15 キメラ
サルタンの宮殿、イル・ナ・バーネムの地下に作られた空間は、本来王族の墓地として利用される予定だった場所だ。
死してなお国を見守り、今度こそは侵させないという願いと決意の表れ。
冷たい空気の満ちる暗い石の広間。そこには誰も埋葬されていない。
代わりに、祭壇が中央に鎮座している。
天板には大きな魔法陣が彫り込まれており、その上に横たえられた女から流れる血の魔力を燃料にして赤い光を放っていた。
白い薄布に透ける引き締まった裸体に血の気はなく、胸の上下も緩やかだ。
失われた腕から命の源を多く流しながら、まだ女には息がある。
「なかなか死なんな。さすが“天凛”の勇者といったところか」
横たえられた女を見下ろすのは、六腕の異形であった。
獅子の脚を持ち、蜥蜴の尾を生やした怪物の顔は、虎のようでも竜のようでもある。
不規則に並んだ牙を剥いて、獣は己を脅かす存在を手中に収めた優越感に笑う。
「スコラ・アイアンベイル。異国の娘に情を移して無様な最期を迎えようとしている哀れな女よ。貴様のお陰で陛下の計画は成就する。憎き勇者ではあるが、そのことには感謝しておこう」
グウェンタが与えられた計画の予定では、全ての用意が整うのはまだまだ先の話だった。
魔王陛下より賜りし秘奥【冒涜の傀儡】でサルタンの住人の皮を奪って入れ替わらせ、残る肉を魔力の回収に利用することでこの大がかりな仕掛けを発動させる手筈だったが、幸運にもスコラを手に入れたことで大幅に早まってくれた。
この魔術【オブリビオンゲート】が作動すれば、大陸の外れに魔王領と繋がる転移門が出現し、レスティア大陸の西はたちまち魔物の跋扈する地獄へと変貌するのだ。
兵力を北に集中しているニュエル帝国を南から落とすのは容易い。
魔王の誇る精鋭を一気に投入し、頼みの綱だったスコラ・アイアンベイルを失った帝国を蹂躙し、この世界の覇権を一気に奪う。
人魔戦争の雪辱がついに果たされる日が間近に迫っていた。
「あの勇者どもが我らの領域に施した封印もようやく解ける。災厄の獣は目覚め、大罪の化身も動き出す。新たな魔物も生まれ、大戦の頃より遥かに強大な力を得た! どれだけ勇者の血が継がれようと、所詮薄まった廉価の集まり。今度こそ我らの悲願は果たされる!」
ニュエル、アーレンハイト、カランドラ、リフェリス、ヴァーミリア、カムヒ、サタルハーツ、グリオン。
全て、悪しき混沌の闇に染め上げるのだ――!
燃え上がる復讐の気炎を上げるグウェンタ。
しかし、突如感じた魔力の気配に舌を鳴らした。
皮は全て活動させており、今この場にはグウェンタしかいない。
スコラ・アイアンベイルに付いてきた役に立たない護衛たちかとも思ったが、魔力の質は人間と異なっていると感じた。
「……ふん。王国から流れてきた奇妙な奴らか? カルバランめ、鬱陶しいものを送りつけよって」
正体を探ろうと何度か試みてもついぞ知ることのできなかった招かれざる客が、すぐにグウェンタの脳裏に浮かぶ。
王国で工作活動をする同じ魔王軍の将によって流刑された人間と機械。
ハインケン・グレイクロウの手で始末する手筈だったが、想像よりも手強かったせいで今もサルタンで悠々と活動している謎の二人組。
グウェンタ自身も王女と王子の皮をけしかけてみたが、確かに手強そうな相手ではあった。
存在を知られる可能性を懸念して放置することを選んでいるが、もし大々的に動くのであればどうにかして排除しなければならない。
あの程度であればどうとでもできる。その自信があるからこその静観。
