7 商隊
ガラガラと、舗装されていない剥き出しの道を車輪が進む。
降り止まない小雨に煙る街道が延びる先は霊峰コルドロン。
これまでは聳え立つ岩山に阻まれて大陸中央に辿り着くことが不可能だったが、この度新しく拓かれたトンネルでついに繋がったのである。
大陸の中へと向かう一団はファザール王お抱えの商会ではなく、商機を求めて一世一代の勝負に出た若い商人のものだ。
二頭の老いた馬に二台のオンボロな幌馬車。手綱を握るのは商人とその妻である。
大手の商会であれば自前の兵団を使ったり国に兵を借り受けることが可能だが、弱小にも優遇してくれるほどサルタンは甘くない。
儲ければ立身出世に相応しい待遇が約束される。しかし落ちれば救う手も現れない国だ。
周りが新たな販路に足踏みをする中、この商人は意を決して挑むことにした。
とはいえ、やはり不安は付き纏う。
なにせ魔物の国だ。
罪無き者に仇はなさぬと国のお触れで聞いてはいても、全く違う文化にふらりと足を踏み入れて、生きて帰れるか実に怪しい。
その為、商人は街で出会った冒険者のパーティを雇うことにした。
「いやぁ、助かりました。今のサルタンは冒険者が殆どいないもので」
「いえいえ、こちらも渡りに船でしたから」
身なりをしっかり整えた三十手前の商人が馬車の上から話しかけると、並んで歩く獅子はにこやかに答えた。
ジルカの言うとおり、この商人から依頼を受けることができたのは渡りに船だった。
特に何も考えずサルタンを出ようとしたところ、現在エステルドバロニアへと続く街道を通行できるのはサルタンの住民と、それに付随する者だけと衛兵に告げられたのだ。
外から来た者たちが勝手気ままに歩き回れるほど両国の貿易は開いておらず、「商人の護衛とかなら通すが、殆どの奴らは使節団に同行している。今から行きたがる奴は少ないぞ」と言われてしまう。
そこに現れたこの商人は、間違いなくジルカたちにとって恩人なのである。
「本当なら冒険者の方々で賑わうと思っていたんですが、こんなことになるなんて思わなくて」
「そうでしょうね。ヴァーミリアも新しい国ができたと聞いて大騒ぎですよ。それも魔物の国だなんて」
「魔王の国とかじゃなければいいんですがね。なんでも、魔王の手先を倒してくれたらしいんですが」
「へえ?」
「それも信じていいか分かりません。ただ、私は妻のためにも成功しないと……」
「それでわざわざ危ないことをしてほしくはないのですけれど」
「だからってお前まで来ることはなかったんだぞ」
「一人残されるくらいなら、危険でもあなたの傍が一番です」
「お前……」
見つめ合ってイチャつきだす夫婦から離れたザルカは、馬車の後方にいる巨漢の狸の隣に並んだ。
「サザラは知ってたのかい?」
偶然酒場で知り合ったこの獣人に、ジルカはご執心であった。
フォルファはともかく、オーグノルとリコットは以前から行動を共にする仲間であるはずだが、東のカムヒを思わせる装束の狸が同行すると決まってからやけに近付いている。
散々紗々羅は、軽薄で胡散臭く見えるジルカを探るようなこともなく、「あー」と適当な声を漏らす。
「儂も流れ者だから詳しく知らんが、浅くしか聞いておらんよ。だとしても眉唾な話だ」
「そうかぁ。僕は本当だと思うけどね」
「おいおい兄さん、噂に聞いただけでも突拍子もねえ話をよう本気にできるな」
「そうかな? 噂だとしても、商人王なら自分の不利益を放っておいたりしないよ。彼は商才で成り上がった人間だからね」
ファザール・ナトラクは今でこそ一国の王だが、元はただの商人だ。
大陸を追われて難民同然の暮らしをしていたサルタンの民を纏めて復興を果たした手腕は、黄金王ザルバも口にはしないが認めているとジルカは知っている。
清濁併せ呑む男が、無作為に根拠のない話を国に広めるはずがないと確信している口ぶりに、紗々羅は尖った鼻をフンと鳴らす。
「ま、儂には興味がないからダラダラ話す気もないんだがな。魔物の国っつうもんがどんなもんか見れりゃあなんでもいいわ」
