14 取引
一夜明けて、重苦しい曇天の朝。
サルタンではいつも通りの日常が続いていた。
強いて違いがあるとすれば、この天気に滅入っているせいか、少し活気が足りていないこと。
それと、帝国の戦艦が港から姿を消したことだろうか。
住民たちにはあまり関係のないことだ。むしろせいせいしているくらいだ。
今この国でどんなことが起きているかも知らず、日常を謳歌するのは不思議なことじゃない。
ただ、どえらいことが起きてしまったせいでいつも通りとはいかなくなった者が宿屋にいた。
階段から誰かが降りてくる音を聞くたびに、『カーネラの宿』の店主リゲスは露骨な目線を音の方へと向けた。
それが目当ての人物じゃないと分かるたび露骨に気怠げな対応をするため、もう妻に四度もどやされている。
その度に反論したかったリゲスだが、奴には分かるまいと言葉を飲み込んだ。
そう。妻には分からないのだ。
朝に続いて夜にも目立つ二人組の対応をした自分でなければ分かるわけがない。
(えらいことになっちまった……)
別に何か迷惑を被ったわけじゃない。いや、イリシェナ王女に謝罪させていたのは迷惑だった。
その時点で聞きたいことは山ほどあった。だからもし王女を連れずに戻ってきたなら質問攻めにしようと思っていたのだ。
なのに。なのにである。
うだつの上がらなそうな男は、更に斜め上の状況になって帰ってきたのだ。
これをえらいことと言わずになんと言うのか。
再び聞こえた階段を降りる音。長年の経験からその数が四つだと察し、リゲスは姿を見ようと身を乗り出す。
先頭を切って降りてきたのは、仕立てのいい服を着た美しい貴族の娘。続いて黒いコートに黒い服の男。
そして、先頭の娘と同じスカート姿の娘が二人。
「に、兄ちゃん兄ちゃん!」
そのまま出て行こうとするのを慌てて呼び止めるリゲスに、男はげんなりした顔を作って渋々近づいてきた。
「何か用か?」
「いや、何かって……そりゃあよ……」
当然視線は男を待つ娘たちに向けられる。
増えた二人はどちらも褐色の肌。サルタン出身だからだろう。
顔は厚い白のベールで隠れていて見えないが、一人は背丈からしてかなり若そうだ。
改めて男の顔を見る。
昨日より疲れた顔をしているのはおいておいて、あまり美男子とは言えない容姿だ。
それがまさか、新しく二人も女を抱えるなんて。
てっきり尻に敷かれるだけかと思っていたのに、まさかこうも手が早い男だとは。
「……色々事情がある。できれば詮索はしないでもらいたいんだが」
「そりゃ、まあ、俺もこういう仕事してるからあれだけどよ……金も追加でもらったし。けどよぉ」
「頼むから、何も、聞かないでくれ。いいな?」
言葉の区切りに合わせて、人差し指がカウンターを叩いた。
どんな理由かリゲルに分かるはずもない。二人で睦まじく暮らしていくんだと思っていたその日に二人も女を増やしたのだ。相当込み入った何かがあるのだろう。
どうやってあの気の強そうな娘を納得させたのか。
いや、その時点で自分が見誤っていた可能性がある。
男は、泣きそうなくらい必死な顔だ。
そんな男にかける言葉は決まっている。
「分かったよ、聞かねえよ」
同じ苦労人のよしみである。
安堵するように表情を緩めた男に、ただこれだけは言っておきたかった。
「兄ちゃん……やるじゃねえか」
「嬉しくねえよ」
いいとこ出の人間というのは一味違うものなのだとリゲルはカロンから学んだ。
ぐっと突き出されたサムズアップに即反応したカロンの顔の険が更に増すのであった。
「よろしいのですか? 屑の商人を紹介したのはあの男ですが」
「今余計な面倒を起こす必要もない。それにあの商人が屑だっただけで店主が悪いわけじゃないだろう。世話になっているしな」
「了解しました」
町へと出たカロンは、特に宛もなくフラフラと歩きだした。
女を三人引き連れているのは物凄く目立つが、だからといって部屋に置いていくわけにもいかない。
