1 幕が開く
六章開始します。
カランドラ。
魔術大国として世界に知れ渡る渓谷の国。
国としての発展はあまりにも遅々としており、現代にはそぐわぬ古めかしいものであったが、それを補う魔術は多岐に渡り、幼児でも魔術を扱うのが当然なほど研究してきた。
生活の些細なことから大量殺戮の手段まで、魔術があればどのような未来も作り上げられる。大陸の覇権を一息で握れる。
そう、思われていた。
吹き抜ける風の冷たさは冬の到来を知らせるものだった。
南のルサリア大陸に雪は降らない。
だが、このアルタユ渓谷には常に季節の風が流れ込み、暮らしていた者たちはそれで四季を感じていた。
左右に大きく割れた断崖の渓谷の壁面は、まるで蟻の巣のように規則的に削られており、その奥には幾つもの住居が存在する。
夜になれば生活の灯が谷全体を美しく照らし、訪れた者の誰もが感嘆の息を漏らす絶景となる。
そんなカランドラの誇る首都アルタユに、今は人の気配がなかった。
風を防いでいた障壁を失って、様々な物が吹き飛ばされている。それを止める人影はない。
轟々と鳴る風の音が反響する渓谷の中、底を流れる川の付近から風とは違う音が微かに聞こえていた。
それは、人の足音と、這いずる異形の音だった。
「ほれほれ、死にたくねえならしゃんと走らんか!」
そう叫んだのは、狸の獣人だ。
狼にも似た鋭い顔立ちに丸太のような四肢と寸胴の体躯。
黒と褐色の短い体毛を靡かせながら疾走する彼の前には、今にもチアノーゼを起こしそうな顔をした長髪の獅子人がもがくように坂を駆け上っていた。
「たっ、助けてくれてもいいじゃないか! 君ならできるだろ!?」
「ふははっ! お前さんは儂の雇い主だろうが! 少しはやれるってとこ見せてもらわんとなぁ!」
「はっ、はっ、はっ、くそ! 売り手市場が嫌いになりそうだ!」
「喋る元気があんなら、まだやれそうだな!」
吹き付けてくる向かい風に抗いながら二人は走る。
その背後からは、まるで饅頭のような白い肌をした異形の怪物が何体も追いかけてきていた。
どれも形はバラバラで、眼球が飛び出た楕円形の頭部だけか共通している。
手か足かも分からないものをカサカサと動かしながら、手か足かも分からないものを振り回して追いかけてくる光景は、悪夢だとしても恐ろしすぎる。
それをチラリと振り返った獅子人、グラングラッド=ジルカは、引き攣った悲鳴を上げて速度を上げた。
「サザラ! 倒してくれ!」
「やなこった。タダ働きは嫌いなんでね。けど――」
横の通路から飛び出してきた白い化物が、覆い被さるように獅子人に襲いかかる。
関節のない場所もメキメキと音をたてて曲げながら迫る姿に足を止めそうになるが、
「行け! ジルカ!」
パン! と狸の神獣、散々紗々羅が手を合わせると、半透明の紅い杭が魔法陣から伸びて化物を岩壁に縫い付けた。
「命だけは助けてやんよ」
「嬉しいけどっ、もっと楽な方がいいなぁ!!」
切実なジルカの叫びを、紗々羅は笑って流す。
「荷物がなけりゃ考えてやらんこともなかったんだがなぁ」
「嘘だ! 絶対嘘だ!」
「はは! 五月蝿えなぁ」
再び横穴から飛び出してきた三体の化物を見て、紗々羅がジルカの前へと躍り出る。
肩に担いだものを落とさぬように抱えたまま、宙を滑るように横っ飛びで蹴りを放ち、三体をまとめたところに後ろ回し蹴りで崖下へと放り捨てた。
着地したところに更に一体。
片手で召喚した黄金の棍棒を投擲して突き刺し、指を鳴らして縦に回転させて両断した。
「はひっ、はひっ、はひっ」
「……」
足を止めていた紗々羅の横をジルカが通り過ぎていく。
