3 機巧
遅くなって申し訳ありません。
エイラたちから聞いたこの世界の事情は、カロンを色々と悩ませることになった。
文化、宗教観、変遷、思惑、どれもこれも異世界らしさ満点で、現代社会の事情すら正確に把握していなかったカロンが新しい知識を容易に受け入れられるはずもなく。優秀な部下に大分助けられることになる予感がしつつ、それでも出来る限り整理して少しでも記憶に残そうとした。
まず、一番関わりそうなアーゼライ教を信仰する国とどう対応するかが今後に大きく影響を及ぼすと考えられる。
魔術の発達した国と言う南のカランドラ。北東のグリオン。ラドル公国、リフェリス王国、そして神都。聖地を奪ったエステルドバロニアが今後どのようにアプローチしていくべきか、既に存在を知られている可能性も考慮しながら慎重に協議していく必要があるだろう。
それと、コルドロン連峰を跨いで同じ大陸に存在するサルタンも可能なら協力体制を取り付けたい。強大な軍事力を有するとさんざん脅されたニュエル帝国と手を組まれてしまうのはものすごく困る。
帝国によってイーラ大陸から追いやられてしまった難民が築いた国で、帝国を仇敵としているらしいが、魔物の国と天秤にかけた時どちらに傾くのかは不明だ。
遠交近攻とは言うが、遠交する相手がいないのは悲しいものがある。遠交が出来そうな獣人の国や亜人の国があるからなおさらに。
それに、適切な時期も判断できないのが困る。
空からの目はあるが、まだミャルコたち陸の目を送り込んでおらず、国の内情などが一つも入ってこない状況だ。同じ大陸で近場にある国だからと好き放題していたが、海を越えてとなるとどうしても躊躇してしまう。
どこかで決断しなければならないとは思うが、しかし……
「カロン様、どうかなさいましたか?」
ふっと意識が切り替わる。
声の先を探すと、後ろに控えていたルシュカがいつの間にか側に来て僅かに顔を覗き込んできていた。
視線だけで周囲を見れば政務室に何人もの軍団長が揃って自分を心配そうに見ているのが分かる。
リュミエールとフィルミリアが対面したソファの右側を、グラドラとエレミヤ、それに守善が左側を占領してきた。
左側は王国への往訪に同行する者たちだ。皆思い思いの難しい顔を作っていて、エレミヤに至っては頭を抱えて天井を見上げてまでいる。
何故そうなっているかといえば、右側に座る二人が原因だ。
「これがお肉用、これが魚用、これがデザート用です」
「……手で食えばいいだろ」
「グラドラさん?」
「食事の作法なんてねえだろ。食う飯が美味いか不味いかの方が重要じゃないのか」
「その美味しい料理を更に美味しくいただくために、周囲に配慮することが大切なんです。所詮魔物だなんて言われてはカロン様の名を汚すことになるのですから、しっかり覚えてくださいね?」
「いいですかぁ? 手はテーブルの上に乗せない! 背中を椅子に付けない! ナフキンは膝の上! 拭く時は内側の端! 中座するなら背凭れにかける! 音を立ててスープを飲まない! 啜らない!」
「待って待って待って、覚えきれないから一個ずつ言ってよ」
「いいえ待ちませんね! この超絶美しく最高に可憐な私に教えてもらえることに感謝しながら死ぬ気で記憶してください!」
「パンクするぅ……パンクするよぅ……」
地獄絵図だ。テスト前日に勉強を叩き込む優等生と、それに耐えきれず苦悶する出来の悪い学生を思い起こさせる。
テーブルの上には幾つもの食器がクロスの上に並べられており、リュミエールが一つ一つ手にとって説明しており、それを聞くグラドラは見た目通りに人間の作法を理解できない様子だった。
フィルミリアに至ってはマナー講師のはずが鬼軍曹じみたスパルタで、まくしたてられるエレミヤと守善は覚えるのに必死なようである。
どうしてこんなことがカロンの前で行われているのかと言えば、王国行きのメンバーに選ばれた団長たちにマナーを教えると言う話を耳にして、自分もマナーを覚えるためにと理由をつけてカロンが招いたからであった。
四時間以上拘束した詫びも兼ねて食事に招待したエイラたちの作法を見て、ルシュカが何気なく確認して得た情報を元に指導が行われているので、王国でも通用するだろう。
(しかし、これは本当に異世界なのか?)