自分が選んだが、わざわざ困難になる方を選んでしまったことを今更後悔している。
(なんで俺はややこしい方向に進もうとするんだ)
我がことながら奇怪であると、カロンの口からため息一つ。
「あの、カロン……様」
顔を隠していたイリシェナが恐る恐るカロンに話しかけた。
周囲を気にして警戒している彼女と違い、カロンとコードホルダーは全く気にしていない。
「揃って外に出るのは危険ではないのでしょうか」
「あの部屋を狙われる方が危険です。守り切る自信はありますが、逃げ道を確保できない状況に身を置き続けるのは余計なリスクとなります」
「ですが」
「それに、私は探知能力を持っており、マスターは私より遥か高次元の能力です。何かあればすぐに対処する判断ができます」
「そういうことだ」
人間三人を守るのはコードホルダーだけだ。
狭い場所では実力を発揮できないし、いざという時にカロンだけを連れて逃げるのも難しい。
手札が一枚だけの現状、爆弾を抱えたからにはとにかく安全を確保する必要がある。
(もう少しすれば援軍が来る。この二人を連れている時点で敵対は確定。俺が戦力を整えなくてもそれは変わらない。ただ厄介なのは、この二人以外にも擬態した魔物がいないかどうかと、もう一つ)
ふいに立ち止まったカロンに合わせて後続も止まった。
「少し仕掛けてみるか」
そう言って移動したのは、細い路地の奥である。
どう見ても休める場所じゃなく、イリシェナが不思議そうに首を傾げていると、カロンと目でやり取りしたコードホルダーが不可視の魔術を展開した。
四人を覆った薄い膜は周囲から完全に姿を消させる。魔術で調べればすぐに見つかるが、視覚ではヘマをしない限り気付かれたりはしない便利なものである。
カロンは再び歩き出し、路地を右へ右へと進んで再び大通りへ出て先程入った路地とは反対側の路地に入り、適当に積まれた木箱の上に腰を下ろした。
「とりあえず、昨日の話を整理しよう」
どういう行動かピンときていなかったイリシェナだったが、同じ格好をした小さな子の手を握って深く頷いた。
「今この国は魔王軍の支配下に置かれている。魔……魔……」
「魔隷将軍グウェンタ。六腕六目の【キマイラ】が、母を殺し、私たちから皮と声を奪い、イル・ナ・バーネム宮殿の地下でスコラ様を使って奇妙な儀式をしているサルタンの怨敵です」
「んん……そうだったな」
イリシェナが持っていた情報は、カロンがリスクを負って得ようと考えていたものだった。
昨夜、狭い部屋の中で、悔しさに涙を滲ませながら語る姿は胸を打つものがあったが、カロンは十分な見返りを得られたとだけ冷静に考えていた。
「父上は私たちが人質になったことで従うしかなくなってしまいました。スコラ様も、私たちの命と引き換えに自分を……」
「そのスコラとは何者なのだ。時折話に出てくるが、帝国から亡命してきた姫とお前たちの関係性が掴めん」
イリシェナは、話していいものか少し悩んだが、今はそんなことを考えている余裕なんてないとして、目を瞑って大きく息を吸い込んでから覚悟を決めて話し始めた。
「それは――スコラ様が“天凛”の勇者であり、対魔王軍の切り札だからです」
ニュエル帝国にとっての悲願は、サルタンと同じく失った大陸の奪還にある。
その為に帝国がとった行動は、兵器開発による戦力の増強。
そして、勇者同士の交配による血統の厳選であった。
世界を救った勇者の系譜に連なる帝国の貴族“十三英雄”の血筋同士を掛け合わせていき、強力な勇者を作り上げれば、かの九人の騎士すら越える者が誕生すると彼らは考えたのである。
「多くの子を作り、その中でも強い子同士で子を作る。近親であろうと構わず掛け合わせた末に生まれたのがスコラ様だと父から聞き及んでいます。世間には一切公表されていないため、彼女が勇者だと知る者はごく僅からしいですが」
「つまり、対魔王軍の武器として育ててきた勇者がサルタンに逃亡したため、帝国は大事な切り札を取り返そうとしていると」
