3 隠神
こんなに早く更新すると思ってなかった人九割はいる気がする。
そこは、まるで星海だった。
数多の小さな輝きが砂を撒いたように黒き紺青の空を彩り、足元に広がる宵闇のビロードは果てを感じさせぬほど彼方へと伸びている。
宇宙の中に放り出されているようで、そこにはしっかりと地があり、足がつく。
瞬き漂う光たちは、からかうように周囲を旋回してから、中心にて座する神獣が動いたことに驚いて散り散りに飛び去った。
神獣はヒトのカタチによく似ていた。
二足で立ち、物を掴む手を持ち、顔は顎を引いている。
大木のようなずんぐりとした胴に、猛々しく筋肉の隆起した少々短めな四肢。
しかし全身は黒と灰褐色の毛で覆われており、口鼻は狼のように突き出て白髭に覆われている。
グルルと喉を鳴らした神獣は丸みのある三角の耳をピンと立てて、世界を飲み込むような唸りの音に負けない快活な声で喜色を零した。
「ははぁ。ようやっとかい」
にんまりと耳下まで伸びる口の端を持ち上げて笑うと、放り捨ててあった四本の柱を乱暴に掴んで肩に担ぎ、長い白眉を撫でながらぐりぐりと首を回して安堵を吐いた。
「ルシュカの嬢ちゃんも心配症だ。そうそう歯向かうものなどおるまいってのによ。ま、危機に備えんのは至極真っ当か。しかし退屈であったなぁ。誰ぞは向かってくるかと思ったが、なかなかどうして忠義に厚い奴らよなぁ」
「当然でしょう。我らはあの御方を愛しているのだから」
神獣は天高くから響いた穏やかな女の声に顔を上げた。
ゆっくりと降下してきたのは、猛る焔を纏った六枚の羽を持つ天使だった。
こめかみから生えた二つは目を覆い、腰から生えた二つは足を隠し、背から生えた二つで飛翔する天使は神獣の前に降り立つ。
その神々しさは只者では目を焼かれてしまうほどに眩く、その存在感は常人では魂を焦がすほどに尊い。
決して人と同じ地に立つことのない天上の存在。
純白の法衣を身に付けたランク10の天使種【セラフィム】は、抑え切れぬ主への賞賛を広げた両手で表した。
「偉大なる創造主様の元へお帰りになられるのですか?」
「おうよ。そろそろ戻れってお達しが来てなぁ」
「それは寂しくなります」
「誰も姿を見せんで、よくもいけしゃあしゃあと」
「我らは創造主様のための生命体でありシステムでございます。たとえ東洋の神獣であろうと、主への祈りを止めて相手をする道理はありませんから」
在り方の違いに頭を押さえる神獣。
とはいえ、よほどのことがなければ此処から解き放たれることはないし、自ら出ようともしないので、この面倒臭さは一時であると髭を指で巻きながら我慢することにした。
「で? そのシステムがなんだって儂の前に出てきたんかね。祈りを止める道理はねえんだろう?」
「ええ、それなんですけれども」
熾天使は空に向かって手招きをした。
その手に誘われて来たのは鎧姿の天使【プリンシパリティ】だ。
四体の権天使は手に大きな光の玉を神獣の前に差し出し、魔力を流して映像を映し出す。
そこにはエノクの文字が書き連ねられているが、あいにく東洋の神では見せられても全く読めない。
「……なんだこりゃ」
「いわゆる、プログラムというものです。我らの行動原理や記録が記されており、様々な外部情報もここに記されます」
「んなことどうでもいいわい。何が書いてあるんだって聞いとる」
「ああ、実はですね……この世界の神と思わしき者から、干渉を受けたことがあるのです」
「はあ?」
「詳しいことは我らも把握できていないのですが、恐らくは我らの存在を認識して接触を図っているのでしょう。侵食などは確認されず、攻性のプロテクトによって幾度も迎撃していますが手応えはありません。【シヴァ】神や【ロキ】などを用いれば所在を明らかにして消滅させられるやもしれませんが、さすがに創造主様のご許可無く最高神を動かすことは出来ませんし、アラートも急を要する反応を示していないため現状を維持しています。我らに影響を及ぼしてはおらず、相手も消極的な干渉に留まっているので問題はありませんが、強行手段を取って来られた時のために事前の許可を――」
