18 勝負
書籍、コミカライズもよろしくお願いします。
リフェリス王国に向けて突き進む、魔王の従える歪な地平線。
傾いていく陽の光がその影を落とし、揺れ動く彼方から聞こえる地獄の嘶きを聞きながら、王城から離れた位置で陣を構える王国騎士団に所属する人間たちは
、暗い顔で前だけを見つめていた。
「なんでこんな目に遭うんだ……」
誰かの呟きを聞き取った者たちは心の中で大きく縦に首を振る。
公国の反乱に魔王軍の襲来と、長く平和を保ってきた日々から急転直下でやって来た最悪の日々。
のんべんだらりとしていたバチが当たったのだろうか。望まずとも与えられていた何もない日常が、こんなに恋しくなるとは誰も想像していなかった。
騎士団の前に着々と整列していく獣人たち。騎士団の後方で地響きを鳴らして動く巨獣の群れ。
その数は千を超えるのだろうか。本国より援軍として送られたグラドラたちの兵は、戸惑う騎士団と違い正面だけを見つめて微動だにしない。
魔物同士の争いに巻き込まれたような構図だが、これは王国とエステルドバロニアが共に魔王軍へと立ち向かうための共同戦線だ。
魔幻将軍の暗躍によって国が内部から崩壊しようとしていたところをエステルドバロニアに救われた。
そして今こうして力を合わせようとしている。
はずなのだ。
「本当に味方かよ」
「おい、やめろよ。聞こえたらどうすんだ」
「構うかよ。他の奴も言ってたぜ。王国を乗っ取るのに、こいつらと魔王だかが手を組んでるんじゃねえかってよ」
「おい……」
「いくらなんでも出来過ぎだろ! このまま王国が乗っ取られたりしたら……!」
「そんなことするわけないでしょー?」
握り締めた剣を震わせて感情を湧き上がらせる平民出の騎士。
そこに突如聞こえてきた女の声に勢い良く振り向いた。
大きな猫の耳を帽子から生やした女は、戦場には似つかわしくないカジュアルな服装で、ニコニコと微笑みながら立っていた。
いつの間に現れたのか、周囲も驚きから後退っている。
人間が避けた空間で【フクスカッツェ】のエレミヤは、指で遊ぶ魔術刻印の施されたナイフを見つめたまま、人間の抱く疑問に対して独りごちる。
「わざわざ面倒なことするくらいなら滅ぼしたほうが楽に決まってるのに。乗っ取る価値もないって分からないのかなー」
「な、なんだよ。馬鹿にしてんのかよ!」
「やめろって! 殺されるぞ!」
「うう、うるせえ。どうせ死ぬんだ……だったらはっきり言ってやる……俺たち人間はなぁ、お前らみたいな連中と仲良くする気なんてねえんだよ!」
名も上げられないただの騎士の言葉だが、それは王国に暮らす者たちの総意である。
この戦争が終わった先にあるのは、魔物による支配だ。
それがエステルドバロニアか、魔王軍かの違いしかない。
もう王国に残された道は、強者への服従しか残されていないと誰もが思っている。
しかし、エレミヤにはそれの何が悪いのかが理解できなかった。
「味方が勝ったほうがいいんじゃないの?」
「魔物が味方……? 誰がそんなもの信じられるか!」
「えー」
弱いほうが悪いのだ。
嫌なら勝てばいいだけではないのか。
それが出来ずに騒ぐのは、負け犬の惨めな台詞でしかなかった。
だが、騎士はそう思っていない。
魔物という先入観だけが先行している。仮に相手が人間だったら、また別の理由で正当化するのだろう。
若い騎士はまるで英雄にでもなったような気分でエレミヤと相対していた。
王の側に侍っていた獣人相手に立ち向かっていると錯覚し、言葉はなくとも勇気を賞賛するような空気に酔い始める。
「それ以上はやめておけ」
そこに水を差したのは、騎士たちの間から姿を現したバストン・ドゥーエだった。
大柄で、どこかドグマ・ゼルディクトを思い起こさせる偉丈夫の隣には、冷たく美しい蒼い雷を手の先から迸らせるミラ・サイファーの姿もある。
「ドゥーエ隊長……」
「友軍に向けていい言葉ではないぞ」
「しかし!」
「いかなる理由であろうと、リフェリス王国騎士団の名を落とすような真似は咎めねばならん」
