10 奇襲
「よく来たな、カランドラの魔術師よ。私がエステルドバロニア国王補佐を務めるルシュカだ」
黒と赤と黄金が煌めく豪勢な一室に招かれた魔導兵団を待ち構えていたのは、人間と遜色ない姿形をした美しい女の魔物だった。
空色の髪をかきあげて笑うルシュカは、背もたれの大きな玉座の脇に立ってイークラールを名乗る男を睥睨する。
彼らが魔物に憎悪以外の感情も抱かないのと同様に、ルシュカもぽっと出の人間に向ける感情を持ってはいなかった。
警戒し合っているのに互いを見ていないような奇妙な緊迫感の中で、主導権を握るルシュカは事務的に告げる。
「我らが王はお忙しい身であるため、諸君らの対応は私に一任されている。用件があるならさっさと口にして早々に引き払ってもらいたい」
一団を代表して、イークラールを名乗る男も事務的に言葉を並べた。
「急な訪問となったこと、誠に申し訳なく思う。しかし我らカランドラは貴国との交流を求めており、是非ともエステルドバロニアの王にお目通り願いたい」
「交流するに我らが王と会う必要はないだろう。今この場で目的は果たされているではないか」
「やはり此処は魔物の巣窟である。北の地にて魔王が復活したとの噂も聞いている中で、魔物を信用するのは難しいことを理解していただきたい」
「それは、我々が魔王とやらの手下だと疑っていると言いたいのか?」
「その通りだ」
捉え方によってはエステルドバロニアへの敵対に聞こえるが、ルシュカは冷静にイークラールの口にした疑惑を否定せず受け入れる。
エステルドバロニアが魔王軍を殲滅したのは事実だが、その一連の流れが計画されたものである可能性は、外部から見れば十分考えられるものだろう。
ただ、人間を滅ぼそうとするのにこんな迂遠な方法をする必要がないので、言いがかりのようなものでしかない。
ただ、
「我々以下の存在が上に立つことを許すほど甘くはないのだがな」
「……人間に従えられているのにかね」
「くひっ……矮小な物差しでしか判断できん愚か者め。この世界の人間は揃いも揃って馬鹿しかいないのか? だから我々の敵にも値せんのだよ。この国を見たか? 貴様らが束になってもエステルドバロニアの影すら踏めやしない。神如きを信奉するから頭が弱いのだ」
関心を持たぬまま話し続けるかと思われたが、神を侮辱するルシュカの発言にイークラールたちの雰囲気が変わった。
それを見て、ルシュカも面白そうに頬を緩ませる。
かつて相対してきた勇者や英雄、それに連なる者たちは、もっと迫力があり、鋭気があり、覇気があった。
信仰する神の名を、守るべき命の価値を、心を支える大切な言葉を、大言壮語にしないだけの力があったというのに。
その全てを破壊してきたエステルドバロニアが負ける道理はないのだ。
美しく暗い笑みを浮かべて、取り繕うことをやめたルシュカは、下等生物への憐れみをはっきりと顕わにした。
「用が済んだら消えろ劣等種。その程度の無礼は、王より下知されし一度の温情で見逃してやる。男神に媚びる雌犬に戦の用意を進言することだな」
イークラールたちはなんの事かと互いの顔を見合わせるが、すぐに正体を看破されていると察して狼狽えてしまう。
これまで完璧に事を運んでいると考えていたが、正体が暴かれているとすれば入れ替わった対象の末路も知られている可能性がある。
もしカランドラに知らされでもしたら聖王猊下のお考えに瑕疵をつけることになってしまうと、表情を隠そうとも動揺は仕草に表れていた。
彼らの軟弱具合に、「こんなのを送り込むのも、ある意味舐められているわけか」と呆れるルシュカだったが、部下たちを律するようなイークラールの声に動きを止めた。
「ならば、我々は貴国に祝砲を捧げよう」