そう。このマナーもカロンを悩ませる一番の原因になっていた。
東にある列島の国がカムヒであったり、西洋の貴族の作法であったりと、元の世界と類似する点が多すぎる。異世界なら異世界らしくもっと特殊な何かが存在すると思っていたのだが、これではよくあるファンタジー世界と認識してしまう。
知らない世界だ。知らない世界なのに、何故?
成り立ちから全てが別なのにどうして類似する習慣や国が生まれる?
貴族制、帝政、騎士、奴隷、そもそも言語が統一されている理由は?
(都合が良かったの一言で終わらせるにはあまりにも……)
「カロン様、やはりどこかお体の調子がよろしくないのでは……」
「あ……すまない。少し考えたいことが多くて……。呼んでおいて失礼な態度だったな」
「カロン様に侍るだけでも光栄の極みでございます。王が我ら従僕の都合を気になさる必要などありません」
「そう、か……?」
「カロン様はお優しいですから、私どもを逐一お気になさってくださるのは大変嬉しいのですが、それがご負担になってしまうのは本意ではありません。無理はなさらぬよう、どうか……」
耳をくすぐる甘い囁きには悲哀が滲んでいる。この世界に来る直前の、あの苦しみ悶える姿を思い起こしているのだろう。
今はしっかり睡眠をとれるくらいには落ち着いているし体調も問題ない。それを伝えてもきっとルシュカは素直に頷くことはしないと思った。
少し考え、違う話題に切り替えようとルシュカから視線を外して騒がしいグラドラたちを見つつ彼女に聞こえる声量で口にしてみる。
「サルタンの情報は入ったか?」
少しの沈黙の後、諦めたような嘆息が聞こえた気がしたが気のせいにしておこう。
「ミャルコの手勢から幾つか報告は上がっていますが、核心と言える部分の情報はまだ得られておりません」
「核心……」
「はい」
なんだろうか。黙っていても「勿論ご存知かと思いますが」なスタンスの彼女に直接尋ねるのは少々憚られるので、ちょっとボカしてみる。
「それほど難しいのか?」
「いえ、そのようなことは。ただ、杜撰ながらも魔術障壁を王宮周囲に展開しているので無理に突破してはこちらの行動を知られる危険性が」
「なるほど。魔術障壁を騙せるような配下はミャルコにはいなかったな」
「魔術特化の……それこそリュミエール配下であったり、アルバート、フィルミリア、少し特殊ですがコードホルダーの軍であれば知られることなく突破できるでしょう。それ以外の者では多少なりとも痕跡を残す危険性があります」
アポカリスフェにおける国家戦で最も重要なのは隠蔽であった。国の立地や施設の配置、戦力の把握やと、攻城戦において重要な情報を収集されることを防がなければ、マップ機能や魔物たちを駆使して洗いざらい調べつくされてしまう。
しかし戦争が開始されてしまえば、バレる危険性を考慮せずに手当たり次第魔物を裏から投入して強引に奪おうとするのも定石なので、いかに強固で修復できる防御を構築するかが大切である。
ただの攻性魔術障壁ではカロンもヴェイオスも覗き放題だが、どちらも目に見える事柄しか知りえないのでミャルコの率いる“猫の草”を活用していければと思うが。
「まあ、無理に探ることもないだろう。教皇から聞いた限りでは大きな力があるわけではなさそうだしな。それよりもニュエル帝国や南の三国への警戒を高めておけ」
「仰せのままに」
言われなくても彼女なら前もって行動しているんだろうなと言ってから思ったが、言葉にするのも大事なことだと納得することにした。
意識を前へと戻せば、変わらず指導役二人が真逆の方針で説明をしており、生徒役三人はそれぞれ文句を言いながらも頭に叩き込もうとあの手この手を用いている。
「……」
ミラとの一件を過ぎてから、彼らの姿がよく見えるようになった気がしていた。それに、彼らもカロンの前で必要以上に飾るような素振りが減った気もしていた。
自分と魔物の距離が近づいている。
言葉で言い表せないふわりとした感覚が確かなものとしてカロンの中にあり、それを心地よく思えていた。
表情も仕草も声色も生き生きとしていて、前よりも遥かに落ち着けるものだ。
何かが欠けた、ような気もしている。ただ、それが何かが分からない。気にするほどのことじゃないんだろう。少し頭がザラついて眉間に皺を寄せた。
「あ」
何かを思い出したように手を合わせたルシュカの珍しい仕草に、演技くささを感じながら目で尋ねる。
「そのコードホルダーを、実は召喚しているのです」
「コードホルダーを?」
一瞬召喚システムのことかと思って固まったが、そんなわけないなと思い直してルシュカの呼んだという魔物を思い浮かべる。
四方守護の任に付けている、アポカリスフェでも希少な機巧種を束ねるランク10の魔物が何故ここに?
