14 死
これにて、五章は終わりとなります。
王城にて起こった騒動は、エステルドバロニアにとって一切の影響を及ぼすものではなかった。
街は当たり前の尊い日常を活気とともに過ごしており、イルムたちが暴れている頃も、鎮圧されてからも、明けた朝も、変わることはなかった。
派手な戦闘など強固で重厚なミスリルの壁を越えて外に漏れることもなく、内の城壁を守護する紅廉と蒼憐が、ぼんやりと街から侵入者が来ないかを眺める程度に大したことなく終わりを迎えた。
何十人が命を懸けても、そんなものでしかなかった。
ガラゴロと荷馬車の車輪が回る。
木の車輪が石で跳ねるたびに積み荷が大きく音を立て、その都度御者である夫の隣りに座る妻が不安げに振り返った。
大量の木箱の中には、この国原産の野菜や果物がこれでもかと詰め込まれている。
魔物相手に臆しながらも交渉して回った結果、一軒の青果店と取引することができたサルタンの商人夫婦にとって、この積み荷は挑戦であり、全財産でもある。
ホクホク顔の夫は呑気に「大丈夫だよ」と言うが、妻からすれば気が気じゃない。
「サザラさんが衝撃緩和の魔術をかけてくれてるから」
「ですけど……」
妻は何度も荷台を振り返って確認していたが、ふと隣を歩いて護衛している散々紗々羅と目が合った。
バツが悪そうに視線を逸らした彼女に、紗々羅は豪快に笑ってみせた。
「そう心配しなさんな! 大した術じゃあねえが、あんたらの商売が台無しになるほどチンケな魔術じゃねえよ」
だとしても、運命を左右する商品なのだ。
紗々羅を信じていないわけではないが、心配なものは心配なのである。
「それでもなんかあったら……ジルカが弁償してくれんだろうよ」
「ええ? 僕がかい?」
紗々羅とは逆側を歩いていたジルカが驚きの声を上げる。
美しい金色の獅子人のそれは場を和ませるための演技だと分かっていても、胸にストンと落ちてくるような暖かさがあった。
「あんたが儂の雇い主だろう?」
「確かにそうだけど……まあ、君の術で何か問題が起こるとは思わないけどね」
「流れ者に随分と期待してんなぁ」
「ははっ、長い物に巻かれる主義なんだよ」
「長いねぇ……」
商人夫婦を交えて和やかに会話を続ける紗々羅とジルカ。
そこから離れて荷馬車の後方にはリコットとオーグノルが追従し、更にその後ろをフォルファが歩いていた。
「んふふー」
「買ったのか?」
「んー? まあね。色々とおまけしてもらったしさ」
彼女を彩る宝石たちは、どれもヴァーミリアやサルタンでもなかなかお目にかかれないような代物だ。
ジルカでも手が届かないかもしれないような高級品を見せつけるように身に着けているのは不自然でしかない。
「オーグノルも、なんか機嫌良さそうだけど?」
問うべきかと逡巡するオーグノルだったが、指で大粒のルビーをあしらった指輪を触りながらのリコットの言葉に視線を逸らした。
「どーせ無茶苦茶してきたんでしょ。あんた好きだもんねー。あっちじゃどこも出禁にしてるって聞いてるよ?」
「人の趣向に、口出しするな」
「あっそ。あーあ、可哀想なんだー」
「……それより、あれは、どうした」
オーグノルが鼻を振って後ろを指す。
最後尾を歩くフォルファは、ふわふわの羽毛をぎゅっと畳んで体を縮めており、異様なほど怯えているようだ。
合流してからしきりに「早く国へ戻ろう」とジルカに懇願しており、商人がその切羽詰まった姿に気を使って帰国の予定を早めてくれたが、いったい何を見たのか、などとは誰も問い質したりしていなかった。
「知らないよ。どっかに忍び込んで下手でも打ったんじゃないの? 別にどうでもよくない?」
楽観的。無関心。
その程度の繋がりと関係性だから、このパーティは成り立っていた。
冒険者ギルドでも鼻つまみ者だった二人がジルカと共に居るのは、拾ってもらった恩義や報酬の支払いの良さもあるが、それ以上に無用な詮索と束縛がないからである。
フォルファが来てからはかなりうるさくなったので大人しくしていたが、見知らぬ土地で監視の目が外れたからと少しばかり羽目を外してしまったが、後悔はなく晴れ晴れとしている。
だから、誰もフォルファのことなど気に留めていなかった。
馬車は外郭の正門へと近づいていく。