紗々羅の視線は、確実に殺したはずの化物が痙攣しながら元の形状に戻ろうと蠢く光景だった。
「何すりゃこうなんのかね。ま、標本は取ったし、後は任せるしかねえか」
海抜千二百メートルもある断崖の道をジルカが登り切るとは思っていなかった紗々羅は、やる気だけは評価して金のたてがみを捕まえた。
「んがっ!」
「貸しだ。出世払いしてもらうからな」
「げほっ、げほっ! 運動じゃなければいくらでもするから、早く逃がしてくれ……! それに」
ジルカが紗々羅の肩に担がれているものを見て、険しい顔を作った。
「聞きたいことあるんだろ? 生き残りに」
それは、だらりと体を弛緩させた二人の人間だった。
埃臭いローブを着た彼と彼女は、目を開けているが焦点が定まっておらず、まるで生きたまま死んでいるように感じられた。
「聞けたらの話だがな。まずは、さっさと引き上げて報告しねえとな。親父殿の耳にはいの一番に入れてやりてえ」
四本の“四聖六道浄破棍”で周囲を守りながら転移の魔術を起動する紗々羅。
「連中、想像以上に外道だってな」
転移直後に残した言葉は、人が消えて化物が蔓延る魔境となった渓谷の風に飲まれて消えていった。
ルサリア大陸の西に位置するウルガ大森林に、獣人連合ヴァーミリアの首長国カドナがある。
鬱蒼と生い茂る自然の要塞に囲まれた獅子人の国は、数多く存在する獣人の国を纏め上げる黄金の都であり、木と石で造られた家屋が立ち並ぶ景観は古代エジプト文明のようであり、またはどことなくエステルドバロニアにも似ていた。
国民の七割が獅子人のカドナだが、街の大通りを歩くジルカのたてがみは誰よりも美しく、彼がこの国で特別な存在であることを表しているようだった。
町ゆく人々が思わず振り返るほどの美男子なジルカだが、今日に限っては向けられる視線に驚きが含まれている。
「死ぬかと思った……」
がっくりと肩を落として足を引きずるように歩く姿には、普段の高貴さが微塵も感じられない。
金山の採掘師の帰宅姿のような疲弊した様子は、これまで一度として見たことのないものだ。
その原因は勿論、ジルカが新しく雇った獣人にある。
「思うだけで済みゃ重畳よ。あんたが望んだ自由だろう?」
「死ぬような場所に行けるようになるのは自由って言わないんだよサザラ。そもそも、君の提案じゃないか……」
「置いてっても良かったんだぜ?」
「ソッチの方が死にそうだよ。君のおかげで僕の注目は上がりっぱなしさ」
「あんたの親父も変わってやがるな。子飼いの梟を殺されてんのは気付いてんだろうに、儂を引き入れようとするってのはよ」
ジルカは父親の話題に移ったことで、更にげんなりと肩を落とした。
「……そういう人さ。部下、友人、家族でさえ利用価値でしか判断できないんだよ。それで、もう用事は済んだのかい?」
紗々羅の肩に、カランドラのそこで見つけた人間はもういない。
「おう。あとはアルバートかリュミエール辺りが調べんだろ」
「ふぅん? でも、あれはいったいなんだったんだ。カランドラがアーレンハイトに敗れたって聞いただけでも驚きなのに、亡命者もなく人も消えて、残ってるのはあの化物。あれがカランドラを滅ぼしたのか? 魔物根絶を謳うアーレンハイトがそんな手段とるのかな」
ジルカがヴァーミリアに帰還してすぐ耳にしたのは、カランドラの滅亡という理解に苦しむ衝撃の内容だった。
誰に聞いてもアーレンハイトが動いている兆候は感じておらず、しかし事実として滅んだ以上信じざるを得ない。
恐らくは、カランドラもそれを感じぬまま滅んだのだろう。