「はい。初めの頃は帝国も力づくで連れ戻そうと侵略紛いの行為を行いましたが、スコラ様はその全てを返り討ちになさいまして。力では解決できないと知って、皇帝はいくつかの条件をつけてスコラ様のサルタン滞在をお許しになられました」
「大方想像はつくな。帝国の戦艦が堂々と港に停まっていたのだ。友好とはいかなくても、類したものなのだろうな」
期限付きの停戦か、もしくは通商か。定かではないが、魔王軍討伐の拠点にうってつけなサルタンをこれまで放置していたのはそれが理由なのだろう。
カロンの考えに、イリシェナは首肯した。
「これはサルタンにとっても都合のいいものでした。帝国と戦えるだけの戦力を上手く集められずにいた我々に時間は有用だったし、帝国艦隊を単騎で壊滅させるほどの力をもつ彼女を味方に付ける可能性も生まれた。穏健派も過激派も、スコラ様という楔によって強く繋がれたのです」
仮に彼女の排除に動いたとしても、帝国相手に大立ち回りできる勇者をどうにかできるわけがない。
図らずも帝国の姫君によってサルタンが延命しているのだから皮肉な話だ。
鈍色の前髪を弄りながら、イリシェナは蜂蜜色の瞳を伏せる。
国の実情は話せば話すほど内部の汚染に気付いてしまう。それを、平々凡々な恐ろしい男に見せぬように。
「あの」
二人の会話に割り込んだのは、イリシェナの陰に隠れていた小さな背の子供からだった。
声は中性的で男女の区別がつかない。姿だけなら少女だ。
しかし、カロンは彼に目を向けた。
「なにかな。ラシェラ王子」
「ぼくは、いつまでこんな格好を……」
スカートを広げながら悲しげな顔を上げてカロンを見るラシェラ。
偽物と違って丸眼鏡は付けておらず、整った顔立ちは美少女と言われても疑わない可愛さがあった。
とはいえ、ラシェラは紛うことなく男である。当然このような格好は不本意だ。
そんな思いの込められた問いに、カロンはさっくり簡単に答えた。
「私が保護していると知られぬようにしたいからだ。グウェンタとやらにとって貴様らはファザールを動かす鍵になる。わざわざ生かしておいたのだから、逃げたと知れば血眼になって探すだろう」
そう言って、カロンは先程寄り道した路地に目を向ける。
釣られてイリシェナとラシェラも覗き込むと、キャッキャとはしゃぐ子供たちがやってきた。
駆け回って遊んでいるように見えたが、路地の奥へ進むと不気味なくらい静まり返り、子供らしからぬ機敏な動きで辺りを捜索し始めた。
あまりにも気味の悪い光景に、イリシェナは思わず口を抑える。
「どうだ。判別できるか?」
カロンが問うと、コードホルダーは紫と橙のオッドアイから駆動音を鳴らして暫く見つめた後、ゆるゆると首を左右に振った。
「判別は不能。ですが、生体反応が他の人間と比べて微弱です。死に体、と表現するのが適切かと」
「私には全く区別できん。些か面倒だな」
「あの子たちは……」
「恐らく貴様らと同じ目に遭った子らの皮だろう。どうやって動かし、擬態しているのかは今のところ不明だが」
コンソールを操作しながら、雑談のような気楽さで口にされた内容に、イリシェナとラシェラは言葉を失った。
カロンは宿屋の店主の話から仮説を立てていた。
それは、人攫いの噂が魔王軍の将によって生まれたというものだ。
普通そのような噂があればもっと街が警戒してもおかしくないが、まるで大きな実害を被っていないような平穏だった。
肉人形を作れるとすれば、攫った子供の偽物を親元に送り返すだけで丸く収められる。
あまりにも非人道的な、しかし効果的な計画。
二日後には帝国が動き、サルタンは火の海になっていただろう。
そして本国から孤立した帝国軍を狙って魔王軍が攻め込むのだ。
カロンさえ現れなければ、おそらく魔王軍の目的は果たされた。
もっと魔隷将軍がカロンを警戒し、隠蔽することに注力していれば違ったかもしれない。