「……なに?」
踵を返して立ち去ろうとしていたルシュカが振り向くと同時に、眩い黄金の魔力光がイークラールたちを包み込んだ。
ミラが咄嗟に武器を構えるよりも早く、彼女の眼前には光から飛び出したナニカが迫る。
鼻先五センチ。
そこには、石膏で作った型のように陥没した顔があった。
燃えるような赤い翼を生やし、脈動する血管を陶器の皮膚に這わせた異形。
鉄と金で固められた天使の彫像を頭頂部に突き刺した不気味な人型は、キリキリと歯車の音を立てながら天使の彫像をクルクルと回していた。
まさしく神がイタズラで作り上げた機械仕掛けの天使。ルシュカも知らない聖なる怪物【ク・ダン・クル・ガラーダ】は、ただ象られただけの顔でルシュカを見つめながら奏でるように叫んだ。
「~~~~♪」
音階のついた悲鳴のような奇声を面の裏から鳴らしながら、天使は握られていた巨大な錫杖に似た大斧を横一閃に振るった。
男神に与えられた神聖が篭められた攻撃は、轟々と唸りながら風と共にルシュカを勢いよく吹き飛ばした。
声もなく、目にも留まらぬ速さで吹き飛んだルシュカが玉座の脇を通り抜けて壁に衝突し、破砕音を上げて砕けた瓦礫の下に埋まる。
薄暗い謁見の間に立ち込める土煙の中で、イークラールは喉を震わせて歓喜の笑声を零した。
ランク8の天使種。
それを呼び出したのは、イークラールの手の中で強く輝く魔力の琥珀による力であった。
聖王エレナより賜った神の奇跡の一片は、彼らの想像を遥かに超えた強大な力が満たされており、おおよそ人間が持つには不相応なほど鮮やかな神聖を迸らせている。
荘厳な謁見の間に立ち込める土煙を浴びながら、イークラールは抑えきれない興奮をくつくつと喉から溢れさせた。
「くくくっ……さすがは神の雫だ。神の尖兵をこれほど容易に召喚し、あまつさえ使役もできるとは……!」
橙色の灯りを浴びながら宙に浮く、兵器の姿をした神々しい天使を見ながら、イークラールは感動に全身を震わせる。
魔王の補佐を一撃で葬れる力を自在に操れる快楽は、男神の洗礼を受けた時以上のものだった。
振り向けば同胞たちも同じ想いに打ち震えているのが分かり、イークラールはまるで凱旋を歌うような芝居がかった動きで命令する。
「さあ! この邪悪な世界を我々の手で浄化しようぞ! 偉大なる神アルマの使徒として、魔物を屠ろうではないか!」
呼応して、部下たちは各々の手の中にあった神の雫に魔力を注ぎ込む。
詠唱もなく、琥珀は魔力を貪るように取り込んで強烈な光を放ち、機械天使を召喚した。
エステルドバロニアの中枢を支配していく実感は、まるで英雄にでもなった気分だ。
血眼になってギョロリと大きく見開かれた目には、もはや人間とそれ以外を選別する機能しかない。
「いくぞ! 聖神ザハナの名の下に、悪神ゲヘナの獣に天誅を下せ!」
意気揚々とローブを脱ぎ捨てた、カランドラを謀る者たち。
王城の中へと進軍する彼らは、自信と信仰を胸に城へと散らばっていくのだった。
魔王討伐の栄誉に酔いしれながら城の中を練り歩くイークラールたち……いや、聖王国アーレンハイトの聖旗軍工作部隊の隊長イルム・ロベッタとその部下たちは、豪勢な城内を荒らして悦に入っていた。
占拠し、制圧し、奪取し、破壊する。
魔物などなにするものぞと、聖なる機械天使を連れて歩く快感は日常で得るものとは比べ物にならない。
白銀の荘厳な塔を
鼻歌交じりに勝手を繰り返しながらいた工作部隊の面々だったが、ワンフロアを巡り終えた辺りで違和感を覚え、イルムが手を上げて制止した。
「……おかしいな」
「どうされましたか?」
「静か過ぎる。それに、魔物に出くわさない」
イルムたちは、ただ同じ階層を回りながら荒らしただけで、成果は女型の魔物一体しかない。
