13 動き
エステルドバロニアは、再び王を失った。
と言うのはかなり大袈裟である。
正しくは国を離れていると表現するべきだが、山を挟んで遠くの国へ転移したのは誘拐と言っても過言ではない、と王城内では認識されていた。
団長たちと連絡が取り合えているとはいえ、容易に会えない距離は実にもどかしいものがある。
護衛にコードホルダーが付いているが、一体だけなのはどうにも不安だ。
長いエステルドバロニアの歴史の中でも数少ない王の危機を前にして、カロンから行動を許されなかった軍はとにかく歯痒い思いをしていた。
しかし現在、精強な化け物たちはいつにも増して殺気立っている。
軍事塔の周辺を忙しなく動く魔物の、鬼気迫る形相で戦支度をする姿は、新たな脅威に立ち向かう勇猛さではなく全てを食い尽くす獰猛さに溢れていた。
そしてそれは、他の塔でも同じであった。
王城の執務室で、いつもはカロンが座る席に陣取って書類を捌くルシュカは、心を無にして作業に没頭していた。
カロンが転移したと聞いたときは怒りに身を任せて大陸を焦土にすると叫んでいたが、昨日から急に静かになり、それが逆に恐ろしいと警備の【リザードベルセルク】たちの間で囁かれている。
何かしらの進展があったことは、戦支度を指示された点から推測できるのだが、それ以上のことは一端の兵では知ることができなかった。
ただ、軍団長たちが入れ替わり立ち代りやってくるのを見て本気であるのは理解していた。
今も、三体の団長が執務室の方へと向かっていった。
国が一つとなって難事に立ち向かう。その為の大切な会議が日夜行われているのだろう。
警備の兵たちは、立ち入ることのできないエリアではさぞや高度な会話が飛び交っていると信じているのだった。
「行きたい行きたい行きたい行きたい! ねーいいでしょルシュカー、行かせてよー」
しかし、現実は非情である。
カロンに変わって執務机で書類を片付けるルシュカの前で駄々をこねる梔子姫の姿は、兵が思い描く凛々しさとかけ離れた醜態だった。
机の上に仰向けになって上体を乗せた姿勢でぐりぐりと体を揺する。着物の襟元から零れそうな胸が右へ左へと視界の中で動いている。
それでもルシュカは梔子姫に一瞥もせず、ただ判を押しては流していく紙だけを見つめていた。
「なんだよなんだよ。少しくらい話聞いてくれてもいいじゃないか! そりゃ、悪かったと思ってるよ。カロンに迷惑かけた自覚はあるよ。だから今ここで挽回したいんだ。分かってくれてもいいだろ?」
犬猿の仲ではあるが、カロンと共に国を興してきた古い戦友だ。
真剣な眼差しにようやく目を合わせたルシュカは、仕方ないというようなため息を吐く。それを見て梔子姫が期待に目を輝かせた。
が、
「邪魔だからとっとと消えろ雌狐。これ以上ぐだぐだぬかすなら簀巻きにしてバハラルカの背骨に括り付けるぞ」
「ぅおい! そこは許可してくれる流れでしょ!」
もうすぐで掛かりそうな梯子を外された気分の梔子姫が叫んだが、ルシュカはどこ吹く風といった様子で書類をまとめていた。
「神都で目立ってばかりだった貴様が行ってもカロン様の迷惑にしかならん」
「うぐ……」
「そもそも貴様の仕事は王国への工作だろうが。カロン様の自称親友だか知らんが馬車馬のように働け。そして死ね」
「お? そんなこと言っていいのか? カロン様の私物の匂いを嗅いでいた変態がいたってメイドが話してたけど、一体誰のことかなぁ?」
「城壁守護の副官が、夜な夜な団長の部屋から嬌声が聞こえて眠れないと相談されたが、それは誰だろうなぁ」
「こいつ……昨日までカロン様カロン様言いながら部屋で泣いてたくせに、随分と調子が良くなったものだ――」
「あ?」
「オーケー分かった。この話はお互い忘れようじゃないか。僕たちはいつだって完璧だ」
ジャキ、と撃鉄の上げられる音が聞こえて梔子姫は反射的に両手を上げて降参のポーズをとった。
一瞬で握られた黒鉄の銃口が額にピタリと狙いを定め、顔に影の指したルシュカの表情は心のないビスクドールのようだ。
事務的に淡々と殺される予感をひしひしと感じ取った梔子姫は、ダラダラと汗を流しながら黒い穴が顔から外されるのを待つ。
普段の小競り合いとは違うものを感じては、重ねて軽口を叩く勇気はなかった。
クールでパーフェクトな補佐であることが誇りであるルシュカにとって、か弱いとか何かの間違いでカロンの耳に入るのは絶対に許せない。