王国で活動している同胞が余計なことをしなければ、このようなリスクを背負うことはなかった。
その苛立ちが窪んだ眼窩の下で歪む紅蓮の双眸に浮かぶ。
「なにやら宮殿内の人間の気配も減っておる。ファザールめ、何か画策したな? まあいい。どいつもこいつも、もう必要がないのだ。門が開けば手ずから殺し……て……」
絶対的な強者として君臨する己の力を確かめるように筋肉を引き絞るように収縮させて拳を作るグウェンタだったが、膨れ上がり続ける魔力に言葉尻が窄んでしまった。
城の外、港に近い位置に発生した魔力の収束は異常な速さで、爆発的に膨れ上がっているのを感じ取る。
グウェンタと能力で操る皮人間で視覚の共有ができない。
半自動で動く彼らから一体何が起きているかを知るには、手元に引き寄せて自分と接続する必要がある。
魔王より賜った能力は不完全で、力に胡座をかいていたグウェンタは訓練などしなかった。
その弊害が今初めて現れており、何が起きるのか判断できない困惑に襲われていた。
――その魔力が、一直線にサルタンの宮殿を覆っていた結界に衝突した。
地上で巻き起こる容赦ない破壊の轟音。
有象無象を消し去る慈悲のない破滅の閃光。
それは、グウェンタの想像を遥かに絶する絶対的な強者の力であった。
一年かけて魔力を注ぎ練り上げた、魔隷将軍渾身の防護魔術。それが激しく軋みを上げている。
宮殿最上部に刻んだ術式の基点となる魔法陣は唸りを上げて抵抗するも、ほんの僅かに押し返すに留まり、ついには抉り取られた。
用を成さなくなった結界は泡のように空へと消えていく。それをグウェンタも感じ取る。
「な……なんだ!? 一体何が――」
「驚くことはないでしょう?」
死にかけた勇者と魔王軍の将しかいない空間に、知らない声が響き渡る。
静まりゆく轟音の中でもはっきり響いた幼い声の主は、ひたひたと冷たい足音を立てながらゆっくりと墓所の入り口から歩いてきた。
闇から現れても尚黒い装束。眼帯に浮かぶ六芒と龍の紋章。捻れた二条の槍。
「何者だ!」
六腕を広げて構えたグウェンタに、少女の姿をした獣は優しく囁いた。
初めて与えられた大任に酔った熱を帯びた声で。
闘争に心を躍らせる様を振り回す槍の風切り音に込めて。
「それは死出の花道に添えますね。だって、その方が悔しがってくれるような気がしますから」
華やぐように無邪気な笑顔はとにかく幼い。
放つ存在感に反して、その中身は“童心”の塊だ。
ちぐはぐな姿にグウェンタは半歩無意識に足を下げたが、小娘風情に恐れるなどと祭壇を飛び越えて青白い少女の前に立ちふさがる。
噴き出した灼炎の魔力が壁の燭台に火を灯し、相対する二体を鮮やかな赤に照らした。
「噂の、人間が率いるという哀れで惨めな野良犬の集まりか。この魔隷将軍グウェンタに、このような貧弱な飼い犬しか用意できんとは」
そんな奇怪な連中にスコラを奪われるなど恥でしかない。
威圧するグウェンタに向けて少女がとった行動は――嘲笑。
瞬間、グヴェンタの右三腕が注連縄のように捩れて、少女を殴った。
硬質な衝突音が響く。
鐘のような硬質な金属音が肌寒い地下に木霊し、鍔迫り合う軋み音が残響の奥から聞こえてくる。
大岩も粉砕する一撃は、確かに相手を捉えている。
だが、自分の上半身ほどもある螺旋の拳は右足と右手を支えにして構えられた槍によって受け止めていた。
王より賜りし黒の槍は湾曲しているが、決して折れる様子はない。
笑みを崩さぬ人を装う異形の少女に、グウェンタは初めて認めるような表情を作った。
「ぐはははっ! 今まで歯ごたえのない肉だったが、貴様はなかなか美味そうだ、なぁ!」