本拠地だというのに警備もいなければ駆けつける者もなく、異様な静けさが王城の中を満たしている。
まだ連絡が行き届いていないのか。それにしては常駐しているべき兵士の姿を城に入ってから目にしていない。
案内役だった魔物もいつしか居なくなっており、これを意図的に孤立させられているとイルムは考えた。
しかし、城で行う理由はどこにあるのか。国の要で無法者を野放しにするなど、見聞も悪いし愚策でしかない。
よほどの愚策か、相当な奇策か。
「逃げ出したんでしょうか」
「悪しき異物ではあるが物を考える力がないわけではなかろう。しかし、本丸に攻め入られて傍観するなど愚の骨頂だがな」
「隊長、転移の魔法陣が見つかりました」
周囲を探索していた部下に案内されると、城の中心部に当たる円形の広間に、等間隔で配置された魔法陣を確認する。
どれも正常に機能しているらしく、コンコンと音をたてて魔力の粒子を不規則に放っていた。
この階層に来た時は螺旋階段を登ってきたのたが、それは封鎖されたのか来た道を戻っても見つけることはできず、代わりに発見したこのフロアには罠の匂いが漂っている。
「術式の解読はしたか?」
「それが……我々の普段使うものとは違う方式で組まれているようで。ただ、改変した形跡は見つからないので、城外に放り出すような細工はされてないかと」
部下の話を聞きながらイルムも解析を行なってみるが、凡そ同じようなことしか分からない。
ただ、部下よりも明確に、この転移魔術に緊急措置がとられていないことは読み取った。
恐らく、本来は階段ではなくこの部屋が各階層への移動手段だろうと推察できる。
「どれがどこに繋がっているかまでは分からんか……よし、部隊を四つに分ける。狙うは人の王の首だ。忘れるな。我らは悪しき存在を討ち滅ぼすために志願したことを。生きて帰るなど、許されぬことを」
浮かれていた面々に再び使命感と、殉じる覚悟が強く灯った。
一時の快楽に身を委ねて目的を疎かにしては、ここに来た意味がない。
これは宣戦布告である。
過激に、苛烈に、人類に魔物に抗う勇気を奮い立たせるために、聖王猊下の名の許に血の鉄槌を下す尖兵として、ここにいるのだ。
かつて英雄たちが目指した安息は、決して魔物などと共生するような妥協ではなかったはずであると。
「よいな。ゆめゆめ忘れるでないぞ。この矮小な命は殉じてアルマ様とエレナ猊下に捧げるためにあることを」
「……申し訳ありませんでした」
「よい。これからはその信仰心に身を委ねるがいい」
自然と部隊は九人ずつ四組に分かれた。
幾つも並んだ魔法陣の行き先は誰も知らないが、隊員たちは躊躇うことなくその上に立ち、目配せをしてから魔力を魔法陣に流し込んだ。
これよりは死地へと赴く。彼らはどのような目に遭おうとも、決して背を向けることはしない。
煌めく泡に飲まれるように、アーレンハイト聖旗軍の者たちはそれぞれの行き先へと転移していった。
「……」
荒々しい音を立てて部屋を出ていってから、無音だった謁見の間に重い音が響く。
砕けて積み重なった瓦礫が蠢き、その中から埋もれていたルシュカが壁材を退けることもせず強引に立ち上がった。
パンパンと埃を払ってから、ルシュカが冷たい表情で壊れた壁を見て、素早く手を掲げて指を鳴らすと、時間が巻き戻るように壁は元通りに直り、イークラールが起こした事件の痕跡は綺麗さっぱり消え去った。
通路に配置されていた【意志持つ鎧】も、緊急事態だというのに微動だにせず置物に徹しており、それも発生した事態の大きさには不釣り合いな落ち着きを感じさせた。
「まったく損な役回りだな……いや、それもまたカロン様に最も近いが故と思えば悪くもないか」