リュミエールのように城と兼務させているわけでもないのだから呼ぶ理由がないのにと口を開きかけ、彼女が自分の権限を私的に振るうはずはないと即座に問う理由を切り替えた。
「王国との会談に必要なのか?」
正解だったようで、ルシュカは笑みを深めた。
「こちらが魔物の国であることは王国も承知ですが、常に控えさせるには人間には苦となりましょう。私が同行すればいいのかもしれませんが、カロン様の代わりに指揮を担える者が他におりませんから」
「まぁ、確かに」
「そこで、装備を換装することで人間と変わらぬ姿になれる彼女をカロン様の側仕えとして抜擢させていただきました。パーティなどの際は彼女が御身をお守りいたします」
「……他の者ではだめなのか?」
国内にも人間と遜色ない姿をした魔物は多く存在するのに。そんな気持ちの篭ったカロンの問いにルシュカは厳しい視線を向けてゆるゆると首を振った。
「信用していないわけではありませんが、やはり兵に王の御身を任せるのは……」
「そうか。いや、すまないな。それほど私を案じてくれているのに」
「カロン様の向ける部下への信頼は大変嬉しく思いますが、念には念を入れて護衛させていただければ。その前に一度お会いしていただけますか? あんな娘ですが、カロン様とお会いすることを心待ちにしているはずですから」
そう言われて、カロンは賑やかな団長たちをそのままにしてルシュカに言われた部屋へと向かった。
客室だけがある階層の、貴賓用ではない一般のエリアに転移で移動して彷徨っていると、一室の前にメイド服を着た人形が立っていた。
手を体の前で揃えて直立した人形【フォビドゥンオートマタ】は、カロンの存在に気付くと軋んだ動作で顔を向けてゆっくりとお辞儀をする。美しい造形だが樹脂の質感が目立ち、露出した関節に埋め込まれた球体が人間ではないことを如実に表していた。
もし夜暗い中で出会ったら心臓が止まりそうなほど驚きそうなほど精巧な人形に感心しつつ、頭を上げた人形の顔をまじまじと見て喋れるのかと首を傾げる。
「……コードホルダーはいるか?」
問いかけると、人形は目に淡い青を点滅させてからゆっくり扉の前を退いて再び深くお辞儀をした。
多分居るんだろう。多分入っていいのだろう。で、多分喋れないんだろう。
カロンがドアノブに手をかけても深く頭を下げたまま動かないから大丈夫と判断したが、念の為ノックをして確認をしておく。
コンコン、と音が鳴り、間を置かずに部屋の中から声が聞こえた。
「マスター、どうぞお入りください」
少し呼称が気になったが、許可をもらったのでゆっくりとノブを回して扉を開ける。
そこにいたのは――白磁の肌を晒した美少女だった。
何一つ身に着けず、その透き通った肌が陽光を浴びて輝いている。夜明けを表す紫から橙に移り変わる長い髪が人から決して生まれぬ黄金率の幼い容貌に差していた。
窓際に置かれたアンティーク調の椅子に腰かけているが、今の彼女に両の脚は付いておらず、鋭角な形状の義足が直ぐ側に揃えて置かれていた。背凭れの隙間からは龍に似た尾がだらりと垂れ下がり、時折床をなぞるように先端が動いている。
複雑に鋼の折り重なった義手で弄るカチリカチリと腿下の接続部を紫と橙のオッドアイが、カロンの入室に気付いて向けられ、ほんの少しだけ目尻を下げた。
「お久しぶりです、マスター」
すっと彼女が体を起こすと、腕でぎりぎり隠れていた裸体が見えてしまった。
絵画のような人間らしさを感じられない白さは、病的なものとは違う透明感がある。容姿にしてはよく育った胸があり、筋肉の浮かばない細くくびれた腰を辿って瑞々しい桃が直に触れ――
「っつぁ!」
ダバンッ! と、力いっぱい叩きつけた扉がビリビリと振動してから異様な静けさに包まれた。
マネキンのようなメイド人形が、人形にあるまじき驚愕の表情を浮かべているが、カロンは俯いてはぁはぁと荒い呼吸を落ち着かせてからついつい叫んだ。
「服ぐらい着ておけ!」
「……? お見苦しいものでしたでしょうか」
「そういうことじゃなくてだな……!」