強く踏み込んで更に力が加えられると、少女はそれを利用して後方に飛び退いた。
宙返りをして着地すると、グウェンタの行動を虚勢だとせせら笑う。
少女の形をした貪食の怪物【キメラ】のハルドロギアはまたクルクル軽やかに回した槍の穂先をグウェンタの首に定めた。
「本当は人間の食べかけに手を付けるのは趣味じゃないのだけれど、残飯が魔王を名乗るのは見過ごせないわ。だから――死ね」
これが彼女の初めての晴れ舞台。燃えないわけがない。
臓腑を怖気に震え上がらせる合成獣の咆哮に、ハルドロギアは果敢とも思わず一足飛びで挑みかかった。
◆
「結界の消滅を確認。ハルドロギア様の侵入成功……イージーですね」
コードホルダーは、砲撃の衝撃波で揺れる夜明け色の髪を靡かせながらバイザー越しに宮殿を確認して無機質な声で呟いた。
彼女が立っていた民家の屋上は衝撃に耐えきれず吹き飛んでしまったため、今は細い爪先から浮遊の力場を発生させて宙に浮かんでいる。
露出の激しい黒い鋭角の装甲を纏った戦闘態勢のコードホルダー。
その背には巨大な金と銀の砲塔を搭載していた。
巨大なミスリルの刀身とは違う、バックパックユニット【リベリオン】の超長距離射撃形態。
その威力は推して知るべし。
「人的被害ゼロです、マスター」
そう言って視線を下げた先、黒衣の王は「ふむ」と呟いて周囲に侍る黒い獣たちに合図を飛ばした。
幾重にも障壁を構築してた彼女たちはそっと王から離れ、恭しく跪く。
王は。
カロンは。
コンソールウィンドウ越しに宮殿を見つめて呟いた。
「始めちゃったなぁ、俺……」
街が阿鼻叫喚に包まれているのを申し訳なく思いながら、跪く配下を見る。
そして、本来であれば城から出ることのない引きこもり部隊が援軍に来ると考えていなかったカロンは、意外そうな声を出した。
「しかし、第一団を送るとは。ルシュカも考えたものだ」
「我らは宝物庫の番人でもありますが、御身を守護することこそ我らの存在意義」
「御身の居られる場所こそが我らの魂の居場所っす」
「どうかお許しいただければ。ルシュカ様は我々の想いを汲んでくださっただけなのです」
「なに、怒ってなどいないよ」
カロンが城から出なかったからキメラたちも城から離れる必要がなかったが、今回は違う。
周囲に体を溶け込ませることが可能な彼女たちであれば山脈を突破するのは造作もないし、邪魔にならず行動することも容易であるため、この状況では最適な人選と言える。
この場に居るのは八体。残りはもう一つの役割である宝物庫の護衛の為に王城の最上階で待機中だ。
彼女たちがメンバーの選抜をするのに一悶着起こしたのは想像に難くないだろう。
「さて、と」
砲塔を消してゆっくり地上に降りたコードホルダーが跪いたのを見て、カロンは一つ咳払い。
彼女たちも気配が切り替わったのを感じて気持ちを研ぎ澄ませる。
「お前たちは私の護衛に専念してもらう。ついでに人間もな。ハルドロギアのように功績を上げる場を与えてやれんのは心苦しいが」
「そのようなことはございません。団長の功は我らの功。なにより我らにとって、御身をお守りできることこそが最高の誉れでございます」
副団長であるロイエンターレの言葉に、後ろに並んだ部下たちもブンブンと激しく頭を縦に振って同意を示している。
「ロイエンターレはいつも真面目だな。とにかく、お前たちを頼りにしているぞ。私も……まぁ、ここまで渦中にいるのは初めての経験なのでな」
「は! 決してカロン様に傷一つ付けさせぬと約束いたします!」
「うむ。そしてコードホルダーだが……少し待機をしていてもらいたい」