その為ならどんなことでもするぞと銃口をちらつかせ、ガクガクと顔を縦に振る梔子姫に満足してから武器を消し、何事もなかったかのように優雅な仕草で椅子に体を預けた。
「それで。まさかそんな話だけをしに来たわけではないだろう?」
「ふぅ。君は時々限度ってものを忘れるから困る……はいはい、分かったから手を向けないでくれ! ちゃんと仕事はしているとも!」
「それで、首尾はどうだ」
体を起こしてソファに移動した梔子姫は、長い獣の指をひらひらと振りながら疲れた顔で答えた。
「万全だよ。もう万全すぎて待ちきれないくらいだ。この世界に来てから一番大きな戦支度だから皆気合入りまくってるよ」
半分本気で直談判していた梔子姫だが、与えられた役割はしっかりとこなしている。
カロン直々に与えられた“王国への対応”という任務は今も続いており、新たに下された方針に合わせて彼女たちも臨機応変に準備しているのだ。
「それにしても二面作戦とはね。カロンも中々大胆なことをする」
「それほどカロン様がお怒りだということだ。寛大でお優しいカロン様の逆鱗に薄汚い手で触れるような輩をみすみす逃がすなどエステルドバロニアの名が廃る」
「でも、本当にギリギリまで兵を送らないのかい? グラドラたちにもカロンにも手は必要だろう?」
「カロン様への援軍は既に送っているから問題はない。王国の方だが……その時が来るまでは兵を動かさない手筈だ。あのコードホルダーが察知できない相手では、迂闊に動くと隙を突いて逃げられる可能性がある。網を張り終えるまでは好きにさせておかなければならん。確実に、確実に殺すためにな」
皆滾っている。今回こそは一切情けをかけず完膚なきまでに力の差を思い知らせられると。
どれだけ蔓延っているか定かではないが、多ければ多いほど殺しがいがある。
そして――
「早くカロン様のご無事を確認したい……」
戦いへの渇望さえ塗り潰すほどに、カロンへの思いが止まらない。
もし命令がなければ、国さえ捨てて駆けつけたかった。ただ一人を守るために全てを捧げたいと誰よりも強く思っている。
だからこそ、ルシュカは奔放に振る舞える梔子姫が嫌いなのだ。
遠距離恋愛に想いを馳せる少女のような表情に、梔子姫はつまらなそうに鼻を鳴らした。
彼女からすれば、純粋な恋をカロンに向けられるルシュカがズルいのだ。
そうあれと望まれて、そう作られた。だから【晦冥白狐】の在り方は正しいに決まっている。が、それとこの感情は別である。
「いっちょ前に女の顔してムカつく……ま、僕はカロンが無事ならそれでいいんだけどさ。それじゃこっちは魔術部隊の準備に移るよ……ん? 誰か来たみたいだ」
互いに嫌いなことを確認するだけに終わった二人のやり取りだったが、新たな乱入者の気配を感じて耳をそばだてる。
「――ら、ミラクルキュートな私が華麗にお助けするのが適任です!」
「はぁん! であれば超絶美男子の拙者が颯爽とお救いする方が似合うに決まっておる!」
「お下劣イカスメルジジイはお呼びじゃないんです!」
「なんだと噴水粘液淫乱娘が!」
「仮性包茎!」
「なっ、は、はぁ!? 拙者違うでござるし!」
「じゃあ確かめてもらいましょうか!」
「良かったなルシュカ。君の仕事はあの馬鹿の皮が被っているかどうかを調べることのようだ。それじゃあ私はこれで……いたたたた! やめろ尻尾を掴むな!」
「遠慮するなよ、仲間だろ? 活躍の代わりに割礼させてやるからもう少しここにいろよ……!」
「いやだー! いやだー! いくら僕でもそれはいやだー!」
カロンへの援軍を申し出に来たはずなのに、何故か剥けているかどうかの話にすり替わった会話。
この場から離れられないルシュカと逃げられない梔子姫の揉め合いは全裸の鬼が駆け込んでくるまで続いた。
その後どうなったかは、吹き飛ばされた城の一角を補修するルシュカたちの姿でご想像いただきたい。
◆
リフェリス王国の城では、地獄のような光景が広がっていた。
あれほど華やかだったホールには巨大な鉄の杭が何本も立てられており、そこには人間が括りつけられていた。
用足しと食事以外の自由を奪われ、入浴もできず礼装姿のまま過ごしているストレス。そこに加えて罪人が日に日に公開されていく恐怖。
魔物の国に敵対し、宰相に加担したとして晒される者たちも初めは無実を叫んでいたが、日が経つに連れて気力をなくして今はすっかり大人しい。
今やエステルドバロニアに支配されている現状だ。騎士団に立ち向かえと叫んでいた声も、今は完全に止まっている。
そんな勇気がある者はいない。