だとすればどのような手段で一国を、魔術の粋を極めた国を、悟られずに滅ぼせるというのか。
「君はどう思う?」
「想像はつくが……っとぉ」
目の前で交差した槍に、紗々羅が足を止めた。
王宮の門を守る、くすんだ茶色のたてがみを持つ獅子人の兵士が、二人に苦々しい視線を向けている。
自分の住む城だというのに、どう見ても歓迎されていない。
それは拒絶よりも、憂慮に近い感情の色だった。
「ジルカ様……」
周りに聞かれぬよう、声を潜めて兵士は告げる。
「ガルバ様がお戻りになっています」
その名を聞いて、肩を落としていたジルカの目に敵意が浮かんだ。
「噂の兄貴かい。そりゃ楽しみだ」
「紗々羅殿、そのように声を出されては……」
「周知のこったろう? それに儂は雇われもんだ。憚らん奴がおった方が胸がすくこともあらぁな」
武に富んだ兄に怯える必要もないほど強力な共犯者の頼りになる言葉は、強張ったジルカの顔に笑顔を取り戻した。
「確かに、君がいるなら僕も少しは堂々とするよ」
「随分と吠えるようになったじゃあないか。え?」
しかし、いざとなると染み付いた恐怖心は体に現れる。
雄々しく威厳ある次期獣王に相応しい声を聞いて、ジルカも、兵士たちも背筋を凍りつかせた。
「カランドラに行ったそうだなあ。お前なんかが、よく生きて帰ってこれたもんだ」
門から離れた城の入り口から投げられた声は敷地内によく響く。
獅子の力を凝縮したような筋骨隆々の肉体に、編み込んだ黄金のたてがみ。
傷だらけの顔には黄金王によく似た傲慢な笑みが浮かんでいる。
真っ直ぐと歩いてきた鎧姿のその男、グラングラッド=ガルバは、兵を押しのけて紗々羅の前に立ち、挑発するように鼻先を近づけた。
「噂の狸に丸投げかあ? 父上がご執心の神獣【隠神刑部】、ぜひ手合わせ願いたいもんだぜえ」
ジルカたちの様子から、普段ガルバがどのように振舞っているのかがよく分かる。
そうやって過ぎ去るのを待つのが常なのだろう。
が、そんなものは散々紗々羅には関係のない話だ。
「そいつぁいい。黄金王の倅の首はさぞかし箔が付きそうだからな。売りゃあ遊んで暮らせそうだ」
「……へえ? ならこいつの首はどうだあ? 楽に持ってけるだろお?」
「三下の首じゃ二束三文にもなりゃしねえ。目え付けられんなら高えもん持ち逃げした方がマシだろうよ」
一歩も引き下がらず、獰猛な殺意を湯水のように湧き立たせて、紗々羅は堂々と仁王立ちで嗤う。
どの首も、刈り取る手間は変わらないぞと誇示するように。
ガルバは憤怒の形相を浮かべていたが、突然に相好を崩して吠えるように高笑いを上げた。
「ぎゃはははは! なるほどなるほど! 父上が欲しがってるのがよく分かる! ひひひひ! 肝の据わりも血生臭さも申し分ねえ!」
ガルバはそのまま紗々羅に腕を回してバンバンと強く肩を叩く。
その威力にも微動だにしない紗々羅を見て、また大きく笑うと、再び表情を切り替えて鼻先を尖った耳に寄せた。
「どうだ。俺様に付かねえかあ? 望みのものならなんだってくれてやるぞお? 金、女、力、なんでもだ」
ガルバなら、ジルカ以上の報酬を与えることなど容易だ。
王位継承権第一位であり、獣人軍の将軍でもある。
周囲を怯えさせるような振る舞いがあろうと、人望では手に入らないものを多く持つガルバが本物であることに変わりない。
もし紗々羅個人の欲望を満たすためなら乗り換えるのも一つの手だが、紗々羅はどこにいようと、何をしようと、全て一人の意思に従っている。
誰に使われようと、誰に仕えているかは変わらないのだから。
ニヤつくガルバに、紗々羅は裂けるような威嚇の笑顔ではっきりと口にした。
