9 事件
昨日は散々だったと、『カーネラの宿』の店主リゲスは禿げ上がった頭を掻きながら内心でぼやいた。
どこかの貴族が駆け落ちでもしたのだろうか。この国に貴族制はないから海を越えてきたか、万に一つで山を越えたか。どちらにしても、サルタンで暮らす人間じゃないことは一目で分かる装いの二人組が夜分遅くにやってきた。
それも、眠りこけた男を女が両手に抱えて、だ。
ただの駆け落ちというよりは、菫色のドレスを着た少女が黒い服の男を奪ったような構図。身なりの良さからどちらもかなりの資産を持っていると思ったし、それを受け入れたら面倒なことになるのも容易に想像がついた。
「あーあ、なんで受け入れちまったかねぇ」
妻にも息子たちにも伝えていないのは、多分自分がアーレンハイトから渡ってきて苦労したからだろう。誰の手も借りることが出来ず路頭に迷っていたところを救ってくれた妻がいなければ今頃自分は死んでいた。
その恩を誰かに返したいなんて、普段出てもこない優しさが悪さをしたんだと、男は後悔していた。
「あんた! カウンターに立ってんならダラダラすんじゃないよ!」
丸椅子の上でだらしない姿勢をとっているのを見咎めた妻から厳しいお言葉が飛んできた。
言い返したかったが、この店は妻が親から受け継いだ店で、自分は穀潰し。「へいへい」と返事しながら、昔の清純さをどこに捨ててしまったのかと哀愁を感じた。
少し姿勢を正して、真面目に仕事するふりをしながら隠れた手元で知恵の輪をいじる。こうして暇を潰しながら妻に言われたとおりにするのが仕事なのだ。
暫くすると、店の奥にある階段を誰かが降りる音がして顔を向ける。
「来たかぁ……来るよなぁ……」
頼むからあの馬鹿みたいに悪目立ちする服装じゃなくなっていてくれと、リゲスは強く目を瞑ってから階段を確認する。
降りてきたのは、あの派手な服装とは少しだけ違っていた。男は黒いコートのままだが、少女のほうは白いブラウスにダークブラウンのボディス、丈の長い紺のスカートと地味なものへと変わっていた。
頭にもスカートと同じ生地のスカーフを巻いた、いわゆるディアンドルという民族衣装。これなら街にも溶け込めそうではあるが、それを身につける者の美貌は人を惹きつけてやまないだろう。
リゲスも、思わず生唾を飲んで人間離れした容姿の少女を食い入るように見つめてしまった。
「昨夜は迷惑をかけたようだな」
目の前にまで来た黒尽くめの男の疲れた顔が目の前に来てようやく我を取り戻したリゲスは、大きな咳払いを三回喉から絞り出してから真面目な顔を作って取り繕う。
よく酔った客と殴り合いをしては妻にどやされることは棚に上げてニヒルな顔を作った。少女の視線が痛いが気にしない。
「気にすんな。金がもらえりゃ客は客だ」
「……そうか」
「にいちゃん、どっから来たんだ? 帝国ってことはねえだろうな」
「まさか。もし帝国民ならわざわざサルタンを選んだりしないだろう?」
「まあ、そうだな」
装いの厳しさは帝国に通じるものがあるが、確かに男の言うとおり帝国の人間が一番敵視しているこの国を選んでくるわけがない。
密偵なんかはいるのかもしれないが、こんなに目立つ格好で、あんなに目立つ登場はしないかと納得した。
「ところで、彼女が私に変わって支払っていたと思うんだが、何日分だったのかな」
「二日分だ。明日までは晩飯と寝床の世話をしてやるよ。それとももっと出してくれんのかい?」
「そうしようとは思うが、手持ちがあまり無くてね。どこかで換金できたら助かるんだけど、いいところを知らないかい?」
困り顔の男を暫く見つめたリゲスは、言葉の意味を理解した途端思わず大声で笑ってしまった。
やつれた男と見目麗しいの少女。名のある家柄の二人が着の身着のまま国を抜け出したなんて出来過ぎじゃないか。それも少女が男を抱えていたなんて、最高の喜劇だ。
そして、一文無しでサルタンに逃げてきた自分と、ほんの少しだけ似通っているなんて思った。
「ははははっ! とんだ逃避行だとは見てて思ったが、そうかいそうかい! はー、面白えなにいちゃん」
そんなにお金がないのが面白かったのかと不思議そうにする二人をよそに、リゲスは質の悪い紙を取り出すと愉快げに乱暴に文字を書き殴っていく。