「そう言えば聞き忘れてたけど、君はどこから何をしに来たんだい?」
東の和装。狸の獣人。どれもヴァーミリアでは見ることがない。
紗々羅は淀みなく答えてみせる。
「そりゃあ東からに決まっておろうが」
「カムヒはサルタンと交易がないけど?」
「国になくとも民にはあるもんよ。蛇の道は蛇と言うだろう? その筋にはそれを生業にしてる奴が幾らでも見つかる。まさか、あんたそっちには疎いのかい?」
「聞きかじってる程度だからね。普通に生きてて詳しくなるものじゃないよ」
「随分穏やかなもんだな。どうりで血生臭さがないわけだ」
「ははっ。荒事は彼らの仕事だから」
後列のフォルファたちに視線を向けると、彼らは揃って不満気な顔をしている。
ジルカが素性も分からない狸にご執心なことが気に食わないと、はっきり顔に表れていた。
「仲間ってわりには、えらく信頼感がねえな」
「冒険者なんてそんなものだよ。それでも彼らは僕を助けてくれる大切な仲間さ」
「はあ。儂にゃあとんと縁のないことだが、そんなものとは思わねえがな」
「それより、カムヒのことを聞かせてくれないかな。ヴァーミリアじゃ珍しいからさ」
「お断りだね。希望に満ちた生き方はしてねえもんでな。思い出したくない記憶に触れる気はねえよ。そういう兄さんも、順風満帆な人生送ってるようには見えねえぜ?」
「そう見える?」
「少なくとも、まともな冒険者は利害で繋がる奴だけと長々旅はしねえんじゃねえのか?」
「それこそ、人それぞれだよ」
探られても、ジルカは何も変わらない。
言葉の抑揚も変わらず表情に変化もない。
逆に紗々羅のほうが訝しげに口元を歪めた。
「あ、見えてきましたよ!」
商人の男が興奮した様子で指を差した先には、断崖の霊峰に開いた巨大な穴が見えた。
遙か先に小さく見える光は、確かにコルドロンを一直線に貫いている証である。
左右に建てられた簡素な関所にはサルタンの兵が配備されており、武器を携えて鋭く周囲に目を向けていた。
当然小さな商隊はすぐに見つかり、獣人の冒険者の姿を確認して警戒を高めたのが遠目でも感じ取れる。
ジルカは笑顔を絶やさぬまま、長い金のたてがみの中に手を入れてカリカリと頭を搔く。
商人は大丈夫というが、あまり穏やかには見えなかった
「止まれ!」
トンネルの前で進路を塞いだ兵士が声を張り上げた。
「通行証、もしくはサルタンでの営業許可証はあるか」
「はい。こちらに」
商人はすぐに懐から厚い紙を取り出して兵士に見せた。
サルタンの紋章が押印された紙を、兵士は手にとって検める。
本物であることを確認して、兵士は周りを囲んでいた部下に下がるよう指示を出し、ジルカたちを見て僅かに嫌悪を見せた。
「ファザール王の命令で許可されているが、とにかく問題は起こすなよ」
「は、はあ……いや、大丈夫なつもりですが……」
「……通っていいぞ」
商人の手綱が馬を打ち、馬脚の歩みに合わせて止まっていた車輪は動き出す。
兵士の無遠慮な視線にそれぞれの感情を湧かせながら、一行は巨大なトンネルの中へと進んだ。
「感じ悪ー。あいつら、これまで私たち冒険者の世話になってたくせに手のひら返して冷たい態度って。怒ってもいいとこじゃないの?」
巨人もすれ違えそうなほど広い坑内に不満気なリコットの声が響き、フォルファとオーグノルは眉を顰めるが、内心は似たような思いを持っている。
「それに、ジルカ様はあのたぬき親父に付きっきりだし……なんであんな怪しいやつ……」
次の声は密やかに呟かれたため、前列の二人には聞こえなかった。
「ねぇ、アンタから言ってよ」
「拙は卿にとって部外者であるが」
「警戒してんでしょ。アンタじゃなくたって見りゃ分かるよ」
「……」
仲良さげに――というよりジルカが一方的に話しかけている様子は、警戒するに足る何かを感じない。
だが、酒場であの時感じた強烈な何かは、気のせいじゃないはずだとフォルファは思っていた。
「このタイミングでカムヒから密入国? そんな都合のいいことあるわけないじゃん。あいつ……絶対アンタみたいな立場のヤツだよ」