ホールを徘徊する、白と群青の毛を揺らす巨大な人狼を前にして叫ぶほど、愚かではなかった。
握られた大鎚が振り下ろされれば、五人くらいならまとめて挽き肉に変えられるだろう。
濃い血の匂い。荒々しい呼吸音と重苦しい足音。肌を刺す殺気。あらゆる感覚器官で暴力を感じ取れる。
標的にならぬよう壁に張り付いて震える人間を見回しながら、グラドラは駆け寄ってきた小さな人狼を見つけた。
「ハルーナか」
「団長、ルシュカ様から新たな命令が届きました」
「そうか」
「敵は動きませんね」
ちらりと王国の貴賓室を見て数を数える。ここを支配してから数は増えても減ってもいなかった。
人間は監視されていると思っているが、グラドラたちはむしろ守っているのである。
カロンだけが異常に気付くような相手ではどう動くかを察知するのは難しい。派遣された団長たちは皆魔術が苦手な者たちばかりだ。
不用意な行動を起こさせない目的もあるが、余計な被害が出てエステルドバロニアに疑いを重ねられる方が面倒になる。
「調べはついたか?」
「痕跡は幾つか見つけました。あの女魔術師の使っていた研究室をねぐらにしていたようですが、今は移動しているようです」
「さっさと見つけろ」
「お任せください」
どうにか堪えているが、グラドラの機嫌は相当宜しくない。
グラドラに限ったことではないが、カロンの護衛としての任を果たせなかった不甲斐ない己に憤っている。
ハルーナも、この大任を仰せつかりながら無様な失態を演じた自責の念に駆られていた。
「あまり、ご自分を責めないでください」
「どの口で言ってんだ。俺も、お前も、あいつらも、揃ってクソみてえな負け犬だ。噛み殺さねえと収まらねえ。そうだろ」
「……ええ、当然です。我ら鎖付きの獣。飼い馴らされた誇りを牙にて示すのが主に捧ぐ忠義なれば」
それが第二団。人狼の統べる鉄砲玉たちが口ずさむ群れの掟。
人間とは違う。理性で抑えても失わない。感情に流されても損なわない。
化け物の本能は、解き放たれれば容赦をしない。
「お前が要だ。なんとしても見つけ出せ」
グルル、と喉が鳴る。
頭上からかかる熱い呼気に、ハルーナは熱い眼差しで応えた。
「必ずや」
そう言って深く頭を下げたハルーナは、縋るような目をした人間を無視してホールを後にした。
ハルーナが次に向かったのは、カロンが連れ去られた薄暗い通路だ。
掌の中に浮かべた魔術式で周囲を調べるが、魔術の名残は一つしか感じ取れない。
それはカロンを転移させたお粗末な魔術だ。発動すら不安定で、転移した対象が指定座標に辿り着けない可能性だってあった。
石の中にいるなんてことになっていたら、エステルドバロニアそのものかどうなっていたか分からない。そう考えれば不幸中の幸いだっただろうか。
「……やっぱり感じない」
城中を調べて回っているハルーナだが、黒幕に繋がる情報を得たのは研究室で見つけた黒い粘液と女の証言だけだ。
虫のような黒い水、とセーヴィルは言った。
特徴的に聞こえるが、そんな姿を作れる魔物はゴマンといる。
知性を持ち、姿を消す不定形となれば本来の姿じゃない可能性もある。何か一つでも確実なものさえあればもっと絞れるのだが。
(さて……)
フラフラと一人でこの場所に来た。
ハルーナが何をしているかは相手も知っているだろう。
一切探知されないのが相手の強みだ。そのアドバンテージを失いたくはないはずだ。
狙いはエステルドバロニアとリフェリスの争い。その為に暗躍し、事件を起こし、エステルドバロニアに疑いを向けさせようとしている。
カロン転移以降一度も行動していない今、次にアクションを起こすとするなら――
「……きた」
ハルーナは小さく呟くと同時に、背後から感じた気配を避けるように勢いよく屈んだ。
頭上を通過した黒い粘液は薄く刃のように広がり、鞭のようにしなりながら壁を切り裂いた。
すぐに攻撃の魔術を両手に発動させて振り向く。
だが、そこには何もいない。
(攻撃した一瞬だけ。その瞬間は姿を隠せない。なら察知したと同時に仕掛ければ)
姿勢を低く構えて次の攻撃を待つ。無闇矢鱈と仕掛けるのは余計な隙を作るだけだ。
前後左右、どこから来るのか。
再び同じ気配を感じたのは、真下だった。
「クッ!」
下げた視線の先には鋭い穂先が形作られており、飛び退くよりも早く射出される。
顔の中心を狙って放たれた突起をハルーナは首を傾げてどうにか回避したが、裂けた頬から血が滲む。
(思った以上にギリギリまで接近される! どころか何も感じない!)