僅かに苛立ちを見せたルシュカだが、これも仕事だと割り切って嘆息して天使に斬られた腹を擦る。
「ううむ、カロン様のお考えは重々承知しているが、はたしてアレでいいのだろうか……まあ、丁度いいといえばいいのか……?」
撫でていた手を退けると、そこに擦過の跡もない。
ただ後方に吹き飛ばされて壁に衝突しただけであって、その程度の攻撃では指の先が逆剥けにもならない。
それが、尚のこと聖王国の愚かさを助長しているようで、呆れを通り越して笑えてきそうだった。
しかし、これからが本番である。コキコキと肩を鳴らしてから、ルシュカは気を取り直して耳元に指を添え、通信魔術を立ち上げて軍全体に告げた。
「これより作戦を開始する。各自、私の取り分も残しておけよ」
◆
聖旗軍工作部隊副隊長レッコー・バノンは、光と魔力の奔流から解放されたのを感じてすぐに警戒態勢を取った。
自分の周りに同じ部隊になった部下と、それと同じ数の天使が居ることを確認して、転移魔術は正常に作動したのだと判断した。
「ジル、アード、全員揃っているな?」
「はい。天使も無事です」
「ところで、ここはいったい何処なのでしょうか」
転移の魔法陣から光が薄れるにつれて、辺りは異様なまでに暗くなっていく。
完全に魔力を使い切って魔法陣が落ち着いたときには、互いの顔が薄ぼんやりと確認できるほどに暗くなった。
殆ど使われていないのか、ほんの少し足を動かしただけで積もっていた埃が舞い上がる。
そこは細い通路になっているようで、遠くの方で淡い緑の灯りだけが彼らを導く標となっていた。
「何処であろうと我らがすべきことに変わりはない。悪を討ち滅ぼすことだけを考えよ」
レッコーが指で合図すれば、天使が音を立てずに宙を進んで奥の光へと進んでいく。
もし魔物を発見すれば埋め込まれた理念に従って殺戮を行うのだが、天使はただ浮遊するだけで行動する様子はなかった。
「やはり隠れているのか。臆病にしては無策だ。ク・ダン・クル・ガラーダが想定外だったのやもしれんか」
「偉大なアルマ様が拵えた天使ですから、それに恐れをなしたんでしょう」
「しかしこれでは目的が果たせないな」
「なに、ここは悪鬼悪霊の巣窟だ。行きずりに見つけ次第殺す機会もあるだろう」
天使に絶対の信頼を置く彼らは、神の使いに護衛をさせながら光の方へと向かった。
「これは……書庫か?」
通路の先に広がっていたのは、巨大な円柱状の部屋だった。
緑の微光を放つ魔法陣が描かれた円卓を中心にして、大量の本棚が聳えていた。
よく目を凝らしてみれば、天井が見えないほど高い書庫の壁には全て本が埋め込まれており、点々と燭台が配置された螺旋の階段が闇の向こうにまで伸びている。
ここが城の中か、また別の場所なのかは分からないが、ハズレを引いてしまったと思うレッコーたち。
円卓の側へ向かうが何も気配を感じない。ただ円卓に描かれた魔法陣から漂う魔力だけがこの部屋にあった。
部下が天使とともに周辺を警戒している中、レッコーは円卓の魔法陣に近付いてそっと手を伸ばす。
いったいどのような目的で放置された魔法陣かを調べようとしたとき、突然天使が大斧を構えた。
「…………~~♪」
微かに、輪唱のように天使たちが歌い出す。
男神アルマを讃えるその賛美歌は、魔を誅する者たちが捧げる神への祈りそのものだ。
聖典にも、ク・ダン・クル・ガラーダが歌うときは魔を滅ぼす福音とされている。
「……警戒しろ」
つまり、魔物が隠れているのは確かだ。
レッコーたちも神の雫を手にして周囲を見回す。
天使に頼ってはいるが、彼らはアーレンハイトの精鋭であり、カランドラの魔術師にも劣らぬ技量を持っている。神の雫によって増幅された魔術であれば、どれだけ強大な魔物であろうと一撃で葬れる。