それはカムヒの諜報機関、もしくはそれに類する立場の獣人の可能性。
東の列島国カムヒは人間と獣人、亜人が共生していると聞く。
力によって頭角と共に名も上がるのが冒険者である。相応の活躍があれば異国であろうと取り立てられるのも冒険者である。
練達者の覇気がある狸に、カムヒの息がかかっていないはずがない。
その辺りをジルカは考えているのか、聞いてもはぐらかされてしまうので誰も知らない。
ただ、リコットの言葉が女の情念から湧いていることだけはフォルファには感じ取れていた。
そんなチグハグな一行だったが、エステルドバロニアに向かう五日の道程でそれなりに噛み合うようになっていった。
初日こそ紗々羅に付きっきりだったジルカだが、他の日は仲間たちとも会話をするようになり、夜はリコットとテントの中で色々と勤しんだりもするようになった。
その結果、エステルドバロニアに着く頃には、夜に二つのテントから聞こえてくる微かな嬌声に気まずくなった余り物たちの絆が少しだけ深まり、そこそこ会話をするようになっていた。
揉めることはなく、かといって慣れ合いすぎることもない。
ほんの一時の道連れらしく、相応の距離感を弁えたまま、一行はついに魔物の国へと辿り着くのだった。
「これは……」
フォルファの声には畏怖と感嘆が入り混じった驚愕が込められており、短い言葉ながらも巨大な外郭の壁を見た皆の気持ちを代弁していた。
これまで豪華さはヴァーミリア、美しさはアーレンハイトと言われてきたが、この国はそのどちらも上回る。
おどろおどろしい魔境を想像していた面々には、純白の輝きがとても眩しく映っている。
壁の外周には集落のようなものが広がっているが、よほど空き家ができたのか、慌ただしく解体作業が行われていた。
言葉も出ない商人は、無意識に馬車を進めて壁の側を目指す。
田舎から初めて都会に来たように、キョロキョロと周囲を見回せば、動いているのはすべて魔物だ。
筋骨隆々のハーピーや、バラの咲いたドリアード。羊のような毛の大猿だったり、蝦蟇口の巨人と、まるで見たこともない姿の魔物たちが精力的に働いていた。
「いや、これは予想外だ。父が見たら大興奮間違い無しだね」
「……良い意味でも、悪い意味でも、あの方は喜ぶだろう」
外観を眺めるだけでも分かってしまう。
天に浮かぶ円環を貫く塔の麓を囲む巨大な壁の、その裾にある国への献身。
どれ一つを切り取っても、異様な感性を感じさせられるものだった。
殆ど無意識に壁の側に辿り着いてしまった一行は、汚れ一つない鮮やかな白にまた口が開いてしまう。
近付いて分かったことだが、壁にはヤモリや虫、鳥の姿をした魔物が集まって一所懸命に磨いているのがそこかしこに見えた。
魔術で水をかける魔女。足場を組むオーク。そこでブラシをかけるドワーフとゴブリン。
それを離れて眺めながら指示をする妖狐の獣人が、商隊に気付いてゆっくりと近づいてきた。
巡る視線が紗々羅へと向いた時、顔が僅かに苦々しいものになるがすぐに笑顔を繕った。
「迷子かな?」
妖狐は、腕だけが獣の形をした白髪の美女だった。
漆黒の着物を着崩した艶めかしい格好に男たちは視線を奪われ、商人は妻に脇腹を抓られてビクンと跳ねた。
「そう身構えないでくれよ。ねえ梟さん? そっちから踏み込んできたのに、そんな態度取られると僕は悲しくなっちゃうなぁ」
「……それは失敬。卿があまりにも……あまりにも混沌としていたので」
強く雌を意識させる姿と振る舞いに誤魔化されてしまいそうだが、押し込められた禍々しさの片鱗
を微かにでも感じさせる妖狐に警戒しないわけがない。
それは実に冒険者らしいのだが、自ら虎穴に入って虎に身構えるのはむしろ恥ではないかと、妖狐――梔子姫はせせら笑った。
「まあ、そんな話はいいじゃないか。それで、ここに何の用かな? 街の入り口は向こうだけれど?」
「あ、あっ。すみません! 綺麗な城壁だったのでつい見惚れてしまって……」
「そうかい!?」
商人の言葉に、梔子姫は目を爛々と輝かせて身を乗り出し、妖艶な雰囲気をかなぐり捨てて喜色を露わにした。