「ええい、待て待て! 聞いたのは儂だが、そんな訳のわからん話をされても伝えられんぞ!」
ガア、と大口を開けて吼えた神獣の様子に熾天使はピタリと止まると、暫しの間を置いてから再起動するように動き出した。
「では、これだけを頼みましょう。異界の神への対処を願うとお伝えください」
「そんなに長ったらしい話なら、通信魔術で伝えればよかろうが」
「ああっ、そんな恐れ多い。偉大なる創造主様と繋がるなど……我らは創造主様の偏在、全知、全能を賛美し、祈る者でしかありません」
天使は自我こそあるが自己を持たない。
命令に従う機能を搭載し、統合された意思で行動をする、謂わば自律兵器だ。
だから、ここに幽閉されているのだろう。
星の彼方、空の最果てを具現するこの“天空連環”に。
「それでは、さようなら【隠神刑部】」
熾天使にそう呼ばれて、神獣へと至った狸の化生は狼のように笑い、牙を剥いた。
「無粋な名で呼ばんでくれよ天使様。儂にゃあ立派な――散々紗々羅っちゅう名前を賜っておるのだ」
◆
色々と問題のあった外出から一夜明けて、カロンは再び街へと繰り出していた。
暇だからとか、楽しかったからとか、断じてそういう理由だけではない。
街を自ら視察するのは有意義であるし、そこから考えられるものもあるかもしれないのだ。
とにかく今のカロンは、医者に診察をしてもらい胃痛を治すまでは仕事厳禁である。
なので、遊んでいるように見せかけながら今出来ることをしている、と自分には言い聞かせていた。
ただ今出来ることをしているのは事実である。
それは、団長たちとの交流だ。
国内での活動を主に行う者たちとの交流は自然と多くなるが、四方守護や海域、空域の守護者とはどうしても関わりが薄い。
中にはまだ一度も顔を合わせていない者もいるため、カロンはこの休暇を彼らのために使おうと決めたのである。
「やっぱり鮫肌拉麺店は海鮮塩だね! ほらほらカロン、味見してみたまえよ!」
「女狐は何も分かっておらんな。ここは焼肉味噌が至高! これこそ漢のラーメンでござる! ささ、主殿」
「クソザコ味覚さんたちは黙っててくれませんか!? 鮫ラーといったらゴマ豆乳担々麺でしょう! 激かわな私が言うんだから間違いないですよカロン様!」
(俺、冷やし中華食べたくてラーメン屋に来てるんだけどなぁ……)
非番だからという理由で同行させたのは失敗だったらしい。
ルシュカにおすすめしてもらったラーメン屋で、先に届いた自分のラーメンを丼ごと差し出してくる三人に、黒フード姿のカロンは苦笑だけを返した。
昨日の一件で必死に自分を隠すのはむしろ恥ずかしいことになると学び、名前を呼ばれるのは観念したカロンだが、それは別に目立ってもいいと思っているわけではない。
しかし同行してくれた五郎兵衛、梔子姫、フィルミリアにそんな気遣いがあるはずもなく、四人掛けのテーブルでぶつかり合うように大声で話しかけてくる度に、周囲の視線はいやでも集まってしまう。
顔にも口にも出さないが、カロンの中には相当な後悔が積もっていた。
「それはまた別の機会に自分で頼むから、私のことは気にせず食べてくれ」
「そう? まぁ、カロンがそういうなら……」
「では、是非次訪れたならば焼肉味噌をお試しくだされ!」
「まったく。肉が入ってて味が濃ければ美味しいと思っているから困りますね!」
「はぁぁぁああ!? 貴様も人のこと言えんだろうが!」
「ふふーん! このスープのバランスを理解できないとは、全然私の可愛さには及びませんね!」
「ふっ、拙者とて閨の中ではなかなかに可愛げがあると評判でなぁ」
