2 休暇
ルシュカとの綿密な打ち合わせの末、カロンはついに休日を手にすることとなった。
カロンの採択が必要なものだけは自ら処理するが、それ以外の仕事は第十六団が主となって行う方針である。
長く補佐として務めてきたルシュカにできない政務は殆どない。そこに部下を動員すればカロンの出る幕はそれこそ殆どなくなる。
カロンも分かってはいるが、「それを証明させてください」とルシュカに申し出られたため、この度は完全に仕事から離れることとなった。
その結果、カロンが何気なく立ち寄った執務室の扉にはデカデカと“陛下のご入室は可能な限りお控えいただきたく”という、えらく丁寧な文面の張り紙がされていた。
「えぇ……?」
絢爛豪華なミスリルの廊下で足を止めたカロンは、まさかの扱いについ気の抜けた声を漏らした。
“入室禁止”と書かれるよりは精神的なダメージはないものの、そこまでするのかとは思う。
「どーかしたんです?」
後ろからかけられたギャルっぽい口調に振り向いて、カロンは張り紙を指差した。
護衛として付き添っている“キメラ”のレムリコリスは、サイドテールに結んだ黒髪を揺らしながらカロンの横に立ち、紙を覗きこむようにして文字を眺めた。
「あー」
「な、なんだその反応は」
「いえいえー。ルシュカちゃんもカロン様に休んでいただきたくて頑張ってるんですよ。だからここは見なかったことにするのがいいかと思いますよ?」
「そういうものか?」
「んー、そう聞かれると答えが難しいというか……カロン様が気になるのでしたら見る権利はありますから、んー……」
要するに、エステルドバロニアの王であるカロンは、この張り紙を無視しても誰に責められることもないのである。
そしてその思いは張り紙の文面からも放たれている。
「そのー、なんと言いますか……気になるなら覗いても怒られたりしないよってことでして」
「ふむ」
そう言われると気になってきてしまう。
カロンはレムリコリスに周囲を見張るようにと目配せをしてから、ゆっくり扉のノブに手をかけてそっと開ける。
ほんの数センチ隙間ができた辺りで、中からの声が耳に届いた。
「いいか、あのバカ犬どもをとっとと河川の整備に回せ。それから男色鬼軍団をミャルコの手伝いに向かわせろ。はぁ? ならぶん殴ってでも従わせろ。国王代理の命令だぞ。少しでも遅れるようなら国家叛逆の罪で全員吊るしあげてやると伝えておけ!」
どうやら、通信魔術を使って部下に指示を出しているらしい。
「なんの用だ。あ? 配給が届いていないと苦情? そんなものは街の警備に言え。もしくは女狐にやらせろ。どうせ暇してるだろ。まったくどいつもこいつも……もっと自分で考えて動け! こんな体たらくをカロン様に知られてもいいのか!? これまでどれだけ王に負担をかけていたかをもっと明確に自覚しろ! 殺すぞ!」
その辺りで、カロンはそっと扉を閉じた。
「あれ、いいんです?」
「うん。まあ……うん」
やはりプレイヤーの持つ能力は偉大である。
画面操作で全ての指示を行えるし、進捗や問題もひと目で分かるのだから。
もしこの機能が無かったらと思うだけでゾッとする。
ただ、だからといって今明らかに大変そうなルシュカに手を貸すのは、彼女への信頼に背く行為だ。
体調が万全になるまで。対処しきれない事態が起こるまで。そう約束してカロンは休む決断を下した。
部下たちの頑張りに水を差す真似をするのは宜しくない。
決して、地獄の使者みたいなルシュカの迫力に恐れをなしたわけではないと、自分には言い聞かせて。
「早く体調を整えなければな」
「はい! しっかりリフレッシュしてください!」
部屋の中で奮戦する補佐官に小さく「頑張れ」と呟いて、カロンはレムリコリスを連れ立って歩き出した。