その言葉に、エステルドバロニアに反発の意思を示していた周囲は顎を引いて俯いた。
「じゃあ俺たちは、結局魔物の言いなりですか」
「……その時恨むべきは、力の及ばなかった上の者であって、彼らではない」
そこまで言われてしまえば、騎士も黙るしかない。
「すまなかったな。エレミヤ殿、でよろしかったか?」
「うん。早めに来てくれてよかったよ」
その意味を問うことはせず、バストンはエレミヤに向かって小さく頭を下げた。
思わずやめてくれと叫びたくなる騎士だったが、バストンの言葉はどれも正しいものだ。
自分がそうさせていると思えば、口を真一文字に結んで拳を握りしめるしかなかった。
この光景を、不敬な振る舞いをした騎士への謝罪と見るか、それとも魔物にへりくだっていると見るか。
苦しげな周囲の様子から、大方察せられるだろう。
「ほら、来い化け猫。そもそも何しに来たんだ貴様は」
見かねたミラが、“天雷”の勇者として凶悪な魔物に対処する風を装って、エレミヤをこの場から引き離そうと腕を掴んで強く引いた。
「化け猫じゃないよ! アタシにはエレミヤってカロン様からもらった名前があるんだから!」
「いいから大人しくしろ」
ミラに引かれるまま、大声で文句を言いながらも従うエレミヤ。
「侵略者の化け物め」
騎士とすれ違う寸前、吐き出された言葉を耳にして、エレミヤも怒気を含んだ呟きを漏らした。
「魔物を殺してきた人間が言うのかよ」
キャスケット帽の下から覗く瞳の、身の毛がよだつ金の輝きを、彼は直視できなかった。
ようやく獣人の姿をした魔物が去ったことで、皆の気が緩む。
若い騎士の感情に同意していても、所詮は虚勢でしかない。
「命拾いしたな」
「え?」
「いかなる意図があったかは知らんが、こちらに手出ししなかったのは向こうが我々に対して友好的だからだ。もし、貴様たちが思うような力による支配を是とする国であったなら、刃を向けることを躊躇いはしなかっただろう」
安穏とした雰囲気を醸していたが、気に食わない相手に力を振るう行為をエレミヤは遊びのつもりで出来る魔物だ。
エステルドバロニアに内通しているなどと囁かれているミラだが、彼女でなければあのような振る舞いで事を収めるのは難しかっただろう。
騒がしさを感じてこの場に来たバストンだったが、同じように気配を悟って付いてきてくれたミラには感謝していた。
「バストン隊長。本当に、あのエステルドバロニアとかいう国は味方なんですか?」
騎士の問いに、周囲も胸に抱えていた思いを口にしていく。
「実は魔王軍の自作自演では」
「そうだとすれば、早急に対策を講じた方がいいと思います」
「ありもしない陰謀論で物を見るのはやめろ。それに、仮にそれが事実だとして、あの軍勢を相手にどう戦えるのだ」
目の前に布陣する獣人の軍勢。後背に控える巨獣の群れ。遠くより迫る異形の行進。
「ミラ・サイファーが勇者として覚醒したが、それでどれだけ抑えられる? この大陸がかつての争乱から安寧を得たのは偏に九人の英雄、勇者の尽力によるものだった。この時代では、魔王軍相手にまともな戦いすらできん」
「そのようなことは」
「ならば、できるか? かの国に頼らず、この世界が一丸となって打ち勝った魔王の軍勢相手に勝利するなど」
遠く見える軍勢の数は百ではきかないだろう。
圧倒的な軍事力を誇る帝国ですら戦線を押し上げられないのに、街道に湧く魔物を狩るばかりの人間が数百集まったところで何になるというのか。
幸運と思わなければならないのだ。
ラドル公国に勝ち、魔王の侵攻にも勝てる可能性があるこの状況を。
「諸君と同じで、俺も魔物を信用するのは難しい。しかしどこかで折り合いをつける必要はある。エステルドバロニアが、王国に助力してくれる限りは」
どこまでも、言葉を濁さずに入られない。
得体が知れないのは、果たして魔物の持つ深淵の恐怖故か。
それとも、人の持つ深淵の智慧からか。
◆