扉の向こうから無機質で悪びれない調子の可愛らしい声が聞こえる。
「コードホルダーはマスターに造形された創造物です。それをマスターが確認することに問題はありません」
「だからそういうことじゃないんだよ……いいから、服を着ろ」
「コードホルダーには理解いたしかねますが、マスターが仰るのであれば。レガート、着装の補助を要請します」
彼女の、コードホルダーの言葉にフォビドゥンオートマタが瞳を青く点灯させて扉の中に消えていった。
五分ほどして、今度はレガートと呼ばれたフォビドゥンオートマタが内から扉を開けてカロンを招き入れる。座る位置は変わらぬままに、少女は厳しい手足を器用に動かして立ち上がると深く一礼した。
黒いシックなワンピースにほっと胸を撫で下ろしつつ、カロンは促されるままに窓際の大きなソファへと座り、遅れて対面に座った少女をもう一度観察した。
人間に最も近く、最も遠い種族である機巧種のランク10【エクスマキナ001】コードホルダー。北方を守護する任に就く彼女は、所謂サイボーグである。
極限まで人間に近い姿を模して作られた機械だが、それを作ったのは遥か太古の科学者である、とアポカリスフェのフレーバーテキストには書いてあった。なので思考もいくらか人間に近いものなのかと思っていたが、どうやら彼女も魔物らしくちょっとカロンには理解できない方向でものを考えるらしい。
体躯に合わない脚を斜めにして座るコードホルダーの本体は、その奇抜な髪と瞳以外は人間と遜色がない。しかし手足は男心をくすぐる厳しい義手義足だ。
「……そのような服を持っていたか? それに装備も少ないな」
「ルシュカ様より貸与されました。軍の備品だと伺っています。バックパックユニット“リベリオン”、ならびに追従式機動兵装“小夜啼鳥”は城内では不要と判断し格納しています」
「そうか」
戦闘時は黒いハイレグ状の装甲を纏い、巨大な兵器を用いて戦う。しかし平時では常に臨戦態勢をとっているのではなく、こうして普通の少女らしい姿もするんだなと意外に思った。
「マスター、何か御用でしたか? オーダーであれば即座に行動可能です」
「ああいや、ルシュカから来ていると聞いたのでな。少し顔を見に来ただけだ」
「左様ですか。ご足労いただいたこと感謝します」
“律儀”と“従順”を与えられているのが理由か、そう言って頭を下げる彼女からは真剣に向き合おうとする強い意志を感じられる。
王国での護衛として、自分に何かあった際に動く者としては最適だろう。
「不在の間はどうするようにしてあるのだ?」
「【エクスマキナ204】率いる偵察部隊による北方大陸、仮称魔王領の監視を主として活動するようオーダーしてあります」
「魔王領……何か動きはあったか?」
「観測機器では高濃度の魔力と阻害魔術の突破は不可能です。現状魔王領周辺海域の観測に注力しています。今日現在まで共有されているサーバーデータでは計六回魔物の群れが東西へ飛んでいったと」
「報告が上がっていないんだが……」
「情報の重要度においてエステルドバロニアへの危険性を考慮すれば極めて低いと判断しております。前世界で下されたオーダーを元に活動していますので、変更をご要望の場合はお伝えいただければすぐにでも第12団へ通達いたしますが」
カキン、とマシンアイが音を立てて瞳孔が収縮させている。それがデータリンクの合図なのだろうか。
国の規模が大きくなったことで襲撃を受ける機会も減ったからと、確かに彼女たちには行動範囲を限定していた覚えがある。コードホルダーが機械だからその辺りの融通が利かないのかもしれないが、今のカロンにとってはその堅実な行動理念がありがたい。
「では、今後観測可能な周辺大陸の動きは逐一私とルシュカに報告を上げてくれ」
「了解。オーダーの変更を各部隊へと共有します」
瞬きを数度しただけで終わったらしく、恭しく頭を下げてからコードホルダーは無表情で首を傾けた。
「他に御用はございませんか?」
そもそもたいした用事がないのでこのまま帰ってもいいが、ちょっとしたいたずら心が湧いてしまい、冗談めかして口にしてみた。