「何か気になることがございますか?」
「魔王軍がサルタンとニュエル帝国を争わせて漁夫の利を得る計画。それが事実なら、魔王軍はレスティア大陸に兵を送り込まなければならない」
だが、手段として海路を選ぶとは考えづらかった。
帝国に動向を掴まれる可能性がある手段に頼るほど愚かとは思えず、恐らく帝国には知られることのない経路を構築しているとカロンは読んでいた。
「これだけ派手にやればグウェンタとやらも焦るだろう。帝国の如何に関わらず、自分たちが漁夫の利を取られる立場になれば今までの苦労が水の泡だ。計画を前倒しにしてでも戦力の増強を図るはず」
高火力高機動。オールマイティーで活躍できるコードホルダーはその役割に相応しい。
エステルドバロニア本隊もすぐには到着するだろうが、帝国の暗殺者と約束を取り交わした手前ダラダラとはしていられない。
それに、敵に時間を与える必要もなくなったのだ。
圧倒的な戦力による示威行為を選択したことにより、魔王軍に悟られようがお構いなしに結界を破壊したため、カロンの前に浮かぶヘクスマップには全てが映し出されているからだ。
地下で行われている奇妙な儀式の正体も、コソコソと隠れていた魔隷将軍の種族も、全て。
「俺はありがたいけど、この世界からすればズルい力だよな」
プレイヤーの機能は、今やカロンの権能である。
特殊な力は覗き見に特化しており、対策をとらなければ何もかもが筒抜けだ。
魔王の配下と人間の配下に如何程の差があるのか、敵の全貌を捉えられぬ今は答えを出せない。
ただ、ウィンドウに映る戦いの趨勢だけは見ずとも容易に想像がついていた。
◆
燭台の火が、大きな怪物に襲われる少女の影を作り出していた。
激しい金属音と火花が飛ぶ荒々しい攻防。
その主導権を握っているのは、魔隷将軍グウェンタだった。
巨体に似合わぬ速さから繰り出す六腕の攻撃は、ハルドロギアに攻める隙を与えない。
形状が変化する腕は時に剣となり、槍となり、鎌や鞭にも変形し、変幻自在な攻撃が絶え間なく小柄なキメラに襲いかかる。
個体保有スキル《融合体Ⅴ》
個体保有スキル《魔隷》
スタンススキル《アイアンボディⅤ》
スタンススキル《ストレングスグラップルⅢ》
武器を持たなくても攻撃のバリエーションを増やすキマイラのスキル《融合体》に、肉体を更に自在に変化させる《魔隷》、更に防御を高める《アイアンボディ》と攻撃を上げる《ストレングスグラップル》と、グウェンタが備える強化スキル全てを惜しみなく開放していた。
この計画を邪魔されるわけにはいかないと、全身全霊をもって排除しようと試みる。
しかし、どれだけ多彩な攻撃を繰り出そうとも少女の体には一つも届いていなかった。
鈍い鐘の音を思わせる衝突音が、ぶつかる度にしなやかに撓む槍から奏でられては薄暗い霊廟に広がっていく。
小柄だ。ひ弱だ。しかしそれでも魔物だ。
病的に白い肌の細腕は軽々と二振りの槍を振り回して変幻自在なグウェンタの攻撃を的確に防ぎ、捌き、ぶつけてくる。
「小癪なぁ!」
ウェポンスキル・拳《アギト》
ウェポンスキル・拳《烈虎拳》
ウェポンスキル・拳《焼尽烈破》
右の三腕から放たれたスキルはいずれも中級上位に位置する強力な技。
それが同時にハルドロギアの胸目掛けて放たれた。
交差した槍が一層甲高い音を立てる。
一瞬の膠着。
堪えていたハルドロギアの足が浮き上がり、グウェンタの剛力は華奢な痩躯を壁まで吹き飛ばした。
錐揉みしていたハルドロギアがすぐに態勢を立て直して壁に着地するのを見て、すかさずグウェンタは跳躍して拳を振り翳す。
