16 暴計
食事は大切なものだ。
命を食べるのはただ空腹を満たして栄養を摂取することではなく、血肉となってくれたモノへの感謝が必要だと。
それをハルドロギアが知ったのはつい最近になってからだった。
祈るように手を合わせて、「いただきます」と口にする姿が不思議で尋ねた時に返ってきた話だった。
その場にいた誰もが、王の尊さに感銘を受けていただろう。彼女もその一人である。
だから、彼女は感謝しなければならない。
どれだけ価値のない命でも、いかに脆弱な命でも、糧となる以上は感謝が必要なのだ。
だから、これでもハルドロギアはグウェンタに対して敬意を払っている。
「ありがとう残飯さん。貴方の命は微々たるものでも大事に使うからね」
赤黒い肉から生える無数の牙が、祭壇の前で転がるグウェンタから引き抜かれてハルドロギアの腕を形成していく。
付着した血を小さな舌でペロリと舐めとり、柔和な笑みを浮かべた。
「それにしても不思議ね。キマイラって擬人化できるほどの知性も能力もないと思っていたのだけれど、貴方だけは特別なのかしら」
キメラも本来は擬人化する能力を持たないのだが、それを隠してハルドロギアはひたひたと部屋の中を歩き回りながら話を続ける。
「その魔王を名乗る魔物はどんな力なのかとても興味があるわ。魔物を作り出せたりするの? それとも力を授けたりできる? 気になるわ、とっても」
返答は苦しげな呻き声と絶え絶えな呼吸音。
うつ伏せに倒れたキマイラのシルエットはだいぶスマートになっている。
離れた場所では、数十年ぶりの食事を喜ぶような咀嚼音が壁と床から聞こえていた。
「食べた物の記憶を引き継いだり出来るなら苦労しないのだけれど、そこまで便利ではないのよね。だから素直にしゃべってもらえないかしら」
聞こえているのかいないのか、グウェンタからは悪態も吐かれない。
残された足に力はなく、膝を立てようとしては失敗し、それがどこか虫を連想させる。
先程まで激しく攻め立てていた巨漢は見る影もなく、幾度も腕を食い千切られたことで多大なダメージを受けていた。
スキルによる再生も追いつかなくなり始めており、アドバンテージの全てを奪われたグウェンタがこの規格外の化け物を制するには、腕六本では到底足りなかった。
壁が、天井が歯を剥いてゲタゲタと声を上げる。
淡く儚げに口元を動かすだけのハルドロギアに変わって、ハリボテの傲慢を笑いの種にして。
「ぐ、ぅ……貴様など、貴様、如きぃ……!」
ようやく言葉にできたのは、現実を受け入れがたい自尊心だった。
ハルドロギアはつまらないといった風に肩を落とし、一周して部屋の入口まで辿り着いたところで足を止めた。
手遊びに回された槍が笛のような風切り音を奏でる。
燭台の火を奪われて唯一の光源となった魔法陣の赤に照らされ、薄気味悪い肌の白さを際立たせている。
「歯ごたえだけじゃなくてユーモアにも欠けているなんて。魔王軍の幹部は皆こうなのかしら? それとも貴方が特別無能なの?」
「我は、っ、第八席を預かる魔獣ぅ……魔王様より授かりしこのっ、力が……小娘風情に……負けはせんのだぁ!!」
怒りに狂い放つ咆哮が石を激しく振動させる。
一瞬にして生え揃った腕で地面を殴りつけて体を起こし、ハルドロギア目掛けて武器に形を変えた腕を勢い良く伸ばした。
鞭に、鎌に、斧に、銛に、剣に、鈎に。
不規則に蛇行しながら、コルドロン連峰に君臨していた獣すら一撃で屠るほどの威力が込められた渾身の一擲が無防備な痩躯へ襲いかかる。
だが、細い腕が軽く掲げられただけでハルドロギアの周囲を覆うように地面が盛り上がり、全て受け止めてしまう。
見た目こそ石と土の集合体だが、ゴム鞠のような弾力と芯のある硬さは筋肉に一番近い感触をしている。
煉瓦ほどの厚さしかない壁が防げているのだから、何かしら変質しているのは間違いなかった。
しかし悲しいかな、それが分かってもグウェンタにできるのは実力で押し切ることのみである。