「ふっふっふ、そうだろうそうだろう! なにせ僕たちが毎日綺麗にしているからね! 補修も掃除も完璧だから綺麗で当然なのさ! 他の連中はそのありがたみを全然理解しないんだが……人間、君はなかなか見どころがある奴だね!」
「おいおい……」
仕事を誉められたのが余程嬉しかったようで、行き過ぎた干渉に紗々羅が小さく不満を零す。
しかし梔子姫は止まらない。
「城壁をこんなに丁寧に管理しているなんて、とても素晴らしいことだと思いますよ」
「え~? そうかぁい? さすが商人は口が上手くて困るなぁ。よし! それじゃあ僕が街の中にまで案内してあげよう。僕が居れば面倒な手続きとかも飛ばせられるからね。それで恩返しにさせてもらおうじゃないか」
「いいんですか!? ありがとうございます!」
上機嫌な梔子姫は視線で紗々羅に合図を送ると、そのまま外郭の西門へと歩き出した。
背を追って進み出した馬車に並んで歩くジルカは、後ろにいた紗々羅に小声で話しかける。
「城壁をあんなに念入りに清掃するなんて、普通じゃないよね?」
「そういう国なんだろうよ」
「……城壁の保全にこんなに人員を割いてるんだよ? 本来襲撃に備えておくための物を文化財のように扱うなんて普通じゃないと思うけどなぁ」
「儂らの常識が通じる国じゃねえってのは、この光景だけで説明付くぜ?」
尖った鼻先でしゃくるように示した場所には、汚れた作業着姿のビッグフットたちが蛸の魔獣から差し入れを受け取る様子だった。
右も左もジルカたちの知る知識では到底及ばないものならば、その知識が及ばない思考があっても不思議ではない。
少し興奮していたことを自覚したジルカは、大きく深呼吸をしてから「そうだね」とぽつりと呟き、弱々しい笑みを浮かべて紗々羅の傍を離れ、黙して馬車の隣を歩いた。
梔子姫が宣言した通り、壁と同じくらい巨大な門を潜るのに苦労はなかった。
サルタンの商人である証明書を提示しただけで、門番のガーゴイルと問答することなく、すんなりと街に足を踏み入る。
そこに広がっていたのは、魔物の楽園だった。
多種多様な魔物の往来だけでも目を見張るものがある。構造こそ様々だが、家々は緻密な計画に基づいて美しく揃えて並べられている。聳え立つ三本の塔は外郭の壁よりも美しく輝き心を奪われる。
これがエステルドバロニア。
この世界に突如現れたという魔物の国。
ただの冒険者であったなら、きっと素直に喜べただろう。
だが、ヴァーミリアの王直属の冒険者であるフォルファには、その全てが脅威にしか映らなかった。
「わー! すごいすごい! これが魔物の国なんだぁ。ねえジルカ様! ちょっと見てきてもいいですか!?」
「いいよ。でも満足したらちゃんと戻ってくるようにね」
興奮したリコットはジルカの許可を得ると同時に走り去っていき、そのまま往来の中へと姿を消した。
「オーグノルはどうする? 連絡は魔術でできるし、気になるなら君も見てくるといいよ」
「……なら、そうさせてもらう。ここまで来れば問題も起こらないだろうしな」
寡黙なオーグノルもこの街には興味を引かれていたらしく、ドスドスと鈍足の象も往来へと消えていく。
残された商人夫婦とジルカ、フォルファ、紗々羅の五人は、まだ近くにいる梔子姫に目を向けた。
「ありがとうございました。何かお礼でも……」
「君は律儀な人間だね。でも必要ないよ。一期一会の縁に拘ろうとするのは分かるけど、僕は君たちに利益を齎すことはない。ただの気まぐれをしただけで、二度と会うこともない。だから、気にしないでくれたまえ。ああ、換金はもう出来ると思うから、あの城を囲む壁の近くにある大使館を目指すといい」
ひらひらと手を振る梔子姫に背を向けて、何度も会釈する商人夫婦が獣人を連れて遠ざかっていく。
それを見送った梔子姫は、にんまりと妖しい笑みを浮かべてから外郭の中へと姿を消した。
「なんというか……まるで夢物語のようだよ。魔物と、亜人と、獣人が、こんな和気藹々と共存しているなんて」
「亜人も獣人も魔物扱いってことかね」