「ぎゃー! 食事中に汚い話をしないでもらえませんかね!」
「どっちも似たりよったりじゃないか。味噌に担々麺? 脳まで筋肉だからそんな濃い味が好きなんだよ」
「言ったな梔子ぃ……!」
「塩だって味濃いじゃないですか!」
(そもそもラーメン屋で味の濃さ語るのが間違いだと思うんだけど)
しかし、いつまでも騒がせておくわけにはいかない。
カロンがコホンと咳払いをすれば、それだけで三人は睨み合いを止めた。
「迷惑をかけるな」
穏やかではあったが、その声色から怒りを感じ取った三人は真一文字に口を閉じてコクコクと頷いた。
ようやく静かになったと一息ついて、カロンは慎ましやかに麺を啜り始めた三人を眺める。
正面で、大きな獣の腕を器用に使いながら、専用の箸で食事をする梔子姫。
その隣に、自分を高貴と言うだけあって、とても綺麗に食べ進めるフィルミリア。
そして自分の右には、言動に難はあるが作法は備わっているらしい五郎兵衛。
白髪の着物美女に、ゴスロリ美少女に、いぶし銀な和装の鬼。
容姿から何から全て自分が丹精込めて作った作品であり、長い年月を共に過ごしてきた大切な仲間だ。
こんな日々だけが続いてくれたならどれほど幸せだろうか。
今の自分は、その為に奔走していると言っても過言ではないのかもしれない。
「な、なんだいカロン。そんなに見つめて……なにか付いていたかい?」
「いや、気にするな。それにしても、なかなか来ないな」
「ああ、確かに。店主の【ブレイバートゥース】は職人気質だから、こんなに待たせるなんて嫌う奴なんだけど……ちょっと聞いてこようか?」
「お待たせしやしたーー!」
話を遮って店中に響いた厳つい声。
ずんずんと床を軋ませてやって来た二足歩行の鮫は、水掻きのある手に持った巨大などんぶりをテーブルのど真ん中に置いた。
どう考えても一人前には見えないし、どう見ても普通の冷やし中華ではない。
麺が見えないくらい乗せられた高級食材の数々。中には頭から突き刺さった鯛が丸々一匹入っているのが、伊勢海老の合間から見えていたりする。
「……店主、これは頼んだ、か?」
注文したのは冷やし中華のはずだったが、もうもうと立ち上る湯気はどうみても冷えてない。
「がはは! いやぁ、すいやせんお客様。ちょっと腕がこう、鳴りましてね! まあ貴方様がどんな御方か全然知らないんですがね? あ、お代は結構でございますよ。やー、ほんとたまたま。たまたま! なんか最高の一杯ってもんを作りたくなっただけですから! ささ、どうぞお召しになってくださいやせ!」
カロンは静かに瞑目する。
なるほど、こういうことが起きてしまうのか。
人気者は辛いな、と冗談っぽく心で呟いてから周りに座る三人を見る。
「ま、任せてくれよカロン……なんたって僕たちは魔物だからね! 手伝うのなんて全然……全然……」
「うへへ、まさかの間接キスし放題とかどんなご褒美ですか。これだけでご飯三杯いけますよ!」
「ここは主殿に拙者の漢をお見せする時か! 腕が、いや、腹が鳴りますな!」
「……」
やはり、面子を間違えた気しかしない。
同時に、どれだけルシュカに頼り切りだったかも実感させられた。
「ありがとう店主。ただ、これは今回限りにしてくれ。普段出す食事も、私は楽しみにしているのだから」
カロンの言葉に、鮫の魚人はほろりと流れた涙をヒレの付いた腕で拭い、カロンに向かって一度拝んでから厨房へと消えた。
「……」
五人前以上あるだろうか。見たことのないサイズの器の中から溢れた具材が食欲を減衰させてくる。
いいや、こちらには三人の強力な魔物がいるのだから、きっと大丈夫――
「げふっ……」
「もう食えぬ……」
「うっぷ……私、輝いてますか……?」
「チカチカしてるのが君ならね……」
大丈夫だった。
が、被害は甚大だった。