魔王より与えられた“隷”の力は剥いだ皮を触媒にしなければ使えないし、魔物同士の戦いに耐えうる力も込められない。
グウェンタ以上の脅威が現れることなど、想定していない能力なのだ。
「聞き飽きた言葉よ」
壁の隙間から覗いた黒の眼帯に描かれた紋章がグウェンタに真っ直ぐ向けられている。
全身に走った怖気がグウェンタに危機を知らせるが、もう遅い。
伸び切った腕を狙って、天井からギロチンが落とされた。
もう五度目の切断でも痛覚が鈍ることはなく、何度でも鮮烈な激痛を脳に注ぎ込んだ。
しかし声だけは絶叫の連続で掠れており、喉から絞り出したような音は声と呼べないものになっている。
白黒に明滅する視界に映る赤。
それはグウェンタ自身の血であり、そして祭壇から放たれる魔力の色。
この受肉した霊廟が破壊できなければ、グウェンタが魔王より与えられた任を完遂することは叶わない。
このままただ挑むだけではどうにもならないという弱気な思考が走ったと同時に、グウェンタは倒れ込むようにして祭壇の下に刻まれた魔法陣の上に膝を付き、残された魔力を一気に注ぎ込んだ。
赤熱するように光を強めた魔法陣は急速に魔力を内燃させていき、円の中に書かれた魔術式を起動させていく。
「は、ははは、ははははは! ざまあみろ! これで貴様らは終わりだ! 人間の王も、お前も!サルタンも!」
地獄の門は開かれた。
それも、二つ。
異界より雪崩込む怪物の群れはたちまちレスティア大陸を侵食し、この地を混沌へ導くだろう。
「いいだろう、貴様への勝利は諦めてやる。だが! この戦争の勝利は我らが戴くぞ!」
このキメラがどれほど強くとも、閉鎖した空間でなければ猛威を振るえないと見抜いたグウェンタは、自分の命を捨てて計画の遂行を選んだ。
外で結界を破壊した魔物が合わさったとしても、暴虐の津波を押し止めることは出来ないだろう。
加えて、連峰の向こうも同じように地獄の行進が始まる。
「甘かったな小娘! 儀式を破壊しなかった貴様の罪だ! 魔王の軍勢に震えながら――」
甘かった?
部屋そのものを文字通り取り込んだ魔物が、いつまでも祭壇を放置していたことが?
その気になればいつだって壊せたんじゃないのか?
輝く真紅の光を浴びながら、達成感の失せた合成獣の顔に戦慄が浮かび上がっていく。
身を捩って振り向き、ひたひたと近付く影を見る。
その答え合わせは短い言葉で終わった。
「ありがとう。待ちくたびれていたの」
ウェポンスキル・槍《フォールドーン》
高く飛び上がったハルドロギアは槍を構え、這うグウェンタ目掛けて全霊で放った。
頭部を貫く一投は陽光のような眩い白銀に輝いて地面へと突き立つ。
灼けるような熱の中、軽い身のこなしで地面に降りたハルドロギアが振り返ると、高密度の魔力によって炭になった魔物だったモノを飲み込む床。
そして、捲れ上がった地面の繭に包まれて、この騒ぎの中でも呑気に眠り続ける“天禀”の勇者。
歯応えがあったとは少々言い難い相手だったが、ともあれハルドロギアの目的は完遂された。
魔王軍の将を殺し、転移門の魔術を発動させ、勇者の身柄を押さえることに成功している。
「何かおねだりしても怒られないかな……でも、もしお父様に嫌われたりしたら、あぁどうしようかな」
ハルドロギアは恥ずかしそうに身を捩りながら祭壇の守りを解いていく。
「……あら?」
そこに、スコラの姿はなかった。
攻撃の最中に吹き飛ばしたかと思ったが、祭壇の上には白い布だけがそっと置かれているだけで、どこを見回しても落ちていない。
地面から引き抜いた槍をくるりと回しながら彼女は意識を集中させる。
この部屋は全てがハルドロギアの肉体に等しい。
屋内での防衛戦で無敗を誇るハルドロギアの《侵食牙城》を容易く突破できるはずもない。
それこそ、宮殿を丸ごと吹き飛ばして屋内の定義を変えてしまうくらいのことをしなければ出ることも入ることも不可能だ。
アポカリスフェ公式チートの名は伊達じゃないのである。
では、何が起きているのか?