走り書きで読みづらいのも気にせず、思いつくことを手当り次第敷き詰めた紙を乱暴に差し出していたずら小僧のような笑みを浮かべた。
「ほらよ。俺の知ってる宝石商の場所だ。あとうまい店とそれなりにいい服屋も書いてあるから行ってみな。まあ俺みたいなやつの行く店だから、あんたくらい育ちのいい野郎が行くとこじゃねえかもしれねえけどよ」
「ありがとう。すごく助かるよ」
「それと、余計なお世話かもしれねえけどよ。そのお嬢ちゃんから目離すんじゃねえぞ。ここは力がありゃ誰でも稼げる商売の国だ。いいとこだが治安はあんまり良くねえ。そんだけの別嬪さんならしっかり守ってやんねえと、気づいた時には値段付けられてるなんてこともあるって話だ」
「……そんなことが横行してるのか?」
「いいや、本当に誰かいなくなったなんてのは聞いたことねえし、所詮噂だけどな……けどよ、噂に聞けば十分だろう?」
意味深な言い回しの言葉に男は「なるほど」と一つ頷く。
「頑張りな。帝国民じゃなけりゃサルタンは誰でも受け入れる国だからよ」
「ああ、ありがとう」
男の笑みは、実に平凡だった。厳しい姿に似合わないくらい。
立ち去るその背中を見ながら、リゲスは昔の自分を重ねてみたが、あんなに穏やかではなかったと鼻で笑い飛ばした。
「へっ、頼りねえにいちゃんだ。けどまあ、だから逃げてきたんだろうけどよ」
あれは相当な金持ちだ。だが自力で稼ぐ人間のギラついた目じゃない。大方次男や三男で、互いに想い合う二人認められない恋を成就させようとしているのだろう。
「ちょっとあんた! 暇してるくらいならこっちの手伝いしなさいよ!」
「はいはいはい、わあったよ!」
ぼんやりと青春を感じるが、どうせ最後に行き着くのは嫁の尻の下だ。あの性格ならそうなるだろうし、あの気の強そうな嬢ちゃんならそうする。勝手な想像でしかないが、強く生きろよと同情しながら、リゲスは重い腰を上げて嫁の声のする方へのたのたと立ち去った。
外へ出た男と少女――カロンとコードホルダーは、手渡されたメモの情報をマップと照らし合わせながら移動を始めた。カロンが殴り書きされた文字を解読しながら先導し、その後ろを町娘のような格好のコードホルダーが周囲を警戒しながら追従している。
「マスター、まずはどちらへ」
「宝石商だ。資金を確保しなければどうにもならない」
「資金……」
「エステルドバロニアとこの世界では通貨が違う。まだ不明だが、リフェリスとサルタンでも違う通貨を使っている可能性もある。その辺りを探る目的もあるのだ」
「では我らの普段利用するバロニア通貨とのレートを確かめるのですね」
「いや、それはしない」
見上げていたコードホルダーは首を傾げた。
カロンはインベントリから一枚の金貨を取り出してコードホルダーに差し出す。
「我々が貨幣と認識していても、国としての信用がなければ所詮ただの軟貨……見た目の良いコインでしかない」
国の紋章が刻まれた精巧な金貨を受け取ったコードホルダーはまじまじと見るが、彼女にはやはり使い慣れたものにしか見えない。
「あの盗賊たちから貰ったという貨幣を覚えているか?」
「データフォルダに画像を保管しています」
「それを貨幣と言われたからそのように認識しただろうが、もし何も言われずに渡されたらどう思った?」
「ただのゴミです。銅貨にも満たない塵です」
カロンの顔が渋くなる。「そこまで言わなくてもいいんじゃない?」と。
「んんっ! まあ、なんだ。それと同じでな、貨幣の価値は互いの国同士で決めるものだ。それでようやく硬貨と呼べるようになる。それは王国との間で取り決める予定だったんだが……」
キリキリ、と胃が痛むのを感じて胸元を握りしめながらカロンは続けた。
聞きかじりの知識でお金の話をしているが、意味は通っているはずである。その浅い知識でリフェリス国王と騙し騙しやり取りするはずだったのに、どんな不幸かもっとおかしな事態になっている。
頼むから暴走だけはしないでくれとメッセージで送っているが、ルシュカや他の団長たちから頼りがいのある返事がくる度に余計に不安を煽った。
本当にままならない。むしろ今までがよく好転してくれていたと思う。どれだけ仲間たちに助けられていたのか嫌でも実感したし、その魔物たちを野放しにすることがどれだけ恐ろしいかも実感していた。