獣人の兵士が警備する門を馬車が潜り、ジルカたちも続いた。
「……え?」
リコットが突然のことに唖然とする。
抜けた先には、純白の空間が広がっていた。
果ての分からない謎の空間は、誰が見ても草原などではない。
そして、馬車と商人夫婦の姿がどこにもなかった。
誰もが理解不能な状況に混乱している中、突然声が響く。
「貴金属店からの窃盗、娼婦への婦女暴行、おまけに王城に不法侵入か。ずいぶん景気のいい連中じゃあないか」
姿の見えない何者かの声は四方八方から聞こえてくる。
ただ、その声には皆聞き覚えがあった。
「ああ、人間のことなら心配しなくていいよ。彼らは大切な客人だからきちんと帰れるようにしてるからさ。ま、そんなことより問題は君たちだ。冒険者というのはそんなに品位に欠ける輩しかいないのかい? 少なくとも僕の知る冒険者たちは命知らずで戦闘狂で、好奇心と功名心の塊みたいなのだったけど。なんにせよ、君たちは我らがエステルドバロニアにおいて罪を犯し、あまつさえ去ろうとしている。我らが軽視侮辱を許すことはなく、愚かな命を蔓延らせるほど寛容ではない」
「結界か」
「これは抜けないかな。めちゃくちゃ高度な隔離結界だよ」
オーグノルとリコットは悪びれもせず、フォルファに至っては剣を握って周囲を過剰に警戒している。
「リコット、オーグノル。問題を起こさないように言ってたはずなんだけどね」
「ごめんなさーいジルカ様ぁ。でもぉ、最近私へのプレゼントが減ってたのは悲しかったんですぅ」
さすがのジルカもこれには呆れるしかないのか、苦い笑いを浮かべてゆるゆると頭を振った。
「念の為聞いておくけど、この状況で何かを差し出して許してもらえるとは思ってないよね? お金払えば見逃してもらえるなんて生易しい国じゃないからさ。もしそんな無駄なことしようとしてるなら、やらない方が建設的だよ?」
「あららぁ、いつもみたいにはいかないのかぁ。じゃ、逃げるしかなさそうだね」
「そう、なるか」
「なるほど。馬鹿ばっかか。それは苦労しただろうねえ。ま、後始末は宜しくね。僕は仕事に戻るからさ」
その声がどこかへと遠ざかっていくとき。
乾いた鈴のような音が鳴り、音の先に視線を向けたリコットの頭部が、黄金の棒で貫かれていた。
べっとりと血のついた六角形の棒は、綺麗にリコットの顔の中心を穿ち、突き刺さったままだ。
「っ! 貴様――!」
オーグノルはすぐに防御系のスキルを全て発動させて、大盾を召喚して防御の構えを取るが、黄金の棒は頭上から猛スピードで落下し、象の巨躯を容易く串刺しにした。
僅か数秒の出来事に反応できた者はいない。
生きて立っているのはジルカ。フォルファ。そして、
「そういうこった。旅した誼みで引導を渡してやんよ。大した旅じゃあなかったが恩は多少ある。だから、さくっと苦しまずに殺してやんよ」
狸の獣人は、数歩前に進んでゆっくりと振り返り、両の手に二人の命を奪ったものと同じ金棒を握っていた。
神獣【隠神刑部】。
魔術を解いた瞳には、エステルドバロニアの紋章が刻まれていた。
「逃げるぞ!」
フォルファが羽を逆立てて警戒しながらジルカに叫ぶも、放心しているのかジルカは目を見開いたまま動かない。
リコットもオーグノルも問題児ではあったが能力は確かなものだった。特にオーグノルの防御力はかなりのもので、ちょっとやそっとじゃビクともしないほどだ。
それが一撃。
スキルでの強化をものともせずに貫いた威力は、感じていた散々紗々羅の実力よりも遥かに上だ。
剣を構えていたフォルファの羽が風のうねりを感じ、本能で横に飛ぶと、その位置を金の軌跡が通り過ぎる。
視覚では追えない速度で飛翔する金の棒“四聖六道浄波棍”は、意思を持つように周囲を回り出した。
フォルファはどうにかこの場を離脱する方法を思案するが、白だけが続く奇妙な隔離結界を壊す算段もつかない。
唯一の手段は、術者を倒すこと。そのためには、紗々羅を殺すこと。
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ」
ヴァーミリアお抱えの冒険者が漏らす引きつった呼吸音。
それが、難しさを表していた。