「ところで、カロン様はどこに向かわれてるんです? あんまりお部屋を離れると皆心配しますよー?」
「そう言うな。生活に支障をきたしているわけではないのに、部屋にこもってばかりでは気持ちも沈む。何もしないのは落ち着かん」
「そういうものです?」
「レムリコリスは、そう感じたりしないのか?」
「ウチは城とカロン様を守るのが役目ですのでー、部屋にこもってる時は仕事中だから考えたことないかなー」
「ここにもワーカホリックが……」
「え? なんですそれ?」
ブラックな環境を無意識に敷いてきた弊害を見た気がして、くっと目頭を押さえるカロン。
しかし魔物たちには理解できない概念である。
それはさておき、カロンが迷わずに向かっているのは城の外であった。
階層の移動に使われる転移門で一階へと移り、歩いてそのまま王城前の庭へ。
周囲の魔物がカロンに気付いて直立するのを軽く手で制しながら、真っ直ぐ正門へと歩いていく。
「お、おい。カロン様は今療養中じゃなかったのか?」
「俺は休暇を取られてるって聞いてるぞ」
「拝め拝め。偉大なる我らの王が姿をお見せになられたんだぞ。拝まなけりゃ不作法というもの」
「カロン様を見たら一生幸せになるって噂本当なのか?」
「噂に決まってるだろ。見てない奴も幸せにしてくださるんだから」
「ぴゃっ」
ヒソヒソと囁くドリアードやマニコイド、リザードマンにグレムリンたち。
カロンが城の外に出てくることは以前と比べれば珍しいものではなくなったが、それでも王が姿を見せるというのは慣れないようで、少し視線が向くだけで魔物たちはガチガチに固まった。
その様子を、今のカロンは見る余裕がある。
「私が来ると仕事に差し障りが出てしまうのかな」
「そんなことありませんよ。カロン様にお会いできるのは皆嬉しいですからー」
「……やはり姿を隠したほうがいいと思うか?」
「あー……それもお答えしづらいかにゃーと。いえ、いいとか悪いとかじゃなくて意味があるのか無いのかというか……ううう、ウチじゃルシュカちゃんみたいに上手く言える自信ないんですけどー」
「……?」
「ああ、いえいえこっちの話でして……」
「そうか」
サイドテールを束ねていない方の髪をワシワシ掻きながら頭を抱えたり、中腰になって手をパタパタと振るレムリコリス。
どうかこの気持ちが伝わってくれと、全身から執務室の張り紙以上の思いを放とうとしている。
しかし、これに関してはルシュカの方針が根付いているため、布を被っていれば魔物たちに気付かれていないのだと刷り込まれているカロンはレムリコリスの反応から何かを察することはなかった。
「そ、それで! 結局カロン様はどこを目指していらっしゃるのでしょうか!?」
「ああ……街に行きたいんだ」
流れてしまった話題を引き戻されたので、今度は素直に答えるカロン。
すると、レムリコリスの雰囲気が一変した。
「カロン様、他のキメラを呼びますので暫しお待ちいただけますか?」
「必要か?」
「万が一には備えなければいけません。お邪魔にならぬよう周囲に溶け込んで同行させますので」
「そうか……では、任せる」
「は。それでは門の近くで……内郭守護の二人の側でお待ちください」
レムリコリスは深く頭を下げて、溶ける黒いソフトクリームのように地面と融合して姿を消した。
一人佇むカロンは消えたレムリコリスの余韻を見つめていたが、深く息を吐いてからコンソールを操作して黒い布を取り出し、すっぽりと頭から被る。
フードの下で俯く顔には、当惑が浮かんでいた。
(あんなに……)
あんなに、恐れていたんじゃなかったのか?
(隠そうともしないで歩けるほど、俺は強かったか?)
どうして、こんなに気安く動いているのか自分でも分からない。
(あれだけ怖い怖いと騒いでいたのに、そう思っていたことすら忘れてフラつける豪胆な奴だったか?)