「どうかな。アルマ正教は僕らも魔物に定義しているし、アーゼライ教も時代でコロコロ変わるから」
「ふぅん」
「見たこともない魔物が沢山……虫に魚に、言葉にしづらい人もいますね」
商人の妻が見つめる先には、ムカデのように手足が乱雑についた胴を蠢かせる人型の魔物がいた。
眉を顰めたくなる姿をした化け物が平然と往来に交じり、どころか店先で果物を買いながら店員のエルフと談笑をする様子は、この国を表すのに最も適した光景だった。
天国と呼ぶにはあまりに禍々しく、地獄と呼ぶには幸福に満ち溢れ過ぎている。
加えて、工業通りと呼ばれる東の大通り沿いには多くの工房が立ち並んでおり、店先に飾られている見覚えのない武具や調度品の数々はヴァーミリアの技術でも作るのが難しそうなものばかりだった。
おっかなびっくり進む馬車は周囲の視線を集めており、商人の妻は自分が獲物になったかのような錯覚に怯えて夫の腕に縋り付いているが、商人は目をぎらつかせて儲けられそうな品を定めていた。
ジルカも、紗々羅とフォルファに途切れることなく話しかけながら周囲の様子とエステルドバロニアの技術を脳に刻み付けていく。
商品の種類、付けられた値段、知らない文字の羅列、魔物の種類。視界から手に入れた情報を素早く整理しながらも決して素振りに表さない。
会話をしながら自然に視線を巡らせつつ行われるこの術は、期待されない子として生きてきたジルカにとっては朝飯前だ。
そして、情報を手にすればするほど淀んだ心の奥底から泡のように浮き上がる暗い感情が表層に出ようとして、獣の手で鬣を掻き上げて誤魔化した。
「なあ、兄さんよぉ」
「ん? どうしたんだい?」
何気ない声色の紗々羅に、ジルカは反射で問い返す。
背を向ける狸の顔は見えない。
「面倒事は御免だぜ」
それが、何に対して言っているのか一瞬考えてしまう。
何かに勘付いたのか、オーグノルと同じ凡庸的な意味なのか。見られていなくとも、ジルカの表情は変わらない。
美しい黄金の獅子らしく、陽射しのような笑みを浮かべて軽く笑った。
「勿論だよ。僕はね」
◆
エステルドバロニア王城に滞在して三日。
スコラはとても有意義な生活を送っていた。
衣食住は完璧に整えられており、何をするにも最高級なもてなしで世話をしてもらえる。
そのうち歩くことすら世話してもらえるのではないかと思うほどの待遇はサルタンでも、帝国ですらも受けたことがなかったため、今後も最高級が与えられては脳が溶けてしまいそうだと思っていた。
それは他の国の者たちも同じのようで、特にディルアーゼルの神官長は職務を忘れかけている節があるくらいだらけている。
気持ちは分からなくもない。
今回の訪国の主な目的は、国民同士の交流機会を増やす切っ掛けになることだ。
アルア・セレスタは別として、どの国の貴賓もカロンとは面識があり、一定以上の信用もあるので改めて仲を深める必要性がカロン側にはない。
街を歩き回る許可が出るのは明日からとメイドから聞いているので、それまでは皆過剰な接待に蕩けているしかないのだ。
しかし、エステルドバロニアで預かることが確定しているスコラだけはすこし違う。
ご機嫌で鼻歌を歌いながら城の廊下を歩いているスコラだが、その格好はひどく汚れていた。
「ふふふっ、さすが陛下の従える方々ですわ。こんなに気持ちいいことを教えてくださるなんて……はぁっ、久しぶりに堪能させていただけた感謝を申し上げなければなりません……」
熱に浮かされるように、ふらつきながら自分を抱きしめるようにして味わった痛みを確かめる。
よくよく見れば顔には痣があり、手には幾つもの傷があった。
それは明らかな戦闘の痕。
にもかかわらず、スコラは歳相応の笑顔で喜んでいた。
決してスコラにそういう趣味があるわけではない――いや、カロンが万が一にも望めばその限りではないが。
彼女の喜びは、帝国最強の力を与えられた代償のような、厄介な性質を満たすものだったからである。
フンフンと小鳥の囀りのような鼻歌は、皮膚の焼け爛れた牛鬼や鼠と蛙と山羊が混ざったようなのとすれ違っても止むことはなく、小さく会釈までしてみせた。