戦争でもここ最近見ないほどのダメージを負った団長たちと綺麗に空になった丼を見て、カロンは重い腹を押さえながらやり切った達成感を感じながら、休みになってから気が抜けていることを自覚する。
普段ならもっと必死に回避しようとするはずなのに、居心地の良さが原因なのか、警戒心が薄れている気がした。
早く仕事に戻らないと、今までの反動でどんどんダラケてしまいそうで怖いとすら感じた。
「はぁぁ……」
なにはともあれ、お腹が苦しい。
しかしいつまでもここに留まるのは店に迷惑をかけてしまいそうなので、のそのそと立ち上がってフードを直し、店主の方へと体を向けた。
「ご馳走様。美味しかったよ」
ほら、とまだ突っ伏している三人に声をかけて立たせている間に、店主は大慌てでカロンの前へと移動し、鋭い歯をカチカチ鳴らして物言いたげにしている。
うまく紡げない言葉に代わって出てきたのは、大きな水かきの付いた手だった。
呻いていた梔子姫が咄嗟にカロンを守ろうと爪を構えようとするが、カロンはその手の上から手を重ねて止めると、大きな鮫の頭を見つめる。
紛うことなき怪物だ。
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出すほどには恐ろしい外見をしている。
そんな鮫を見ながら、カロンは自分の手を差し出してゆっくりと大きな掌を握った。
「あっ……ああ……! なんという……こんな幸運があってよいものか……!」
それは粘液で少しぬめりがあり、ザラザラした肌の感触が手に刺さった。
だが、温かさを感じられた。
感涙する店主は両手でカロンの手を優しく握り、しかし決して離したくないと鮫肌で抵抗をしている。
これまで沈黙を保っていた他の客たちも釣られて泣き出す始末。
混沌としてきた場だが、悪くなかった。
悪くないと、思えるようになれていた。
それが正体不明の与えられた感情なんかじゃないと、確かな心で考えられた。
 
「また来るよ」
ラーメン屋を出ると、野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように走り去っていくのが見えた。
よくよく周囲を窺えば、日常を演じながらも遠慮がちに視線を向けられているのが分かる。
あれだけ騒がしくしていれば注目を集めるのも仕方がないだろうとカロンは思ったが、人々の視線はカロンの後ろから現れた梔子姫たちに向いており、食べ過ぎて少し膨らんだ腹を見てヒソヒソと話し始めた。
「おいおいまじか。ラーメン屋でご懐妊したのか?」
「そんなわけないでしょ。五郎兵衛様もおんなじなんだから食べ過ぎたのよ」
「か、カロン様が団長方を妊娠させた……?」
「え? まさか五郎兵衛様も……?」
「万能の王に出来ないことはないんじゃないか?」
「五郎兵衛様が陛下に孕まされたぞ」
「なんてこった。どこまで偉大なんだよカロン様は……」
そんなことを囁かれているとは露知らず、カロンは美味しいものを食べたことでご満悦である。
そろそろ日も傾くし、ルシュカが心配する前に城へ戻ろうかと梔子姫たちに告げようと振り向いたところで、突然街中に響きそうな大声が遠くから聞こえた。
「おう! そこにおられたか親父殿! なっはっは! いやぁ探しておりましたぜ!」
一瞬誰が呼ばれているのか分からずキョロキョロと視線を彷徨わせたカロンだったが、人垣を割りながら真っ直ぐ向かってくる獣人を見て驚きに目を見開いた。
それは狼に似て非なる獣だった。
黒と灰褐色の毛が全身に生えており、丸々とした腹を銅鑼のような胴当てで守っている。
手足は短く、しかし遠目からも分かる太さが力強さを物語っている。
なにより、突き出た鼻口部と仙人のような白髭はカロンの記憶から鮮明に獣人の名を思い出させた。
「散々紗々羅、か?」
「ご無沙汰しておりましたな親父殿。君命に従い、この散々紗々羅、ただ今戻りもうした!」
ランク10の獣人種【隠神刑部】。