「なあ、梟。あんた、城で見たんだろ? それを、あんたの王様にどう説明するんだ?」
フォルファが見た光景は、スコラやミラの健闘ではない。
侵入者を適当に始末していく悍ましい処刑の様子だ。
あれが魔物の文明というのであれば、この国が覇権を握れば人類は家畜に成り下がるだろうと、フォルファは見ていた。
ヴァーミリアの王に伝えることなど決まっている。
聖王国と手を組んででも、この国を滅ぼすべきであると。
震える切っ先に感情を見た紗々羅は、「残念だ」と呟いて手を掲げた。
「どうしてあんたたちがエステルドバロニアに招かれたと思う?」
フォルファの周囲を飛ぶ棍に、血に塗れた二本が加わる。
「獣人の国ってもんが、マトモかどうか調べたかったからよ。答えは……あんたたちが導いたんだぜ? まっとうにしてりゃあ良かったものを、クソみてえな欲を出しやがって」
紗々羅が手を振り下ろした瞬間、フォルファが走り出すよりも早く三本がその体を地面に縫い付ける。
「てめえの因果だ。無苦の死を喜べ」
紗々羅の握っていた浄破棍がふわりと浮かび上がり、フォルファが苦痛に喘ぐ間もなく頭部を刺し貫いた。
しん、と静まり返る白い空間の中に拍手が鳴る。
「いや、お見事。強いとは思っていたけど、あのフォルファが子供扱いなんて思いもよらなかったよ。あれでヴァーミリアでは名だたる冒険者チームの一人なんだけど」
死体から伸びる血の道の上で、ジルカは笑顔を崩さぬまま、仲間の死に憤ることもなく、心の底から紗々羅を讃えていた。
「君は魔術師なのかい? てっきり武闘家か何かかと思っていたんだけど、それも読めなかったよ。さすが、エステルドバロニアの幹部だね」
「まるで、こうなるのを分かってたって口ぶりだな。自分が生かされるのも織り込み済みかい?」
「そんなことはないよ。ただ、リコットたちにはいつか罰が下るとは思っていたし、それがこの国だろうとも思っていたかな。安全を担保してくれたのは有り難かったけど、命乞いに加担しようとは元から考えてなかったよ」
「策士にゃ程遠い行き当りばったりの作戦だなぁ」
「それだけ、グラングラッド=ジルカの立場は無価値ってことさ」
三つの死体をそのままに、白い空間の中で語らう獣人二人。
獅子は狩られる側であり、狸はいつ首を獲ろうかと虎視眈々と狙っている。
問答に間違えれば、その瞬間ジルカは呆気無く死ぬだろう。そこら辺に転がる彼らのように。
それでもジルカは笑みを絶やさない。
処世術ではなく、この大博打に勝っても負けても笑えることになると心の奥底から信じているから。
「おべんちゃらだけのガキかと思ってたが、そうでもねえらしいな」
「あれ、驚かないのかい? これでもグラングラッド王の子なんだけど。それに、君がこの国の魔物だって見抜いてたのも」
「悪いが、そういったことは親父殿に十分見せられてんのよ。探偵ごっこくらいで驚きのおねだりか? しょうもねえ話より、俺のご機嫌取りすんのが筋ってもんだろ」
滅茶苦茶な理論だ。
しかし、それ以外に出来ることがないのは確かだ。
紗々羅が意図して生かしたのは、ジルカが法に背いていないからではない。その気になれば監督責任でもなんでも理由をつけてさっさと始末する方が時間を浪費せずに済む。
躾のなっていない冒険者と扱いきれない父の部下だけを与えられて送り込まれるような王子の命に、いかほどの価値があるのか。
よく理解しているからこそ、ジルカは紗々羅の求めているものも理解している。
「ヴァーミリアに来ないかい? もちろん、僕の新しい部下として」
ジルカが今確約できるのは、それしかない。
「これでも王族の端くれだから、国の中ならどこにでも行ける。勿論王宮の中も自由に動ける。これからアーレンハイトと戦争するなら、ヴァーミリアの動向は把握しておきたいだろう?」
「へえ。魔術の……カランドラにあんたの首持って取り入るとは思わねえのかい?」
「アーレンハイトの工作部隊がカランドラの使者を偽ったんだ。詳しくは知らないけど、カランドラとアーレンハイトは何かしらの関係性があると考えられる。アーレンハイトを相手にするようで、実際は二国を相手取るつもりじゃないのかな?」
「南の大陸丸ごと敵に回したって困りゃしねえ。そいつはちっとばかし自分の国を高く見過ぎだ」
