虔な信徒になるわけじゃない。
信仰がどれだけ己を豊かにしてくれるか知らずに生きる者は多く、周りに合わせて祈るような者も少なくない。
それも一つの信仰の形ではあるが、その程度の信仰ではオーバンの考えを理解はできないだろう。
「まあ、平民ですから仕方ないでしょうけど」
「ついに言ったなコラ」
「人間に攻められたのならその道も選べましょうが、魔物だけは断じて受け入れられない。お忘れなく」
「……別に、そんな理由なくたってやるときゃやるさ」
「安心しました」
僅かに口の端を持ち上げるだけの微笑を浮かべて、オーバンは前へと向き直る。
重たい鉄の城門が開いていくだけで、後ろにいる部下たちの呼吸が微かに止まったのを感じ取る。
これから戦に赴くのだと、嫌でも考えさせる音だ。
城門の向こうには、草原が広がる長閑な景色と、城壁に縋るようにして建てられた簡素な難民キャンプに集まる大勢の民。
各地から逃げてきて、雨風を懸命に凌ぎながら、配給される食料で細々と食いつなぐ。
そんな姿が、厚い城壁の中に届かないのは不憫だ。
騎士団を見る目が、どれも悲痛な色をしている。
「すまない」
難民たちに差し伸べる手は、今のオーバンたちにはない。
平穏を取り戻し、再び安心して暮らせる環境にするのが与えられた職務だ。
同情して優しい言葉をかけても細やかな慰撫にしかならず、そんな無形よりも確かな形で救うのが最善である。
老婆の声を聞き、泣く赤子の声を聞き、がなる男の声を聞き、ただ小さく頷いてオーバンは馬を進める。
戦争の終結だけが彼らを救うのだと、言い聞かせて。
「ご苦労」
難民の集落を抜けた先に待機していた魔術師部隊が、騎士団を見て即座に魔術を起動して敬礼した。
「それでは、ご武運を」
「お前もな」
眼前に広がった青と黒の魔力が渦巻く大きな転移門の前で一度停まり、離れていくザイルの軍と、自分の従える兵たちを見てから、オーバンは強く声を張った。
「我々の目的は破砕卿との合流だ。過たず遂行する。晴嵐騎士団よ、我らの神に信じ、祈り、戦おう」
力強く野太い声が呼応する。
オーバンは手綱を振って、一気に転移門を潜った。
◆
「わーったっしはー、かーわいーぞー。せっかいーでいっちばーんかーわいーぞー」
「はいっ!」
「じゃーますーるやーつーはわーたっしのー、かーわいーパワーでぶっちこーろすー」
「はいっ!」
「……うるさ」
「エレミヤの合いの手は最高ですね! とくに中身空っぽな感じが!」
「うん! 適当にしてる!」
「やっぱりそうでしたか! ノリノリなのにぶっちゃけ何も考えてないと思ってましたよ!」
「ねー」
女二人でも姦しいのかと、八足の蜥蜴の背に乗っている守善は、ズンズンと進んでいくエレミヤとフィルミリアを追いながら、寝ぼけ眼に皺を寄せて呟く。
巨大な魔獣たちが道を拓き、木も草も均されたところを猫の獣人と淫魔の兵隊が軍旗を掲げて行軍する隊列の先頭。
後ろに控えていればいいものを、張り切って突き進む二人を混成軍が追う形になっていた。
後方は後方で、地を揺らし、森を薙ぎ倒し、エッツァへと一直線に進む様子は、実に魔物らしい行軍であるが、同様に騒がしい。
それなら、まだくだらない話を聞いている方がマシな気さえしていた。
それもこれも、破った結界を越えた辺りから生じている不可解な現象が原因だった。
「ねー、これちゃんと進んでるのー?」
「さすがのメチャカワガールな私でも醉いそうなんですけど!」
「黙って歩いてよ。景色は違うけど方角は間違ってないんだから」
周囲は枯れた広葉樹の森だが、遠くには丘が見える。
目視の距離では一時間もかけずに辿り着きそうなものだが、二時間歩き通しても森を抜ける気配はないし、丘に近づく様子もない。
それどころか、遠くの丘が突然消えたり、川になったり、山になったりと、進む都度に写真を切り替えるような変化をしている。