抜け落ちたような。
抜き取られたような。
奪われたような。
忘れ去ったような。
成長と呼ぶには自分に納得ができず、慣れたと言うには唐突に思える。
いつからなのかもわからない。
そう考えていると、思考がザラリと砂で擦られたように掠れた。
目眩とは違う嫌な感覚なのに不快と思わない。
それは語りかけられているようで、問われているような……。
「カロン様」
名を呼ばれて、カロンははっと顔を上げる。
目の前に立っていたのは、城の正門を守る紅と蒼の姉妹だった。
城を囲う城壁を守護する第十三団の団長である【獅子・狛犬】の二人は、カロンと目が合うと握る得物を虚空に収納してから恭しく頭を下げた。
知らぬ間に息を止めていたようで、吐き出した空気は熱した鉛のような重たさがあった。
「どうかなさったのでしょうか。城内の敷地であってもお一人では……いえ、どなたか伴をお連れになってくださいませ」
生真面目な口調で、真剣な顔から紡がれた忠告にカロンは苦笑する。
紅と白の巫女服に似た衣装を着た、獅子の面を頭に乗せた少女が言葉を濁したのは、以前の邂逅でカロンの口にした言葉があるからだろう。
「ありがとう紅廉。でも大丈夫だ。レムリコリスが他のキメラを呼びに行ってるだけだからな。お前たちの近くで待つよう言われていたんだが、少し考え事をしてしまった」
「そうだったんですねー。それならお側に来て正解でした。あっ、詰所でお休みになりますか?」
「おい、蒼憐。あんな場所でカロン様を満足に歓待することは不可能だぞ」
「紅廉ちゃーん、そこは私たち十三団の腕の見せ所ってもんでしょー」
「そうなのか。だが、あの掃き溜めみたいになった所を片付けるには時間が――」
「あー! あー! 紅廉ちゃんは正直者さんだなぁ! でもちょーっとお口閉じててねー! カロン様! あの、なんと言いますか……」
「ははっ、構わんよ。いざという時に備えているのであれば、些事に目くじらを立てるつもりはない」
「ごめんなさい……これからきちんと掃除をするように徹底しますので……」
「ああいうものではないのか」
「ちょっと紅廉ちゃん!? なんで気にしてないのかずっと不思議だったけど、それが理由だったの!?」
「んん?」
「あうあうあう……姉の教育もこれから徹底します……」
何も分かっていない風に首を傾げる紅廉の隣でさめざめと泣く蒼憐の姿を見ていると、考えていたことも消えていった。
こうして、嫌な感情を混ぜずに意思疎通が図れるのだから、一先ずは良かったと思うことにしたカロンだった。
「ところで、どちらへ行かれようとお考えでしょうか。そのお姿を見るに、街の視察とお見受けしますが」
「ん? ああ、そのつもりだ」
「左様でございますか。それは良うございます」
そう言って、紅廉はなかなか見せることのない愛くるしい笑みを見せた。
「門から見る景色は民の活力を日々映しております。この世界に来てからも彼らは曇ることなく暮らしていましたが、魔王軍の手勢に勝利を収めてからは一層賑わっていると実感いたしております」
「そうか。城の窓からもこの活気は伝わっていると思っていたが、紅廉が言うなら間違いなかったのだな」
「差し出がましいことを申してしまいました。ですが、だからこそ今の街を歩かれるのは皆にとっても良いことかと」
「ふむ」
「きっと、喜ばれるはずです」
「……ん?」
見応えがあるとか言うのかと思っていたカロンが、少し引っかかる紅廉の言葉に首を傾げる。
それと同時に、蒼憐の手が素早く後ろに回り込んで紅廉の口を両手で覆った。
「はい、紅廉ちゃんその辺にしておこっかー。ねー」
「ムゴムゴ」
「なんでじゃないの! その辺は暗黙の了解ってことでー。あ、カロン様気にしないでくださいね。きっと元気な魔物たちが見れると思いますから!」
「あ、ああ……」
「カロン様ー、お待たせしましたー」
色々気になるカロンだったが、王城から走ってきたレムリコリスに遮られてまた考えを止めた。
初めてのオフだから舞い上がっているのだろうと、そう感じる気持ちに違和感はなく、これは確かに自分の感情の揺らぎだった。
王が街に出る。
それが何を意味するのか、理解しているのはカロン以外の魔物たちだろう。