人間など容易く肉塊へと変える威力は標的のいない壁に突き刺さり、固められていた土と石が内から爆発されたかのように四散した。
「逃がさん!」
壁沿いに走るハルドロギアを追いながらもグウェンタの攻め手は一切隙を生まない。
逃げるよりも早く迫る六の武器に背は向けられないのか、やはりハルドロギアは槍で自分を守ることに徹しながら部屋の中を飛び回った。
ウェポンスキル・刀《アキシオンゲイル》
ウェポンスキル・槍《ブラッディスラスト》
ウェポンスキル・鎌《カーネイジ》
武器を持たなくとも、変形した腕からは対応したウェポンスキルを放つことができる。
様々な魔物が混ざり合って生まれる合成獣の利点を最大限活かして仕留めようとしているのに、攻撃をすればするほど薄まる手応えにグウェンタの息遣いが変わっていく。
一方的な展開に持ち込んでいるのはグウェンタで。
逃げ惑うのはハルドロギアなのに。
追う者から余裕が消えていくのは何故なのか。
(なぜだ、なぜだ! なぜ当てられんのだ!)
魔王が復活するまで闘争の止まなかった大陸で名を馳せた。
その実力に見合うだけの目を持っていると本人は思っている。
虫のように飛び跳ねながら防御に徹するハルドロギアと比べれば、グウェンタの方が速さも力もある。
にも関わらず、少しずつ手応えが薄くなっていくのを感じていた。
単純な力の差を埋めるとなれば、得体の知れない少女が何らかの特殊なスキルを使っている可能性がある。
それが何かを探るよりも早く、ハルドロギアは突然動きを止めた。
グウェンタは仕掛けに誘い込まれることを警戒して距離を取り、同じように足を止めて睨み合う。
ハルドロギアは入り口の前に立ち、グウェンタは祭壇を背にする。
奇しくも仕切り直すような形となった。
「逃げることしか能がないのか? 人間に飼われれば随分と腑抜けるようだな!」
自らを誇るようにグウェンタは吼える。
自分こそが強者であり、自分こそ魔王軍の将に相応しいと示すように。
強靭な獅子の脚。太く雄々しい蜥蜴の尾。筋肉で膨れた六つの腕。鋭い六つ目。
魔王によって与えられたこの肉体が負けるはずがない。
恐れるわけがないのだ。
自らを脅かすほどの力を持つ魔物が、あの極寒に聳える暗き城の外にいるはずがないのだ。
しかし、
「脆弱。惰弱。貧弱。それが全力なら相当な侮辱です」
ひたひたと素足を鳴らして地面の感触を確かめながら、右手に槍を二条まとめて握る黒い魔物はズレた眼帯を直してから呆れ混じりの嘆息を漏らした。
「そこまで言うなら一息に殺してみせてちょうだい。いつまで遊んでいるの? こんなのを将に据えるなんて、魔王さんも哀れね」
「その言葉、すぐに後悔させてやる!」
グウェンタは左右三対の腕を体の前で一つに纏めると、巨大な剣へと変化させた。
もうじき術は完成する。そうすればこの場所も、スコラ・アイアンベイルも不要になる。
この霊廟をハルドロギアの墓標に変えるつもりで、周囲もろとも破壊せんと最大級のスキルを使うために一歩大きく踏み出した。
「死ねぇ!!」
パチン、と指の鳴る音。
グウェンタは構わず大剣を振って俯いたハルドロギアの胴を狙う。
勢いをすべて剣に乗せようと右脚を踏み出す。
だが、感じられるはずだった地面の硬い質感はなく、グウェンタは視界が傾いていくのをスローモーションのように眺めた。
ゆっくり態勢が崩れていき、掲げていた剣は振り抜かれることはなく、腕を全て変形させていたせいで受け身も取れず冷たい石の床に転がった。
「ぐ、おおおお!!」
何をされたかは理解できずとも、何が起きているかはすぐに理解して、グウェンタは全神経を失った脚に注いだ。