方角を狂わされているわけではないので進路に影響はないが、一番の問題はこれが視覚阻害の魔術ではないため、解除する手段がないことだ。
カロンのマップ機能で首都の方向は判明しているので間違える心配はないのがせめてもの救いだろう。
「しっかし、クソ鬱陶しいですね! 目が疲れて仕方ありません!」
楽しげな様子だが、言葉には刺ばかりがある。
「なんなんですかーこれー! 魔物の力とかじゃないんです!?」
「さあね。そんな装置でもあるんじゃないの?」
「魔術の索敵範囲外から? これだけ歩いてるのに、それよりも遠くから? 魔力反応もないし!」
「知らないよ」
そんな兵器が存在するなど、以前の世界でも見たことはない。
もしあるとしても、魔力を介在せずに起こせるものなのか。
この世界特有の技術といわれれば否定しかねるが、リフェリスやサルタンを見る限り、以前の世界を超える技術があるとは到底思えなかった。
「いやー、自分たちの庭を好き勝手されてるのに、聖王国とやらは随分呑気ですねぇ。景色いじくるだけで挨拶の一つもしてこないなんて!」
「だねー。アタシたちならさっさと追い払おうとするのにー」
「明らかに宣戦布告だったのに海岸線は手薄で攻め放題。ナメられてるのか、馬鹿なだけか」
少年の容姿を獰猛に歪めて舌打ちするのを、エレミヤはケラケラと笑って流した。
「人生バンジー最後が馬だから、失敗できないんじゃない?」
「当たらずといえども遠からずですね!」
「遠いでしょ。生きても死んでも馬は馬だよ」
「ケンタウロスは?」
「……生きても死んでも馬の人だよ」
脳が溶けそうなトークをする二人に、うねるように変化する遠くの景色。
守善の気力を削ぐには十分なものである。
「これ、先に誰か行けば後ろにも晴れた景色が見えてるの?」
「そうですよ!」
「じゃ、アタシだけ先に行ってみるよ。その方が楽になるでしょ?」
「行き過ぎないようにね」
「はーい」
エレミヤはキャスケットを被り直して姿勢を低くし、スキルを発動して走る構えを取る。
思い描く体の中に巡る力をイメージして、それを全身に巡らせて一気に駆け抜ける。
ドン、と強く地面を踏んだエレミヤは、風のように素早く走り出し、そのままスピードを落としてピタリと止まってしまった。
「あれー?」
もう一度、同じ過程を踏んでは走り出し、パタパタと勢いを殺してまた止まる。
「なんだか……エレミヤにしては遅くないです?」
そのまま走っていけばいいのにと思っていた守善だったが、フィルミリアの言葉を聞いて目を見開き、蜥蜴から降りて力を使おうと意識を集中する。
普段であれば、その力を表す言葉が思い浮かび、望んだように自身を強化したりできるのだが、それが何も感じられない。
「……フィルミリア、魅了のスキルを使える? 魔術じゃなくて」
「え~? 使っちゃっていいんですか~? みんなメロメロになったら私のハーレムできちゃうんですけど~? 私ったら、なんて罪深き女!」
「早く」
「はいはい。分かりましたよー……っと……あら? んんん?」
唇を突き出して、
言われた通りにスキルを使おうとするフィルミリアだったが、一向にスキルの効果は表れなかった。
それは守善が感じ取れないのではない。
全く、使えていないのである。
「ねー! スキルが使えないんだけどー!」
「えらいこっちゃですわ! どうします!? 帰ります!? 布団に潜り込んでドキドキ初めての精通とかしちゃいます!?」
「カロン様に報告。先に状況だけ伝えて。詳しく調べてからまた連絡する」
「これってアレですよね!? 久しぶりだから忘れてましたけど、魔物の能力制限する系のアレですよね!」
「制限じゃなくて使えないんですけどー!」
「今まで気付かなかったなんて……魔術によるものじゃない。多分魔力を動力にした兵器だ。それも投射型。多分どこかに設置はされてないはず……。エレミヤ、部隊を引き連れて先に――」
スキルが使えないのは致命的だ。