黒い布で全身を隠していても所詮はただの人間。
誰よりもゼロに近い雰囲気が漂っていて、おまけに王の守護を担う第一団を従えていれば、それが誰なのか一目瞭然である。
のっぺりとした芋虫のような見た目の【ミートワーム】は昼食の手を止めて、背を通り過ぎた男を見る。
農作の方針で揉める【ルプスウンディーネ】と【シルフベルセルク】は口論を止めて視界を掠めた黒布を唖然としながら見る。
非番だからと酒に溺れ、肩を組んで歌う【蜘蛛男】と【リッパーマンティス】は正面からやってくる黒布を見て指を向けそうになり、慌てて互いの手を圧し折って感涙しながら人間を見る。
「ん?」
急に背後が静まったのを気にしてカロンが振り向くと、住民たちは慌てたように場違いな動きと会話で騒ぎ出し、見ていませんよアピールを繰り広げる。
「んー? 気のせい、か?」
「カロン様ー、行きましょうよー」
「ああ。すまん」
引っ掛かりを覚えながらもレムリコリスに呼ばれてカロンは歩みを再開する。
王の影から飛び出た手が親指を立てれば、魔物たちも応えるように親指を立ててみせた。
国全体がカロンの扱いをしっかり共有しているらしい。巨大な街だが噂の広まる速度は田舎より早いようである。
そもそも、王を見てどうするのが正しい反応なのか分かっていないのも大きな理由だが。
しかし、それはエステルドバロニアの暮らしに慣れた大人が主となって行動しているもので、子供になると難しい点もあるわけだ。
これまで……と言ってもほんの数回しかないが、それは運が良かったのだろう。
この日初めて、カロンの前で目をキラキラと輝かせたラミアの少年が立ち止まった。
「おうさまだー!」
カロンが凍りつく。
一緒にキメラたちも凍りつく。
おまけに周囲も凍りついた。
純粋無垢な眼差しで、誰もが誇りに思う偉大な賢王と会えたことを心の底から喜んでいる半蛇半人の愛くるしい子供を、どうするべきか誰にも考えつかなかった。
力任せに引き離す?
脅して退ける?
説得する?
何をしたってカロンの目に触れるし、カロンの心象を悪くする可能性のある行動だ。
どうやら父母は近くにいないようで、慌てて駆け寄るラミアの姿はどこにもない。
賑やかだった街の様子はどこか遠く、魔物たちは息を呑んでこの異常事態の行く末を見つめていた。
「……人違いじゃないかな?」
カロンは震える声で、フードの下でびっしょりと冷や汗を流しながらどうにか口にした。
ラミアの少年はそんなことないのにと口に人差し指を当てながら、顔を背けるカロンをじっと見ていたが、途中で違うことを思い出して話題を早々に切り替えた。
「そうだ! おうさま、ありがとうございました!」
「なに?」
「ぼく、グラドラさまに助けていただいたんです! それで、おかあさんに言ったら、「カロン様にも感謝しないとね」って言ってたんです! おうさまのおかげで平和なんだよって!」
言葉に裏も表もない。
心のど真ん中にぶつけられる言葉は、暴力的な優しさだった。
「だから、おうさま。ぼくたちをまもってくれて、ありがとうございます!」
ゴクリと息を呑む音が、遠くに聞こえる喧騒に紛れて幾つも鳴った。
果たしてどうなるのか、誰にも想像ができない。
ハラハラした空気が漂う中、カロンは背けていた顔を戻してゆっくり膝をつくと、そっと少年の頭に手を添えて優しく撫でた。
「こちらこそ、私の愛する国で幸せに暮らしてくれてありがとう」
全魔物が滂沱した。
「とはいえ、私は王じゃないのでね。もしお会いしたら私から伝えておこう」
「そうなんですか?」
「王はお休みしているんだ。こういう素敵な出会いを探しにね。だから、そうだな……暫く王様はお休みで居ないから、また仕事に戻ったら伝えておくよ」
遠回しだが伝わるように言葉を選んで、カロンはうまく伝わってほしいと願うように語りかける。
少年は不思議そうにしながら頭を撫でられていたが、なにか得心したようにぱっと表情を輝かせると、「わかりました!」と大きな声を上げた。
「さあ、気をつけて行きなさい。エステルドバロニアは、いつでも見守っているよ」
「ありがとうございました! おうさ……じゃなくて、えっと……だいすき!」