「【キマイラ】にあのような力は存在しないはずなんだがな。最上位種の【虚獣ザルガ】でも飲み込むしかできないし、そもそも六本の腕を持つ姿のキマイラはいない。形態を変えている可能性……守善や梔子みたいに変化しているとしても、なぁ」
「キマイラであるというのが詐称の可能性は」
「あるかもしれんな。種族を知られることは弱点を知られることになる。先んじて嘘を流布することで混乱させる魂胆があるかもしれん」
(でもそんなに賢くない気がするんだよなぁ。ガバガバというか、すごいしっかりした作戦を遂行していたわりに詰めが甘いというか……うーん、どうするかな)
「マスター、ヴェイオスより魔王領に動きありとの報告が上がっています」
「ああ」
「目標も移動を開始したようです」
「……探知されていたか。魔王軍の将より有能みたいだな」
「中級下位の魔術に相当する機能を探知できないほうがむしろ問題かと。警戒レベルを引き上げてもよろしいでしょうか」
「任せる。こちらに気付いているのであれば王女と王子の存在も察しているだろう。どこかで接触しようとして――意外と早かったな」
何が、と誰が問うよりも早く、コードホルダーの背に巨大な刀身が顕現した。
息を呑むイリシェナが慌ててラシェラを自分の後ろへと隠す。唐突な殺意に警戒するが、その切先はイリシェナと違う方角に向けられていた。
「また会ったな」
余裕に満ちたカロンの声に、苛立ち混じりの舌打ちが返される。
ゆっくりと路地から姿を現したのは、獣の皮で作った無骨な服を着た屈強な男。牢屋でカロンが出会った、頭領と思わしき勇者にも劣らぬ力を持つ男だ。
降参するように手を上げて出てきた山賊は、初めて出会った時よりも冷たい貫禄を放つカロンの姿にマスクの隙間から覗く目を険しくして憤りを吐き捨てた。
「大人しく出てってくれりゃよかったんだ」
「そうさせなかったのは貴様らだろう? 一体どこに属しているのかは知らんが、こうさせてるのはサルタンと、魔王と、帝国のせいだ」
「全部相手にすんのかよ。強欲は身を滅ぼすぜ」
「人間の世情に酌量を与える方が身を滅ぼしかねんと学んだところだ。悪いが、我らエステルドバロニアの流儀に沿って世界と相対させてもらう」
山賊が警戒するように剣の柄に触れたのを見て、カロンはせせら笑ってみせた。
初めて警戒に値する相手と認識されたのが不思議と嬉しく感じ、同時に敵対されたと認識したことで友好的な感情が掻き消えたようにも感じた。
その不快を誤魔化すには、笑うしかなかった。
「さて、二度目の邂逅だ。自己紹介をしてもいいんじゃないのか?」
山賊は周囲に視線を向けるが、その先に仲間がいないことはマップで確認できている。
目すら動かさずに相対するカロンとコードホルダーに、山賊は観念してフードを取り払った。
額に傷のある、精悍な男だった。
仄暗い赤髪にくすんだ灰の瞳。整えられたイカリ型の顎髭は清潔感があり、粗暴な簒奪者と呼ぶには身奇麗な容姿である。
姿を見せた山賊の顔を見て反応を示したのは、カロンでもコードホルダーでもなく、歯を剥いて憎悪を顕にしたイリシェナだった。
「ハインケン・グレイクロウ!? なぜ貴様がサルタンに!」
はっきりと名を呼ばれたハインケンはバツが悪そうに頬を掻くと、「こういうときは名乗らせろよ」と腰に手を当てて大きく嘆息する。
「まあ、あんたにはバレてただろうが改めて。ニュエル帝国軍中将ハインケン・グレイクロウだ。これでもニュエル帝国宵の兵の将でね」
そう言いながら腰袋から取り出されたのは、停泊していた戦艦に掲げられていた軍旗と同じ紋章の彫られたプレートだった。
イチゴの蔦で縁取られた銀のプレートが本物であることを確認して怒りを増幅させるイリシェナだが、それは恐怖の裏返しでもある。
悪名高い帝国の暗殺部隊を従える男が目の前にいるのだ。変幻自在の戦闘術を用いて数多を闇へと葬った殺戮のエキスパートを前にして、平静を保っていられるカロンの正気を疑うほどに恐れている。
が、カロンは恐れている余裕がなかった。
(あれ? サルタンじゃなかったの?)