「それを飲むなら、さっさとあんたの親父に鞍替えしてんぜ。悪ぃが、雑魚相手じゃあやり甲斐ってもんが感じられねえ。少しくらい噛んで味がしてくれねえと、つまらねえだろう?」
エステルドバロニアに、カロンに有益じゃないなら、どんな誘い文句も虫の羽音と大差ないのだ。
「俺を殺そうってのかい?」
「別に殺す理由はねえ。かといって殺さん理由もねえ。せいぜい儂の顔色を窺って歩けよ。こいつみてえにな」
紗々羅の大きな手がジルカの頭を押すように掴む。
遠慮のない力加減にジルカは呻くが、睨み合う両者の耳には入っていなかった。
「……面白え。面白ぇなサザラあ。本気で欲しくなってきたぜえ。この俺様に向かってそこまで言える態度の奴も、それができる実力のある奴も見たことがねえ。ぎゃはははは!」
何がそんなに嬉しいのか分からぬまま、ガルバに背をバシバシ叩かれるのを鬱陶しく思う紗々羅だ。
気色悪いからさっさと消えろと思っていた紗々羅だが、ガルバにまた耳に鼻先を近付けられて不快げに牙を剥いた。
「本当はコレをぶん殴って憂さ晴らしでもしようかと思ったが、気が変わった」
そう言って、ガルバは再び紗々羅の耳に口を寄せた。
大した話ではないと高を括っていた紗々羅だったが、
「ヴァーミリアは、アーレンハイトに攻めこむと父上が決定したぜえ」
その言葉に、今日一番の殺気を放ってしまうほどの衝撃を受ける。
ようやく時がきた。
口の端を引き裂くような笑みには闘志と威嚇が強く浮かぶ。
ガルバが現れた時以上に、神獣から放たれた殺気に気圧されて兵士がたたらを踏むように距離を置いた。
「そりゃ吉報だ」
「いいねえ。上っ面に漏れてるもんなんかよりもずっとやべぇの抱えてやがる。ヒヒヒ……貸し一つだぜえ? まだ軍に伝える前の話だからなあ。その時が来たらどうするのか、楽しみに待ってるわ! ギャハハハハハハ!!」
最後にバシンと強く肩を叩いて、ガルバは基地の方へと去っていった。
暴力の塊が居なくなったことで脱力したジルカが焦って紗々羅の腕を掴む。
「なあ、なあ! どうするんだ!?」
「あぁ? どうもこうもあるまいよ。儂は儂の仕事をするだけだ。ほれ、行くぞ。お前さんにはまだまだ働いてもらわんとならねえからな」
「え!? 嘘だろ!? これ以上何させるんだよ! というかそもそも、僕は君の雇い主じゃないか! それが君の手伝いばっかりなのはどういうことなんだい!?」
「五月蝿えなぁ。雇われてやってんだろうが。そんなに嫌なら人手を増やしな」
「た、立場が……いや、今になってリコットたちを失った悲しみが……」
「とっとと来いバカタレ」
頭に拳骨を落とされてしゃがみ込んだジルカを置いて、紗々羅は王宮に背を向けて街の外へと歩き出す。
待ち望んでいた派手な戦だ。
お預けをされて涎が止まらなくなりそうだったところだ。
自然と人が避けてできた道を大股で歩く紗々羅が口を手で隠すが、その歓喜は抑えられない。
それは、国の皆も同じ思いだと確信できるからこそ、余計に燃えてくる。
「っし! 連絡すっか」
◆
中央大陸と呼ばれるレスティア大陸にも、冬の気配が到来していた。
草木の賑わいも鳴りを潜め、赤や黄に色づいたコルドロン山脈が最後の華やぎを見せている。
エステルドバロニアでも温もりを求めて暖炉に火を入れたり、耐えられないと火山に移住したり、逆に我らの季節が来たと喜んで地下から出てきたりと、種族ごとに様々な動きをして冬の訪れに備えていた。
国の中央に聳える城でも同様の動きは見られるが、王城だけは快適な温度を常に保つよう、発熱機構を備えた魔導具などで細かく調整されている。