グイグイと強く腕を引きながら、ミラはエステルドバロニアの軍勢の合間を平然と縫っていく。
すべて獣人で揃えられたグラドラとエレミヤが従える軍団は、人間の気配に獰猛な気配を纏わせて睨むが、その手に掴んでいるのがエレミヤであると知った途端に顔を背けて疲れた顔を作った。
「また何かしてるのかあの人は」
「人間にまで叱られているのかエレミヤ様」
「グラドラ団長にも散々怒られてるんだが」
「懲りないんだろ」
「懲りないんだろうなぁ」
自由気ままで奔放なエレミヤを一軍を預かる長として従えられるのは後にも先にもカロンだけであり、同時に立場ある者として相応しい立ち居振る舞いをさせられるのもカロンだけである。
決して人に迎合しない。決して他者に介在させない。そんな彼女の天衣無縫ぶりはエステルドバロニア軍全体のみならず市井にも広く知れ渡っている。
要するに、彼女の自由気ままな行動を正せる人は居らず、止められるのが他の団長だけということだ。
それが、理由は不明だが人間に掴まれて大人しくしている。
「天変地異の前触れか?」
「もう起きただろ」
「確かに」
「胸が熱くなるカップリングよね」
「分かる」
結局、彼らは「エレミヤ様のお人好しが出たか」ということで疑問を自己完結させて納得し、不思議とそのままミラを気にしない流れになるのであった。
裏を返せば、それがエレミヤへの信頼感でもある。
「まったく、貴様らは揃いも揃って余計なことしかせんな」
「違うよー。ちょっと見てみたかっただけだよー」
目を糸のように細めながら唇を尖らせて遺憾の意を表明するエレミヤだが、最前列まで連れて行って騎士団から引き離そうとするミラは一度も振り返らず、その顔を見ていない。
「悪いことしてないじゃんかー」
「魔物がうろつくだけで十分事件だ。それが同盟だ共闘だとなっても受け入れられるわけがないだろうが」
「ふーん? じゃあミラちゃんはどうなのさ。ねえ、勇者様?」
掴まれていた腕をするりと外して、持ったままでいたナイフの切っ先をミラの鼻先に突きつけながら、エレミヤは試すように笑う。
どこまでいっても勇者は勇者。堕落でもしなければ魔物を殺さずにはいられない哀れな兵器。
この輪の中に踏み込んで何も感じないのかと問いかければ、ミラは周囲を見回してから鼻を鳴らした。
「受け入れるさ。今はな」
彼我の力量差を痛感させられた。
今暫くは大人しくしていてやる。
カロンが助けを求めた時まで、殺す術を磨いて。
氷の刃を思わせる双眸の怪しい輝きは、決して魔物に屈した者の放つ色ではない。
梔子姫に味合わされた血と土の味は、“天雷”の勇者を更に研ぎ澄ませる一端になったことは間違いなかった。
「んふふ。じゃあそれは今度ね」
ニヤッと笑ってエレミヤが迫る魔王軍をナイフで指し示す。
最前線を獣人が、中列に騎士団、そして最後尾を巨獣が塞いでいる。
ミラが視線だけを動かして獣人たちを窺う。
猫と狼の獣人で揃えられた兵は頑丈なミスリルの鎧に身を包んでおり、握られた得物はどれもが一級品だ。
そして、それに相応しいほど洗練された屈強な武の気配を感じた。
公国軍に向けて派兵された新兵ではなく、今度こそエステルドバロニアの精鋭が集められている。
共同戦線など名ばかりの子守りだ。並んで突撃しようものなら、ものの十数分で騎士団は壊滅するのが目に見える。
国の危機に立ち向かわんと集められた騎士団の出番など、端からなかった。
「我らエステルドバロニアの戦列に連なる栄誉を与えよう、なんてね。ミラちゃんにはここからの景色を見せてあげる。アタシたち、エステルドバロニアを怒らせたらどうなるのかをしっかり目に焼き付けてね?」
そう言って、エレミヤは二人の伴を従えて一人草原へと走り出した。
一体何をするつもりなのか、まったく考えの読めない金毛金目の獣人の背が遠くなるのを見ながら、ミラは知らぬ間に剣を握っていたことに気付いて力を抜いた。
(カロン。あの時の言葉が本当なら、これはお前にとって追い風にならないと分かっているか?)