撫でる手を止めたカロンから離れて、元気いっぱいに叫んだ少年は恥ずかしそうにしながら蛇の胴をしならせて人垣の中に去っていった。
小さな背中を見届けてから立ち上がり、カロンは満足そうに微笑む。
コンソールに表示されるミッションや、紙の上に綴られた文字や、団長たちが告げる伝言ではなく、初めて生の街の声を聞いた。
それが幼い目が見てきた景色や、耳が聞いた姿から紡がれたたどたどしい言葉だからこそ、染みる感慨も一入である。
「ちくしょう、涙が止まらねえや……」
「あたいもだよ……」
「天使か? 神か? いや、王様だわ」
「さすがカロン様……これは末世まで語り継がないと……」
「わしも撫でてほしいのう」
見守っていた魔物たちは、今しがたの美しい光景についてすぐに語り出す。この話だけを肴に浴びるほど酒を飲む勢いである。
ただ、今起きたことを理由にしてカロンを祭り上げて騒ぐことは出来ない。
カロン自身が王は休んでいて居ないと言ったのだ。
だから、王は街には来ていないという嘘を彼らは貫くと決めた。
こう見ると、素直に好意を伝えてみせたラミアの少年の方がよっぽど大人な気がするが。
「さて」
そう呟いてまた街を見て回ろうと一歩足を前に出したカロン。
思わぬ出会いに嬉しくなって感傷に浸りたい気持ちもあったが、ピタリと止まった魔物たちの往来を邪魔してしまったかと移動を始める。
しかし、思わぬ出会いは運のようなもの。望んでも掴めず、望まずとも訪れる。
「あ、カロン様!」
ラミアの少年と同じくらい、だがはっきりと黒布を被ったカロンに向かって名前を呼んだ声がした。
それはもう言い逃れができないくらいはっきりとだ。
非常口のマークのような姿勢で硬直したカロンの側に駆け寄ってきた声の主は、ラミアの少年と同じくらい嬉しそうな顔でフードの中を覗きながら満開の笑顔を咲かせた。
「お久しぶりです! わあ、こんな所でお会いできるなんて!」
「……リーレ、だったな」
ダークブラウンのワンピースに白いエプロン姿のエルフの少女は、名前を呼ばれて飛び跳ねそうなくらいに喜んだ。
以前見た時よりも肌ツヤが良くなっており、全身に走る傷跡のような刺青から痛々しさを感じないほどに健康的になっている。
「はい!」
「……王は休まれていて、暫くいないのだ」
「え? でもカロン様は――」
「よし、リーレ。どこかおすすめの店を紹介してくれ。そこで話をしようじゃないか」
「ぅえ? は、はい」
「決まりだな。では早く連れて行ってくれ。いいか、私語は厳禁だからな? 早急に、可及的速やかにだ」
捲し立てるように急かして、困惑したまま言われるがまま先導を始めたリーレの後をカロンは足早に追う。
早くこの場から去りたかった。
自分がカロンだとバレたからじゃない。
もっと恥ずかしい可能性が浮かんでいるからである。
(まさかとは思うけど……俺のことバレバレだったとか?)
今更である。
チラリと後ろから追ってくるレムリコリスを見ると、素早く顔を横に逸らして視線を外された。
(いやいや、まさかな。そう、まさか……たまたま……であってくれると、いいなぁ)
そうじゃないと、こんな格好で出歩いていた自分が馬鹿みたいではないか。
今日話していたことは一体何の意味があったのか。
裸の王様にでもなった気持ちのカロンは、死にたくなるほどの恥ずかしさをフードで隠し、ただリーレを追うしか気持ちを落ち着ける方法が見つからなかった。
辿り着いたのはお洒落な喫茶店だった。
いかにも女性が好みそうなアンティーク調の店内で、お伽噺の世界に飛び込んだかのようなカラフルでポップな小物が至るところに並べられた店だ。
リーレとレムリコリスと共にテーブルを囲んでいるのは少々気まずいが、他に客が居ないのは好都合であった。
「リーレ……」
「えっと、はい……」
「君は、ひと目で私がカロンだと分かったか?」
首を縦に振りかけたリーレだったが、突如襲った強烈な殺気に全身を震わせた。
それは隣のレムリコリスからであり、足元の影に潜む何かからのものである。
まだ若くとも大変な人生を歩んでいたリーレだ。
ここで頷こうものなら、明日の光は拝めないと直感で理解した。