メイドやバトラーたちが城の中を巡回しながら、温度計を確認してパネルヒーターのような魔導具の温度を調節していく。
警備の【リザードベルセルク】が彼らと挨拶を交わしながら、もうすぐ冬かと、窓の向こう、薄曇りの空を眺めていた。
これは、エステルドバロニアが連綿と紡いできた生活のリズムだ。
しかし、この国で冬を迎えるのは初めての人間には、どれもが珍しいものだった。
「へぇ、そうやって使うのか」
執務室の壁の側でしゃがむカロンが、うきうきしながら作業するルシュカを見つめていた。
大きな暖炉には薪が積まれており、煙突の蓋を外しながらルシュカは幸せそうに話す。
「我々は魔術がありますので、乱雑に薪を積んでも点火できますから。もしカロン様がご自分で行われる際は、そうですね……こう組みまして、点火剤をこの辺に入れて……なるべく私やメイドたちが絶やさぬよう管理しますが、もし自室の火が消えてしまった場合は、我々にお声掛けいただくか、このようにして着火してください」
自慢気に話すルシュカだが、実際に部屋に備え付けられた暖炉を使用するのは初めての経験であった。
もっと言えば、王城が人の過ごしやすい暖かさを保とうとしたのも初めてだ。
なにせ、プレイヤーのカロンが寒さを訴えることがなかったため、使う機会が訪れるはずがない。
しかし、今朝になって朝食の最中に「寒くなってきたなぁ」と呟いたのを聞き、第十六団は大至急暖房設備の用意をしたのである。
どうしてこれまで、百年以上も寒さを感じなかったのかという疑問はない。
ただ、カロンの為に仕事ができるという喜びが兵にも、ルシュカにも表れていた。
「では、点けますね」
そう言って、ルシュカは薬莢を取り出して分解し、火薬を薪の下にばら撒いた。
亜空間からフリントロック式の銃を取り出すと、撃鉄を上げて火薬の側で構え、ガチンと引き金を引いた。
撃鉄の部分から出た火花は火薬に引火し、一瞬強い光を放ってから薪を燃やす。
ドヤ顔を向けてきたルシュカに、「魔術とかの話の意味は?」と言いたいカロンだったが、そこは一人の王らしく、鷹揚に頷くことで気にしないと決めるのだった。
「しかし、この世界に来てからもう半年近いのか」
「そんなになるのですね……」
暖炉の火を眺めながら、カロンとルシュカはこれまでの軌跡を思い起こす。
「神都攻略、公国との戦争、魔王軍の討伐、聖王国の工作……波乱に満ちていましたね」
「そうだな」
まだ一年と経っていないのに、多くのことが起こった。
なんの力も持たない人間として、魔物の国を統治するなんて異常な事態にパニックを起こしていたのも懐かしい。
今では随分と王様らしく振る舞えるようになったとカロンは自負している。
「それに……」
ルシュカは浮かべていた微笑みを消して鋭い空色の眼光をカロンに向けた。
「アーレンハイトへの宣戦布告から、三ヶ月経過しています」
魔物たちは一日千秋の思いでカロンの指揮を待ち望んでいる。
これまでのものとは違い、エステルドバロニアが主導して己が戦争を始めるのは、この世界に来てから初となる。
他の雑多な事情に巻き込まれるのではなく、売られた喧嘩を買ったという至極単純なものだからこそ、無用な手加減も煩わしい配慮も必要がない。
完全で完璧で、いかなるものにも止められない天魔波旬の怒濤となって、王の意思に従って何もかもを平らげる。
そんな至高の戦争のお預けが続いていると、どうしたって兵たちの不満は溜まってきてしまう。
無論、それはカロンもコンソールウィンドウで確認していた。
「移してはいるつもりだ……が、やはり消極的過ぎるか」