一定範囲に入れば見つけられると読んでいたハルーナだったが、敵は平然と彼女のパーソナルスペースに侵入し、そこから攻撃を繰り出すことができてしまう。
攻撃する直前まで察知できないなど、普通の魔物とは思えなかった。
立ち止まれば同じ目に遭うと判断して移動するが、不意を突くように突然視界に現れる刃が思うように動かせてくれない。
腹、顔、腕、足。
気付いたときにはもう放たれている攻撃。その位置にも法則がなく、本体がどこにいるのかも悟らせない。
灰狼の毛は徐々に赤く斑に染まり、舞うように避けながら何度か攻撃してみるハルーナだが効果はない。
魔術による広範囲攻撃を警戒しているのか、休む間もなく現れる黒い粘液は剣や槍や鎌を模して襲いかかった。
決定打こそないが確実に彼女から体力を奪っていく。
ハルーナも反撃は試みているが、敵の苛烈な攻めは一向に収まる気配がない。
逃げようと動くのに合わせて逃げ道に無数の茨が出現する。
加えて、視覚外から魔術まで飛んでくるようになった。低位のものだが、当たれば多少の傷は負う。
副団長の中で一番レベルの低いハルーナは、打開するだけの力を持っていなかった。
(ハルドロギア様のようなタイプだと魔術特化の私じゃどうにもならない……無詠唱で高威力の魔術が使えればこの場を吹き飛ばすことも……ちぃ!)
閉所で輝く魔物は多い。その最たるものが【キメラ】だ。
彼女たちが室内戦最強と言われるのは特化したスキルによるものである。
周囲を吹き飛ばしても、周囲に建造物があれば遺憾なく力を発揮するから国の最後の護り手を担っているのだ。
この魔物にはそれだけの力はない。スキルに物を言わせた細かい攻めばかりで、一撃で敵を仕留められる能力はないと仮定した。
相性さえ良ければ勝てる。しかし悲しいかな、ハルーナには絶望的に悪いのだ。
しかしそれは敗北を指す言葉ではない。
「命満たす陽の光をここに!」
個体保有スキル《月狼の巫女》
個体保有スキル《癒し手の極意》
マジックスキル・癒《ブライトヒール》
「!」
今まで積み上げてきた負傷が一瞬で消える光景に、初めて不可視の敵が動揺を見せた。
「天つ焔。華厳の烈火。三世一切無情の灰燼に帰せ。我が名において双眸に映す万物を払え!」
マジックスキル・火《アグニクラーダ》
それを見逃すハルーナではない。
すぐに術式を構成し、一足飛びに距離をとって詠唱を完了させた。
自身の正面を直線に焼き払う中位の魔術は吹き荒れる炎の奔流となって通路を埋め尽くし、そのまま突き当りの壁を吹き飛ばした。
パラパラと小石が落ちる。僅か数秒で触れたものを炭に変えた火力だが、周辺を消し炭にできる火力はない。
「やはり逃げられましたか」
ふぅと仕事を終えて一息ついたハルーナは、想像通りの結果となってしまったことを悔いていた。
彼女は勝つことはできないが、負けるわけではない。
魔術と言っても、回復に特化しているのが【ルナルーガルー】ハルーナである。
高威力の魔術は苛烈な攻めの中では使えないが、低位の治癒魔術を中位の効果に引き上げるスキルで継戦は可能だ。
出来るなら今のチャンスで傷を負わせたかった。
「まだまだ修行が足りませんね……」
だが、これで必要な情報は手に入れた。
灰を踏みながら近づいた場所には、脱ぎ捨てたような黒い小さな抜け殻。
この程度の火力で逃げ出すのなら、やはりキメラには到底届かない格の魔物だろう。
問題は、それがこの世界特有の個体かどうかだが。
「団長であれば、勝てるんでしょうね」
やはり修行がまだ足りないと、ハルーナは抜け殻を拾い上げながら、耳に手を添えて通信を起動させた。
「私です。手に入れました。はい、はい……これで恐らくは。はい、了解しました」
これでこちらのピースは揃った。
通信を終え、灰と化した惨状をもう一度見て、ぽつり。
「……これ、怒られませんよね」
賢くはあっても第二団の獣。
その場の勢いに任せてしまい、後になってから反省する点が出てくるのは、やはりグラドラの部下らしく、エステルドバロニアの魔物らしい部分であった。