天使はか細く歌っているが、相手を特定できていないようで不規則に浮遊するばかりで攻撃には動かない。
時間は刻々と過ぎていく。状況は動かない。
本当は気のせいじゃないかと思い始めた頃に、一体の天使が突如動き出した。
飢えた狼のように、感じた気配を辿って駆動音を掻き鳴らしながら飛翔する無貌の機械は、壁際の本棚の陰に向かって直上から襲いかかった。
他の天使に反応はなく、一体だけが暴走でもしたような行動だったが、それを使役する者は自分との繋がりに変化がないため、ただただ奇妙に思えた。
ク・ダン・クル・ガラーダが消えた暗闇から音はなく、再び姿を現す様子もない。
「どうだ」
レッコーが使役者に問う。
「いえ、わかりません。少しお待ちを……あれ?」
糸が千切れたような、自分と天使を繋ぐ魔力のパスが分断されたような感覚に部下は思わず疑問を漏らす。
だが、皆の視線の先にはゆっくりと頭を現したク・ダン・クル・ガラーダが見えていた。
陶磁器のような作り物の顔は、ゆっくり不自然に揺れていたかと思うと、徐々に上へと浮かんでいく。
本来あるはずの機械の体は首の下に存在せず、代わりに首を持ち上げているのは長い白骨の腕だった。
それは人間の骨のようだが、明らかに長さも関節の数も異常で、二メートルは持ち上げられているのに首を持つ手の本体は本棚から見えていなかった。
「っ、やれぇ!」
恐ろしく不気味な光景に呆然としていたが、すぐにレッコーが声を発し、それに合わせて皆が揃って神聖魔術を射出した。
神の雫によって詠唱を必要とせず解き放たれた高位の神聖魔術はいかなる死霊も塵へと変える力がある。
マジックスキル・聖《イン・ハの浄炎》
神の下僕、処女天使イン・ハの力を降ろした銀の炎は本棚に隠れた異形目掛けて迸る。
鮮やかに煌めく浄化の銀炎は擲槍のように鋭角な形状となって衝突し、激しい爆風を伴って周辺へと飛散した。
「征け! 神の尖兵よ!」
立ち込める煙が晴れるよりも早く、レッコーが自分の使役する天使を差し向ける。
天使は奇声のような音階のついた悲鳴を上げながら大斧を振りかぶって突撃していく。黒を白へと塗り替えるような神聖を付与された斧を退けられる魔物は存在しない。
全てが魔物を狩るための機能となっている天使が、
「~~♪ ~~♪ ……グゲッ」
容易く、長い腕に掴まれて、赤子の手を捻るように、首をへし折られて死ぬなど、あるわけがないのに。
「………ギ、ギギ、ガ、グギギギギギ」
突然響き渡る、喉を引き裂かれた人間の苦悶にも似た声。
銀の炎に照らされて、その怪物は本棚を守るように漆黒のマントを大きく広げて蹲り、天使をゆっくり握り潰しながら立ち上がる。
首が二つ。一つは骸。一つは少女。
ボロボロの黒いマントに吊るされた宝石たちが銀光を浴びてぎらついていた。
見えている下半身は、本数の多い肋骨と尾のような長い脊髄しかない。
マントの裾から伸びる腕は関節が二つほど多く、パーツが頭二つ分以上の骨によって構成されているのが見て取れる。
「なん……だ……」
「♪………♪……」
心臓が止まりそうなほどの恐怖が、生物から思考を奪う。
神をも恐れぬ所業の傑作に、天使でさえも慄く。
それは人であった。それは呪いであった。それは果てしない刻を経て、顕現した死の権化となった。
【エタニティカース】。
地下図書館の主。
バロニアの十七柱、その九を預かる死霊、バハラルカが壊れたような雑音と共に叫びを上げた。
「ギ、に、ににににんげんだあああギャギャギャギャギャギャギャギャ!!」
バハラルカの歓喜と共に吹き出した死の瘴気が聖なる炎を全て掻き消すと、辺りは再び暗くなった。