視界の不安定も相俟って、これ以上の進軍は一度止めて、少数で先行して偵察するよう頼もうとしていたところに、フィルミリアの配下が叫んだ。
「魔力反応確認! 南西です!」
ばっと顔を向けるが、森があるだけで何も見えない。
「二人の部隊を守って!」
咄嗟に出た守善の言葉に、魔獣たちは地響きを上げながらエレミヤとフィルミリアの部隊を囲むように動いた。
巨体は即席の壁となり、歪んだ視界から飛来するであろう敵の攻撃に備えて皆が身を低くする。
魔術は、浅い角度で空から落ちてきた。
白く光る神聖魔術は象や亀、大鼠や大猿の体に突き刺さると、爆発して光の破片を撒き散らした。
ほんの僅かに獣のうめきが上がったが、魔獣たちの体は皮膚を深く裂いて焦がすだけにとどまり、獣人と淫魔の被害はない。
「向こうは見えてるみたいだね。狙いが正確だ」
「皆さん! 方角は分かりました!?」
「応戦するには、敵の距離が掴めません!」
「第二波、北東より来ます!」
もう一度、今度は急角度で、別の方角から同じ魔術が降り注ぐ。
結果は同じに終わり、損傷は微々たるものだが、敵の作戦の嫌らしさに守善の顔が険しくなる。
「位置を掴ませないつもりか」
「突然魔術が見えるのは結構ビビりますね!」
甲高い声で叫ぶフィルミリアの声は、アトラクションを楽しむ子供のように弾んでおり、顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「どうします! どうするんでしょう! いよいよもってようやっとついに来ちゃいましたよ!」
「だからうるさいってば」
フィルミリアの笑い声は止まらない。
心なしか、怪我をした魔獣たちも笑っている気がした。
知らぬ間に、守善の顔も笑った。
頭の中に流れてくる王の号令が、正面切っての蹂躙ではないのだと心身に染み込んでいた。
「行こう!」
エレミヤが叫ぶ。
「アタシたちが先行して道を晴らす! ミリアちゃんが援護する! 守善が暴れる!」
「そんなざっくりとした命令はきてないんだけど」
「だから、アタシたちはただ走るからねっ!」
エレミヤが立ち上がるのに合わせて、彼女の連れてきた五十人の獣人が自然と集ってきた。
軽く跳ねたり屈伸したりと、何をするか一目瞭然な準備運動をしている。
「我が前に道はなし! 我が道なり!」
「……合ってるそれ?」
「そんなものだよ。人生バンジーだからね!」
エレミヤはいたずらっぽく笑って、颯爽と駆け出した。
エレミヤとその部下たちは、スキルがなくとも馬より速く森の中を突き進んだ。
部隊を複数に分けて森の中を走る獣人たち。
こうなってしまえば大人しくする理由もなかった。
そうなってしまえば誰も追いつけるはずがなかった。
「それいけー! うひゃー!」
楽しそうに叫ぶエレミヤは、誰とも群れずに一人で森の中を駆け回る。
敵はエレミヤを狙うが、その金色の風を捉えることはできないでいる。
彼女の部下でさえ置き去りにされる速さを追えるはずがなかった。
エレミヤが目指すのは最初に攻撃が飛来した方角だ。
先が見えずともご機嫌に走るエレミヤは、目の前に実体の川が現れてもお構いなしに突き進んだ。
体が沈むより早く足を出し、水が液体としての硬度を上げる力で強く踏んでいく。
障害物のない水の上を爆走するエレミヤは、幻の視界から突然現れる魔術を見てから肌を掠めるギリギリで躱した。
フィルミリアたちの援護がなければ、彼女に魔術を察知するのは難しく、時々直撃しそうになってひやりとするが、それでも彼女は止まらない。
「おやや?」
川を渡り終えたところで、不意にエレミヤのスキルが発動した。
範囲外にまできたのだろう。何度も使おうと自身に命じていた力が漲ってきたのが分かり、エレミヤの笑みが深まる。
「わはー! 突撃ー!!」
そこからは、たった一人の突撃は苛烈さを増した。
ぐんぐんと加速して枯れた土を巻き上げながら怒涛の勢いで走る。