東方守護を任される第十団の長であり、グラドラと並ぶ戦闘能力の持ち主である。
棒術と格闘術のエキスパートでありながら幻術にも長ける獣人で、局地戦においては扱う手段の多さから対人最強の五郎兵衛ですら確実な勝利を得るのは難しいオールラウンダーだ。
確かに呼び戻したのはカロンだが、まさか街で会えるとは思っておらず、眼前までやってきた二メートルを超える巨体を見上げたまま困惑を隠せない。
「げ。タヌキ爺、何しに来たんだよお前……」
「珍しいじゃないですか紗々羅! なんです? クソカワな私に会いにきたんです!? でも今日の私はカロン様のものですから!」
「久しいではないか紗々羅よ。しばらく見なかったが、女に化けて男でも食い漁っていたのか?」
「はは! 相変わらず五月蝿えなぁ。親父殿の前じゃなかったらぶっ飛ばしてたぜおい」
仲間との再会に喜んでいるのかいないのかはっきりしない会話を頭の片隅で聞きながら、カロンは自分の思考を整理していく。
「城には行かなかったのか?」
「行ったんですがね? あの狼が突っかかってきやがるんでルシュカのもとへ避難したんです。けどルシュカはルシュカで機嫌が悪かったようで、『親父殿は街にいるからとっとと消えろ』なんて言われてしまいまして。もしかして、まずかったですかね?」
「そうだったのか。いや、むしろ好都合だ」
「それはようございました。じゃあ、報告はどうなさいます?」
「……梔子、悪いがフィルミリアと五郎兵衛を連れて戻ってくれ」
「え! なんで!? せっかくのデートじゃないかよぅ。邪魔者には目を瞑るからパフェとか食べに行こうよカロンー」
共に出掛けられることを心から楽しみにしていたのにと力説するが、そこに居るのはカロンではなくエステルドバロニアの王だと察して、梔子姫は渋々引き下がった。
「埋め合わせはしてくれよ? ほら、行くぞー変態どもー」
「あれあれ? すごく蚊帳の外? ちょっとおきつねさん羽を引っ張らないでもらえます!? ああああ、取れる!取れちゃいますから!」
「待って!拙者も今の甘酸っぱいやりとりしたいでござる! だから首を絞めるのは……クェッ」
着物の女に引きずられていく淫魔と鬼を見送りながら、突然の流れについていけない散々紗々羅が巨体を折ってカロンに耳打ちをする。
「本当によいので? 城に戻られてからでも問題はないかと思いますが」
「今の私は休暇中でね。城で働くと怒られるのだ」
「はは! 左様ですかい! 親父殿もお変わりになられたってことか。いやぁそれは重畳」
「歩きながらでいい。話してくれ」
散々紗々羅と並んで行く宛もなく歩きながら、カロンは報告を受けた。
それはこの世界に転移した時、ルシュカが咄嗟に頼んでいた天空円環の監視の報告である。
万が一天空円環や地下伽藍から魔物が出てきては国の復興が難しくなると判断しての措置だった。
結果は杞憂に終わったので、この狸の神獣を自分のもとへ呼び戻したのだが、報告の内容は別の不安を湧き起こさせるものであった。
「外部からの干渉?」
「ええ。あの熾天使が言うには、相手も上位の存在のようで」
「……正直、この世界の神は形骸化しているのかと思っていたが」
「この世界は信仰が深い。信仰とは世界に干渉する燃料であり、改変する素体の数と同義であります。親父殿ならば不足はないかと存じますが、気にかけておくべきかと。総本山である神都は特に」
「分かった。連環の管理者たちには私から命令を更新しておこう」
「それはよろしゅうございます」
野太く力強い声で溌剌と受け答える散々紗々羅の独特な言葉回しに、カロンは思わず吹き出してしまった。
紗々羅はその反応に不快感を表すことはなく、何か変だったかと不安げに眉を顰めた。
「いや、すまない。紗々羅だなと思ってな」
“豪快”と“享楽”の性格が全面に出た兄貴らしさというか、豪放磊落な振る舞いはカロンが描いていた紗々羅にぴったりと当て嵌まっている。