それに合わせて、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
生者の気配がしない半透明なナニカが、やってきた贄を歓迎するように嗤っている。
図書館に反響する狂気的な嘲笑の合唱は、天使の歌さえ飲み込んで恐怖を振り撒いた。
「な、なんだよこれ……なんなんだ!」
「あ、ああああああああ!!」
人間に耐えられる恐怖ではなかった。
死への恐怖すら生温い、根源から脅かす災禍の結晶を視認して天使までもが狂気に陥っていく。
個体保有スキル《バチカル・オブ・サタン》
個体保有スキル《アィーアツブス・オブ・リリス》
神に挑んだ愚かな研究者が生み出した神の冒涜は、遥か開闢の時より古き呪いへと至った。
あらゆるものをその怨念で焼き尽くし、どれほどの神聖であろうとも蝕み喰らう怪物は、その絶唱に意味をのせて聞く者全てに死を与える。
それゆえに、バハラルカだけが持つ個体保有スキル《バチカル・オブ・サタン》はあらゆる属性を無へと変える。
それが神聖でも、邪悪でも、なんであろうと全てが、バハラルカにとっては死の対象なのだ。
それは、原始的であるがゆえに、ク・ダン・クル・ガラーダと似た歌による魔力の操作であった。
「いざ来たれ、砂硝子の揺り籠! 魂の座にて須らく煌めく永劫の祈りは地に堕ちた! 我は死である! 生死の区別なく死を齎す! 死は常闇であり銷魂である! ああ、偉大なる父へと捧げん! これこそが命に肥えた沃土!」
意味不明な文字の羅列は、少女の顔から朗々と歌い上げられた。
《アィーアツブス・オブ・リリス》によって、恐怖より上位の状態異常である失心が付与されたレッコーたちは逃げも隠れもできない。
呼吸も忘れて目を縫い付けられたように見開き、これから起こる一部始終を硬直したまま見ていることしかできなかった。
神の雫を手にしながら、聖王国の尖兵にあるまじき姿だろう。
だが、命ある者が死を避けられないのと同じように、この死は避けることを許さないのだ。
「グアギギギギごご! 《アルカウンラムル》!!」
骸骨がその魔術の名を口にすると、変化は足元から現れた。
無数の目と無数の指が生えた銀河のように光る暗黒の泥が、床の隙間から溢れるように書庫を埋め尽くしていく。
不揃いの指は不揃いのまま手のような物体になると、レッコーたちの体を掴んで泥の中へと招き入れる。
ズブズブと、抵抗もできずバハラルカを見上げていたレッコーだったが、脳内だけは正常に動いてしまっていた。
この目が、指が、全て死霊によって飲み込まれた命の末路だとしたら、この泥に飲み込まれていく自分たちもその仲間になるのではないだろうか。
失心の効果は永続ではなく、恐怖よりも短い時間しか敵を拘束することはできない。
だが、その効果が切れる頃には、彼らは混沌の汚泥の底に沈んでいるだろう。
意思を持って盛り上がった泥が機械仕掛けの天使を取り込み、歯車の隙間に潜り込みながら煩い口に指を詰め込んでいくのが視界の端で見える。
飲み込まれていけばいくほど全身を這い回る指の感触を感じながら、レッコーはただただ思う。
――こんな最期なんて嫌だ、と。
亡霊の住む図書館に、静けさが取り戻される。
円卓の魔法陣が僅かな起動音を鳴らし、冷気の揺らぎが微かな風となって本棚を軋ませる音だけが聞こえている。
敵の姿は泥とともに沈んで消えゆき、図書館の主はゆらゆらと宙に浮いて辺りを見回していた。
長い腕が、振動で地面に落ちていた一冊の本を手に取ると、撫でるように埃を払う。
派手な炎や天使の攻撃はあったが、被害に遭ったのはこの一冊だけである。
バハラルカは、カロンの歴史が記されたその本を大切に胸に抱きしめてからそっと棚に戻し、宝石の煌めく漆黒の衣を翻すと闇の中へと姿を消すのであった。