考えはある。
「ふふ、私を追って入り込んだ鼠が、閉じ込められて右往左往しているのかしら」
視認はできなくとも感触はある。
残忍な胃袋の中でこそこそと動く何者か。
その位置目掛けて、予備動作もなく槍が投擲された。
槍は壁に突き刺さってビィンと音を立てて振れる。
その穂先が何かを壁に縫い止めたことも肌より敏感に感じ取るハルドロギアは、壁に回収されて地面から生えてきたもう一条の槍を掴み、今度は分かりやすく投げの構えを取った。
「お父様と愉快な競争を約束していたそうだけれど、これはどちらの勝ちなのか教えてもらえる? ねえ、鼠さん」
「……そりゃ、こっちの勝ちだろう?」
魔術を解いて姿を見せたのは、マントで包んだスコラを腕に抱くハインケン・グレイクロウだった。
山賊姿ではなく、宵の兵の制服である黒と赤のボロ布をいくつも重ねたような禍々しい格好をしていた。
「私のすぐ後に忍び込んだのね。さすがと言ったところでしょうか」
「これでも暗殺が生業なんでな。あんたくらいの魔物を誤魔化せたのは自慢できそうだ」
「私、魔術得意じゃないもの。でも、それで逃げるタイミングを逸してるのは無様だけれど」
「さすがにこんな切り札使われちまったらな。あの魔隷将軍を子供扱いするのは予想できなかったぜ」
本当なら、もっと早く助けだして逃げるはずだった。
しかしハルドロギアが外周を逃げ回りながらもスコラから意識を逸らさず、その後は祭壇を正面に据えるように戦われたせいで機を逸し続けたハインケン。
こうして狡賢く、スコラを先に助けたのは自分だと言い包めるしか方法がなかった。
これでハルドロギアが殺してでも奪い取ろうとすれば話はそれまでになる。
いつ壁や床が襲ってくるのかと気が気じゃないハインケンは、額から流れる冷や汗が目に入っても不敵な顔を作り続けた。
「貴方のそれを助けたと言うにはお粗末じゃないかしら。まだ脅威は去っていないでしょう?」
「まさか。競争相手に手を出す卑怯な真似を、おたくの王様は許さないだろう?」
「そうね。お父様はお許しにならないでしょう。でも、貴方が魔王軍の幹部に殺されたのなら仕方がないと思わない?」
「……それは誰の言葉かね。あんたか? 王様か?」
「それは教えられないわ」
「そうかい……とにかくスコラ様の身柄は俺が確保した。救出には確かに協力してもらった。勝負はどちらが先に身柄を確保するかだ。つまり、助けたかどうかは別だってことだ」
「それを言うなら、この部屋を支配下においている時点で私が確保しているのと同義よ。あのキマイラを殺した時点でも貴方はその勇者に触れてなかったじゃない」
「あれを確保してるとは言わないだろ。自分の庭に隣の子供が玩具を落としたからって所有権主張する奴はいねえよ」
「家主が怖くて玩具が取り返せなかったくせに、人が入れ変わった途端取りに来るのもみっともないわ。ずっと落ちてたんだから私の庭になった以上は私のものよ」
「あんたには不要なものだろ」
「家主はお父様、私は庭を与えられた番犬。ご主人様が欲しがる物を届けるのは義務よ」
「じゃあそのご主人様は、スコラ様を嫁に迎える気でもあんのかい? 帝国の姫を欲しがるってことはそういう意味じゃねえのか?」
「なっ!? お父様がそんなことするわけないわ! 魔物と生きて魔物に全てを捧げてくれた尊いお人なのよ! 人間の女にうつつを抜かすなんて」
「つまりあんたほどのいい女にも手を出してないってことか。女の経験少なそうだったもんな。もしかしてまだだったり?」
「はっ……そっ……まっ……いえ、その可能性は捨てられないんじゃないかしら。ルシュカも梔子も、それどころかフィルミリアだって閨に呼ばれたことがない。じゃあカロン様はずっと未経験……? まさか、それは……いいのかしら。悪いのかしら。どう受け取るのが正しいの? あれ? えぇ?」
思いもよらぬ糸口に閉口してしまったハインケンだっが、すぐ気を取り直してそのまま交渉を持ちかけてみる。
「あー、まあ、そんな懸念があるなら、ここは俺に捕られたことにした方がお互いのためじゃねえか?」