「ああああ……」
「マスター?」
思わず口から出た嘆きにコードホルダーが駆け寄ってきたのを手で制し、咳払いを一つ。
「とにかく、今はこの国で使われているお金が欲しい。これは最優先事項だ」
任せておけと笑うカロンの目には、自信もなければ生気もなかった。
◆
そして、意気込んで宝石商へと赴いたカロン。
その交渉術は完全に素人のそれであり、あまり繁盛していなくとも長く金品に携わってきた百戦錬磨の商人が相手では、悲しいかな絶好のかもと認識されてひどく安値で品物を買い取られる寸前までいった。
カロンの提示した品は純銀の小さな指輪や金のネックレス、真珠がひと粒付いたイヤリングと、なんとなくカロンが現代とも値段を照らし合わせそうなものを選んで出した。
商人は安く提示した金額に「それくらいなのか」と納得していたカロンを見てニヤニヤと笑っていたのだが、話が決まりかけた途端に態度を豹変させた。
突然の高額提示にどうしたのかと疑問に思ったカロンが後ろに控えていたコードホルダーを見るが、彼女は小首を傾げるだけで普段と変わらない。
よく分からぬまま好条件で取引を終えたカロンには見えなかっただろう。振り向く直前までお淑やかに控えていたコードホルダーの手が、商人が見たこともないような悍ましい形の機械になっていたことを。
結果、適正より高めに取引を終えた現在は宿屋の店主が書いてくれた酒場にて遅い昼食をとっているところであった。
「ふふ……」
薄暗く物々しい雰囲気の漂う土造りの店の一番奥にあるテーブル席で、カロンは商人から受け取った銅貨を指で弄びながら呟いた。
五百円玉サイズの銅貨には男の顔が右向きに彫られている。テーブルの上に置かれた銀貨には女性の顔が左向きに。金貨には正面を向いた、男とも女ともとれる顔が彫られている。
それぞれザハナ銅貨、ゲルハ銀貨、アーゼル金貨と呼ぶらしい。ちなみに他の国になると別の通貨があるようで、宝石商が「帝国通貨のほうがいいのかい!?」とキレながら言っていたのが印象的だった。
「結構高く売れるんだな」
カロンが出したアイテムは、インベントリから取り出せるアイテムであり、その中でも最もレアリティの低いものを選んだ。魔術加工も特殊能力もない、なんの変哲もないアクセサリだったが、それが金貨にして凡そ7枚ほどになるのは驚きだった。
装飾もされていない純銀の指輪が金貨一枚に相当したのは少し引っかかったが、サルタンでは貴重なのかもしれないと憶測したので、正しい答えには辿り着けなかった。
とにかくこれで暫くは安泰だ。酒場のメニューを見ても高いもので銀貨一枚ほど。殆どは銅貨十数枚なので、五日間くらいは問題なく生活できるだけの資金を得られたのでご満悦である。
「マスター、次の目標はなんでしょうか」
意識の外にいた町娘スタイルのコードホルダーの冷たい目が、一国一城の主がお金で一喜一憂するなと訴えているように感じて、カロンはささっと硬貨を懐にしまいこんで真面目な顔を取り繕った。
「次、か」
重々しく呟いてはいるが、正直カロンとしては食い繋ぎながら時間が過ぎるのを待てばいいだけなので、お金さえ手に入ればあとは特段深く考えているわけではなかった。
あの宿屋の店主や宝石商が帝国の名前を出してきたのは、自分の格好がニュエルの人間に近いからではと考えられた。帝国と敵対するサルタンでそのような勘違いを誰からも向けられるのは面倒事を引き寄せかねないし、なにより――
「どうかなさいましたか?」
どこにいても、コードホルダーが目立つのだ。
髪や目もそうだが、とにかく彼女の容姿が人目を引きつけてしまう。現に今も離れたところから様子を窺う男たちの視線が彼女に殺到しているのが分かってしまう。
人攫いが横行してるなんて噂なのだろう。ただ治安が悪いのは酒場の雰囲気から察するに間違いなさそうだ。
ギラつき具合が団長たちのように洗練されたものではなく、無闇矢鱈と振りかざす無遠慮さがある。
「できれば宿で大人しくしていたい」
そしてここにはもう来たくない。
「視察はなさらないのですか?」
「ミャルコの手が空いたらこちらに回せばいいだけだ。神都で嫌な目にあったからな、できれば穏やかに過ごしたい。王国への対応も指示しなくてはならんし」