突然目の前に断崖絶壁が現れても、エレミヤは速度を落とさず岩肌を踏みつけて、直上へと走り続けた。
轟々と鳴る風の音に紛れて、声が聞こえる。
「早くしろ!」
「いいから、そのまま閉じろ!」
「いけいけいけ!」
何やら慌てる声のようだ。
ならば、目的地というわけである。
エレミヤは体のベルトからナイフを抜き放ち、崖の先端を飛び越えると同時に、視認した敵目掛けて素早く投擲した。
黄土色の服に白い鎧を着た騎士たちは剣を構えるが、構えた時にはナイフが鎧をものともせずに心臓を貫き、四人がそのまま倒れて崖下に落ちた。
「くそっ! 早く行け!」
まだ空中にいるエレミヤは、騎士たちが守るように背にしている転移のゲートを見た。
残った騎士たちを置き去りにして閉じていく向こう側に、巨大な機械と少年を見る。
まだ届く。
再びナイフを抜き放って残る四人を始末すると、着地と同時にエレミヤは門に飛び込もうと地面を陥没させる。
しかし、
「飲み込め、土よ」
エレミヤが一歩踏み出した瞬間、目の前に巨大な壁が現れた。
躊躇せず飛び込むつもりだったエレミヤは止まることができず、反り立っていく壁に思い切り衝突する。
「うぶっ!」
べたん、と壁に張り付いたエレミヤは、壁とともにどんどん上に持ち上げられていく。
それは壁ではなく、土の津波だった。
荒々しく持ち上がっていく波は、エレミヤを張り付けたまま崖を越えてせり出し、どうどうと激しい音とともに崩れていく。
「にゃーーー!」
足がつけば最速の【フクスカッツェ】だが、空の上では自慢の足も役に立たない。
エレミヤはそのまま降り注ぐ土に飲まれて崖下へと落ちていくしかなかった。
土に埋もれたエレミヤが救出されたのは、それから一時間ほど後であった。
「ぺっ! ぺっ!」
口に入った砂利を吐き出すエレミヤに怪我はない。
大量の土に埋まったくらいで傷つくほどやわな体ではないが、その土を退けて這い出られるほど強靭ではない。
大猪が匂いを辿って牙で掘り出し、守善の乗る蜥蜴に咥えられて出てきた時にはメソメソと泣いていたが、今は退けられたことへの怒りでむくれていた。
「もっと早く来てよ!」
無茶な話である。
エレミヤに数十分走られただけで、鈍重な獣にとっては過酷な距離なのだから。
「来ただけありがたいと思ってよ」
「うぬー! くやしー! 届きそうだったのにー!」
さっきから繰り返されるワードを一先ず無視して、守善は崖の上へと登った。
そこにあったのは、エレミヤが殺した死体と、巨大な車輪の跡。そして、魔法陣の痕跡。
守善でも、その術式が転移用のものだと判断がついた。
「なるほどね。呑気になれるわけだ」
魔術のある世界における常道は、転移門による長距離移動の短縮である。
恐らくはアーレンハイトの各地に点在しており、それを活用して出没し、撤退しているのだろう。
驚くことではない。
以前の世界でも使われていた戦法だ。
それよりも気になるのは、車輪の跡だった。
「絶対とは言えないんだけど、多分この跡がスキル使えなくした機械だと思うよー。へんてこな形のを大事そうに守ってたから」
後を追ってきたエレミヤの言葉に、守善は「だろうね」と頷いた。
「その機械がスキル封印を付与してるってことかな。エレミヤの話を聞いた感じだと、照射するのかも」
「他のみんなの方はどうだったのさー」
「みんな怪我はそれなり。向こうも取り逃してる。多分同じような状況じゃないかな」
「ぐぬぬぬぬぬ」
速さに自負があるだけに、逃げられるというのはエレミヤにとって相当な屈辱だ。
スキルを封じられて、敵に目視されていたとしても、それでも収まらないようである。
「カロン様に報告しよう。その判断を待ってから動こうか」
これはなかなか手こずりそうだと、守善は左手で頭を掻きながら真剣な目で敵の居城を見つめた。
書籍四巻の作業は順調です。
ようやく少し落ち着けたので、また更新していきます。