「それはできません。エステルドバロニアの王が求めたことは事実。いかに王がその女を……その、だとしても渡すわけにはいかないわ」
「ちっ」
しかし、王の命令に背くことは断じて許されないハルドロギアが提案を飲むことはなかった。
(右往左往するが、最終的な地点だけはブレない最強の忠犬か。羨ましい限りだ)
しかし、こうなると押し問答にしかならない。
結局のところ、
「……いいでしょう。その審議はお父様につけていただきます」
ハルドロギアが忠犬である以上は主人の意向を尋ねるほかなく、疲れたように頷くハインケンにとっては望んでいた展開となるのだ。
槍が引きぬかれて自由になったハインケンは、大事に抱いていたスコラを両腕で抱え直し、霊廟の支配を解いていくハルドロギアに尋ねてみた。
「なあ、なんで魔法陣を使わせたんだ?」
「質問の意図が分からないのだけれど」
「魔王軍を迎え入れるなんて、余計な面倒と危機を招くだけだ。グウェンタさえ殺せば丸く収まるじゃねえか」
ハインケンからすれば、この少女が弄んだ魔王軍の幹部は十分に脅威だ。加えて帝国が国境でどれだけ苦しい戦況に陥っているのかをその目で見ている。
あの軍勢が押し寄せれば、エステルドバロニアの王が用意している駒だけで抑えられるようには思えない。
「ああ、それ」
問いかけに答えようと振り向いた少女の顔は不定形だった。
異常なまでに裂けた口。不揃いな複数の眼球。
部屋に流し込んでいた自分の一部を回収しながら再配置しているせいで、体のところどころが赤黒い異形と化していることに気付き、ハインケンの口の端が引き攣っていく。
「お父様がお怒りだから。ただそれだけよ」
忠犬と呼ぶにはあまりにも禍々しい怪物。
それを平然と手駒にするあの男への評価をまだ上げなければならないし、触れるべきではないと国に上奏することも検討しなければならない。
なにより、これが最上の戦力じゃない可能性を考えることが恐ろしい。
魔物への悔恨さえも恐怖で忘れそうになる。そんな気持ちを抱かせる化け物と、どう戦えばいいのか。
この戦の中で得るものは、きっと死んでも知りたくないようなものばかりになると、ハインケンはクスクスと愛らしく笑う化け物を見ながら感じてしまった。
◆
霊廟の祭壇で発動した魔術は、レスティア大陸の地下に張り巡らされた地脈を駆けて北へと向かった。
グウェンタが残されていた魔力の全てを注いだ魔術は、霊峰を境にして東西に枝分かれし、大きな土の山に埋めて隠された魔法陣に力を与えた。
突如として立ち上った二本の真紅の光柱は、その下に眠るものを引っ張り上げるように天へと伸びる。
大気を揺らし、世界に満ちる魔力を震わせながら赤い魔力の綱によって地面から引きずり出されるのは、何体もの悪魔が貼り付けられた惨憺たる異界の門。
怪しく鳴き声を上げる巨門の先は憂いの都。そこには永遠の苦患に溢れ、暮らすは滅亡の民である。
まさしく地獄の門であり、絶叫にも似た開扉の音がレスティア大陸中に響き渡った。
リフェリス王国に暮らす民も、貴族も、兵士も、騎士も、誰もが世界を混沌に導く魔の産声を感じ取っていた。
それは絶望の幕開け。始まりの晩鐘。終の呼び声。
選ばれた者だけが立ち向かうことを許される獣の群れがどれほど恐ろしい存在なのか、それを初めて感じたのだ。
それは、異界より現れるであろう巨大な門への恐怖なのか。
否である。
感じ取るのだ。禍々しく、おどろおどろしい暴魔の気配如きを鋭敏に感じ取れる人間など多いわけがない。それほど才覚を持つ者が多いはずがない。
その恐怖を沸き起こさせたのは、もっと身近に侍る死である。
今、この王国を取り巻く化け物の群れが、ついに大きな戦争が始まることを理解して抑えが効かなくなっていた。
唸り、吼え、叫び、猛り、もうひた隠す必要がなくなったのだと吹き荒れる魔力を漂わせていた。
かつて広大な大陸一つを蹂躙せしめた破壊の化身が本来の姿を曝け出す光景を、恐れずにはいられないのだ。
そして、人間と同じように恐れ慄く魔物が一体、城の中を蠢いていた。
「どうする? どうする? どうすればいいと思う? グウェンタは上手くやったの? 何も分からない、何も何も何も? こんなのどうすればいいかなんてわかるわけないよ?」