魔王配下の策略や大陸への侵攻。
それを潰せば確かにエステルドバロニアの存在は確固たるものとなる。
しかし同時に、カロンが魔王と呼ばれる芽を生むことにもなる。
(お前がどんなに善い人でも、誰かの物語では悪人になる。どんなに善い行いでも、誰かにとっての悪行となる。今、お前がしていることは誰にとっての善なのだ)
ミラには分からない。
抱える思いの一端に触れられなかったミラでは、孤高の王を知ることなど出来はしなかった。
『あー、あー、聞こえてますかー?』
レスティア大陸に、フワフワした声が晴天の空に広がった。
「ねえ、大丈夫なの?」
「はい。ご指示通りです」
エレミヤが両隣の部下に尋ねると、拡声の魔術を行使する二足歩行の猫、ランク8の獣人種【白天猫】の二人は揃って頷いた。
それを聞いて大きく頷いたエレミヤは、魔王軍が動きを止めたのを確認してから、腰に手を当てて用意されていた文章を読み上げ始める。
『我らに矛を向け、今こうして侵略せんと大挙して押し寄せる愚かな魔王軍に告げる』
えっと、と文を確認してもう一度。
ルシュカとアルバートが共同で拵えたものなため、エレミヤには少々難しい。
『我らエステルドバロニアは、偉大なる王の庇護下にて栄える魔物の国であり、人魔問わず共に手を取り合って生きる道を模索していた。しかし、諸君の手の者が行った狼藉は決して許すことのできぬものであり、我らは不倶戴天の意志で諸君と相対する。この大陸に足を踏み入れた者の血肉をもって所業の罪科を贖われよ……と、いうことですー』
殺意に満ち満ちた文面は宣戦布告などと生温いものではなく、殺戮の宣言であった。
公国に見せたあの恐ろしさを思い出して震え上がる王国軍だが、彼方より迫る軍勢は不気味な笑い声を上げてエレミヤを卑下した。
魔王軍の間を割って姿を現したのは、豪奢な黒のローブを纏った骸骨だ。
王冠と錫杖。周囲に漂う死者の霊魂。
死霊魔術に傾倒し、死を掌握した不死の王。
「神の如き魔王陛下に傅くが魔より生まれ出し者の宿命。人間如きに膝を折るなど、愚鈍で矮小な者の行いである。堕落した塵芥よ、魔死将軍サウザーレの前から消え失せるが良い」
闇の焔を全身から解き放ち、アンデッドの上位種である【クロニクルネクロマンサー】は膨大な魔力を錫杖へと集めた。
空にまで渦巻く暗黒は巨大な魔法陣をエレミヤたちの頭上に形成し、夥しい霊魂をも吸い上げていく。
「消えよ。《インディグネイトグラット》!!」
開戦の狼煙と呼ぶにはあまりにも強大な古の魔術が草原に落とされた。
巨大な暗黒の玉が空から生まれて大地に触れた瞬間、泡が弾けるように全てを死に導く呪いを撒き散らす。
草木は枯れて土へ帰り、大地は腐り灰と化す。
騎士たちが爆風を浴びただけで気を失っていく。
魔法陣を見上げてぼんやりと立っていたエレミヤと二人の兵が飲み込まれていくのを誰もが目にしており、直撃では間違いなく生きていないだろうと確信するほどの惨状だった。
マジックスキル・呪《インディグネイトグラット》
魔王軍の力を知らしめるための恐るべき呪詛の前に消え去った敵軍の将を嘲笑い、サウザーレが杖を掲げて号令を下そうとした。
「わーお。痛そー。当たったら大変だねー」
緊張感のない声が横から聞こえてきたことに動きを止め、骸骨の顔が右隣へと向けられる。
「でもあれだね。バハラルカほどじゃないね。昔何回か図書館から出てきたことあったんだけど、すごかったよー? 詠唱止めないと呪いと即死の雨あられで、ちゃんと用意してなかった勇者を片っ端から殺しちゃったんだから」
「なかなかに素早いようだが、所詮は這いまわる鼠と同義。死を超越せし我に及ぶものではない。惨めに足掻かずこの絶望を受け入れ――」
「【クロニクルネクロマンサー】ってさ」
腰から抜いた二本のナイフを握り締めて、エレミヤはキャスケット帽を深く被り直す。
「物理的な攻撃に高い耐性があるだけで、無効にできる訳じゃなかったよね」