勇者の血が引き起こす衝動とは無縁なスコラは、他の勇者と違って満たされれば魔物に何を思うこともない。
だが、他はどうか。
随分と頭のネジが抜けているミラはともかく、箱入り娘のアルアは。
「……あら?」
噂をすれば、スコラの歩く廊下の向こうからやってくる花弁の姫君の姿が見えた。
上機嫌なスコラとは違い、アルアは憔悴しているようであった。
僅か数日の滞在で、素晴らしい歓待をうけていて、どこに疲弊する理由があるのか。
花の香り漂うシニョンはボサボサと髪が飛び出ており、目の下には隈が浮き出ていた。
王族らしく飾り立てていたのに、今では枯れかけの花のようである。
何がアルアを蝕んでいるのか。
スコラには、手に取るように分かっていた。
「ご機嫌ようアルア・セレスタ。随分なお姿ね」
「……貴女も、酷い格好ですね」
「私は自ら望んでの結果ですので、抑制の利かない声に振り回される貴女とは違うのよ」
アルアの丸まった背中が怯えたように震えた。
それを見て、スコラは笑みを妖しいものへと変える。
「悲しいものね。ミラ・サイファーのように箍を外してしまえば楽になるのに。ふふ、でもそうよね。私たちにとって、ここは絶好の屠殺場で、あの方は最高の宝石だもの」
それは聞く者によってはエステルドバロニアに対する冒涜に受け取れる言葉だが、アルアには全く別の意味に聞こえている。
同じ勇者であるはずのスコラが生き生きとしているのが憎いとすら思っていた。
「この国は毒です……」
アルアがぽつりと零す。
「私たちにとっても、この世界にとっても、この国は混乱を齎すものでしかない。どれだけ彼らに善性があっても魔物は魔物に変わりない。討つべきと血のざわめきが止まらない。なにより――」
思い出すのは、初めて顔を合わせた時のこと。
どこか哀愁のある凛々しい顔。仄かに優しさを感じる低い声。魔力を微塵も持たない伽藍堂のような体。
王族としても貴族としても、美男子なんて腐るほど見てきたのに、どうしてこんなにも――。
「スコラ・アイアンベイル……貴女は何を知っているのですか」
「お答えいたしかねますわ、アルア・セレスタ。だって貴女は陛下の敵でしょう?」
その陛下が人類の敵となりえるだろうとは、言えなかった。
カロンが人類と協調路線で進めていることはアルアも感じ取ってはいる。
武力の面や魔物への忌避感を除けば、侵略で領土を広げることはなく外交という真っ当な手段を取っているのだから。
しかし、そのカロンに抱いてしまうこの感情は、魔物以上に受け入れられない。
スコラの口ぶりでは勇者に関係するのだろうが、もしそれが事実なら大きな波乱を引き起こすのは必定。
世界を救うなら、何よりも早くカロンを弑する必要がある。
もしくは人目に触れぬよう世俗から切り離された何処かで暮らせば丸く収まるはずだ。
それなら、私が――
「っ!」
乱暴な動きで髪を掴むと、花弁が床にひらひらと散り落ちた。
ニコニコしながら黙っているスコラにこれ以上答える気がないと知り、穏やかさが見る影もない鋭い目で睨みつけてから、アルアは胸元に揺れるロザリオを握り締めて踵を返し去っていった。
「あら、嫌ですわね。ああいう自分勝手な女は見てられないわ。どれだけ私が陛下に尽くしているかよく分かるのではなくて?」
実に爽快な気分だと、スコラは喉を鳴らして笑いを堪える。
全てを捨てて身一つで尽くす覚悟がないからあんなに無様になるのだ。
ミラですら自分の出自と歴史に縛られて崩れかけの国から離れることもできないでいる。
そう考えると、初めて出会った時すでに決意した自分はやはり良い女であると、スコラは一人勝手に確信した。
「満足いくまで苦しんでくださいな。私を立てるために、“花冠”の名に恥じぬ最期を迎えていただきますので。うふ、うふふふ」
広い廊下の真ん中で、どす黒い感情を剥き出しで笑うスコラ・アイアンベイル。
彼女たちのやり取りを遠巻きに見ていた雄の魔物たちが、女性恐怖症になったとは露知らず。