てっきりカロンは、ファザールの子飼いなのだと思っていた。
魔王軍の者と何かしらの契約をして、サルタンを延命するために活動しているものかと。
加えて、宵の兵と言われても全くもって意味が分かっていない。
ひくひくと口の端が動いてしまうのを手で隠し、カロンは平静を装いながら必死に頭を回す。
知識を得ることに関してはチート級の能力があるせいで、知っていて当然な空気が流れているのを察してしまうと「なにそれ」とは聞けないのだ。
「……スコラを助けないのか?」
ここはお茶を濁そうと、関係がありそうな名前を出してみるカロン。
ハインケンは顎を引いて顔を俯かせると、横目でイリシェナたちを睨みつける。
「助けたかったさ。スコラ様がこの馬鹿なガキどもに絆されなけりゃ今頃俺もここにはいねえよ」
二人の生存をハインケンは知っていた。
それを助けも殺しもしなかったのは、スコラの思いと自身の役目の狭間で揺れていたからである。
この地に残り、何度となく説得を試み、しかし全て失敗に終わった。加減を知らない彼女の手で殺されそうになったことも少なくなかった。
それでもハインケンはスコラを連れ戻したかった。皇帝の命令とは関係なく、自由気ままな渡り鳥を、なんとしても。
彼女が身を犠牲にして救おうとしたものを殺せるほど、暗殺者は冷酷な人間ではない。
「魔隷将軍は俺と部下どもが束になっても勝てるかどうか分からねえ。サルタンに興味はないが、スコラ様だけはなんとしても助け出したい」
それは帝国の意志でもある。
サルタンへの侵攻は、この国に対する失望を示す行動であり、混乱に乗じてハインケンが救出に動く陽動も兼ねている。
だが、やはりグウェンタ相手に勝機を見出だせないのがハインケンの懸念だった。
だが、こうなれば方針を変えるしかない。
「エステルドバロニア王、俺と取引しないか?」
軽薄そうな態度でカロンに持ちかけるハインケンだが、その心の内は激しく荒れていた。
サルタンがニュエルを憎むように、ニュエルは魔物を憎んでいる。
魔王軍じゃないとしてもモンスターの手を借りるなんて本当なら選びたくないが、そうもいっていられない。
魔隷将軍よりも危険な化け物が暴れようとしているのだ。何もかも台無しにされるくらいなら、薄汚い獣の血をいくらでも啜ってみせると。
ただ。
「取引、ね。我々に利がない」
「帝国との衝突を先延ばしにできる。あんたの負担が減るんだから悪い話じゃないはずだ。お互い楽に目的が果たせるならウィンウィンだろ?」
灰の目と黒の目が交差する。
無駄な駆け引きは止めだと、どちらの眼差しも物語っていた。
「話にならんな。我々が貴様らの事情を一々汲んでやる道理はなかろう」
「いいや、あんただからこそ欲しい物がある。俺はそれを用意できる」
「欲しいもの?」
――勇者とは、神とはなにか、知りたくないか?