「その……フードの下が見えた時に、なんだか似てるなと思いまして。えっと、そうなのかは全然、分からなかったけど思い込みで嬉しくて呼んでしまい」
「本当か?」
カロンの圧が増す。
しかし殺気も合わせて増すのだから、リーレは針の筵状態だ。
カロンのことを思うなら真実を告げてあげる方が一番な気がするが、キメラたちはカロンの自尊心にこれ以上傷を付けないために必死である。
「本当です……」
ごめんなさいカロン様、とリーレは心の中で謝罪した。
愛想を浮かべるリーレの顔を注視していたカロンだったが、そう言うのならそうかもしれないと少し納得して体を椅子に預けた。
確かにフードだけでは顔が見えることもあるだろう。
人間よりも様々な面で優れている魔物たちならその一瞬を見逃さず、その上で気を使ってくれていたのかもしれないと考える。
子供なら視点も低いから余計見やすいのか、と。
結果、たまたまバレていたこともあったが気を使ってくれていたのだろうと、誰にとっても丁度良い考えで落ち着くことになった。
「次からは何か仮面とかを用意したほうがいいか。“黒の王衣”は脱げないから服装を変えられないのが難点だ」
「ですねー。あっ、ウチたちが宝物庫から良さそうなもの探してきます?」
「いや、私が使えそうなものが宝物庫にあるとは思えんのだが」
「任せてちょーだいですよ! 城のどこでも行けるウチたちキメラが、ピッタリのもの探しますからー」
「そうか……なら、一応頼んでおくよ」
顔を隠せばなんとかなると思っているカロンと、それに助力しようとするレムリコリスに、リーレは言いたくて仕方がなかった。
この世界に生きる人間も魔物も、当然のように内に秘める魔力が微塵もない時点ですぐに気付かれることを。
「この話はもうやめておこう。せっかく会えたから聞いてみたいことがあるんだが、構わないか?」
「はい。お役に立てるなら何でもお答えします」
「では聞くが」
一人殺伐とは無縁だったカロンが、王の風格を漂わせながらリーレに問いかけた。
フードから覗く鳶色の瞳に、リーレも恐怖とは違う緊張を纏う。
「外から来てこの街で暮らしたリーレから見て、今のエステルドバロニアは人間と共存していけると感じるか?」
リーレは元々神都のエルフで、諸事情によってエステルドバロニアで生活をしている。
街の中で暮らしているため、誰よりもこの国を知るこの異世界の住人だろう。
カロンの脳裏に一瞬だけ、「他にも国に招いた人間がいたぞ」と思い出しそうになったものがあったが、それはすぐ頭の片隅へと移された。
リーレは記憶を漁るように目を閉じて、じっと押し黙って思い出を辿る。
そして、
「分かりません」
と、迷わず口にした。
「ほう?」
「私みたいに亜人や獣人であれば、人にもよりますけどすぐに馴染めるし、街の人も受け入れてくれると思います。実際私は今勤めているお店の人たちだけじゃなくて、もっと沢山の人に助けられていますから」
全身に刺青があるエルフの少女とは珍しいものだが、数多の種族が共に暮らすエステルドバロニアではそこまで特別視はされない。
ルシュカのようにたった一体しか存在しない種の魔物もいるので、珍しいからと排除する思考を持っていないからである。
そして、多くの国を併呑しながら領土を拡大した過去のあるエステルドバロニアで外から魔物がやってくることは何も珍しくはない。
エステルドバロニアの流儀を理解できないとかなり排他的に扱ったりするが、郷に入って郷に従えればきちんと認めてくれるのである。
「不興を買うのを承知でお話しますが、エステルドバロニアはディストピアのようなユートピアです。弱肉強食の本能が根強い魔物を強大な軍の存在によって制御しています。その上に立たれているカロン様が人間の感性を強大な軍から伝えたことで、この形が成り立っていると推測しています」
聞き手によってはカロンが神輿でしかないと感じられるが、カロンはその意見に素直な賛同を示した。
「だから、カロン様という大きな存在に対して反感を持つ者は誰であっても受け入れがたいのではないかなと。亜人や獣人であっても、この街の有り様に従えないとすぐ衝突するように思いますので、共存するにしても相手を選ぶのではないかと……」