「用もなく居ては不都合か?」
さてどんな反応をするか。
すると、コードホルダーは弓を擦るような、パソコンの電源が落ちたような音を体内で響かせ、大きく目を見開いたまま停止してしまった。
電池で動いているわけでもあるまいし、何事だ? と思っているとまた同じような音を鳴らして瞳孔を開閉してからぶるっと身震いして頭を下げてくる。
「失礼いたしました。マスターの言動により機能部がオーバーヒートし、保存データの損傷を回避するため強制シャットダウンの後に再起動いたしました。映像、音声ともに最高品質のままサーバーに多重ロックと多重バックアップを行い、保護優先度を最高に設定して未来永劫保管しております」
「ん、ん? な、なんだかよく分からんが」
「つまりは、用もなく居ることをコードホルダーは希望しています」
「そうか。うん、それなら私も嬉しいよ」
「左様ですか。それは、コードホルダーも同じです。私も、嬉しい、の感情に類するデータが呼び出されています」
鋭い鋼鉄の爪で頬を持ち上げて笑顔のような表情を作ってみせるコードホルダーたが、目はやはり笑っていない。
彼女なりの、最大限の感情表現なんだろう。なかなか可愛いものがある。
レガートが用意した紅茶を飲もうとカップを手にして、それを見計らったように脳内にコール音が鳴った。
視界に半透明の小さな窓が現れ、そこにはアルバートの名が書かれている。空いた手で許可のボタンを押すと、僅かな雑音の後に嗄れた老人の声が鼓膜とは違うどこかに響いた。
『カロン様、王国との会談の日程の指定がありましたのでご報告を』
来たか、と自然と不敵な声色が零れた。部屋の空気が鋭く冷たいものに変化した。
「ほう?」
『あちらの希望に沿う形になってしまいますが、如何いたしましょうか』
「こちらは間に合うのか?」
『幾つかカロン様に採択いただく必要はありますが、算段はついているので問題はありません』
「そうか。では向こうの思惑に乗ろうじゃないか。好きなだけ侮らせておけ。最後にどのような顔をするのか、貴様も興味があるだろう?」
『はっはっは! お供できないことを今日ほど悔いる日はありませんな! 是非ともカロン様のお側で共有したかったですが、仕方ありません』
王国の戦力は十二分に把握している今、いくら侮られても脅威ではない。どころか内部分裂をしてくれればそれだけ優位に運ぶのだ。それもこれもエレミヤたちが助けた貴族がエステルドバロニア側に傾いてくれたのが大きい。王を筆頭にした内政側では軍事と有力貴族相手では潰されるのがオチだろう。
今頃ミラは面倒な国内情勢に舌打ちでもしながらわが道を進んでいそうだが、我々は我々の勝利へ粛々と進めていくだけである。
「それで、いつになった?」
通話の向こうでアルバートが愉悦に顔を歪めていると分かってしまうねっとりした口調で勿体ぶりながら告げられた。
『我々のパレード開催は、一週間後でございます』
政務室で聞いた講義内容を反芻しながら紅茶を嗜んで、カロンは初めての外交の不安を隠して、アルバートに負けないように無理やり笑った。
「では、盛大にいこうじゃないか。なあ?」
◆
「なんて格好つけてたのが恥ずかしい……」
心の振れ幅が変なことになっている自覚が最近あったけど、あの時のあれは流石に寒いものがある。
王様らしい振る舞いをと常々思っているけれども、その結果を振り返れば若かりし頃の無邪気な邪気にも似ていて身悶えしてしまいそうだった。
「マスター?」
そして気遣わしいコードホルダーの目も心に刺さるものがある。
「心拍、体温の上昇を確認。発熱の可能性を――」
「大丈夫だ。なんともないからそっとしておいてくれ」
「……了解。待機します」
それにしても、こんなに放置されているともっと思い出したくないことを思い出しそうだ。ルシュカたちと連絡を取れる安心感がそうさせているからだろう。普通ならもっと慌てふためいてもよさそうなのに。
王国は今頃どうなっているのだろうとか、彼女たちが見てないところで好き放題やってなければいいなとか、指示こそ出しているが不安は拭えない。とりあえず、マップを見る限り人の生き死には今のところ起きていないが。