「勿論我々は承知しております。この三ヶ月の中で各地の民の生活が安定し、品種改良や魔術の活用で食糧事情も改善しました。この世界に来てから抱えていた多くの問題にようやく終止符を打てるほどに」
「うむ。正直に言えば、聖王国との戦争はもう少し後にしたいと思っていた」
「ええ。勘違いの愚か者どもが来なければ立て込むこともありませんでしたから。相手が消極的なおかげで時間を有用に使えたのは不幸中の幸いでしょう」
闘争を求めている魔物は多いが、遠ざかりたいと望む魔物も少なくはない。
誰も彼もがカロンの意志に従うだろう。しかし誰も彼もが積極的な賛成ではない。
戦って勝つことも重要だが、その心配を排除するのも国の役目だ。
軍を戦いに割けば他のことが後回しになるのは必然だったが、あれだけ派手に喧嘩をふっかけてきたアーレンハイトの行動が遅々としているおかげで、穏健派のフォローを十分に行えたのは僥倖であった。
それも、カロンはコンソールで確認している。
「うむ」
簡素な返事に、ルシュカははっと目を見開いた。
「重々承知しています! カロン様が絶好の舞台を整えるために、聖王国に敢えて時間を与えていることも、先制したのが聖王国であると改めて周知させるために今一度奇襲なり仕掛けさせたいとお考えなことも!」
「……?」
そうなのか? と首を傾げたが、ルシュカの目にはカロンという存在しか映っていないようだった。
キラキラと輝く空色の瞳は、なんだか久しぶりに見た暴走してる時の目だ。
「ですが、やはりここはカロン様の威光を示すにも時間はとても有用でございました! アルバートと梔子姫と、あと他にも諸々の意見を取り入れて完成したのです!」
「……何が?」
「エステルドバロニア国王陛下の戦装束でございます!!」
グッと拳を握るルシュカ。
そんなことしてるとは知らなかったカロンは、丸くした目をパチパチと瞬かせた。
「い……え、なに?」
「ですから、戦装束です」
「……必要ないのでは? 私は戦場に立つことはないんだし」
「いいえ。場に合わせた衣装は王の威厳を示す上で必要だと聞いております。以前王国に赴いた際も、それ用に仕立てたではありませんか」
「スコラの入れ知恵だな?」
ルシュカの肩がぎくりとする。
確かに普通であればそのくらい着飾って威厳を示すのは方法の一つだとカロンも思う。
しかし、その王国に赴いた時に豪華な服を着たときに浮かんでしまったのだ。
馬子にも衣装という言葉が。
痛む頭を押さえて、どうやって回避すればいいのかを考えはするが、ルシュカの様子を見るに着たほうが士気は上がりそうだとも思ってしまう。
なにより、この期待に満ちた目が悲しみに歪むのを見るのは胸が痛む。
頭の痛みか胸の痛みか。導く答えで結果が変わるとすれば、こんなちっぽけでしょうもない悩みもないだろう。
薪から火の粉が爆ぜる音の中、答えに窮するカロンのコンソールにメッセージ受信のポップアップが現れた。
タイミングだけなら助かったといえる。
しかし紗々羅から届いたその内容は、カロンの求めていた報せだった。
「共闘などとは言わんだろうな。まあ、その辺りは紗々羅が上手くやってくれるだろう」
「カロン様」
「軍団長たちを召集しろ。帝国、魔王領への警戒ランクを引き上げて、全軍南の前線拠点へと移動を開始。命令を下し次第、ルサリア大陸に進軍する」
立ち上がったカロンが、棚にあった薪を手に取り、無造作に火の中へと放り入れた。
「我々の戦火だ。存分に燃やせ」
「御心のままに」
二人が部屋を後にすれば、残されたのは燃え盛る火に飲まれていく薪の爆ぜる音だけだった。