これは、団長たちが提唱する力による統治と限りなく似た話だ。
その視点が中と外かで違うだけで、本質は変わらない。
しかし、視点の違いから語られるのはとても貴重な意見だった。
「なるほど。確かにリーレの言うとおりだ。罪を裁くとしてもかなり強引な手段を取ることもあるこの国で人間を住まわせるのはやめた方が良さそうだな」
「私も直に目にしましたが、かなり過激ですよね……。同じことを人間に行うと、かなり問題が出ると思います」
「ふむ。レムリコリス、どう思った?」
「言い方はちょっちピンと来なかったですけど、概ね賛成ですね。多分この国から違う国に行く住民も、似たような理由で出て行かないと思いますしー」
「そうか。いや、なかなか良い話を聞けた。特に我々側として語ってくれたのが良い」
「お役に立てて光栄です」
カロンに褒められて、リーレはようやく役に立てたと心の底から喜んでいた。
何度も従軍の希望を出したが通ることはなく、命の恩人の為に働くことを諦めかけていたが、ここに来てその願いが叶ったとうっすら涙を浮かべる。
「なぜ泣くんだ?」
「いえ、いいえ……嬉しいんです。貴方様の為になれたことが、とても……」
「……お前は、いつも綺麗な感情を私に向けてくるな」
「え……?」
「いや、なんでもないよ。お腹は空いていないか? 何か食べよう。えっと、メニューは……」
カロンが誤魔化すようにテーブルの上を探していると、パタパタと走り寄ってきた少女が胸にメニュー表を抱えて姿を見せた。
水色のドレスに白のエプロン、金色の髪をリボンで結んだ、お伽噺から飛び出てきたような可愛らしい少女は、最高のスマイルでカロンにメニューを差し出した。
「こちらをお使いくださいっ!」
「ああ、ありがとう。えーっと……【アリス】か。以前十六団にいた……」
「わあっ、覚えていてくださったなんて光栄ですカロンさ――あっ、申し訳ございません! お忍びで来ていただいたのに……」
「うん。いや、構わないよ。ただ言い触らされるのは困るが」
「もちろんですっ! 私、口は硬いので!」
ポン、と平らな胸を叩いて鼻を鳴らす姿はとても子供らしくて、どこか背伸びをしているようで。
全面に可愛さを押し出すアリスの姿に、リーレとレムリコリスは化け物でも見るような目を向けていた。
普段はガラの悪いヤカラよりたちの悪い裏組織の幹部みたいな性格で、それが災いして店に閑古鳥を鳴かせ続けている少女で、“ぶつ斬り”なんて物騒極まる二つ名を持つ乙女が、
「でもでも、本当にお会いできて嬉しいです! ずっとずっと敬愛していた御方でしたから……今日はとってもいい日になりました!」
猫を何重にも被って中の魔獣を隠すようなことをするなんて、世界が終わってもあり得ないと思われていたのに。
レムリコリスは確信する。
このアリス、街での騒ぎも、ここに来てからの会話も全て把握しており、カロンに気に入られるためのキャラ作りを行っていると。
可愛さいっぱいの子供ならウケると判断し、周囲の視線も厭わず自分を曲げてキャラ変していると。
それをアリスも察したのだろう。
レムリコリスに差し出したメニューを握る手には渾身の力によって浮かぶ筋と血管が隆起しており、掴んでいる部分が極限まで圧縮されていた。
「キメラさんも、どーぞ?」
にこやかな顔だが、薄く開いた瞼の向こうに覗く狼の瞳は、かつて死線を潜り抜けていた頃の残虐な光を湛えていた。
「……ドーモ」
「はい、リーレちゃんも!」
「はっ、ははははいっ」
普段をよく知るリーレは、もはや悍ましさしか感じていない。
先程まではカロンが恥ずかしくて死にそうだったのに、今は同席する二人が物理的に死にそうであった。
(この子、性格に“短気”と“狡猾”もってるのに、こんなに素直なんだなぁ)
そんなことは露知らず、自分の付けた性格も当てにならないものだと思い込みを恥じるカロン。
正にドンピシャなのだが、それを訂正できる者は一人として存在しなかった。
結果、思いつきでの外出はカロンにとって有意義なものであったし、レムリコリスにとっては地獄のようなひと時として幕を閉じるのであった。
書籍第二巻、本日発売です。