「……馬鹿なことを。この身は既に死へと捧げ、死そのものとなった。我が魂は斯様に弱き刃で切り裂くこと叶わぬ」
「ふふーん? そう。でもアタシは知ってるよ。アンデッドも殴れば死ぬってこと。あんたみたいなのは魂の壊れ方が変わっただけで、死の概念になれてないってこと」
本当の死とは、あの地下図書館に潜む怪物を指すのだ。
本当の不死とは、あのいけ好かない老人のような生物を指すのだ。
手の中で踊るナイフの魔術刻印が強く明滅していく。
鮮やかな黄昏にも似た魔力が、死を自称する闇の魔術師を照らした。
「その耐性を抜けない奴しか回りにいなかっただけってこと、冥土の土産におしえてあげるよ」
カロンから既に勅命は下りている。
――一切の加減は不要、と。
まだ開戦の合図はないが、ちょっとした余興だとエレミヤが姿勢を低く落として両足に力を込めた。
「ほざけメス猫め!」
マジックスキル・呪《カオティックオーラ》
「ざんねーん! アタシは猫で狐だもんねー!」
骨の隙間から噴出した瘴気から距離をとったエレミヤは、刻印以外の目立った装飾がない地味なナイフを逆手で握り締め、標的をしっかり定めて舌舐めずりをする。
余裕綽々なその表情をすぐに恐怖で染めてやらんと、サウザーレは杖の先から無数の亡霊を魔弾に変えて無作為に撒き散らした。
乱雑に放たれる弾丸には全て、対象の動きを鈍らせる“重躯”の毒が込められている。
一度でも触れれば確実に足を重くして行動力を奪えるものだ。
面で制圧するように、激しい着弾音を鳴らしながら機関銃のように射出される弾雨。
その中を、エレミヤは踊るように飛び跳ねながら疾走する。
視界を埋め尽くす凶弾の合間をすり抜けて、地に足がつくたびに徐々に加速し、次第に追い回す弾道を追い越していく。
サウザーレが狙うよりも早く、目で追うよりも速く、意識が向くよりも疾く、いつしか視界に金色の軌跡だけを残し、もはやどこにいるのかさえ分からなくなるほどのスピードで草原を縦横無尽に駆けた。
「うっ、ぐう!」
適当に狙いを定めようにも、風も音も置き去りにして独走するエレミヤを視認できなくては無駄撃ちにしかならない。
広範囲を吹き飛ばす魔術に変えようとサウザーレが魔力の放出を止めた。
瞬間、金の帯は失われた心臓が一つ鼓動を鳴らすよりも早くサウザーレの周囲を埋め尽くし、真正面から獰猛に笑うエレミヤが飛び出した。
感情が驚愕に切り替わる間も与えず、逆手に握られたナイフが振るわれる。
ウェポンスキル・短剣《エグゼクエクス》
左右二本の刃から放たれる六連撃がサウザーレを襲った。
健康的な痩身から繰り出されたスキルは無防備な骸骨に直撃する。
だが、サウザーレは僅かに動きを止めただけで、エレミヤの全力を受けて平然と立っていた。
「死の権化たる我を殺めること、何人たりとも能わぬ。蒙昧な獣よ。足掻くことなく死を受け入れ――」
ウェポンスキル・短剣《エグゼクエクス》
間髪入れず放たれた二度目のスキル。
ウェポンスキル・短剣《エグゼクエクス》
ウェポンスキル・短剣《エグゼクエクス》
更に二度。
ウェポンスキル・短剣《エグゼクエクス》
ウェポンスキル・短剣《エグゼクエクス》
更に二度。
繰り返し繰り返し、最短の攻撃間隔で発動する六連撃がサウザーレの言葉を遮って骨の体に放たれる。
常ならば、魔力に覆われた体に攻撃が届くことなく徒労に終わるはずだ。
計三十六の剣閃は実に卓越したものだと称賛の一つでも送ろうと思っていたサウザーレだったが、言い表せない体の違和感に暗い眼窩が揺れた。
「それそれー」
ウェポンスキル・短剣《テトラジーヴァ》
ウェポンスキル・短剣《八掛連舞》
ウェポンスキル・短剣《ウーデンエンネア》
ウェポンスキル・短剣《ツェーンヴァンダーファルケ》
異常なほどの手数と技が斬撃の網となってサウザーレを襲い続ける。
絶え間なく斬り続けるエレミヤの顔に疲労はなく、息もつかぬスキルの連発の中でも凶暴な笑みを浮かべたままである。