「確かにね。でも、もしアーレンハイトを落とせば嫌でも僕たちに接触することになる。その為の布石を打とうと君が……エステルドバロニア王の指示を受けているんだろ?」
紗々羅は、推理が当たっているか知ろうとするジルカを尖った鼻で笑う。
この局面で嘘も誤魔化しも必要ない。
「残念だが、儂が親父殿から賜ったのは「存分に暴れろ」の言葉でな。これは儂の気まぐれだ」
「……まとめてヴァーミリアも平らげるつもりなのかい?」
「かくあれかしと望まれてんならそうするのが儂の仕事よ。んで、儂がヴァーミリアに行く利点はそれだけかい? グラングラッド=ジルカ、てめえの目的とどう合致すんのか聞かせろよ」
いつの間にか紗々羅の手に戻っていた四本の金棒が、ジルカの眼前に突きつけられる。
この問答で最後になると言外に告げられて、金獅子は更に笑みを深めた。
「僕の親兄弟を殺してくれれば、ヴァーミリアはエステルドバロニアに隷属したっていいよ」
紗々羅は、それに笑顔で応える。
都合が良ければそれでいい。最後に全て土に還したっていい。エステルドバロニアが永劫の繁栄をすればいい。
互いの利のために、二人は何も言わず互いを利用することを良しとするのだった。
◆
「らんららん、らーらららーらー」
陽気に口ずさむ声は、薄暗い通路の中で響いている。
下へ下へと向かうスロープは右へ左へと曲がりくねっており、どれだけ進んでも先の光が見えてこない。
ウェディングドレスのような純白の法衣と、バタバタと跳ねるナニカを詰め込んだ麻袋を引きずりながら、女は白と藍の長い髪を揺らして上機嫌に軽くステップまで踏みながら奥へと降りていく。
「ちゃっちゃらら、ちゃらら、らーららーらー」
薄気味悪い中で薄気味悪い行動をする女は、それでもどこか神聖な雰囲気だけは損なっていなかった。
アーレンハイト聖王国の聖王であり、選ばれし竜の聖女でもあるエレナ・ルシオーネは、今日国へと帰ってきたアルア・セレスタから聞いた話を思い出す。
送り込んだ部隊は混乱を生むことすらできず全滅し、アルアも成果を上げることなく王国の勇者に敗北。しまいには生き恥を晒してのうのうと帰ってくる始末。
エステルドバロニアに余裕と自信を与える結果となったことは不満だが、それはそれでこれからの戦争に対する危機感を持てると思うことで前向きに気持ちを切り替えた。
北の辺境で魔王がどうしているのか気になるところだが、それよりも目先の害悪を滅ぼすほうが重要である。
アーレンハイト議会もエステルドバロニアとの戦争に全会一致だ。
これはもう、男神ザハナからの導きであるだろう。
「らーららー、らららん、らったらーらー」
聖歌を口ずさみならが進み続けて、ようやく青白い光が遠くに見えてくる。
ズルズルと麻袋を片手で引き摺りながら、エッツァ城の地下深くにある空間へと辿り着いたエレナは、そこにいた銀騎士に笑顔を向けた。
「聖女様」
複雑な彫刻の施された銀のヘルムを被った女は、白いレオタードに銀の篭手と具足をはめた珍妙な装備をしている。
短いマントをしているのも相俟って、まともな騎士ではなく趣味の悪いコスプレのように見えるが、それでも彼女はアーレンハイトの勇者の一人だ。
「あら。グロキシニアも来ていたの?」
「はい。アルマ様の御姿を見ていたく」
「貴女は本当にアルマ様が好きなのね」
「はい」
テノールのような低く響くグロキシニアの声に喜色を感じて、エレナは幸せそうに微笑む。
「貴女のような素晴らしい騎士をもって、私は幸せだわ。あ~あ、どうしてみんな反対するのかしら。アーレンハイトにとってこれほど大事な儀式はないのに」
「誰もが聖典の御伽噺としか思っていませんから。我々にとってザハナ様が、アルマ様がいかに偉大で素晴らしく重要であるか理解できないのでしょう」
「まったく、司教様にも困ったものだわ! どれだけの犠牲が必要と思っているのですか、だって。そんなこと考える必要なんてないのに」
「ええ。ですが我々だけでも進められたのは僥倖だったかと」
「そうね。カランドラから集められて良かったわ」
二人が同時に見上げたのは、広い空間の中央に鎮座する巨大なガラスのドーム。