すると、溢れていた血の代わりに肉が盛り上がり、樹木が伸びるように新しい脚が現れた。
キマイラの持つスタンススキル《融合体Ⅴ》は少量の体力回復効果がある。ゲームではHPの加減でしか確認できないものだが、実際には肉体にまで作用している。
苦し紛れに剣を乱雑に振り回しながら後退る姿は、ハルドロギアがしていたような余裕のある姿より大分劣るみっともないものだった。
動揺。困惑。不可解。異常。
(アレと同じで影を使役するのか? 魔術を使った痕跡は感じない。このグウェンタに劣るのになぜ対等に張り合える。いや、待て……まさか、この小娘……)
六腕を左右に大きく広げて構えながら懸命に探った果てに辿り着いた仮定。
その答えを示すように、ハルドロギアはゆっくりと腕を持ち上げた。
その動きに合わせて、石の床がめくれていく。
「貴様……まさか同種か!?」
合成獣は自然に生まれる魔物と違い、何者かの手を加えられて創られる特殊な生物だ。
グウェンタは自分と同種のモンスターを見たことがなかった。自分がかつての大戦の中で生物兵器として実験の末に生み出されたことを知っているからだ。
同じようなことを、人間の国が行っているとするならば、その力への渇望は魔王にも比類することになる。
「一緒にしないで」
それを、ハルドロギアは否定した。
「私は【キメラ】。【キマイラ】じゃないの」
しかし、グウェンタは「同じじゃないのか?」と思った。
「でも、貴方が悠長で良かったわ。私“臆病”だからしっかり用意を済ませてからじゃないと安心できない性分なの。これでもう邪魔者は入らないから、たくさん遊べるわね」
種族依存スキル《箱庭の守り人Ⅹ》
個体保有スキル《エリミネーター》
閉鎖空間でのダメージを大幅に軽減させる《箱庭の守り人》と、低い確率で対象を捕食する【キメラ】だけが持つユニークスキル《エリミネーター》。
個体保有スキル《侵食牙城》
そして、これこそが彼女を屋内戦最強の座に相応しいとカロンが手放しで讃える能力。
一定時間同じエリアに居ることで発動し、排除されるか移動しない限り一時的にそのエリアを自国の支配下に置くことができる《侵食牙城》。
防御に徹して時間を消費したことで、この霊廟は《エリミネーター》の力が合わさることでハルドロギアそのものになった。
どこへ逃げようと、どこに立とうと、胃袋と化したこの部屋に囚われれば消化されるのを待つしかない。
「それでは本気で殺り合いましょう。まあ、私食べるのは得意なので人間のように残すなんて真似はしないので安心してくださいね。ああ、それともお互いに食べ合ってみる? その程度の攻めで私に触れられるとは思わないけど」
築いてきたものまで奪われてまで生きているなんて惨めでしょう?――
ハルドロギアは無意識に祭壇にすがるグウェンタに、もう一度嘆息する。
殺すのが先か、思惑通りに動くのが先か。
早くしてくれないと文字通り食べ尽くしてしまいかねない。
早くカロンに会いたい気持ちと板挟みになりながら、贅沢な悩みだと不意に笑みを浮かべた。
そこには幼さなどない。
粘土をぐちゃぐちゃに捏ねたような、人の顔が崩れるほど歪な表情。
「せいゼい、頑張ッてチョうだイネ?」
燭台の炎が一斉に吹き消されて、部屋には祭壇から浮かぶ赤だけが光源となって二つの影だけが蠢いた。
咆哮。悲鳴。叫声。慟哭。
めきめきと、ごきごきと、ぎちぎちと。
暗がりの中で行われる光景は見せられるものじゃない。
乙女の食事は恥じらいと慎ましさに包まれているべきだから。