彼女だけが持つ唯一無二のスキル、《天衣無縫》。
全ての攻撃行動が二回発動し、稀に攻撃と防御を行わないというリスキーな能力。
だが、最速を誇る【フクスカッツェ】の彼女にとって一切のデメリットは存在しない。
この金獣を捉えることなどできない。
拳闘に次ぐ手数の多さを持つ短剣が組み合わさり、全てを速さに注がれて育てられたエレミヤの手を止めることも、できはしないのだ。
「うひはー! 最高に自由だー! あーっははー!」
「ぬぅ、効かぬわぁ!」
鬱陶しいと払うように振ったサウザーレの杖の先から再び死霊の弾丸が放たれるが、エレミヤは瞬きするよりも早く姿を消す。
そして探す暇も与えず忽然と姿を現し、またも神速の連撃を骸骨に撃ち続ける。
上機嫌なエレミヤの攻勢は留まることを知らず、次第に動きは苛烈さを増した。
細かいステップが徐々に跳躍へと変わり、それがサウザーレの全方位から飛びかかる金の帯へと変わっていく。
シャラリと鳴り散る刃の火花。轟々と溢れる金色の雷。
これこそが《天衣無縫》の獣人。“孤高”の戦場こそエレミヤが最も愛する殺し合いの舞台だ。
「もっと! もっともっと命賭けて遊んでよ! お前の死がアタシに届くか、アタシの死がお前に届くか! ねえねえねえねえねえねえ! あっはあ! 楽しいでしょ!? ほらほら、笑えよ死に損ない!」
前後不覚に陥りそうなくらい、あらゆる方向からご機嫌な少女の声とナイフの風切り音が聞こえる。
物体を捨てて魔力で生まれ変わり、全て魔力によって構成されたクロニクルネクロマンサーに死を与えるなど不可能なはずだ。
どれだけ傷付こうと世界に満ちるマナがすぐに塞ぐ。それは治癒ではなく修復に近い。
その力によってサウザーレは魔王軍の幹部に名を連ねた。誰もが恐れる死そのものとなって、あの悍ましい大陸で多くの魔物を支配してきた。
だが。
「な、んだ! 何をした!」
何百年も前に捨てたはずの肉体。
その頃に持ち合わせていた気がする感覚が、魔力で作られた体から感じ始めていた。
焼けるような、刺すような、疼くような、痺れるような。
神経も存在しない骨から意識に伝達されるこれを、昔痛みと呼んでいた気がしていた。
「おのれおのれおのれおのれぇ!」
マジックスキル・闇《イグゾーストゲヘナ》
カオティックオーラよりも強力な、奈落より呼び出した暗黒の波動が天を貫く黒き柱となってサウザーレの全身から立ち昇る。
昼のレスティア大陸に一時の夜を生むほどの強大な魔力の奔流。触れたもの全てを昏き牢獄へと捕らえ、永劫の闇の中を彷徨わせる禁忌の魔術。
この世界で、この禁術を扱えるのはサウザーレしかいない。
「残念でした。それ、おじいちゃんも得意なんだよねぇ!!」
だが、発動した時点でエレミヤは範囲のギリギリにまで退避し、ナイフの切っ先を指で挟み投擲の構えを取っていた。
ウェポンスキル・短剣《ティラドルインノバシオン》
個体保有スキル《クード・フードル》
オーバースローで投げられたナイフは、彼方まで届く一縷の矢と化した。
闇を貫く黄金の閃光はサウザーレの腹部を穿つ。
禁断の魔術が消えた時、残されていたのは黒いローブの下で崩れた骸の姿だった。
人間も、魔物も、これは破滅を齎す戦いだと感じた。
終わりが訪れたのだと誰もが思った。
しかし、彼らにとってこれは始まりである。
小さな大陸で起きる、ありふれた戦争の幕開けでしかない。
腐り、抉れ、爛れた草原の上。
存分に暴れて満足したエレミヤが、頬を上気させながら両の手を大きく広げて空を見上げた。
「さあ、始めよう王様! エステルドバロニアの戦争を!」
その叫びに応えるように、天に現れた巨大な円環。
真紅に輝く state of warの文字がレスティア大陸の天上を覆った。
「始めよう。我々の戦争を」
遠きサルタンの王宮にて、黒衣の王もまた呟く。
跪く配下と、この地の王族を睥睨しながら、YESを叩き押した手に震えはなかった。