それが嬉しくて笑っしまったカロンを、紗々羅は狼のような狸の顔を、まるで我が子でも見るかのような優しい目で見つめていた。
「そう仰る親父殿は、なかなかの偉丈夫となられたご様子」
「い、いじょうふ? 私がか?」
特に鍛えたりしていないはずと自分の腕や体を確かめるカロンの姿に、紗々羅は呵呵と声を上げた。
「体ではなく心でありますよ。久方ぶりに拝見いたしたが、実に凛々しくお優しい顔になられた」
「そう思うか?」
「化かすのは狸の性なれど、嘘を吐かぬのは儂の性。考えなしに軽薄な言葉を連ねる真似は致しませぬ」
ただ、と紗々羅はカロンの肩を大きな腕で抱き寄せて、それなりに背丈のあるカロンを脇の下にすっぽりと収めた。
「良い戦を繰り返すだけじゃあ真の男とは呼べんもの。磨いてくれるのは何も戦場だけではありませんからなぁ」
「急になんの話……」
「親父殿、女でも抱きに行きませんかい?」
「行かんわ! アホか!」
「なぁっはっはっは! しかしいつまでも女の味を知らんのは勿体無かろうて! ほらほら、儂のお気に入りの子とか如何ですかな?」
カロンがよくよく周りを見れば、考えに耽っている間に自然と大通りから一本裏にある娼館通りに誘い込まれていたことに気付く。
まだ日が高いので空いている店はないため、今の時間は人の流れが殆ど無い。
内緒話をするには丁度良い場所だからと説明すればいい話なのだが、ついポロッと出てしまった意地悪心が紗々羅をむずむずさせてしまった。
口にはしないが、カロンと言葉を交わすことが楽しくて仕方がなかった。
「ええい、そんなことはいい! とにかく、お前を呼んだのは一つ頼みごとをしたかったからだ」
「ほほう? 他の奴らを差し置いて儂にとは、随分限定的のようだ」
芝居がかったような口調と動きでカロンを解放した紗々羅は、カロンの前へと移って勇ましく膝をついた。
「君命、喜んでお受けいたします。なんなりとご命じくだされ。我が父、我が王よ」
「……はぁ。これは確かに、散々紗々羅だな」
ここまで思い描いた通りのキャラクターだと、呆れよりも嬉しさのほうが込み上げてくる。
だから、カロンは紗々羅を抜擢することに間違いはないと確信した。
「では、受けてくれたまえ我が子よ。存分に暴れるがいい」
◆
「どういうことなのですか! 答えてミラ・サイファー!」
リフェリスの王城に悲痛な声が響いた。
周囲に文官がいるのも構わずミラの胸ぐらを掴んだアルア・セレスタは、怒りと絶望に顔を歪めて非力な腕で揺さぶった。
花冠を身に付けて愛らしく飾った元王女の激昂にざわめく周囲だったが、ミラが氷の眼光を向けるだけで押し黙る。
「どうして……貴女が居ながらこんなことになっているの……! 騎士の誉れとして、この国を守ると父上の前で誓ったのではないのですか!?」
「誓ったとも」
烈火の如く激情を燃やすアルアとは対照的に、ミラの声は冷ややかだった。
無抵抗でされるがままの彼女だが、見下ろす目には失望が渦巻いている。
「誓ったからこそ、私は国の為に良き道を選んだに過ぎん」
「これが国の為? 誰が見ても滅びに進んでいるじゃない! ドグマ団長とヴァレイル先生、多くの兵士と騎士を魔物に奪われた! 何者かにラグロットの叔父様まで殺されてしまったのですよ? もう、崩壊しているじゃないですか……!」
変わり果てた故郷の無残な姿に、溢れそうになる涙を強く唇を噛んで堪えるアルア。
項垂れて、“天雷”を掴む腕だけが彼女を支えていた。
「それに、父上まで……」
アルアの掠れた呟きに、ミラは玉座の間の方向を見る。
つい先程まで自分たちはあの中に居て、この国を統べる国王と言葉を交わしていた。
だが、ミラはそれを国王とはもはや認識できなくなっていた。
あれは、心の壊れた老人だ。