緑色の液体で満たされた中では、歪な形状の蛇に似た黒い影が回遊し、ドーム頂上で作業する白い布を被った集団が投げ込む物を捕食している。
大小様々なサイズと形状のパイプが突き刺さったドームの麓では、大量の計器を見て歩く白装束の集団が話し合いをしている。
餌が投げ込まれる直前にだけ、精神を壊しかねない劈くような高い音が響いていた。
ここでは、皆が一丸となって復活に向けて懸命に働いていた。
その光景に、エレナは眩しそうに目を細める。
「素晴らしいですわね。これが人の力、未来を作る可能性、ザハナ様への信仰の賜物よ」
美しいと見つめるものが培養する研究所のようなものではなく、市井の暮らしなどであれば説得力もあるだろう。
だが、その疑問を持つ者はこの場にはいない。
「ところで聖女様、それは?」
ヘルムでくぐもったグロキシニアの声を聞いて、エレナは引き摺っていたことを思い出す。
「ああ、そうだったわ! はい、これ」
差し出された麻袋の口を結ぶ紐を渡されて、グロキシニアは首を傾げながら解いて中を確認する。
「……ああ」
中から覗いていたのは、口枷を嵌められて全身を縛られた――アルア・セレスタだった。
薬でも打たれているのか、意識が朦朧としているようで涎を垂らしながら覚束ない視点を必死に合わせようとしているのが分かる。
「これも入れておいてちょうだい。もう使い終わっちゃったから」
残り少なくなった口紅を捨てるような気軽さで、エレナは人間を差し出した。
受け取ったグロキシニアもまた、捨てるのを頼まれた知り合いのような軽い頷きを返す。
「これからもっと忙しくなってくるわ。グロキシニアもちゃんと準備しておいてね?」
「ええ。もちろんです」
「あっ! 最後に話だけ聞いておこうかしら」
エレナはそう言いながら、腰を折ってアルアの口枷をそっと外す。
「ぷはっ! エレナ、猊下……私は何が……ここはいったい……」
「大丈夫よ、アルア。貴女はしっかり仕事を果たしてくれました。あとは、アルマ様の御下に向かえばいいわ。それで幸福な来世にきっと連れて行ってくださるから」
「なんの話をして、るんですか? アルマは……それは銀の……ここは……」
「アルア」
エレナは、聖女としての顔を崩さない。
聖女として育てられて、聖女になるために競争し、聖女となれなかった同世代を廃棄してきても、聖女としての顔だけは崩れない。
その腹の底で、混沌が渦巻いていようとも。
「貴女は愚かで惨めで哀れで……悲劇のヒロインと思い込んでいた玩具だったわね」
「エレ、ナ……?」
「夫の死の理由も知らない。私の考えも知らない。ただ周りに流されるばかりで、真実を知る勇気もなく悲観するだけで何もしない。魔物の国で剣を抜いたと聞いて驚いたけれども、やっぱり貴女はその程度しか出来ないのね。自分の境遇も、環境も、閉じた現在も打開できない、本当に可哀想な人」
朦朧とした意識でも分かった。
エレナの告げるものが、半月を描く瞳の奥が、アルア・セレスタの存在を侮蔑していると。
言葉を失い、体の震えが止まらなくなったアルア。が、ここに来てようやく自分の立場を理解したのかと思うだけで、最後に残っていたエレナの興味を削ぐには十分だった。
「それじゃあ、よろしくお願いするね」
手をひらひらと揺らしながら、背を向けて歩き出したエレナの耳に、もうアルアの呼ぶ声は聞こえない。
薄暗い通路に戻って、また歌いながら軽い足取りで地表に向かって歩く。
最後の最後に、恐らくはアルアがドームに投げ込まれる寸前に上げた、劈くような高い声だけは微かに聞こえたような気がした。
「これまでの聖女様たちの悲願が叶うわ。もうすぐもうすぐ、あとちょっと。ふふっ、神話は現代に蘇るのよ。みんなみんな、アルマ様の威光に跪き、ザハナ様の神聖に涙するわ」
首に提げられた白竜のペンダントを触りながら、エレナは歓喜を抑える。
「愉しみましょうねぇぇ、カロン陛下ぁぁぁ」
過去最大の戦争。
その予感にエレナは笑みが抑えられない。
悪しきエステルドバロニアと、白竜アルマとアーレンハイトの戦は、もうすでに始まっているのだった。
エステルドバロニア書籍第四巻の発売が決定しました。
まだカロンの物語は終わりません。
次章、アーレンハイト戦を愉しみにお待ち下さい。