「マスター」
「なんだ。今少し忙しいんだが」
「地上より接近する音を確認。数は八。こちらに近付いています」
跪いたまま耳をそばだてるコードホルダーからもたらされた情報は、カロンの額から汗を滲ませるのに十分なものだ。
「すぐに装備を戻せ。私に対して攻撃行動をとらない限りは決して動くな」
「オーダーの更新をします」
重苦しい鉄扉の開く音が聞こえた時には、コードホルダーの手足は換装されていた。
身の丈にあった義手義足は人間と遜色ないものになり、空間から取り出したのは菫色のエーラインドレスとレースのロンググローブだ。頭からかぶって器用に着付けすると、接続部を隠すようにグローブをつけて連れてこられた時と同じ姿に戻った。
乱暴な足音が幾つも土を踏みながら鉄格子の前までやってくる。
現れたのは、いかにも山賊らしい格好の男たちだ。毛皮の服で覆い、荒々しい武器を帯びていた。
小さく指を操作して視界上のキャラデータを取得する状態に切り替えて男たちを見るが、その中に勇者はいない。
いない、が。
「出ろ」
「なんだ、話がついたのか?」
低く脅す声に負けじと気丈に振る舞うと、それが鼻持ちならないのか舌打ちで返答された。
鍵を外して開けられたのを見て逡巡し、大人しく促されるままに外へと出る。
コードホルダーの手を握るカロンを前後から挟んで連行する山賊の数は七人。地下から地上へ上がり、外へ出るまで一言も言葉を発さない。
(イメージと違うな)
ここに転移した時には既に牢の中だった。転移してきたカロンたちを見たのは先頭にいる首領と思わしき男だ。
その時は分からなかったが、こうしてしっかり姿を確認すると違和感がある。
歩き方がわざとらしいのが一番気になった。チンピラでもそれなりに身についたがに股が、彼らは皆ただ足を左右に広く開いて歩いているだけに見える。
それに、態度に横柄な感じもしない。荒事に慣れている雰囲気はあっても、それを見せつける様子が今も感じられない。
カロンの思い描く山賊のイメージと違うだけなのかもしれないが、それにしたって人を脅かすのが生業の集団らしさがないのは奇妙だ。
連れ出された外はどんよりした雲が月を覆い、その微かな光を木々が遮っているせいで何も見えなかった。風の音はなく、がつがつと地面を踏む馬蹄の音が暗がりの奥で聞こえる。
「こっちだ」
口数はやはり少なく、列に従って馬の方へ歩く。
きゅ、と軽く手を握ると、合図として握り返されたのを確認してカロンはもう一度聞いてみることにした。
「私たちはどうなるんだ?」
「そのうち分かる」
「なら今教えてくれないか。都合というものがあるのだよ」
「……傷はつけねえよ。それは約束してやる」
「なに?」
「賢そうな貴族様なら察しがついてんだろ。俺たちの予定じゃあここに来るのは違う奴だってことがよ。失敗した以上余計なことはしないと決めてんのさ」
信じるべきか、否か。
先頭の男の話は確かに思い当たる。あの時、自分が余計なことをしていなければこんなことにはなっていなかっただろう。
予定が狂ったのなら排除して口を封じるのが定石と思っていたが、どうやらこの山賊たちには違うらしい。
「それに」
初めて男が振り返り、カロンではなく、その後ろをしおらしくついてくるコードホルダーに目を向けた。
「そんな化け物と関わりたくないんでね」
それはこっちも同じ気持ちだと心の中で叫ぶ。
首領らしき男のレベルは、勇者として覚醒したミラと変わらないのだ。それだけのレベルだとコードホルダーが隠していても簡単に見破れるのだろう。
馬が薄ぼんやり見える距離になって初めて後ろに馬車が付けられているのが分かった。
「乗りな」
「送迎でもしてくれるのか?」
「バカ言うな」
馬車の戸に手をかけた男は、冗談だろと鼻で笑う。
「連峰なんか越えられるかよ」
だろうな、と内心で同意を示す。
深い闇を駆ける馬車が森を飛び出せば、朧月が高く聳える峰を照らした。
マップで表示される自分の点は、レスティア大陸の西で点灯していた。