「了解しました。マスターの命令に従います」
「よし。そうと決まれば早く食事をとってしまおう」
ひとまず話はここで終わらせて、カロンはテーブルに置かれた四隅がボロボロになったメニューを開いた。中には乱暴な字で記された聞いたことのない食材と料理の数々。見ただけでは肉か魚かさえ分からないので適当に頼むしかない。
うんうんと唸りながら悩むカロンをじっと見ているコードホルダーだったが、センサーに反応を感じて目だけで確認をした。
なにやら仲間と話しながら立ち上がって近づいてくる男が五人。集音してみれば、「あんな上物そうそうお目にかかれねぇ」などと下品な言葉を拾った。
「マスター」
「ん?」
「不届き者がこちらに向かっています」
「……まじか」
報告を受けてメニュー越しに確認したカロンは、すぐさま逃げるべきか否かをすぐに考える。
逃げても戦っても目をつけられるのは確実だ。そうなるともう街を歩けなくなりかねない。宿屋さえ知られなければ大丈夫だろう。
だんだんと迫る決断の時。カロンの意思が逃げる方向で決まり、口を開きかけたその時、新しい反応を捉えたコードホルダーが先に言葉を発した。
「マスター、屋外で反応が二つ、まっすぐこちらに接近しています」
「ん?」
「およそ十秒後に到着するかと」
「まて、なに、どういう」
「五秒前……三、二、一……来ます」
急展開についていけないまま、カロンは激しい破砕音とともに吹き飛ぶ扉を見た。
木っ端微塵になって真横に流れる破片が、哀れにも丁度入り口と同じ立っていたならず者たちを巻き込んで壁へと吸い込まれていく。
どよめきの矛先にはアラビアンナイトを彷彿とさせるターバンを巻いた二人組が、手にマカウィトルと呼ばれる木の剣に酷似した武器を握って酒場の中を見回していた。
「お、あいつか?」
ガラの悪さが声色に現れた女が、蜂蜜のような目でカロンを見て指を差した。黄色のターバンから鈍色のつんつんした髪をはみ出させて、アイボリーの長いマフラーの下に緑と黄で染められた水着のような薄い布地で胸と下半身を隠した彼女は、カロンの一番苦手なタイプの人間だ。
「みたいだね」
もう一人は少し知性を感じはさせるが、やはり女と似た雰囲気のある少年だ。
同じターバンとマフラー。女ほどではないが露出の多い、アリババのコスプレというのが一番しっくりくる格好。無気力な顔に丸眼鏡だが、知的さよりもいたずらっぽさが出ている。
二人組はキョトンとした顔のカロンの下まで大股で歩いてくると、手にした木剣を顔の前に突きつけて大きく声を上げた。
「お前か! 商人騙して高く売りつけたっていう帝国の間者は!」
「……ん? いや待ってくれ。それは何かの誤解だと」
「問答無用!」
「うおおっ!」
カロンが弁明する間もなく振り上げられた木剣。
逃げようと椅子から飛び退くよりも早く体に浮遊感を感じるが、そう認識する間も与えずギュンと加速して壁を破壊して店の外へと飛び出した。
ただの人間ではついていけない展開と行動に思考も出来ず、ただ今自分はコードホルダーに抱き上げられたまま空を飛んでいることだけ分かった。
「オーダーを。マスター、あの下劣な生き物を処分するオーダーを求めます」
「逃がすかー! ラシェラ、先回りしろ!」
「無理だよ姉さん、引き離されないのがやっとだ」
「サルタンの平和はなんとしても守るんだ! おら待てー!」
「マスター、ご命令いただければ十秒とかけずに黙らせます。ご決断を」
不幸。災難。それともご都合主義か。
お姫様抱っこをされて顔を手で覆い隠すカロンの中で巡るのは、どうして外に出ると自分はこうも厄介事に巻き込まれるのかという絶望である。
家から家へと飛び移る派手な逃走劇は人目を引き、町娘に抱えられた黒い男の姿もバッチリと見られている。
実は平穏なんてエステルドバロニアにしかないのではなかろうか。
ますます早く帰りたくなるカロンだが、このまま馬鹿みたいに珍事件を起こしているのだけは最悪だと、コードホルダーにとある地点を指示するのだった。
発売まであと一週間! 特設サイト公開まであと二日!
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