初めて強く外へと放った意思によって国を窮地に立たせたうえに、利己的な判断によって重罪人を庇った愚かな男。
大人しく処刑すれば傷も浅く済んだのに、頼りにしていた勇者という枷を失くして自由を履き違えるから、ベッドに首を飾られるのだ。
「それで、どうするのだ?」
ミラはアルドウィンとアルアの会話を思い出して問いかける。
微動だにしないミラに喚いたところで全て彼女が悪いわけじゃないと、アルアは僅かな冷静さで手を離し、力なく首を左右に振った。
「無理に決まっているじゃないですか。エステルドバロニアに嫁げだなんて」
アルドウィンは、エステルドバロニアに対して大きなトラウマを抱えた。
あの国が現れてから歯車が狂い、大切なものを奪われたと本気で考えている。
今残っているのはリフェリス王という地位しかなく、それを失えばラグロットと同じ運命を辿るのではないかと怯えている。
だから、もはやまともな思考をせずに自分を守ることしか考えていない。
そうじゃなければ、嫁いだ娘を差し出そうなど言えるはずがなかった。
夫を亡くしているが、セレスタ家の妻となったアルアはアーレンハイトの人間となっている。
そんな荒唐無稽な願いを聞けるわけがない。
しかし、死人のようにやつれた顔でアルドウィンが何度も何度も繰り返した言葉は、呪詛のようにアルアの心を蝕む。
「貴様はアーレンハイトの女だ。私としては、長々と逗留せず帰ってもらいたいのだがな」
「……」
「リフェリスを憂う資格のない貴様に何ができる。この時期に帰省する理由は馬鹿でも分かるぞ? 実態は知れたのだから、早く聖王猊下に報告すればいい」
「ミラ……貴女は何も感じないのですか?」
ここはもう、守りたかった国ではなくなりつつあると。
ただ一人となった王国の勇者は、冷たい瞳に微かな寂寥を滲ませた。
「感じているさ」
無力だったから、こんなことになってしまった。
それくらいの罪悪感はある。
だが、それはリフェリスにではない。
稀有とも呼べる多くの温情を与えながら、それを理解せず我を通そうとした者さえ許した魔物の王に対するものだ。
力さえあれば、すべてを黙らせられた。
ただ一人と交わした約束を果たそうとしてくれるあの男に報いることが出来たはずなのだ。
「だが、全ては起こり、進み、過ぎた以上戻ることはない。私は今、私にできることを全うするだけだ。アルア・セレスタ、貴様がどうしようと勝手だが、私の邪魔だけはするなよ」
それとも、と付け加える。
「カムヒと合同で作っていると噂の剣でも持ち出すか? 花を咲かせるしかできない貴様でも少しは戦えるようになるだろう?」
「ミラ……」
「我らの力が及ぶ限り潰えることはない。国とはそういうものだ」
兵も騎士も、たとえ王でも、損なったなら適当に理由を付けて丁度いい首を置けばいい。
自分に都合が良ければ血統すら価値を見出さなくなる。体裁だけ取り繕えればどうとでもなる。
アルドウィン王がいるから王国が存続するわけじゃないし、ドグマやヴァレイルが死んだから終わるわけじゃない。
誰かが滅ぼすから滅びるのだ。
ミラは、それを学んだ。
何も言えなくなったアルアに興味を失ったミラは、胸を掴んでいる手を剥がして、押し退けるように歩き出す。
彼女の中にあるのは、王国を守る覚悟と約束を果たす義務。
今度こそ誰にも阻ませはしないと、冷たい瞳に猟奇的な決意を淀ませる。
(どんな犠牲も喜んで払ってやる。それがたとえ私であっても)
遠ざかるミラの背を見ることもできず、崩れ落ちるように座り込んだアルアは声を殺して泣いた。
ミラの言うとおり、アーレンハイトの女となった自分に出来ることなんてない。
ましてや夫を亡くしたことで影響力も持たない自分では。
今のアルアには、この現実を受け入れることが正しいのかさえ判断がつかなくなっていた。
その姿が父に似ているとは、自分でも気付かずに。
 