カロンの顔から笑みが消えた。
ハインケンの言う知るとはどの程度の内容か分からない。
だが、異世界からの漂流者であるカロンにとって、最も恐れる相手の真理に触れるものであるならば、喉から手が出るくらい欲しい物だ。
「帝国が見据えているのは魔物の駆逐じゃない。それを生み出す女神ゲルハの討滅だ。そのために勇者の力、その源泉がなにかを調べてきた。どのような条件で生まれるのか、どのような要素が覚醒させるのかもな」
ハインケンの取引は、空手形を口約束で取り交わすに等しい。
もし嘘であれば、ただ敵に塩を送るだけに留まり、カロンが都合よく利用された事実だけが残る。
(だが)
もし解明できれば、自在に勇者を生み出せるし、同様に生み出さない選択もとれる。
もし神に接触できるなら、この世界への影響力を手中に収められるやもしれない。
もし。
もしかすると。
たっぷり三分使って、カロンはようやく口を開いた。
「私は貴様を信用できん」
「当然だな」
「だからもう一つ条件を付けよう」
ハインケンが尋ねるより早くカロンは告げる。
「スコラ・アイアンベイルの身柄を我々が確保した場合、そのまま貰い受ける」
「……なに?」
「私はスコラとやらを魔王軍から救出する協力はする。だが取引はそこまでだ」
あくまでも、この取引は天凛の勇者を現状から助けるためだ。
帝国に引き渡すかどうかまで約束する気はなかった。
屁理屈だとハインケンは口にできる。
だが、スコラに一切思い入れのないカロンは宮殿ごと灰燼に帰すことに躊躇いがない。
取引を持ち掛けたのはハインケンだが、これに応じることを強要するのはカロンの方だ。
「なに、そちらが早く潜入して助ければいいだけのこと。難しい話じゃないだろう?」
ハインケンは、座るカロンを見下ろしながら殺気を放つ。
コードホルダーが太い首に刃を添えて構えるが、カロンは何食わぬ顔で鬼のような顔の男を見つめている。
死の体現である図書館の亡霊と比べれば、人間一人の放つ死程度では動じなかった。
「……殺したいほど腹立たしいが、頭の切れる奴は嫌いじゃない」
「私は私より馬鹿な奴の方が好きだがな。楽でいい」
「はっ! 確かにそりゃあいい。じゃあ、俺たちの為に精々調理してくれ」
そう言い残して、ハインケンは風のように屋根へと飛び上がって颯爽と走り去っていった。
それを見送って、カロンは目を離していたマップの情報を確認する。
サルタンの外れ、コルドロン連峰の麓に群がる青い点を見て、ゆっくり立ち上がると無防備に背を伸ばして大きく息を吐いた。
色々予定外のこともあったが、為すべきことに変更はない。
準備は整った。
あとはカロンが告げるだけで動き出す。
もう、神都の時に感じていた躊躇いはない。
――これがエステルドバロニアの覇道である。
「始めるぞ。蹂躙を」
と、意気込むカロンだったが、すっかり存在を忘れていた二人の視線に気付いてちらりと目を向けてみる。
「これが魔物の王……」
「すごい……」
勇者に匹敵する帝国の将軍相手に堂々と振る舞ってみせた平凡な男の姿に感じ入るものがあったようで、イリシェナとラシェラが畏敬の念を向けてくる。
居心地が悪くなって反対を向くと、そこにはオッドアイを激しく動かして映像データを高解像度で保存するコードホルダーの姿が。
「……」
王の振る舞いとは、見世物の側面もあるのだ。
それをこんな場面で学んだカロンは、どっと押し寄せる疲労に押し潰されそうになりながら、誤魔化すようにコンソールを操作するのであった。