少年とも少女ともとれない幼稚な声で困惑を口にする黒霧の害虫は、逃げ道を探すようにあらゆる場所を巡っていた。
魔王軍の幹部であり、勇者ですら抗えぬ魔術を行使できる正体不明の魔物に余裕はなかった。
襲った狼の女くらいなら容易く殺せる。その上位種と思わしき狼も殺せる、と思っていた。
だが。
「どこへ行けばいい? 魔王様に連絡できない? いや、ぼくなら殺せるじゃないか? だってぼくは強いんだよ? でも、でも……ぼくは殺されないでしょ?」
うねる黒い霧は答えのない自問に振り回されて定まらない行動をとっている。
その口調や声色の幼さは知性の程度にも直結しており、複雑な思考が出来るほど成熟していない。
だから、この混乱の原因が理解できていなかった。
力とはひけらかして当然のものだ。魔物として生まれながら、周囲に配慮するなど愚の骨頂といえる。
故に、エステルドバロニアの在り方は理解できない。
わざわざ力を押し隠して、ひ弱な人間に付き従うなんて無駄で無意味で無価値だ。
そう考えながら、黒霧の虫獣は無意識に逃走することに重きをおいていた。
(グウェンタは成功したんだよ? ここから魔王様の蹂躙が始まるんだから、ぼくはぼくの役目を果たすべきじゃないの? 魔幻将軍を任されるカルバランが、この城の人間を殺して……)
城の裏手にあたる細い回廊の天井を潜っていた虫獣は、空から何かが降ってくるのを感じて慌てて飛び出した。
次の瞬間には、自分のいた回廊は落下してきた巨大な何かに破壊された。
初めて姿を顕にした黒い霧はガスのように不定形だが、シルエットはどことなく蟷螂を思わせる。
魔王より魔幻将軍の座を与えられたランク7の異形種、深淵を渡る凶虫【アンゼルマータ】は、瓦礫を踏み鳴らしてくる青と白の大狼から目が離せない。
「おいおいおいおい、どこに行く気だよ虫けらぁ。これからが本番なんだからもっと遊んでってくれてもいいじゃねえか。それにカロン様を引き離しやがったことの仕返しも済んでねえぞぉ? なぁおい、今更無事にエステルドバロニアから逃げ果せるなんて、思ってねえよなあぁ!!」
大槌が横に振られただけで突風が巻き起こる。
抑え切れぬ怒りは魔力にも態度にも現れており、烈火の如く憤る【クロセル】の咆哮は昨日まで余裕ぶっていた蟷螂を心の底から震え上がらせた。
「ムカつくムカつく、何もかもがムカついて仕方ねえんだよ!! 雑魚がどいつもこいつも俺たちに歯向かってきやがってよお! こっちが優しくしてりゃあ付け上がりやがって!!」
今日まで我慢してきた感情が、ついに枷を外されて世界へと吐き出されていく。
“短気”と“獰猛”を与えられていながら今日まで我慢できていたことが奇跡に近い。
それほどこのグラドラにとって、王を奪われた怒りは尋常なものではなかった。
その怒りに油を注ぐように、溜め込んでいたフラストレーションの種が全て思い起こされていく。
臆病な人間の姿。のうのうと生きている下手人の存在。大事に残していたおかずを横取りしたエレミヤの態度。無気力な守善の顔。
後半は私事だった気がするが、漏れ出る蒼炎の魔力は呼応するように激しく揺れた。
「は、は。ぼくを殺せるわけないじゃんか? ここはぼくのテリトリーだよ? 闇を歩くぼくに、地に足をつける犬が触れることだってできないさ?」
その存在感に気圧される蟷螂の虚勢。
相性で言えばアンゼルマータの方が優位だ。
ここはまだ王城の中。狭い回廊を抜けても戻っても屋内に繋がっており、ハルーナと戦ったようにいくらでも翻弄できる。
ましてや魔術が使えず物理しか手段のない鈍重そうな相手となればなおさらに。
だが、憤怒を撒き散らしていたグラドラが突然鎮まり、灰の三白眼を心底愉快げにひん曲げながら、深く重い残虐な笑みを口に浮かべた姿に恐怖が増した。
「じゃぁぁぁ、長く楽しめそうだなぁ?」
憤怒の大狼と闇潜みの蟷螂。
それは奇しくも、サルタンと同じく幹部同士の戦いとなる。
同時に、王国へと魔物の恐ろしさを知らしめる地獄の始まりになるのであった。